【1637】 シンプルで素敵な乃梨子と祐巳  (雪国カノ 2006-06-25 19:56:48)


早朝のリリアン女学園。乃梨子は颯爽と薔薇の館に向かって歩いていく。

「やっぱりこの時間は誰もいないよね。あーでも志摩子さんならお聖堂にでもいるかな?」

寝ぼけて時間を間違えて…なんてことは白薔薇のつぼみである、この二条乃梨子には有り得ない。大切な人との約束があったが為に朝も早いこの時間なのだ。

大切な人――リリアンにおいてこの言葉は普通は姉妹が当てはまるだろう。しかし、今、乃梨子が口にした言葉は姉である志摩子さんのことではない。

「祐巳さまと早朝デート…考えただけで顔がにやけるって!!」

乃梨子の大切な人とは紅薔薇さまの祐巳さま。出会って間もない頃は乃梨子は完全に志摩子さんにお熱だったのだが、いつの間にか祐巳さまを目で追い祐巳さまだけを想うようになっていた。

「ハッ!一人でにやけてるなんて…キモいよ私!」

馴れ初め話はまたの機会にするとして…とにかく。そんなこんなで恋人である祐巳さまとの逢瀬のために薔薇の館へと急いでいるのだ。

「でも…いつまでも隠したままっていうのはなぁ。瞳子が気付いてない訳ないし志摩子さんだって…」

二人の仲は秘密。なぜなら祐巳さまは薔薇さまでそのうえ乃梨子とは紅と白で色は違うし…なんて言ったって女同士なのだ。いくら姉妹制度で疑似恋愛に寛容なリリアンでも大っぴらにはできない。

「でも何よりも問題なのは……進展しないことだよ」

祐巳さまと付き合いだして2ヵ月が経つ。が…全く何もない。体の関係どころかキスすらしたことがない。志摩子さんや瞳子のことも悩みの種だが乃梨子にとってはこれが一番の悩みなのだ。

「そういうこと…したくないのかなぁ?」

確かにデートしたり一緒にいるだけで幸せだけど…どうしてもそれ以上を求めてしまう。乃梨子にだって女同士という迷いはある。手を繋ぐ以上の関係を求めているのは自分だけで祐巳さまは望んでいないのかもしれない。それでも祐巳さまに近づきたくて触れたくて仕方がないのだ。

「はぁ…」

薔薇の館に着いた乃梨子は溜息をついた。誰もいないのはわかっているのだが何となく静かに階段を上る。

「祐巳さまはどう考えてるんだろう…」

色んな意味でそう呟きながらドアを開けると、そのご本人がお茶を入れてる真っ最中だった。

「あ!ごきげんよう乃梨子ちゃん」

祐巳さまが先に来ていたことが少し意外だった。待ち合わせとかになると、いつも乃梨子のほうが先に到着しているのだから今日もそうだろうと思っていた。

「ごきげんよう祐巳さま」

とりあえず気分を切り替える。せっかくの二人っきりなんだから!

「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」
「ううん。私が乃梨子ちゃんの為に入れたかったんだからお礼なんていらないよ」

あらかじめ乃梨子の分のカップも用意してくれていたのか、すぐに紅茶は目の前に出された。乃梨子はそれを一口、口に含む。

「どうかな?」
「…おいしいですよ」

少し緊張した面持ちで祐巳さまが聞いてきた。何だか意地悪してやりたくもなったけどここはにっこり笑って素直に答える。

「良かったぁ!!おいしくなかったらどうしようって…もうかなりドキドキしたよ〜」

ほっとしたような笑みを浮かべて机に突っ伏する祐巳さま。その状態で乃梨子を見上げてくる。

年下の乃梨子のためにお茶を入れたり味はどうかと気を揉んだり……。か、可愛いじゃないかこんちくしょうっ!!

「今日は早いんですね」

その甲斐甲斐しさに実は悶えまくっているのだが全く表情に出さない。これがクールビューティ乃梨子ってものよ。

「えっ!…えへへ〜恥ずかしいんだけどね。昨日日曜で会えなかったでしょ?だから、その…すごく会いたくて。早く目が覚めちゃった」

てへっと舌を出して笑うアナタはとても可愛いデス。

「はは…嬉しいなぁ。私も会いたかったです。祐巳さまに会えない一日がとても長く感じましたよ」

爽やかに笑ってみせる。って…おい私!何だこのキザっぷりは!?どっかの爽やか少年かよっっ!

「もう乃梨子ちゃんたら」

祐巳さまは何かの冗談かと思ったのかクスクス笑っている。その笑顔はまるで…

「…天使みたい」
「へ?」

うわーうわー声に出してどうすんのよ!
祐巳さまを見てみると何だかきょとんとしている。その顔もぐっとぉ!!ってそうじゃない…何か取り繕わなきゃ!

「祐巳さまは天使みたいに可愛いですよ」

は!?何言ってんのよ私!そんなこっぱずかしいことをベラベラとっ!!

「や、やだ…乃梨子ちゃん!恥ずかしいよぉ」

祐巳さまは耳まで赤くなって俯いてしまった。…と思ったら上目遣いでこちらを見てくる。でも目が合うと慌てて反らしちゃって。これは…かなりヤバイ。

さっきから押さえ付けてきた乃梨子の嗜虐心がムクムクと鎌首をもたげてきた。

「私は本当のことを言ってるだけです。いえ、天使ですら祐巳さまの足元には及ばないですよ」
「――っ!」

祐巳さまはもう涙目になってしまっている。私のハートに目撃ドキュンって感じだ!

それにしても。大丈夫なのか私?こんな歯の浮くようなこと普通に言って…しかも『目撃ドキュン』って…めちゃ古いっちゅーねん!てかなぜに関西弁?

「あっ!の、乃梨子ちゃん!!敬語っ…二人のときは使わないって約束だよっ」

乃梨子が内心ハイテンションで一人ツッコミをしているとは知らないで、何とか話題を逸らそうとしているらしい祐巳さま。必死なところが最高に可愛いじゃないか。仕方がない…釣られてあげましょう。

「祐巳さまがいつまでたっても私のことを乃梨子と呼んでくれないからです」

釣られはしたがこれは本音。もう2ヵ月だ。なのに祐巳さまは相も変わらず『乃梨子ちゃん』。

「うっ…それは…」
「それは?…何ですか?私たち付き合ってもう2ヵ月も経つんですよ?」
「だ、だってぇ…」

祐巳さまの反応が可愛くてついチクチクいじめてしまう。うーむ…Sだったのか私は。

「だってじゃないでしょ?言って?」
「……いじわる」

はうわぁ!!すっげー可愛いって!

「あの、絶対言わなくちゃ…ダメ?」

恥ずかしげに頬を染めておめめウルウルで…トドメと言わんばかりに首を傾げる。それは反則だってっ!!

「ダメ。言ってください。それとも言えないの?」

心とは裏腹に意地の悪い言葉を口にする。最後の言葉はわざわざ立ち上がって祐巳さまの耳元で囁くように…あ、また俯いちゃったし。

「……っく」
「ん?」

ぎゅっと握り締められた祐巳さまの手が小刻みに震えている。

「…っふぇ…ひっく!」

泣いてる?って…え、え?えええっ!?

「ゆ、祐巳さま?あの…え?」

まさか泣かれるなんて思いもしなかった乃梨子はかなりパニックだ。頭の中ではなぜか魔女姿の菫子さんが『ちょっとリコ!あんた何小さい子泣かしてんだいっ!』と叫んでいる。

小さい子って菫子さんあのね。祐巳さまは……小さい子にしか見えないね、うん。って違ーう!!

「ご、ごめんっ!そんなつもりなくて…あのっ私が悪かったから。調子に乗りすぎた…本当ごめんね?」
「うっ…く…」

祐巳さまは泣きやんでくれない…乃梨子はどうしようかと途方に暮れていた。

とりあえず落ち着かせよう。

「祐巳さ……んぅっ!」

名前を呼ぼうとしたその瞬間、唇を奪われた。いつの間にか首に腕を回されて抱き締められるような感じで…強引なくせに口付けは優しく、触れるだけ。

乃梨子は驚きの余り固まってしまった。完全に思考停止だ。

「……はぁっ」
「…ぁ」

柔らかい感触が離れていく。しかし乃梨子は祐巳さまの顔を呆然と眺めたまま何も言えない。

「奪っちゃった」

……松島菜*子?奪うって何を…あぁ少年のファーストキスか。

少し照れ臭そうに笑う祐巳さまをぼんやり見ながらそんなズレたことを考えて。

「ファースト…キスぅ!?」

そこで漸く何が起きたか理解して乃梨子は素っ頓狂な声をあげた。

「そう。ファーストキス」
「な、な…ななっ何で!え?…てか祐巳さま!?泣いてたんじゃ!?」

確かに祐巳さまはさっきまで泣いていた筈なのに…乃梨子には訳がわからない。

「私の妹は誰?」

祐巳さまの顔から照れ笑いが消えて代わりにふふっと楽しそうな笑顔になる。

「誰って…瞳子に決まってる―「じゃあ瞳子の所属している部活は?」」
「演劇部……あっ!」

瞳子、演劇部……まさかアレは祐巳さまの演技ぃ!?

「女優のお姉さまは大女優なのよ」
「んなっ…」

相変わらず悪戯っぽい笑みを浮かべている祐巳さまの言葉に乃梨子は絶句する。祐巳さまは『だって』と続けた。

「…私が呼び方を変えないって言うけど。乃梨子ちゃんだって何もしてこないじゃない」

そう言って祐巳さまはむすっとむくれるように頬を膨らませた。

「だからって何もこんなやり方っ!」

からかわれたと思ってムッとしていて、更にその理由がコレだった為に思わず大きな声を出してしまう。その声にびくっと肩を震わせた祐巳さまは突然、少しだ背の高い乃梨子の首筋に顔を埋めてきた。

「………の」
「え?」

何か小さく呟いたようだけど乃梨子には聞き取れない。

「不安だったのっ!」

祐巳さまの言葉に頭を石か何かで思いっきり殴られたみたいだった。

「デートに誘ってくれても家には呼んでくれないし、手繋いでも指は絡めてくれない…いつも私からばっかり…」
「あ…」

そうだ。祐巳さまはそうやっていつも私に歩み寄ってきてくれていたのに…なのに私はっ!

「私は…キス、だって…したいのに…乃梨子ちゃんは…」

祐巳さまはそこで言葉を途切れさせて顔をあげた。今にも泣きだしそうな表情だった。

「そんなことするの、乃梨子ちゃんは嫌なんじないかって…ずっと不安で…」
「―――」

わかってあげられなかった。自分のことでいっぱいいっぱいになって…一番に考えなきゃいけなかった筈の祐巳さまの気持ちを考えていなかった。

「…ごめん」

震える祐巳さまの体をぎゅっと抱き締める。あぁ…祐巳さまはこんなに震えるほど不安だったんだ…

「私、自分のことしか考えてなかった。祐巳さまはそんなこと望んでないんじゃないかって…だから自分から一歩引いてた。そうだよね…不安になるよね…ごめん」
「乃梨子ちゃん…嫌じゃ、ないの?」

まだ不安そうな祐巳さまを安心させるように頬に触れて首を横に振る。

「嫌な訳ないよ。私も…もっと祐巳さまに近づきたいって思ってたんだから」
「乃梨子ちゃん…っ」

祐巳さまの腕が背中に回る。乃梨子もその手に力を込めた。






「ね…」

暫く抱き合っていると祐巳さまが口を開いた。

「ん?何?」
「乃梨子」
「…っ」

予想もしていなかった呼び捨てに息が止まりそうになる。思わず、がばっと体を離したくらいだ。

「えへへ……乃梨子」

少しだけはにかんだ祐巳さまはもう一度『乃梨子』と呼んだ。

「ゆ、み…さま」

二人の影が近づく。見つめ合っていた目がどちらからともなく閉じられた。あと少しで…


――ガチャ
「ごきげんよう」

「ごごごごきげんようっ」
「ごきげんよう!志摩子ひゃんっ」
「?」

突然開いたドアにお互いを突き飛ばすような勢いで二人とも慌てて離れる。祐巳さまは明らかにどもっているし乃梨子は思いっきり舌を噛んだ。志摩子さんは不思議そうな顔をしている。

「あ…お茶入れるね!志摩子さんは座ってて」
「え、ええ」

乃梨子はいそいそとカップを取りにいく。はぁ…ナイスなタイミングだね。志摩子さん…

そんな乃梨子を横目に志摩子さんは祐巳さまに『乃梨子と何かあったの?』なんて聞いている。祐巳さま…そんな顔真っ赤にして首振っても説得力ないよ…

ちらっと祐巳さまを見る。祐巳さまもこっちを見ていて…目が合った。ふわっと柔らかい笑みを向けられる。その天使の笑顔に乃梨子も微笑み返した。





――セカンドキスはお預けだったけど。うん、私たちは私たちのペースでゆっくり進んでいこう…


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