【1746】 桜の季節に揺れて  (まつのめ 2006-08-04 18:11:24)


act.1 一本の桜とうそつき少女


 講堂裏の銀杏並木には、一本だけ桜が咲き誇っている。
 今は桜の季節。
 私には特別親しい一人の先輩がいる。
 それは、親しいというより私にとってはもはや『特別な人』といえるのだけど、その先輩と出合ってからもう一年が過ぎ、当時一年生だった私は二年に進級し、彼女は最高学年である三年生になった。
「はあ……」
 並木道を歩きながら私はため息をついた。
 彼女の進路の問題は彼女の問題だから私が憂いても仕方がないし、彼女は彼女の考えで決定をするだろう。
 でも。
 こうして一人で考える時間が出来ると、つい考えてしまう。
 私たちは何処へ行くのだろう? と。
 私は卒業するまでそばにいるという約束をした。
 でもその後は?
 その後の事は全然わからない。
 全く会えなくなってしまうかもしれないし、もしかしたらこの学園の大学部に進んで再来年も同じ敷地に通うかもしれない。
 その辺は確信を持って全てありうると言えるあたりが悩ましいのだ。
「はあ。今悩んでもしょうがないか……」
 もう一度ため息を付きつつ、口に出して心に沸いてきたブルーを吐き出した。

 桜は綿菓子のような満開の花びらで木の枝をピンク色に埋め尽くしていた。
(あれ?)
 舞い散る花びらの中にぽつんと一人。そのピンク色の塊を見上げる少女が居た。
 彼女は妙に長い切りそろえられた前髪から青白い顔を覗かせ軽く顎を上げて桜を見上げていた。
 私はそっと近づいて、そのお気に入りの場所の先住者の隣に立った。
 そして彼女と同じように桜を見上げた。
 別に彼女とコンタクトを取ろうとかそういうことを考えたのではなく、この桜を見上げる同士として、こうすることが正しいような気がしたからだ。
 私が横に立つと、彼女は少し驚いてこちらを振り向いた。
 視線を向けると、青白いきれいな顔が私を観察するように見つめていた。
 私は再び桜を見上げ、言った。
「綺麗よね」
 彼女は小動物のように一瞬ビクッと身を強張らせたが、また同じように私を見つづけた。
「どの桜も綺麗だけど、この桜は特別惹きつけられるのよね」
 私が視線を向けると彼女は桜を見上げ、そして首を傾げていた。
 彼女の肩までで切りそろえられた黒髪が軽く揺れた。
「どうしてだかわかる?」
 そのとき、彼女の方からぽちゃりと水の音がした。
 そこで初めて彼女をよく観察した。
 黒い制服の袖から覗かせる細く青白い手には私も見たことのある銘柄のミネラルウォーターのペットボトルが握られていた。
 中学生のように細っこい体躯には不似合いなその2リットル入りのペットボトルの中身は半分くらいまで減っていて、その水面は海の波間のように揺れていた。
 この時、私は初めて彼女が震えていることに気がついた。
 突然、彼女はペットボトルを持ち上げてその蓋をとり、口をつけてそれを飲んだ。
 それも激しく、ごくっ、ごくっ、ごくっと、顎を仰け反らして青白い喉を見せて。
(へんな子だ――)
 再び向き直った彼女はまた長い前髪の向こうから私を見つめた。
 半開きになった唇からミネラルウォーターの雫がたらりと垂れていた。
「ぅー」
 その口からうめくような声が発された時、私は黙って見ていることしか出来なかった。
「ぅぅぅぅぅ……」
(な、なに?)
 桜の木の下に緊張感が広がった。
「ぅみのいきもの」
「え?」
 なんて言ったのだろう。
 あまりに場違いなその単語を、私は彼女の次の言葉を聞くまで識別できなかった。
 彼女は続けて言った。
「ぼくは、海の生きものなので陸の木のことはよくわかりません」
 何を思っているのか、うつろな感じのする目つきで彼女はそう言った。
 というか「ぼく」?
 彼女を見ると黒地のワンピースにアイボリーのセーラーカラーの制服を着ている。
 胸の膨らみはほとんど申し訳程度だけどちゃんと人間の女の子だ。
「う、海の生きものって?」
 思わず私が聞き返すと、彼女は何故か「判ってくれた」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「はい。実はぼくは日本海で生まれた人魚なんです。でも桜の木が人を惹きつけたりとか判る気がします。きっと桜の精が寂しがって人を引き寄せてるんでしょうね。そういうのは種が違うからぼくには見えないんですけど」
 私は頭を抱えたくなった。
 正直言おう。桜の木の下にそれっぽく佇んでいて「これはもしや?」って期待した。ちょっと不健康っぽい青白い子だけど、何処かの女優みたいに綺麗な顔してるし。
 でも、これはダメ。
 私は、ぼくっ娘は抵抗無いけど、デンパ系は苦手なのだ。
 彼女は私が話を聞いてくれると思ったのか得意げに続けた。
「人間なんて愚かで自分勝手で寿命が短くて呼び寄せても良い事無いのに。植物の精は動けないから人間なんかを呼び寄せちゃうんですよね。あ、海の中にも植物は居るからぼくにも少しは判るんですよ」
 これは暗に私が愚かで自分勝手だと言いたいのだろうか?
 いや最初にここに立っていたのはこの子だから自分を揶揄しているのかな?
「人魚はそんなことしません。だって世界中の海に泳いでいけるんだから。知ってますか? 人魚には性別が無いんです。だから親とか兄弟とか関係なくて世界中の人魚は全部仲間なんですよ」
 私は彼女の足元を見た。
 ちゃんとソックスに包まれた足が二本ある。
 彼女の足はどういう訳か震えていた。
「ぼくは勉強のために地上に上がってるんです。ちょっとここは海から遠いから不安があるんだけど、もう何年も陸に上がっているから平気なんですよ」
 ここで『嘘つき』って言ってやっても良かったんだけど、私はこの学校に来てから異文化や価値観の異なる人にはかなり寛容になっていた。
 だから黙って聞いていたのだけど、それが失敗だったことにこのときは気づいていなかった。
 彼女は私のほうを向いて首を傾げるようにして私に訊いた。
「何年生?」
「え? 二年よ」
「一年菊組、海野桃子です」
「あ、乃梨子。二条乃梨子よ」
 しまった、と思った。
 不意打ちで自己紹介されてつい答えてしまったのだ。
 ここで互いに名前も知らないまま終わっておけばそれきりになったかもしれないのに。
「そ、それじゃ、わたし用があるからこれで」
 私は彼女をそこに残して逃げるように桜の下を去った。
 用事があるのは本当で、別に悪いことをしたわけではないのに、何故か心にしこりが残った。



act.2 陸に上がった人魚


 私は二条乃梨子。親しい『特別な人』な先輩は藤堂志摩子さん。
 そして昨日桜の下で出会った変な子は海野桃子というらしい。
 『らしい』というのは実はあのあと気になったので調べてみたのだ。
 山百合会の職権濫用して。
 でも一年菊組に海野という新入生は居なかった。
 もしかして花の名前のクラス名に慣れていなくていい間違えたのかと思って調べたけれど該当しそうな名前は無かった。
 一応、一年生に桃子と言う名前は数人見つけたけれど、クラスは違っていて確証がない。
 まあ、あんな変なことを言う子だから名前を騙ったってことなんだろうけど、ちょっと不愉快だった。結局あの場で彼女は嘘しか言っていなかったのだ。
「でも、気になるのでしょう?」
 志摩子さんにはもちろんあの桜の木の下で出会った変な子の話はしてある。
「うん、まあ……」
「見てこなかったの?」
 志摩子さんはそう言うけれど、会いに行く程気になるものでもなかったから。
「まあ、顔は覚えてるから、会ったら文句言ってやるわ」
「うふふ、でも……」
「でもなあに?」
 可笑しそうに微笑んだ志摩子さんは言葉を切ってこう言った。
「ううん、いいわ。良い出会いがあると良いわね」
「う、うん」
 まあ、私も二年生になったわけで、普通なら妹を期待される立場な訳だ。
 志摩子さんは催促なんてしないけど。


 彼女との再会は唐突に、いや、無理矢理ねじ込むようにやってきた。


 早朝、私が銀杏並木の二股の所のマリアさまに向かってお祈りを終え、校舎に向かって歩き出そうとしたそのときだった。
 唐突にぼこっ、と足下で音がした。
 なにかこう、水の入ったペットボトルが投げつけられたような音。
 というか、驚いて足下を見ると本当に水の入ったペットボトルが転がっていった。
「なに?」
 振り向くと先日会ったあの変な子、自称海野桃子が、今自分が投げたんだぞ、と言わんばっかりの投げきった大げさなスウィングのポーズのままにやついていた。
「あ、危ないじゃない!」
 二リットル入りペットボトルなんてやたらと投げるものではない。当たれば痛いし、角度や当たり所によっては打撲症になりかねない代物だ。
 彼女はいつ挫いたのか足を引きずりながら私に近づいてきて言った。
「ニジョー先輩、おはようございます」
 彼女のその懐かしい気がする挨拶に私は返事をした。
「ごきげんよう。あなたももう聞いてるはずだけど、ここでは挨拶は『ごきげんよう』なのよ。それから名前を知っているのなら先輩を呼ぶときは下の名前に『さま』をつけるの」
 別に先生が見てなければ私は拘らないんだけど、ここで注意してあげないと後でこの子が恥をかくかもしれない、なんて大きなお世話に違いないけど。
 彼女は特に反応しないでえへへと笑いながら私を見ていた。
「それから、あなた、『海野桃子』なんて名前じゃないでしょ? 本当はなんていうの?」
 私がそう言うと『自称海野』は何故か傷ついたような顔をした。
「『もくず』と呼んでください」
「はぁ? なんでよ」
「海野だから」
 そういって彼女は「あはは」と腹を抱えて笑った。
 海野もくず。悲惨な名前だ。
「あなたね、そうやって嘘ばかりついてると誰も相手にしてくれなくなるわよ?」
 私はやってられなくなって校舎に向かって歩き出した。
 でも彼女はそのくらいでは堪えなかった。
「人魚はですね」
 彼女が話をしながら足を引きずりながら必死って感じでついて来ようとするので、私は歩調を緩めて彼女の隣を歩いた。彼女の話は嘘ばかりで不快だけど、私は話ではなく彼女事体に興味を感じていたからだ。
「また嘘の話?」
「人魚は魔法使いに呪いをかけられてるんです」
「ふうん」
 どうも私の話を聞く気は無いようなので適当に相槌を打った。
 足を引きずる音とたぷたぷとペットボトルの水が弾む音をバックグランドに彼女は話を続けた。
「地上に上がった人魚は三年以内に人間の友達を見つけないと泡になって消えちゃうんです。それもただの友達じゃダメです。互いに信頼しあえる親友じゃないとダメなんです」
「見つかったの?」
「一緒に逃げようって言ってくれた女の子が居たんですけど」
「逃げる?」
 なんで逃げるんだ。まあ適当に話しているんだから気にしちゃ駄目か。
「逃げる前に悪い人に捕まっちゃって離れ離れになっちゃいました。彼女はきっとぼくの事は忘れて幸せに生きているでしょう」
「そこで忘れちゃうんだ」
 なんとも薄情な。と、つい突っ込みをいれてしまう。その女の子ってのも架空の話なのだろう。
「今がちょうど三年目なんです。あと一ヶ月で友達を見つけられないとぼくは泡になって消えちゃうんです」
 そういうことか。
 まあ、屈折してる気がするけど、多分こういうことだ。 
「もしかして、私と友達になりたいの?」
 そう言うと彼女はちょっと目を見開いて私の方を向いた。
 そして妙に真剣な顔をしてこう言った。
「なりたい」
 いつのまにか私も彼女も立ち止まっていた。
 私は言った。
「私は嘘つきは嫌いよ。なりたいんだったら本当の名前を教えて」
 そう言うと彼女はまた傷ついたような顔をした。
「ぼく、海野だよ」
「嘘」
「嘘じゃないもん」
「嘘よ。そんな名前、名簿に無かったもの。あなたは海野桃子じゃない」
 真っ直ぐ目を見てそう言うと、彼女は目を逸らし、ふて腐れたように口を尖らせた。
 そして、足を引きずって歩き出し、私の目の前から去った。
 名前も名乗れないなんて。
 私はどうして彼女が頑なに嘘をつきつづけるのか理解できなかった。




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はい。まつのめが最近読んだ本はお分かりですね?
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act2、追加しました。後半は別記事にしますのでそのときまた告知します(2006/08/04 20:42)


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