【1780】 菜々トライアングルの道  (朝生行幸 2006-08-13 01:03:08)


「はぁ……、お腹すいたなぁ」
 クラブ活動を終えた学校からの帰り道。
 有馬菜々は、夕日がほとんど沈んだ薄暗い道の上、お腹をさすりながら呟いた。
 菜々が所属するリリアン女学園中等部の剣道部にて、先輩後輩無関係に全員強制参加の、『体力が続く限りひたすらブチ合うデスマッチ』で三位という成績を残せたのだが、そのせいか空腹の度合いは、普段を遥かに越えていた。
 早く帰って夕飯にしようと思っても、残念ながら今日は家には誰も居ないため、たった一人。
 どうしたものかと思いつつ、重い足を引きずっていると、どこからともなく良い匂いが漂って来た。
 空腹に拍車をかけるその匂いが、菜々の足を静かに誘う。
 匂いに導かれ、フラフラと歩みを進めること10分。
 随分遠い所から匂ってくるなぁと思いつつ、辿り着いたその先には、一軒のラーメン屋が建っていた。

 入り口の隙間から漏れ出てくるスープの匂い、暖かそうな雰囲気の灯り、そして風に小さくはためく『軽部飯店』と書かれた暖簾。
 意を決してガラリと戸を開ければ。
「いらっしゃいませー」
 元気な声と、人に溢れる明るく賑やかな店内が、菜々を優しく迎え入れた。
「ごきげんよう」
 反射的に、リリアン風挨拶が出てしまった。
「ごきげんよう、お一人ですか? カウンターしか空いていないですけど、宜しいですか?」
 三角巾を頭に被り、エプロンを身に纏った高校生ぐらいの少女が、同じくリリアン風挨拶を伴って、菜々を空いている席に案内した。
「あら、あなた、中等部のコね?」
「どうして……、って分かりますよね制服着たままですし」
 袖をつまんだ両手を広げて、自身の身体を見下ろしながら言う。
 空腹のせいか、どうにも思考力まで低下しているようだ。
「部活の帰りね。それじゃぁさぞお腹減ってるでしょ、何にします?」
 渡されたメニューにざっと目を通しても、目移りするばかりでなかなか決めることができない。
 上はそこそこ高いものから、下は結構安いものまで、この店はなかなかにリーズナブルだ。
「あの、500円以内でお薦めってありますか?」
 持ち合わせはあるのだが、さすが一見の店では、ヘタに高いメニューは頼めない。
「うーんそうねぇ……。Cセットなんてどうかしら? 安くてかなりボリュームがあるからお薦めね」
「じゃぁ、それ下さい」
「かしこまりました。おばさ〜ん、Cセットひとつ〜」
「あいよー」
「それとね……」
 カウンター内で、おばさんと呼ばれた(恐らく親戚だろう)おかみさんに耳打ちする彼女を、お冷で唇を湿らせながら何気なく見やる菜々。
 アットホームな雰囲気に、妙な居心地の良さを感じつつ、待つこと数分。
「お待たせ。Cセットになります菜々さん」
「わ、早い。それにとても美味しそうですね。いただきます」
 早速レンゲを手に取り、Cセットを眺めてみれば。
 エビチリソースかけチャーハンにミニラーメン、卵スープに唐揚げ・焼き餃子・シューマイのおかず、更には杏仁豆腐まで付いていた。
「……え? どうして私の名前を?」
 食べている様子をニコニコしながら見ている彼女に、数口箸をつけたところで、ようやく名前で呼ばれたことに気付いた菜々は、躊躇うこと無く問い掛けた。
「だってあなた、たまに薔薇の館に出入りしているでしょ? 黄薔薇のつぼみのお気に入りって、もっぱらの噂よ」
「じゃぁ、あなたは……」
「うん、私はリリアン高等部二年生で、由乃さんのクラスメイトの軽部逸絵って言うの」
 逸絵は、ニッカリ笑いながら自己紹介した。

「ごちそうさまでした」
「おっ? 綺麗に食べたわね。ひょっとしたら残すんじゃないかと思ったけれど」
「ええ、私には少し多かったですが、残すのも失礼なので」
「あー、やっぱり多かったか。実はね……」
 菜々の耳元、小声で逸絵は、
「ちょっとしたサービスだったんだけど、かえって悪かったかな」
 頭を掻き掻き、恐縮していた。
「いいえ、とても美味しかったから、全部食べられたんですよ」
「そう、美味しいと言ってもらえて嬉しいわ」
 お冷のお代わりは? と言わんばかりにピッチャーを掲げる逸絵に、いいえ結構ですと言わんばかりに手を振った菜々。
「それじゃ、お勘定お願いします」
「ありがとうございます、500円丁度になります」
 レジをチーンと鳴らしながら、逸絵が値段を伝えれば、
「え? あの、さっき気付いたんですが、Cセットの値段は850円って」
 壁に貼ってあるお品書きには、AセットBセットCセット全て、850円となっていた。
「本日は、リリアン中等部の生徒に限り、Cセットを500円の特別価格で提供いたしておりまーす」
「でも、そういうわけには……」
 頑なに千円札を差し出す菜々。
 しかし逸絵は、慌てず騒がず、
「おつり500円になります。ありがとうございました、またお越しくださーい」
 菜々の手に、半ば強引におつりとレシートを握らせた。
 反論を許さない笑顔の逸絵に折れた菜々は、諦めの溜息を一つ吐くと、小さくありがとうございますと礼を言った。
「どういたしまして。今度は、お友達や由乃さんと一緒においで。サービスさせてもらうからね」
「はい。ごちそうさまでした」
 ペコリと頭を下げた菜々は、剣道具一式を担いで、店を後にした。

「あ、ちょっと待って」
 戸を開けた逸絵が、数歩先を進んでいた菜々を制止した。
『ごめんおばさん、ちょっと彼女を送ってくるわ』
『はいよ。ついでに、帰りに器を回収してきておくれ』
『りょーかい』
 店の脇に停めてあった自転車に乗った逸絵は、菜々の前で停止すると、
「駅まで送るよ。後に乗って」
「いえ、そこまでしていただくわけには」
 菜々は、明らかに困惑の表情をしていた。
「ホラ、先輩の言う事は聞きなさい。それに最近は物騒だからね。もしあなたに万一のことがあったら、由乃さんにドヤされちゃうわよ」
 防具を無理矢理受け取り、前かごに載せ、荷台に菜々を乗せた逸絵は、力強くペダルを漕ぎ出した。
 特に会話もなかったが、大きな荷物と人一人を余分に乗せているにも関らず、かなり速いペースで、自転車は駅に到着した。
 流石は現役陸上部員、大した体力だ。
「じゃぁ、気を付けてね」
「ありがとうございました。でも、どうして私にそこまでしてくれるんですか?」
「あっはっは、いやぁ……」
 少し赤らんだ顔を、あちゃらの方に向けながら逸絵は、
「なんでだろうね、あなたを妹にしたい、なんて思っちゃったもんだから」
「………」
 予想もしなかった彼女の言葉に、流石の菜々も絶句した。
「でも、あなたは由乃さんの妹になるんでしょ? だから、どうせ無理なら一時でいいから気分だけでも、ってね」
 由乃といい逸絵といい、リリアンにはなんとも面白い人がいるではないか。
 菜々は、この人の妹になるのも愉快かもしれない、とまで思ってしまった。
「くす。面白い方ですね逸絵さまって」
「そう? ありがと。でも、この話は由乃さんには内緒よ」
「もちろんです」
「じゃぁね。寄り道とか、拾い食いなんかしちゃダメよ」
「大丈夫です。由乃さまじゃありませんし、お腹いっぱいですから」
「あはははは、そうね。じゃぁごきげんよう」
「ごきげんよう逸絵さま」
 更に軽快な足取りで走り去る逸絵の背中を、見えなくなるまで見送った菜々は、なんとなく胸が温かい気持ちで満たされたような気分で、駅の階段に足を踏み入れたのだった。

「ちょっと逸絵さん」
「なにかしら由乃さん?」
「あなた昨日、駅前で菜々と会ってたらしいじゃない。彼女に何の用があるって言うの?」
「なんのことかしら? それに、高等部の生徒が中等部の生徒と話していたところで、誰にも文句は言われないと思うけど?」
 こうして、突然由乃vs逸絵の口論が始まったのだが、逸絵が本当のことを言い出すまで、再び体育祭当時の険悪な状態になりかけたのは、また別の話……。


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