【1627】 因縁の涙の痕  (Y. 2006-06-20 22:46:32)


お久しぶりです。
しばらくぶりの『どうかこの凍った薔薇を……』シリーズ、前作の祐巳視点です。
祐巳の性格が原作と違いますのでご了承ください。

【No:1187】→【No:1208】→【No:1226】→【No:1300】→今作です。








「あーちゃん! あーそーぼー!」
「あ、ゆみちゃんだ〜! じゃあ、きょうはすーるごっこしよ〜!」


暗転


「ねーねー、ゆみちゃん。私のパパはすっごいのよ……ですわ! 『おがさわら』のひとにほめられたんだって……っとと、ほめられたのですわ!」
「ゆみのパパもすごいんだよ〜! きのうも『しんきかく』っていうのをつくったんだよ!」
「すごーい!」
「ねー、あーちゃん、パパの『しんかかく』も『おがさわら』ってひとにほめてもらえるかなぁ?」
「う〜ん、わかんないけど、おとうさまにきいてみてあげるね!」
「ホント!? うわ〜、パパよろこんでくれるだろうな〜」












ピッ……ピッ……ピッ……



 気付いたら、寝てしまっていたようだ。まったく、思い出したくない、夢を見てしまった。
 目の前では紅薔薇の蕾が眠っていた。時計は既に五時を指している。
 いつの間にかかけられていた毛布を畳んでいると、ノックと共に紅薔薇の蕾の母親――小笠原清子が入ってきた。

「ごきげんよう、祐巳さん。祥子を見ていてくれてありがとうね」
「……ごきげんよう。紅薔薇の蕾がこうなったのは私の責任でもありますから。……それと、毛布ありがとうございます」
「あ、毛布はそこに置いておいてくれるかしら? あとでうちの者に片付けさせるから」

 どうもこの人は苦手だ。嫌味が通じない……というか、私を疑うことを知らないようだ。そういうものから離れて温室栽培されていたのだろう。私が紅薔薇の蕾を運んできた時には慌てながらも的確な行動をしていたのに、やはり金持ちはどこか世間からずれている。
 紅薔薇の蕾の母親は傍らの桶で手拭いをしぼり、紅薔薇の蕾の額にのせた。この屋敷に詰めている手伝いにやらせないのは、『私普段は祥子さんにあまり何かしてあげることがないから、こういう時くらいは母親らしいことをしてあげたいと思う』からだそうだ。

「それじゃあ、水を換えてくるわね」

 パタ、とドアが閉まり、自然と身構えていた肩の力を抜く。
 やれやれ、私とあろう者が、自身の一番嫌いなタイプの人を気にしているなんて、何という笑い草。
 あの日から、絶対に『水戸』を、『小笠原』を信じないと、気を許さないと心に決めていたのに。












「ごきげんよう、……祥子は?」

 しまった、見られたか? 私は動揺を悟られないようにいつの間にかやって来ていた紅薔薇へ振り向く。

「眠ってます。熱は高いですが、肺炎にはなってなかったそうです。清子さまは今タオルの水を換えに行ってます」
「そう。祥子についていてくれてありがとうね、祐巳ちゃん」
「いえ、これに関しては私の責任もありますから」

 だから私は彼女を看ていた。それだけだ。
 だけどそれもこれまで。
 私は固くなった体を起こし、部屋を出るために不必要なほど大きいドアに手をかける。

「ですが、紅薔薇さまがいらっしゃったので私の役目は終わりです。紅薔薇のつぼみにはもう私に話しかけないで下さいと伝えてください。……では、ごきげんよう」

 そう、これで終りにしよう。でないと私は、コワレテシマウ。












 部屋を出て学校ほどもある階段を降りると、ちょうど紅薔薇の蕾の母親が電話を終えて出てきたところだった。

「清子さま、紅薔薇さまがいらっしゃったので、私はこれで。今日は学校もありますし」
「あら、残念だわ。でも、一晩中祥子さんについていていただいたのだもの、何かお礼をしないと」

 頬に手を当てて、さも困りましたとでもいうような仕草をとる。
 お礼など必要ない。せっかく縁が切れると思ったのに。

「いえ、お構いなく」
「けれど……」

 どうしても受け取らせたいのか。
 大人は無駄に人に気をつかいすぎる。それが人に嫌悪感を与えるなど考えもしない。

「では、紅薔薇の蕾にご」
「お待ちなさい!」

 ほぅ、ナイスタイミングだ。うまくうやむやになってくれるか。
 まったくもう少しで、社会的には私に非があるとはいえ、敵に屈してしまうところだった。

「何か?」
「祐巳ちゃん、よかったら祥子が起きるまで一緒にいてあげてくれないかしら……」
「いえ、あいにく今日も学校がありますので。もう陽も上がってますから」

 今は6時半。一度帰れば休む暇なく登校しなければ間に合わない。確かに紅薔薇の蕾のことは気になるが……

 待て! 何故私が紅薔薇の蕾を心配しなければならない! 彼女は敵だ! 善人のふりして裏では何でもやるんだ! そう、あの時のように!

「あら、それならうちから道具を取りに行かせましょうか? 外は寒いし祐巳さんまで風邪ひいたらいけないわ。リリアンへも蓉子さんと一緒にうちの車に乗っていくといいわ」
「いえ、それこそ結構ですから」

 しまった、顔に出たか? このような醜態は決して表に出してはいけないのに。ネガティブな考えは人を弱くする。あくまでも、平凡であれ。人に屈しない強さを持て。そう決めたのは自分ではないか。

「ふぅ、じゃあ祐巳ちゃん、今日の劇の練習が終わったらお見舞いに来てあげて。約束したつもりはなくても祥子に一応は謝っておいた方がいいわよ。その頃には祥子もきっと目が覚めているだろうから」

 ……紅薔薇か。

「……わかりました」

 ここはそう約束しておいたほうが無難かもしれない。
 どうも昨日から私はおかしい。いつもならこんな不安定にはならないのに。






「じゃあ玄関まで送るわ。私は遅刻していくつもりだから、もし薔薇の館の人に会ったら、えぇ、志摩子でもいいわ、伝えておいてもらえる? 私からも連絡はしておくけど」

 あぁ、そういえば志摩子も昨日かなり慌てていたな。紅薔薇の頼みというのが癪だが、志摩子に報告してやるのは当然の事だろう。












 無駄に大きな玄関を出て、冷たい朝の空気を吸い込む。体にたまった毒を洗い流してくれるかのようだ。
 上げていた視線の下の方に金持ちらしい大仰な車が止まったのが見えた。
 そこから降りてきた女を見た瞬間、私の心の奥底の黒いものが間欠泉のように吹き出し、私を縛りつける。
 あぁ、私を壊してくれた人……

「ごきげんよう、朱実さま」
「ごきげんよう、紅薔薇さま。あぁ、ついでに福沢祐巳さん」
「ごきげんよう。あなたが水戸朱実さんね」
「あら、紅薔薇さまが私を知っていてくださったとは光栄ですわ」

 まぁ、軽いジャブのつもりなのだろう。
 いや、この女の場合、紅薔薇にいい印象を与えようとしているのかも知れない。
 何せ権力と名のつくものが大好きな、私の嫌いな性格ど真ん中な女だから。

「あら、どうして祐巳さんがこんなところにいるのかしら?」

 しかし全く、こう露骨に来るとは。目の前の女が心底馬鹿にしているという目で私を見下す。
 こうなると嫌でも自分の目に力が入ったのがわかる。

「いちゃ悪いですか?」
「いえ、そんなことはないけれども、あなたが小笠原グループのトップのお屋敷にいるなんて、夢にも思わなかったから」
「そうですか、しかしあなたには関係のないことです。放っておいてください」
「あら、つれないわね」

 つれなくて結構。

「では、遅刻するといけないので、ごきげんよう」
「えぇ、ごきげんよう」

 後ろで紅薔薇にも何やら話していたようだが、当の紅薔薇は上の空だった。ざまぁみろ。


――ふん、一般人の分際で、生意気な……













ぎゅぅっ















! イタイ! イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ










 この言葉は、ダメ……あの時を、思い出しちゃう……










「祐巳ちゃん……」

 いつの間にか紅薔薇の袖を握っていたようだ。
 どうやら彼女も聞こえていたらしく怒りを顕わにしている。
 でも、そんな顔で私を見ないで。

 早く、早く帰らなきゃ。誰かと一緒にいたら私は弱くなる。だから、

「泣いて、いるの?」

 ヒトリデイイ。


 一人になれば、またいつもの私に戻れるから。

 私は紅薔薇の顔を睨みつけて、そのいかにも同情してます、と言っているかのような表情に背を向け、走り出していた。




 一筋の涙と共に……


一つ戻る   一つ進む