【1695】 途切れた夢二人の続きすれちがい  (沙貴 2006-07-16 19:29:52)


 予想してはいたけれど、初夢には祐巳さまが出てきた。
 自宅の瞳子の部屋の窓の外が、どういうわけか祐巳さまの部屋になっているのだ。二人の部屋の間にある、透明ガラスは曇っている。
 曇っているのに、自室の隣に祐巳さまの部屋があると確信出来るなんてことはとてもおかしなことだけれど、夢の中の瞳子は納得する。
「夢ですものね」
 自分が夢を見ていると理解出来る夢、であるからだ。
 結局は夢なのだ、なんでもありである。
 
 くもりガラスを眺めていた瞳子は、やがて重い溜息を吐いて部屋の中に視線を戻した。
 ガラスを見上げていても曇りが晴れることはないし、曇りを晴らしたいとはどうしても思えなかった。
 水滴を拭き取ってガラスを綺麗にしてしまえば、祐巳さまの部屋を覗くことが出来る。
 そこに祐巳さまがおられることは間違いがないのだ。
 手を振ったり、窓の向こうからきっと笑いかけてくれる祐巳さまに笑みを返したりも出来るだろう。
 でもそれは同時に、瞳子の部屋の中も覗かれてしまうということだ。
 耐えられなかった。
 部屋が煩雑でみっともないからというわけでは決してないけれど、夢の中の瞳子の部屋を誰かに覗かれることは、想像するだに恐ろしいことだった。
 理由は良くわからない。きっと、夢だからだ。
 
 顔を戻した部屋の中には、使い慣れたベッドや机が現実と同じ所定の位置にあった。
 本棚には瞳子が今までに買った本がずらりと並んで、その綺麗に整頓された様が、夢の中で落ち着かない瞳子の気をそっと静めてくれる。
 いつもは気にもしない、むしろ時には忌々しく思うくらいに整った部屋に救われたのは初めてのことだった。
 瞳子は薄く笑う。大切なものは意外に身近にあるものだ、なんて良くいわれる言葉が身に染みる。それもまた、初めてのことだったから。
 
 下ろした髪を肩の前で弄びながら、瞳子は部屋の中をゆっくりと歩き始める。
 歩き慣れた部屋だけれど、夢の中の部屋は家具のどれもが微妙に古かったり、あるはずの傷がなかったりと些細な違いがあっておかしくなる。
 思い出したように傷の出来た机をそっと撫でて、隣においてある教科書用の本棚に目をやった。
 そこには勿論、今使っている高等部の教科書が並んでいた。
 現国、数学、化学に英語。もう半年以上も使っている馴染みの教科書達だ。何かが足りない気がしたけれど、そのすぐ下の段に並んでいた別の本に気を取られて瞳子はそれをすぐに忘れてしまった。
 すぐ下の段。そこには本当はもう仕舞ってしまったはずの中等部の教科書が並んでいたのである。
 英語があって、理科があって。国語もあったけれど、数学はなかった。きっと、その背表紙を瞳子が忘れてしまったからなのだろう。
 中等部で使っていた薄いけれど少し大き目の理科参考書をそっと撫でて、瞳子は微笑む。
 そして更にその下の段に視線を落とすと、予想通りにそこには初等部で使っていた懐かし過ぎる教科書が立てられていた。
 
 国語。
 算数。
 社会。
 そこにあった教科書はその三冊だけだった。初等部なんて流石にもう記憶の彼方だ、それら三冊を覚えていただけでも瞳子的には驚きである。人の記憶は意外に凄い。
 しかし、本棚のその段にあったのは教科書だけではなかった。それ以外にももう二冊、本があった。そのうち、一冊をそっと手に取る。
 それは忘れもしない瞳子の地図帳。キラキラ輝く未来や、色鮮やかな世界が描かれる筈だった瞳子だけの白地図帳。
 瞳子がその手で”駄目にしてしまった”白地図――の、成れの果てだった。
 
 開けば、砂を食むような地図がそこには広がっていた。
 きっと市販の地図を”頑張って真似した”のだろうと予想出来てしまう、非常に稚拙な彩色と書き込みがされた地図。
 小学生の地図に違いなかった。
 誰がどう見ても、それは小学生の地図だった。
 綺麗でなければ、面白みもない。小学生としては上手い方かも知れないが、中学生で描いたとすれば笑いものだっただろう。
 でも瞳子は知っている、それを描いた者は決してそんなものが描きたかったわけではないことを。
 その地図を描いた小学生は、そんな拙い地図が作りたかったわけではないのだ。
 描きたかったのは中学生の地図でも、高校生の地図でも、大人の地図でもなかった。
 
 描きたかったのは完璧な地図。
 色は線からはみ出さず、都市の名前は整った文字で綺麗に書き込まれているような地図。
 印刷されたような、けれどそれは印刷ではなくあくまでも本人の手による手描きの地図。
 それが欲しかった。描き上げたかった。
 
 無理だった、けれど。
 出来上がったのはただの小学生の地図だった、けれど。
 
 今でも瞳子は思うことがある。
 もう一度あの白地図帳を渡してくれたら、と。
 今度はきっと完璧な地図を完成させてみせる。でもそれは、印刷されたように完璧な地図ではなくて。今となっては、そんな地図は機械ではない瞳子に出来ないと判っているから。
 だから、観た人がびっくするような地図を描き上げてみよう。カラフルに、鮮やかに、艶やかに。
 瞳子は絵が得意だから、大きなオーストラリアの陸地などには何か模様を書き込んでも良いかも知れない。
 とてもおかしくて、とても綺麗で、でも、世界で一つだけの地図。
 それは完璧な地図だ。完璧に瞳子の地図だ。
 
「でも本当の私の地図は、こちら」
 そう呟いた瞳子は初等部の地図を棚に戻して、その隣に置かれていたもう一冊の本を手に取った。
 それもまた地図帳だった。
 但し、今度は学校の授業で使うような地図帳ではない。
 図書館に置かれているような、或いは本屋の奥のほうに並んでいるような、本物の地図帳だ。
 
 そこには最新の地図が精巧な印刷技術で描かれている。
 都市の名前は邪魔にならないように考えつくされた配置で、しかも日本語と英語の両方で載っていた。
 主要航路も描かれていて、色分けされた世界は鬱陶しくないくらいにはカラフルだ。
 眺めていればそれだけで卓上旅行が可能な、有用かつ綺麗な地図。
 一番初めに瞳子が望んだような地図だ。
 小学生の瞳子が一番初めに欲しがった地図だ。
 
 そしてそれが、今の、瞳子の、地図だ。
 眺めていれば眺めているだけ、その精巧さが鼻につく地図。
 地図を持つ瞳子の手が震えた。
 怖くなって目を逸らしても何故だか地図は目の前から消えることなく、瞳子は思いっきりに目を閉じる。
 その場に座り込んで、顔を覆って。
 声を上げなかったのは、夢の中だと判っていても捨て去れなかった最後の矜持だろうか。
 
 瞳子の地図、未来の地図は既に完璧に描かれている。
 綺麗に、慎ましくもカラフルに、そして正確に。
 出来上がった地図は既に瞳子の手の中、胸の内。
 もう、一点一線たりとも継ぎ足したり変更したりすることなんて出来ない完成品だ。
 そこに製作者の愛情を感じないほど、瞳子は愚者ではない。
 でも、それで満足出来てしまうほど、瞳子は賢者でもなかった。
 
 綺麗な地図が欲しかった。
 自分だけの地図、自分が描き上げた地図が欲しかった。
 そしてそのための、真っ白な地図が欲しかった。
 初等部で駄目にしてしまったような、あんな純朴で誰の手も入っていない地図が。
 
 
 泣きながら目を開けた瞳子は、いつのまにか一年椿組の自分の席に座っていた。
 そして目の前には、何故だかとても懐かしい――乃梨子さんの姿。
「哀しいことがあったの、瞳子?」
 そっと伸ばしてきた右手に握られていたハンカチで瞳子の涙を拭って、乃梨子さんは聞いた。
 瞳子を覗き込むその表情が心配そうに歪んでいることに胸が痛くなる。
「いいえ、悪い夢を観ただけです。いつのまにか眠ってしまっていましたから」
 だから瞳子は嘘を吐く。
 乃梨子さんの心配を少しでも拭いたくて、安心させたくて、いつもの可愛げのない瞳子を装って。
 でも乃梨子さんは笑ってくれなかった。
 それどころか、より眉根を寄せて今にも泣きそうになる。そんな、瞳子の胸をぎゅうぎゅう締め付けてくる顔で言った。
「哀しいことが、あったんだね」
 その言葉に、拭ってもらったばかりの目尻から再び涙が零れる。
 判っているよ、って。
 哀しかったね、って。
 言外に伝えてくれる乃梨子さんの手が優しかったから。
 
 
 次に目を開けた瞳子は、いつのまにか自分の部屋に戻ってきていた。
 そして隣には、これは流石に夢以外で有り得ないだろう、細川可南子の姿。
「ここがあなたの部屋? 詰まらない部屋ね」
 口を開くや否や可南子さんはそんな雑言を吐く。
 瞳子はむっとしたけれど、その言葉が何の意味もない嫌味でしかないことに気がつくと落ち着いた。
 単に褒めるということが出来ない人間だから、可南子さんは何でも良いから悪口が言いたかったのだ。
 部屋が詰まらないなんて当たり前だ、むしろ面白い部屋を探す方が大変に決まっている。
「それはどうも。けれど、あなたに面白がってもらう為の部屋などではありませんから、当たり前ですわ」
 だから瞳子も嫌味を返す。
 あなたは世界の中心などではありません。そう言ったのはいつだっただろうか、もう随分と昔の話のように思えてしまった。
 小さく笑ってそんな感慨に耽る瞳子を尻目に、可南子さんは再び口を開いた。
「でも良い部屋だわ。こんなに広いなんて、羨ましいわね」
 驚いた瞳子が隣を見ると、高い位置にある可南子さんの顔は何だか悔しそうに、でも面白そうに歪んでいた。
 瞳子の部屋は瞳子の部屋だが、瞳子が用意した部屋なわけではない。用意したのは両親だ、部屋の間取りも家具の多くも。
 それでも、何故だか嬉しかった。
 でもそれが可南子さんを羨ましがらせたからか、それとも可南子さんが”良い部屋”だと褒めてくれたからか。
 どちらなのかまでは、判らなかったけれど。
 
 
 続いて目を開けた瞳子は、いつのまにか薔薇の館のサロンにいた。
 けれど部屋にはいつものメンバーが揃っていることはなく、座席にはお一人で座っておられる志摩子さまの姿。
「ごめんなさいね、瞳子ちゃん。あの時、相談に乗ってあげられなくて」
 殊更申し訳なさそうに目を伏せて、志摩子さまは仰った。
 物憂げな表情が絵になるお方だな、と少しやっかむ自分の役者魂に苦笑する。
 あの時、と仰るのはクリスマスパーティーの時のことだろうか。
「いいえ、とんでもありません。そのお気持ちだけで十分です」
 だから瞳子は首を横に振る。
 瞳子と志摩子さま、生まれも育ちも違うのだ。個人的な悩みごとをそのまま当て嵌められる筈もなかった。
 それになにより、志摩子さまにはお兄さまがおられる。その違いは余りにも決定的だったから。
「私には何も出来ないけれど、また、お話しましょうね。きっと、また薔薇の館で」
 でも、哀しそうにそう微笑まれる志摩子さまはお綺麗で。
 心底に瞳子の事を慮ってくれていること、そして瞳子の悩みを聞くことすら出来なかった自分を悔いていることが判る声だった。
 乃梨子さんが骨抜きになってしまうのも頷ける、正に”お姉さま”の声だ。
 大輪の華を咲かせる白薔薇を前に、瞳子は胸が一杯になる。
 
 
 そして目を開けた瞳子は、いつのまにかマリアさまのお庭にいた。
 いつも変わらぬ優しい微笑を掛けてくださるマリア様の像の前には、仲睦まじげに立っておられる令さまと由乃さまの姿。
「瞳子ちゃん、どうしたの? 元気ないじゃない」
 由乃さまがハキハキとした声で仰った。
 聞いているだけで元気が出てくるような、張りのある声だ。由乃さまの元気が一杯に詰まっている気がした。
 その元気さが、でも、今は辛い。
「そんなことはありませんわ。いつだって瞳子は元気さんですもの」
 だから瞳子は軽口を言った。
 自分で言っていて気持ちの篭らないセリフだ、役者失格だなとは思ったけれど仕方がない。
 由乃さまには何となく、そんな軽口も許されるような気がしたから。
 でもその隣の方には通じなかったようで。
「またそんなことを言って。駄目だよ、ちゃんと言ってくれないと私達にはわからないんだから」
 仰って、めっ、と窘めるように顔を顰める令さまと。
 合わせるように慌てて眉を寄せる由乃さまのユニゾンがなんだか可笑しくて瞳子は笑った。
 怒られているのに笑い出した瞳子に、由乃さまが「こらっ」って仰りつつも笑われる。
 先輩お二人の暖かい空気が胸に染みた。笑いながらも泣きたくなる、くらいに。
 
 
 更に目を開けた瞳子は、いつのまにか祥子お姉さまの部屋にいた。
 正面には勿論、いつも麗しい、優しくも厳しい祥子お姉さまの姿。
「馬鹿ね、瞳子ちゃん」
 小さく笑って、祥子さまは仰った。
 シンプルで辛辣な言葉だけど、でもそれは一杯のいたわりに満ちた「馬鹿」だった。
 祥子さまはなんだってご存知だから、今だって勿論瞳子の悩みをご存知だ。
「酷いですわ、祥子お姉さま。瞳子は真剣に悩んでいますのに」
 だから瞳子は唇を尖らせる。
 祥子さまに甘える時の常套手段、最近はご無沙汰だった”可愛らしい妹のような瞳子ちゃん”の面目躍如だ。
 可愛らしく振舞っても、振舞わなくても、祥子さまは変わらず可愛がって下さるけれど、このあたりは気分の問題。
 瞳子は元々、こういうキャラクターが好きなのだ。
「悩むことなんてないわ。瞳子ちゃんに出来ること、すべきこと、本当は判っている筈でしょう?」
 祥子さまは小さく被りを振って仰った。
 それは決して大きな声ではないけれど、揺るぎない自信に裏打ちされた断言。
 恐るべき説得力を持ったお言葉だった、流石は瞳子の祥子お姉さま。
 瞳子は素直に嬉しくなった。
 
 
 最後に目を開けた瞳子は、真っ白な世界にいた。
 床も天井も壁もない。
 真っ白で、途方もなく広くて、とてつもなく無垢な世界。
 そこにはただ一人、祐巳さまがいた。
 
「瞳子ちゃん」
 
 困ったように眉を寄せて、祐巳さまはただ瞳子の名前を呼んだ。
 「はい」、と答えそうになった自分を押し止める。
 幾ら夢の中とはいえ言葉を返す資格は無いと思った、それに。
 答えてしまったら、その場で泣き崩れてしまいそうだったから。
 
 言葉を返さない瞳子に小さく息を吐いて、祐巳さまは仰り始めた。
「ねえ、瞳子ちゃん。あの時、地図の話してくれたよね。白地図の話。あれから私、一所懸命考えたんだ、聞いてくれないかな」
 瞳子は頷くことも、首を横に振ることもしない。
 ただ、見慣れたその愛くるしいお顔が少しずつ真剣になっていくのを眺めるだけだった。
「一度色塗ってしまった地図は、もう戻らない。そうだよね、初等部で塗ってしまった地図をもう一度白地図にすることは出来ないんだ。だって、それにはもう未来を描く余白がないから」
 祐巳さまの仰る白地図。未来を描く地図。
 それは真っ白だからそう在れるのであって、誰か、例えば瞳子自身の手によってでも点一点、線一線を書き込んだだけでそれはもう未来の白地図で在れなくなってしまう。
 白地図は白地図だからこそ未来を描けるのだ。そして描いた瞬間にそれは未来でなくなる。哀しくも矛盾した、でも事実だと瞳子は思った。
 
「だからね、瞳子ちゃん」
 祐巳さまはそうして、いつの間にか手に持たれていた一枚の紙を胸の前に出された。
 真っ白な紙だった。
 辺りの白さに溶けてしまいそうな純白で、でもはっきりとそこに紙があるとわかる不思議な白紙。
 差し出された祐巳さまの手から無意識に受け取る。
 それは真っ白な紙だった。間違いなく、何の変哲もなく、ただ白いだけの紙だった。
「これをあげる。これは瞳子ちゃんの地図だよ」
 そして、そんな言葉に瞳子の顔が曇る。
 こんな真っ白なだけの紙が地図だなんて、今時幼稚舎の子供だって納得はしないだろう。そう思ったから。
 でも。
「この地図にはまだ何も描かれていないんだ。国や陸の輪郭だってない。だから好きに描いて良いんだよ、瞳子ちゃんの思うように」
 祐巳さまのその言葉にはほんの少しの希望が乗っていた。それはもう一度、世界を創造する権利を貰えるのかも知れないという希望。
 けれどそしてそれを遥かに凌駕する恐怖も、また乗っていた。
 それは今、もし、本当に白地図が渡されたとして。未来を好きに描くことが出来る白地図が実際に手渡されたとしても。
 地図を再び駄目にしてしまう、なんてことはないだろうか。いいや、本当はきっとそっちの可能性の方が高いのではないだろうか。
 そんな恐怖だった。
 そんな、足が震えてくるほどの圧倒的な恐怖だった。
 
「失敗しても構わないよ」
 そんな瞳子の葛藤を知るように祐巳さまは絶妙のタイミングで仰った。
 真っ白な紙、いや、白地図を前に怖気づく瞳子を安心させようと、祐巳さまは「良いんだよ」と前置きして続けられる。
「その時はまた新しい地図をあげる。白地図はいつだってどこにだってあるんだから、気にしなくて良いよ。失敗したら描き直せば良いんだ。それは大変なことかも知れないけれど、でも、自分の手で地図を描くってそういうことだもん。瞳子ちゃんだって知っているよね、初等部の時に一度描いたんだから」
 そうだ。
 瞳子は一度白地図を前にして、それを駄目にしてしまったことがある。
 思い描いた世界とは似ても似つかない世界を載せてしまったことがある。
 だから瞳子はまたそうしてしまうかも知れない。白地図を駄目にして、何の魅力もない世界だけを描いてしまうかも知れない。
 
 でも祐巳さまは仰った。その時は描き直せば良い、と。
 なんて魅力的な言葉なんだろう。
 それが本当なら瞳子は何度だって白地図に取り掛かってやる。
 失敗しても、納得のいく出来に仕上げることが出来なくても、何度だって描き直してみせる。
 繰り返しても繰り返しても、きっと頭の中で想像するような完璧な瞳子の地図には出来ないだろうけれど、仕上げる度に描き直してしまえば良いのだ。
 
 
 瞳子は渡された白地図を抱き締めた。
 薄っぺらい、今は何の魅力もない、でもとてもとても尊い未来の白地図を。
 祐巳さまから手渡された、たった一枚の紙切れを――まるで、掛け替えのない宝物のように。
 
 
 〜〜〜
 
 
 瞳子はそこで目を覚ました。
 祐巳さまから白地図を貰って、お礼の言葉どころか何の言葉も発することも出来ないまま途切れた夢から、停滞した空気が部屋を占める現実の世界へ回帰した。
 そっと目の下に手をやる。伸ばした指にはひやりと冷たい水の感触、瞳子は泣いていた。
 部屋の暖房が誤魔化す冬の冷気は瞳子にまだまだベッドの中で休んでいる事を勧めてきていたけれど、敢えて体を起こした。
 体温で温もった毛布から出ると、薄着の肌にひやりと冷たい空気が纏わりつく。急激に目が覚めた。
「随分と、小賢しい祐巳さまでしたこと」
 瞳子はそうして吐き捨てる。
 
 それは学校の先輩である祐巳さまを容赦なく罵倒する言葉、だが、実際のところその棘は全て完璧に瞳子自身へ向いていた。
 何故なら、あの夢は瞳子の夢であるから。瞳子の中で生まれ、瞳子の中で滅するだけの狭窄な妄想に過ぎないから。
 
 このところ邪険に扱っている乃梨子さんには、無言のうちに許されて、理解されて。
 同様に扱っている可南子さんには、決して両親が悪なだけではないとフォローをされて。
 ちらと相談を持ちかけた志摩子さまには、薔薇の館に誘われて。
 今では殆ど接点のない由乃さまと令さまには、怒ってもらって。
 祥子さまには、現実でもそう仰るだろう説得力と共に助言をされて。
 祐巳さまには。
 祐巳さまには、新しい白地図を手渡されて。
 
 あくまでも夢の中の出来事とはいえ、何て都合の良い、自分勝手な考えだろう。
 乃梨子さん達の人格を全否定したようなものだ、妄想という言葉以外に何が当て嵌まるだろうか。
 あなたは世界の中心などではありません。
 それは誰の言葉で、誰に向けた言葉だったか。瞳子はぎりと歯軋りした。
 
「馬鹿馬鹿、しい。本当に。本当に――っ」
 首を振り振り、繰り返した瞳子の目にでも、信じられないものが飛び込んできた。
 それは机の上に置かれていた一枚の紙。
 真っ白な紙だった。そう、夢の中で祐巳さまに貰ったあの白地図を髣髴とさせるような白紙。
 たかだか一枚の紙切れをそんな夢と都合よく結びつけることこそ馬鹿馬鹿しい、と思いながらも高鳴る胸を抑えられない。
 瞳子は視線を彷徨わせながら、髪を指に巻きつけて放す、ということを三度繰り返した。
 その際一瞬視界に入った窓ガラスが、瞳子にあの夢のガラスを思い出させる。
 祐巳さまが確かに向こう側で待っていたあのガラス。思い出したガラスの曇りは、何故だか少し薄くなっていた。
 
 そして、ゆっくりと机に向かって歩き出す。
 そこに置かれている白地図を手に取る為に、真っ白な未来に自分の夢を描くために。
 もしくは、再び胸に抱いてあの真っ白な世界での出来事を思い出すために。
 瞳子はゆっくりと歩む。
 その一歩一歩が未来を刻むようにゆっくり、しっかり。
 
 やがて机の前にまで辿り着いた瞳子は、その白紙を手に取った。
 
 
 
 
 
 
 正確には、それは白紙などではなかった。
 当然、白地図などではなかった。
 ただの、終業式の日に渡された学校のプリントだった。
 
 瞳子が昨晩、何の脈絡もなく新学期のことを少し考え、その流れで始業式の日に必要な道具の確認をした、その名残。
 その時、どうして裏返したのかは今の瞳子には判らない。
 本当の意味でただの紙切れだ。
 笑えた。
 大いに嗤えた。
 
 昨日の自分に、そしてうろたえた今日の自分に、心の底から。
 だから一頻り嘲笑った瞳子は。
 
「――下らない」
 
 
 そんな一言と共に、未来の白地図(学校のプリント)を真っ二つに引き裂いてしまった。
 
 くもりガラスの向こう側は、もう、見えない。


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