【1665】 ターニング・ポイント  (林 茉莉 2006-07-06 00:08:54)


このお話は最新刊
  マリア様がみてる ――仮面のアクトレス――
のネタバレを含みます。
未読の方はご注意下さい。


  ☆ ☆ ☆


「さっ、入って」
 令ちゃんとの手合わせを終えて、シャワーを浴びて着替えた菜々を、私は自室に招いた。
 あんなに激しい互格稽古の後で、休憩もさせずにハイさようならって訳にもいかないし、それより何よりせっかくここまで訪ねて来てくれたのに、ろくに話もせずに帰したくなかったのだ。


  ☆ ☆ ☆


「失礼します。……素敵なお部屋ですね」
 菜々は部屋の中を見回して言った。
 アイボリーの壁に焦げ茶色の机、棚、窓枠。淡い色無地のカーテン、ベッドカバー、コタツ掛け。
 自分にとって居心地のいい部屋を菜々に褒められたのは、ちょっぴりうれしかった。
「フフッ、ありがとう。祐巳さんに言わせると、女の子っぽくないらしいけどね」
「由乃さまらしいです」
「なんかちょっと引っ掛かるわね」
 ……持ち上げておいてすぐに落とすのは、菜々のいつものことだ。もう慣れたわよ。
「まぁいいわ。今お茶淹れてくるから、その辺に座ってて」
「お構いなく」
 私は一端部屋を出て、階段を下りていった。

 紅茶と、用意しておいたパウンドケーキをそれぞれ二人分トレーに載せて戻ってくると、菜々は行儀良くコタツにおさまっていた。
「おまたせ。楽にしてね。これね、令ちゃんが菜々に食べてもらいたくて、今朝焼いたの」
 言いながら、フォークと二切れのケーキが載ったお皿を紅茶と一緒に菜々に勧める。
「そうですか。いただきます」
 私も自分の皿のケーキをフォークで切り分け、菜々と同じように口に運ぶ。
 すると、口の中いっぱいに優しい甘さが広がる。
 うん、今日も令ちゃんの腕は確かだ。

 菜々が一口食べ終わって、紅茶を口にした後訊いてみた。
「……どう?」
「とっても美味しいです」
 普段余り表情を変えない菜々が、微笑んで言った。
 女の子だもん、やっぱり甘いものが好きなのね。
「よかった。お土産もあるから、よかったらお姉さんたちにも食べてもらって」
「ありがとうございます」
 令さまが焼いたって言ったら、姉たち、きっとびっくりすると思います。そう言って菜々は笑った。
 令ちゃんの外見と剣道の実力しか知らない人が、実は家ではケーキを焼いたりする女の子らしいところがあるなんて知ったら、そりゃやっぱりびっくりするだろうな。
 あとでお姉さんたちの反応教えてね、と私も笑う。


  ☆ ☆ ☆


「それにしてもあなたも無茶するわね。互格稽古なんて」
「無茶でしたか?」
 私の言葉に、菜々は意外そうに応える。
「無茶よ。だって始めてすぐに判ったもん、実力が段違いだなって」
「最初に言ったじゃありませんか。段持ってませんよって」
「四姉妹の中であなただけが有馬を名乗ってるから、段を持ってないだけで、本当はすごく強いのかと思ったのよ」
 状況から考えれば、そう思っても不自然ではないだろう。
 でも菜々は意に介する様子もない。
「実力なら、一番上の姉が一番です」
「ふーん。でもね、四人の中で菜々の剣道が一番好きだって、令ちゃんが言ってたわよ」
「そうですか」
 菜々はうれしそうに笑った。

「それより」
 いつもの真顔に戻って、菜々が言う。
「ん? なに?」
「私、判りました」
「何が?」
「どうして令さまとお手合わせをしたかったのかが、です」
 そこまで言われて、私はやっと手合わせ前に自分が投げかけた問いを思い出した。
「ああ。それで、どうしてだったの?」
「私、令さまと二人でお話がしたかったんです」
 一瞬、胸の奥がドキンッと鳴った。
 菜々が令ちゃんと話したいことって?
 剣道談義とか? でもそれだったら初めから判らないって事はないだろうし。
 そうするとやっぱり私の事なのかな。
 まさかとは思うけど、「妹にされそうなんですけど、どうすればいいでしょう」なんて事じゃ無いわよね。

「そうだったの。ちょっと待ってて、令ちゃん呼んでくるから。何だったら私、席外すし」
 何も気にしていない風を装ってコタツから立ち上がり掛けた私を、菜々は制した。
「いえ、もういいんです」
「どうして? 遠慮すること無いのに」
「いえ、そうじゃなくって、なんて言ったらいいのか……。訊きたいことや、聞いてもらいたいことは全部済んだから、って言ったら判ってもらえます?」
「さっきの稽古でってこと?」
「はい」
 その言葉に、私は菜々をじっと見つめた。菜々も同じように、私を見つめ返してくる。
 思えばこんなに真剣に菜々と見つめ合ったのは初めてだ。そう、これはまるで真剣勝負。生半可な返事は許さない。菜々の瞳がそう訴えているように私には思えた。
 そこで私ははっと気がついた。菜々と令ちゃんはさっきの互格稽古で、きっとこんな風に向かい合っていたのだろう。
 私は必死で考えた。どんなに打たれても、ふらふらになっても令ちゃんに向かっていった菜々の気持ちに応える為にも。
 でも、判らない。いつものように思いついたことを反射的に答えるなんてできっこない。
 私は正直に降参した。
「……よく判らないわ」
「そうですよね……」
「もし不都合がないようなら教えてもらえる?」
 菜々もやっぱり私と同じように真剣だったのだろう。ふぅっと小さく息をつくと目線をコタツの天板の上に落とし、カップを持って紅茶で口を湿らせた。
 そしてもう一度私に視線を戻すと、落ち着いた声で言う。

「由乃さまは私を妹にするおつもりですか」
「えっ!? いや、あの、それは……」
 普段なら勢いで「そうよ!」と断言しそうな問い掛けだった。でもその時は余りに唐突で、思ってもみない方向から不意に打ち下ろされたその剣に、私は思わず狼狽えてしまった。
 そんな私に構わず、菜々は続ける。
「由乃さまと初めてお会いしたのは去年の十一月、交流試合の時でしたね。そのあと休みの日にお茶に誘われて、勢いで令さまのお見合い現場まで引っ張り回されて」
 ちょっと待て、それは菜々が自分でついて行きたがったんだろう、と言いたい言葉を飲み込んで私は目で先を促した。
「山百合会のクリスマスパーティに、中等部の私が招待されたり……」
「迷惑だった?」
「いえ、楽しかったです。由乃さまといるのはとっても楽しかったです」
「そう、それはよかったわ。で?」
「由乃さまがこれだけ構ってくるということは、多分私を妹にと考えてらっしゃるんだろうと思ったわけです。半分は自惚れですが」
 ちぇっ、やっぱりバレバレだったのね。
 私はいたずらを見つかった子供のように、少しバツが悪そうに、苦笑いと共に言う。
「自惚れじゃないわ」

「そうですか。でも妹になる可能性を自覚した時、思ったんです。私はこのままこの人の妹になってもいいんだろうかって」
「つまり私が姉では不足かもしれないと」
 直球ど真ん中の私の言葉には答えず、菜々は普段通りに続ける。
「そうじゃありません。ただ、一緒にいて楽しいからって理由で姉妹になるのはどうなのかなって思ったんです」
「うん」
「友人に訊くと、姉妹制度っていうのは姉が妹を教え導くものだって言うんですが、今ひとつピンと来なくて」
 突っ走ったり、転んだり、キレたり。そんなところばかり見られたんじゃ、確かに導くって感じじゃないわね。
 私はこれまで菜々の前で晒してきた失敗の数々を思い、心の中で深く溜息をつき、眉間を押さえていた。
「由乃さまのことだってよく知ってる訳じゃありませんし。それで山百合会の事に詳しい友人に由乃さまの事を訊いてみたんです」
「なんて言ってたの?」
「一口で言えば、素敵なお姉さまという事です。訊くだけ野暮というものでした」
「どういう意味かしら」
 何よそれ。菜々の中では私は素敵なお姉さまじゃないって訳?
 私の言葉には険があったかもしれない。菜々はすぐに否定した。
「あ、すみません。由乃さまと直接会った事もない友人が、私より知ってるはずがないという意味です。そんな訳で、ずっと胸の中でモヤモヤしていて。こんな事、実の姉に相談する訳にもいきませんし」
「それで令ちゃんに訊いてみようと?」
「別に訊いてみようと思った訳じゃありません。ただ、このモヤモヤをぶつける先として、なんとなく黄薔薇さまが思い浮かんだんです」
 ここまで聞いて、私は少し感動していた。今まで自分の事を余り積極的に話さなかった菜々が、心の中を打ち明けてくれたから。しかも私との事をこんなにも真剣に考えてくれて。
 わたしの気持ちは決して一方通行じゃなかったんだ。例えそれがどっち向きであろうと。

「それでモヤモヤは晴れたって訳ね」
「はい」
 今まではあまり表情を変えずに訥々と話していた菜々が、その時やっと微笑んだ。
「互格稽古を受けてもらえてうれしかったです」
「うん」
「打ち合っている最中は無我夢中でした」
 菜々は窓から外を見るともなく見やり、その時の余韻を反芻するように言う。
 それは傍目に見ていてもよく判った。確かに実力の差はあるが、菜々も令ちゃんも本当に真剣に打ち合っていた。

 紅茶を飲んで一呼吸置くと、菜々は続ける。
「途中、私が令さまの突きに飛ばされて倒れた時、由乃さま、駆け寄って来ましたよね」
「そうだったわね」
 あの時は私も夢中だった。令ちゃんとの約束も忘れて、飛び出していた。
「その時の由乃さまのお顔を見て、何でだか判りませんが思ったんです。『あっ。私、この人好きなんだな』って。」
「えっ!?」
 思いもよらない突然の告白に、心臓の鼓動が高鳴り、体温が急上昇するのが判る。
 だけどそんな私の気持ちも知らぬ気に、菜々はただ事実をありのまま言っただけ、という風だ。
 菜々は構わず続ける。
「そうしたら急にどうしても令さまに一矢報いたくなって。結果はまぁあの通りで、とても一矢を報いたなんて言えるようなものじゃないけど、令さまはお見事と言って下さいました」
「……」
 言葉もなく、私はただ菜々の次の言葉を待った。

「結局私は、自分が由乃さまの妹になっていいという正当な、自分を納得させる理由が欲しかったんだと思うんです。でも気づいたんです。大切なのは、なっていいかどうかじゃなくて、なりたいかどうかだっていう事に」
「……うん」
 私は小さく頷いた。
 鼻の奥がツンッてしてくる。
 ちくしょう、うれしいじゃないか。
 令ちゃん以外の人に、こんな気持ちになるなんて思わなかったぜ。

「そんな理由(わけ)で」
 菜々は膝立ちでコタツから出ると、座布団のない床にキチンと座り直して言う。
「もしよろしければ、私を由乃さまの」
「ストーップ!」
 コタツのこちら側からめいっぱい右手を伸ばした私は、言い掛けた菜々の言葉を遮った。
「!?」
 びっくりした顔で、菜々は私を見つめてくる。
 チッチッチッ。その右手の人差し指を左右に振って、真顔で言う。
「だめよ」
「どうして……」
 それは初めて見る、菜々の不安気な顔だった。
「それはね」
 人差し指でクルクルッと空中をかき混ぜて、いたずらっぽくウィンク。
「私が言うの。菜々が高等部に進級した日に。令ちゃんからもらった、あのロザリオと一緒にね」
「……はい!」

 そしてそれは初めて見る、菜々の満面の笑顔だった。


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