【1727】 今なら言えるこれが私の選択です  (8人目 2006-07-27 20:59:01)


 『がちゃSレイニー』

     †     †     †

「――沢さん。福沢さん? 聞いていましたか? 前に出て、この問題を解いてくださいね」
「へっ?! あ、はい……」

(ひぇぇ)
 一時間目の授業中、暖房で使われているストーブの遠赤外線が気持ちよくて。
 つい、うとうとしてしまったのが運の尽き。
 隣の列の由乃さんがノートをチラリと見せてくれたから、なんとか切り抜けられたけれど。
 危うく、先生に大目玉を食うところだった。

 祐巳は黒板の問題を解いた後、席に戻る時に『ありがとう』と由乃さんに両手を合わせた。
 『やれやれ』って、由乃さんはわかりやすく苦笑いしていたけれど。
 やっぱり瞳子ちゃんのことが気になるようで、『後でね』って唇が静かに動いた。

 朝。予鈴が鳴って、薔薇の館から直接教室に来たから、由乃さんとはあまり話せなかったけれど。
 瞳子ちゃんと、うまくいっていることだけは伝えた。
 そして昨日の騒ぎ。
 どうやら独自に動いていた由乃さんは、火消しに大変だったと聞いた。

 『うん』
 祐巳はそう頷いて、席に座る。

 もちろん、授業中に居眠りなんてしてしまった祐巳が悪いんだけれど。
 昨日の夜に瞳子ちゃんと夜更かししてしまったからか、ひどく眠い。
 それに。
 さっきの夢(【No:766】)が、頭から離れないのだ。
 薔薇の館で祥子さまに聞かれた。瞳子ちゃんのカナダ行きのこと。
 それが誘因で見てしまったのだろうか。

 瞳子ちゃんがカナダに行ってしまう。

 考えただけで胸が締め付けられた。

 苦しいよ。

 切ないよ。

 瞳子ちゃんの口からは、まだ詳しいことは何も聞いていないけれど。
 それは多分、現実。
 さっき見た夢の中の祐巳は、瞳子ちゃんを抱きしめて最後に何を叫んだのだろう。
 ううん。
 本当はわかってるんだ。
 わかってる。自分が我慢して、瞳子ちゃんの進む道を応援するのは一つの方法だけれど。

 でも。

 一度手にした幸せを離したくなくて、きっと祐巳は我侭を言ってしまう。
 瞳子ちゃんを困らせてしまうかもしれないけれど。
 これは、今しか言えないことだから。
 瞳子ちゃんと離れてしまってからでは、もう二度と言えないこと。

 自分の気持ちに、嘘なんてつきたくなかった。
 黙って見送るなんて、私には……できない……。
 私、大人になんて、なれないよ……。

 あの夢を思い出して。祐巳の目からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
 こちらを心配そうに由乃さんが見ていたけれど、だめだ。止まらない。
(ごめんなさい)
 濡れたノートに謝って、祐巳はぎゅっと目を閉じた。

 次に、瞳子ちゃんに会った時に、言おう。
 お昼休みかもしれない。放課後かもしれない。
 大丈夫。瞳子ちゃんが『必ず』ってそう言ってくれたから、すぐに会える。
 そのとき、伝える。
 そのとき、このロザリオを返す。

 言ってしまったあと、どうなるかはわからない。
 瞳子ちゃんがどうするかは、わからない。
 『お姉さまになる方が、情けないです』なんて怒られるかもしれない。
 『ごめんなさい』そう言われるかもしれない。
 けれど、大切なことを言わないことで後悔なんてしたくない。

 結局この時間は、あの夢のことと瞳子ちゃんのことで頭がいっぱいだったから。
 授業の内容なんてほとんど覚えてなかった。


 早く。


 会いたいよ。



一つ戻る   一つ進む