「エイッ!エイッ!」
放課後、乃梨子がいつものように薔薇の館にやってくると、中庭で祐巳さまが竹刀を振り回している。
「エイッ!エイッ!」
「そうではありません、紅薔薇のつぼみ。上半身だけで振るのではなく、下半身から行くのです。」
見ててください。指導役と思しき小柄な女の子はそう言うと、中段の構えから振り上げた竹刀をビュッと一閃、鋭く振り下ろす。それは素人の乃梨子が見ても分かる美しい太刀筋だった。
「はぁー、流石だねえ。やっぱり菜々ちゃんに来てもらってよかった。」
額に浮かんだ汗をタオルで拭きながら、祐巳さまはにっこり微笑んで言う。
「ごきげんよう、祐巳さま。何をなさってらっしゃるんですか」
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん。何って見てのとおり剣道を習ってるの」
半ばあきれ顔で尋ねる乃梨子に、祐巳さまは平然と応える。
「何でまた突然?」
「うん、まあいろいろあってね。立ち話も何だし、二階に行ってお茶でも飲みながら。菜々ちゃん、今日はここまでにしよ」
「まだ始めたばかりですが」
「そうなんだけど、お姉さん普段使わない筋肉使って疲れちゃった。だから、ね」
苦笑いして右手の人差し指で頬を掻きながらそう言う祐巳さま。
「あの、祐巳さま。こちらは?」
中等部の制服を着た見覚えのない女の子をチラリと見て、乃梨子は祐巳に尋ねた。
「ああ。この子は有馬菜々ちゃんっていって中等部の三年生。由乃さんに剣道教えてって言ったら紹介してくれたの。菜々ちゃん、こちらは二条乃梨子ちゃん。一年生で白薔薇のつぼみやってるすごい子なのよ」
「ごきげんよう。初めまして、白薔薇のつぼみ。有馬菜々と申します」
竹刀を左手にペコリと頭を下げる女の子に、乃梨子も応える。
「ごきげんよう。二条乃梨子です。」
由乃さまは何で高等部の剣道部員ではなくわざわざ中等部の生徒を指導役に選んだんだろう、と思っていると祐巳さまがうっかり口を滑らせてしまった。
「実は菜々ちゃんは由乃さんの・・・っと、これはまだ口止めされてたんだっけ」
それを聞いて乃梨子はピンときた。祐巳さま、そこまで言ってしまったら全部言ったも同じです。ただでさえ分かりやすいお顔なのですから。
それにしても由乃さま、ご自分が一年生の時は令さまにロザリオを突っ返したそうだし、自分が渡す番になったら今度は中等部の子をフライングで。いったいどこまで人騒がせな・・・。そうか、もしかするとちょっと早いお試し期間ということでこの子をここへ寄越したのか。そんなことを考えていると。
「さ、乃梨子ちゃん。二階へ行こ。菜々ちゃんもいらっしゃい」
そう言って祐巳さまが菜々ちゃんを先導して薔薇の館へ入っていくので乃梨子もそれに続いた。
「今お茶をいれるから、どこか適当に座っていてね」
「いえ、お手伝いいたします」
まだ誰も来ていない二階の部屋に入った祐巳さまは言うが、菜々ちゃんは祐巳さまについて手伝おうとしている。
「気にしないで。今日はお客様なんだから」
「でも・・・」
「いいからいいから。それに手伝いなんかさせたら私が由乃さんに怒られちゃう。由乃さんってあれで怒ると結構怖いのよ」
それまであまり表情を表に出さなかった菜々ちゃんだが、そこで初めて小さく笑って、そうですね、と言った。
「祐巳さまもお疲れでしょうからお座りになっててください。私がやりますから」
「そう?じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」
そう言うと祐巳さまは菜々ちゃんと並んで座る。
(初めて薔薇の館に来る人は大抵怖じけずいたりするんだけど、この子はなかなか肝がすわってるね。それに結構気も利くみたいだし)
乃梨子の菜々ちゃんに対するファーストインプレッションはマル、だった。
「ところで祐巳さま。さっきのお話の続きですけど」
祐巳さまと菜々ちゃんに紅茶を出した後、向かいの席に座り乃梨子は尋ねた。
「へ?さっきの話って?」
「ですからなぜ急に剣道を始めたかってことです」
「ああ。それはね、この間祥子さまと遊園地デートしたときに分かったの」
「分かったって?」
「私にはお姉さまのために戦うべき相手がいる」
「はあ。で、その相手と竹刀で戦うと」
なるべくあきれた顔をしないように、平静を装い聞き返す乃梨子に祐巳さまは笑って。
「まさか。いくら私でもそこまでバカなことしないよ。そうじゃなくてこれは自分に気合いを入れるための一種の儀式なの。これから戦闘態勢に入るんだぞって、自分に喝を入れるためのね」
「そうなんですか。それで戦う相手っていうのは?」
「それが分からないのよ」
「分からないって・・・」
祐巳さま、分からないのはあなたご自身です。乃梨子はそう言いたいのをすんでの所で堪えた。
「今まで敵だと思ってた人は実は同志だっていうし、それなら敵は誰なのって聞いても教えてくれないし」
「じゃあどうするんですか」
「分からない。でも悩んだって分からないなら、もうウジウジ悩むのはやめたの。その代わりいつ敵が現れても戦えるように心の準備をしておこうって」
右手を握りしめて祐巳さまは言う。
いつもは優しい祐巳さまの眼差しに、今日はまるでメラメラと炎が宿っているようだ。
祐巳さまは確実に変わられた。あの梅雨の頃に比べて、優しさはそのままに強さも身に付けられたようだ。
この人はやっぱり不思議な方だ。祐巳さまを見ているとなんだか自分までがんばろうって力が湧いてくるような気がする。
傍らでお茶を飲みながら、珍しいものを見るように祐巳さまを見ている菜々ちゃんの表情が、乃梨子にはおかしかった。
「でも祥子さまには黙っていてね。またバカなことをしてって叱られちゃうから」
そう言って笑った祐巳さまのお顔はいつもと同じように優しさにあふれていた。
それにしても。
(祐巳さま、祥子さま以外全く眼中にないよ)
乃梨子は一年椿組の友の顔を思い浮かべ、彼女にはこの先まだまだ苦難の道が続くであろうことを思って、小さくため息をつくのだった。