【1823】 嘘の螺旋階段  (まつのめ 2006-09-02 02:10:04)


『桜の季節に揺れて』
 【No:1746】act1〜act2
 【No:1750】act3〜act4
 【No:1756】act5〜act6
 【No:1761】act7
 【No:1775】act8
 【No:1799】act9〜act10




act11 うそつき人魚


  ○月○日 私は人魚

  私は陸に上がった人魚
  海の魔女にヒレを足に変えてもらった
  目的は人間のことを学ぶため
  でも、地上に仲間は居ません


   ◇


 いつもより少し早めに登校した私は、蛇行する銀杏並木を比較的ゆるい速度で歩いていた。
 時間が早いせいか、他に並木道を歩く生徒の姿はぽつりぽつりとしか見えない。
 やがて、二股の分かれ道が見えてきたところで、私は立ち止まった。
 登校する生徒の邪魔にならないように道の脇に避け、今来た道を振り返る。

『なんだい、振られたのかい』
 昨日の菫子さんの言葉が思い出される。
 あのあと私はもくずと食べるつもりだったケーキを携えて家に帰った。
 私がテーブルに置いたケーキ屋の箱を見て『おや、お土産とは気が利くねえ』なんてふざけた調子で言った菫子さんは『そんなんじゃないわよ』と答えた私の顔を見て、苦笑した。何もかもお見通しって顔だった。まあ、予告しておいたより、かなり早く帰ってしかも自分でもわかるくらい沈んだ表情をしてたのだから、判って当然だろう。『気が利くねえ』と言ったのだって約束が反故になったことを察して、和ますつもりで言ってくれたのだろう。
 私はこの気を遣ってくれる人生の大先輩に敬意を表して、紅茶をふるまい、行き先を失ったケーキ達で一緒にプチお茶会と洒落込むことにした。
 私が抹茶シフォンケーキを、私の四倍は生きているであろう菫子さんが苺のタルトと、他人が見たら逆だろうと突っ込みを入れるかもしれないチョイスをしたところで、私は菫子さんに訊いてみた。
「あのさ、どうしようもない嘘つきと上手く付き合う方法ってあるかな?」
 菫子さんは、タルトをフォークで切り分けながら言った。
「なんだい、リコの友達のことかい?」
「んー、まあそんなところ」
 私が、抹茶味のケーキを味わいつつ曖昧に答えると、菫子さんは、一口食べて、「んー、甘いねえ」とか言いつつ、こんな事を答えてくれた。
「まあ、嘘ったっていろいろあるけど、理由があるだろう」
「理由?」
「ああ、嘘を付かなければならない理由だよ。それが判ればその嘘つきとの付き合い方も判るってもんさ」
「そうか……」
 それから、しばらく黙々と二人でケーキを口に運んでいた。
 抹茶シフォンケーキは控えめな甘さが私の好みに合っていたが、もくずと食べられなかったのが心残りで、抹茶の渋みが妙に苦く感じたのを覚えている。

 私はマリア像に程近い銀杏の木の下でもくずを待っていた。
 高確率でマリア像にお祈り中に背後から現れていたもくず。
 考えてみれば校門からマリア像まで結構銀杏並木が続いているのに、ここでしか会わないのは不自然だった。どこかで隠れて待ち伏せしてた、と考えるのが妥当であろう。
 わざわざに私に会うためにもくずがそういうことをしていたという事実はどこか嬉しいと思う反面、そんなまわりくどいことをせずに素直に校門で待てばいいのに、とも思ってしまう。
 それにしても。
「「ごきげんよう、白薔薇のつぼみ!」」
「ああ、ごきげんよう」
 一年生が声を揃えて挨拶をし、通り過ぎていく。
 そろそろ登校して来る生徒も増えてくる時間だ。
 今日は裏をかくつもりで大分早く来たのだが、今日に限っていつも私が登校する時間を過ぎても、もくずは現れなかった。
「まあ、約束したわけじゃないし……」
 増えてきたカラスの黒い制服たちを眺めつつ、ため息混じりにそう呟いた直後だった。
「乃梨子っ!」
「きゃあっ!」
 いきなり背後から腰に手を回されて、何者かがそのまま腰に抱きついてきたのだ。
 驚いて飛び上がった私は、その何者かが預けてきた体重で押し倒されそうになったが、何とか踏みとどまった。
「な、なに!?」
「おはようー」
 情けない格好で木にもたれる私の腰に、しがみついていたのは、
「も……」
「えへへ」
「もくずっ!」
 もくずだった。足を引きずる音が聞こえなかったので気づかなかった。

「うーっ」
 どうやら私に忍び足で近づいてきて、もくずは直前でコケたみたいだった。なにやら痛そうな顔をしている。
 一応、聞いてみた。
「どうしたの? 痛いの?」
「痛いよ」
 痛いのは、コケたからなのか、無理して足を引きずらないようにして歩いてきたからなのか?
「ほら、立てる?」
 私はそう言って、腰につかまったまま膝を付いてしまったもくずの腕を掴んで立たせようとしたが、
「痛くて立てない」
 そう言ってもくずは座り込んでしまった。
「ええ!? ちょっと、全然立てないの?」
 もくずは『うんっ』と頷いた。
 私はもくずの足のことは良く知らない。知らないからこそ不安になった。コケた拍子でなにか不味い事になったのではないだろうか、と。
「我慢できないほど痛いの?」
 そう訊くともくずは首を横に振ったので少し安心した。
(どうしよう。早くお医者さんに……)
 そう思いつつ、私は辺りを見回した。
 通学中の生徒に注目されていた。
 とはいっても、もうすぐ始業時間なので立ち止まって見ている者はなく、興味深げにこちらを伺いつつ友達となにやら話している生徒や、単純に視線を向けて私の顔を認めて(白薔薇のつぼみと気づいて)頭を下げる生徒が通り過ぎていくばかりだった。
(しょうがないな……)
「人、呼んで来るからここで待ってなさい」
 見知らぬ生徒に遅刻の危険を冒すようなお願はできない。いや、声をかければ子羊達の善意を集めることも可能だろうけど、もくずを任せるのはまたトラブルになりそうで不安だったから、私は保険医の先生を呼んでくる事を選択したのだ。
 非常事態だからと、私が走り出そうとすると、制服がぴんと引っ張られた。
 振り返るともくずが私の制服の裾を掴んでいた。
「なあに? すぐ戻るから心配しなくて良いわよ?」
「乃梨子、連れてって」
「え?」
 もくずは、置いていかれるのを寂しがる子犬のような表情(かお)をして私を見つめていた。
 こんな表情のもくずは初めてだった。
(連れてってって言っても……)
 おんぶは出来ない。
 となると、この前みたいに抱えていくしなかないのだけど……。
 もくずはじっと私の目を見つめていた。

 ――もくずが私を頼っている。

 私は選択を迫られた。
 平坦とはいえ、一年の教室から保健室よりはるかに長い距離、もくずを抱えて歩いて行くか、もくずをここに放置して、まだ居ないかも知れない保険医の先生を呼びに行くか。
「よし、しっかりつかまりなさい!」
 選ぶまでも無かった。
「う、うん」
 もくずが私に望んでいるのだ。後から考えたら私はどうかしてたとしか思えないことなのだけど、このときはどういう訳かその選択肢しか思いつかなかった。
 私はもくずに足を伸ばさせて、背中と膝の下に手を回して抱えて、もくずには私の首の後ろに手を回させた。
 そして、力をいれて持ち上げようとした時、
「白薔薇のつぼみ?」
 皆が歩いている道の方から声が掛かった。
 見上げると沙耶子ちゃんが不思議そうな顔をしてすぐ近くに立っていた。
「あら、ごきげんよう。いま取り込み中だから話はまたね?」
「いえ、鞄をお持ちします。藻屑さんのも」
「あっ……」
 どうやら、どういう状況なのか察してくれたようで、そう申し出てくれた。
「もくず、鞄、沙耶子ちゃんに預けな」
 ちょっと驚いたように沙耶子ちゃんの方を見たもくずだが、すぐに私の首に回していた手を解き、たすきがけにかけていた中学生が使うような肩掛け鞄を外して、沙耶子ちゃんに手渡した。
「ありがとう。お願いするわ」
 沙耶子ちゃんがもくずの鞄を肩にかけ、木の根元に置いてあった私の学生鞄を拾い上げたのを見てから、私は再びもくずを抱えた。
 もくずはまた私の首に手を回し、私は力をいれてもくずを持ち上げた。持ち上げられる事は前に経験してわかっていたので躊躇はしない。
 背後の通学中の生徒達からなにやら驚きと羨望とも取れる声が聞こえたが、とりあえず無視した。
 本来、私はこういう目立ち方をするのは好きではない。普段だったらこんなことになる行動は避けるはずだ。なのに、あまり悩まずこんな事をしてしまう私は相当舞い上がっていたに違いなかった。そう、私は“もくずに頼られた”ということに舞い上がっていたのだ。
 軽いとはいえ、人一人抱えて歩くのはなかなか大変だった。ましては私は特に体を鍛えているというわけではない。
 道程の半分くらい歩いたところで足に来た。抱えている手も相当に疲労を感じる。
「あの、少し休まれた方がよろしいのでは?」
 沙耶子ちゃんが心配そうにそう声をかけてくれた。
「まだ、大丈夫よ」
 まだいける。ちょっとよろけるけど気合を入れればまだ。
 もくずは私にぴったりしがみついていた。
 校舎が見えてきたところで、沙耶子ちゃんが訊いてきた。
「あの、何処までこうして行くのですか?」
「保健室よ。足診てもらうつもり」
「えっ!?」
 知らなかったのか。てっきり会話を聞いていたと思ったのだけど。
 私は歩きながら言った。
「痛くて歩けないって」
「あ、あの、私、先生呼んできましょうか?」
「ああ、そうしてくれると助かるわ」
 というか何で思いつかなかったんだろう。
 私としたことが。
 このとき、初めて私は自分が“舞い上がっている”らしいことを自覚した。
 沙耶子ちゃんは私ともくずの鞄とともに、ようやく見えてきた校舎に向かって走って行った。
 そのとき、もくずが私にしがみつく手にぎゅっと力が入った。
「はぁ、はぁ、……」
 私は校舎の手前で力尽きた。
 保健室まで、抱えたままで行きたかったのだけど、どうにもならない。腕が痛くなって、もくずを抱えつづける事が出来なくなってしまったのだ。
 私は道の途中で座り込んでもくずを地面に降ろした。
 程なくして保険医の先生が沙耶子ちゃんと一緒にこちらに向かってくるのが見えた。
 もくずは、私とバトンタッチして先生に抱き上げられる直前、私に言った。
「乃梨子、ごめんね」
「え?」
 ちゃんと返事をする前に、先生に「あなたたちは早く教室に行きなさい」と言われてしまい、もくずとの会話はそれが最後だった。


 私は朝っぱらから人ひとり抱えて数百メートルを歩くという、私にとっては結構な重労働をしてしまったわけだが、もくずを抱えて歩いている時、その疲労は不快ではなく、むしろ心地よくもあった。なぜならそれが、もくずの為に何か出来たという実感につながっていたから。
 でも最後に聞いたもくずの『ごめんね』という言葉には、どういう訳か違和感を感じた。


  ◇


 休み時間になって、私はもくずの所在を確かめる為に教室を出て保健室へ向かった。いや、もともと悪かった足がどうかなったのなら保健室じゃなくてちゃんと主治医のところへ行くだろうから、保健室にもくずがいる可能性は限りなく低い。というか、別にもくずに会いに行くのではなく、保険医の先生にあれからどうなったか聞きに行くのだ。
 あれからといえば、今朝の私の行動は武勇伝として早速、噂になっていた。
 我ながらバカな真似をしてしまったと半分後悔しているのだけど、まあ、いまさらだ。
 いままで耳にしていなかったのだけど、今日の噂で私ともくずに関する噂はかなり飛んでいる事がわかった。
 なんでも、もくずは中学の頃からどうしようも無い不良で、そんな彼女を私が身体を張って更生させたんだそうだ。今朝の騒ぎは不良仲間に単身で決別を言い渡しに行ったもくずが、傷つきながらも私に報告する為に学校に来て、そこで倒れたもくずを私が抱き上げて保健室に走ったことになっていた。
 なんだか、妙に凝った設定の美談になっていて笑ってしまった。
 まあ、関係者なら嘘だって判るような害の無い噂なので、わざわざ否定したりとか対策をするまでもないと判断した。

「あの子なら帰ったわよ」
 保険医の先生には職員室前の廊下で会った。
「あの、帰ったというのは家にですか?」
「本人はもう大丈夫だって言ってたのだけど、何かあるといけないからずっとついてたのよ。詳しくは知らないんだけど、あの後すぐ、学園長の所へ行って、それからタクシー呼んで帰ったわ」
 学園長の所というのは反省文の提出であろう。
 そのあと速攻で帰っちゃったんだ。
 どうなっているのだろう。まだ謹慎が続くのだろうか?
 すぐに確かめたいと思ったけれど、校内で携帯を使うわけには行かないから、早くても昼休みをを待たなければならない。事務室前の公衆電話まで行って電話して、となると、とても通常の休み時間では足りないからだ。
 学園長に聞くという最強の手段もあったが、私にそこまでの勇気は無かった。もっとも、それも「この時点では」と断らなければならないのだけど、その理由となるちょっとした出来事は私が電話をかけようと思っていた昼休みに起きた。


 四時間目の授業が終わり、私は弁当などは持たずに教室を出た。
 とりあえず、電話をしてきて戻ってきてお弁当は教室で食べようと思っていたのだ。
 だが、教室を出たところでいきなり捕まった。
 私を捕まえたのは黄薔薇さまである由乃さまだった。
「お弁当も持たないで何処へ行く気?」
 私の腕を捕らえる由乃さまは何処となく険悪だった。
「離して下さい」
「ダメよ。私の用事の方が大事なんだから」
「どうしてそんなことが判るんですか。すぐに済みますから後にしてください」
 由乃さまの手を振り解こうとしたが、絶対逃がさないって感じで逆に腕を組まれてしまった。
「すぐってどのくらいよ?」
「電話をしてくるだけです。五分、いえ、十分もあれば戻りますから」
「じゃあ、一緒に行くわ。お弁当持ってきなさい」
「何でそうなるんですか」
「そうしないと乃利子ちゃんが逃げるからよ」
「逃げませんよ。薔薇の館ですか?」
 弁当を持ってこいというのだから多分そうだ。
 由乃さまはこう言った。
「電話って何処によ? それって、志摩子さんより優先することなわけ?」
 やっぱり、志摩子さんか。
 実は教室の前で由乃さまの顔を見たときからそう感じていた。
 でも由乃さまが動くってどういうこと?
 言いたいことがあれば志摩子さんは直接私に言うはず。教室にだって自分で足を運ぶはずだ。
 そんなことを考えていたら、由乃さまが言った。
「って、あの子ね?」
 まあ、由乃さまなら判るか。
「……そうです」
 いまさら隠す事でもないのでそう答えた。
「それなら話が早いわ。今日のことも志摩子さんが知ってるから」
「え? どういうことですか?」
「聞けば判るわ。早くして」
 納得がいかない。
 でも、由乃さまが苛立ってきてるようなので、私はとりあえずお弁当を取りに一旦教室に入った。
 早く、もくずに話を聞きたいと思っているのだけど、志摩子さんが今日の件に関して何か知っているというのも気になった。
 由乃さまの話は、私を志摩子さんに会わせるための嘘の可能性だってある。でもここで逆らって時間の浪費をするより、直接、志摩子さんの話を聞いてみるのが得策だと思い、私は大人しく由乃さまに引っ張られて薔薇の館へ行った。


「今朝、あの子に関して学園長からお話を聞きました」
 今朝というのは午前中、志摩子さんは授業中に呼び出されたそうだ。由乃さまの言う事は本当だった。
「あの、その前に聞いていいですか?」
「いいわよ、なあに?」
「どうして学園長は志摩子さんに話をするんですか?」
 ちょっと考えれば判る事だった。学園長がもくずの話を志摩子さんに話す理由が判らない。
 志摩子さんはちょっと考えるように間を置いた。
 そして、
「そうね、ちゃんとお話しなくてはいけないわね」
 そう言って話をはじめた。
「学園長、シスター上村は、愛子(ちかこ)さんが乃梨子と親しくしているって早いうちからご存知だったの。前にも話した通り、愛子さんは素行に問題があってここで上手くやっていけるか懸念されていたわ。でも学園長は学園に残って欲しいと思っていた。入試の面接で学園長は彼女と話をしているのだけど、先入観抜きに見れば決して悪い子ではないとおっしゃっていたわ。でも学園長という立場上、そういった問題を無視できない。独断で彼女を留まらせる決定は学園長には出来なかったのよ」
 ここまでは前にも聞いた話だった。だから上手くやっていけるか様子を見るということだった。
「だから私に話が来たの。愛子さんが乃梨子と親しいのは本当かって聞かれたわ。私はもう姉妹みたいに見えるって答えたの。そうしたら、乃梨子と良い関係が結べれば彼女を変えられるかもしれないって。だから二人を応援してやってくれって言われたわ」
「え? でも志摩子さん『反対』って……」
 私はもくずと付き合うことを反対されたから薔薇の館に近寄りにくくなったのだ。
「私は不安だったの。乃梨子はあの子の問題を軽く考えてるんじゃないかって。私は乃梨子が愛子さんと付き合うのを妨げるつもりじゃ無かったのよ。ただ、ちゃんと彼女と向き合う覚悟があるのか知りたかったからそれを聞こうとしたの。でも乃梨子は話の途中で行ってしまったから。あんな言い方をした私も悪かったのだけど」
 そうだったんだ。でももくずの問題ってそんなに大げさに考えるようなことなの?
「乃梨子には話さないようにってシスター上村は仰っていたのだけど、もう良いわよね……」


 その後の志摩子さんの話を聞いて、私は薔薇の館を飛び出した。


『今日の話はね、今までありがとうってお話だったの。愛子さんは今週いっぱいで学園を辞めるそうよ』

 向かう先は学園長の部屋。
(どうして?)
 志摩子さんの話が頭の中でリフレインされる。

『あの子はね、小さいころからずっと、父親の虐待を受けていたのよ』

 虐待? そんなの信じられない。
 だってもくずは『お父さんのこと好き』って言っていたのに。

『父親も問題のある人だったらしいわ。激しやすくて女子供相手でもすぐに暴力を振るうような。そんな父親と物心つくまえから一緒に暮らしていたのよ。乃梨子、“ストックホルム症候群”って知ってる?』

 被害者が犯人に必要以上の同情や好意などをもってしまうことをそう言うらしい。
 でも、虐待が本当だとしたら、もくずのはこれとは違う。
 暴力を振るわれ、場合によっては生命の危険にまで晒されながら、それでも相手が好きだといったのだ。

『離れたきっかけは、あの子、父親に殺されかけたそうよ。お友達が飛び込んでこなければ本当に殺されていたって』

 これは警察の調べた情報だって言っていた。

『それでもあの子は父親のことを庇ったのよ。判る? あの子の中には“好き”と“暴力”が同居してしまっているの。“好かれること”と“憎まれること”の区別がつかないのよ。あの子自身は自覚していないかもしれないけれど、相手を傷つけることに対して歯止めがないの』

 知ったようなことを言う志摩子さんが憎らしかった。
 私に『憎らしい』と思わせてしまう志摩子さんが。

『乃梨子があの子と仲良くしてくれたことを学園長は感謝してたわ。彼女に大変良い影響を与えてくれたって』

 ちがう!
 私が聞きたいのはそんな話じゃない!

『彼女はリリアンを止めて、専門のカウンセラーが居るところへ移るそうよ』

 どうしてそんなことをするんだよ!
 もくずはちゃんと私と付き合えていたじゃないか!
 父親に殺されかけた? 虐待?
 そんなの関係ない!
 今のもくずを見ればそんな過去は全然問題にならないことくらい判るはずなのに!


「学園長!」

 飛び込むように学園長執務室の扉を開けてそう叫んだ。
 部屋の中に居たのは学園長、シスター上村だけだった。
「……元気が良いわね。でも礼儀を三つほど飛ばしているわよ」
 学園長は驚かず、落ち着いた調子でそう言った。
「あっ、し、失礼しました」
「まあいいわ。扉を閉めなさい」
「え? あ、はい……」
 頭に血が上っていた私は学園長の何事にも動じない物腰にすっかり勢いを削がれてしまった。
 でも、おかげで冷静な思考が帰ってきた。
 私はまず扉を閉めて、それから部屋の正面の学園長が座っている机の前に相対して立った。
「二条乃梨子さんでいいのかしら?」
「は、はい」
 面識は無かったはず。でも白薔薇のつぼみの顔と名前くらい知る機会はいくらでもあっただろうから、別に驚かなかった。
「それで、用件はなにかしら?」
「その、もくず、あいえ、海老名愛子さんの処分に関して申し上げたいことが」
 学園長は、乃梨子が部屋に入ってきたときに手にしていたペンを机に置き、机の上で両手を軽く組んでまっすぐ乃梨子の方を見た。
「いいわよ、話して御覧なさい」
 私はごくりと唾を飲み込んでから話し始めた。
「海老名愛子さんは、今週いっぱいでリリアンを止めて他のところへ移されると聞きました。でもその処分は適切でないと思います。なぜなら、私が愛子さんと……」
「二条さん」
 学園長は私の言葉を途中で遮って言った。
「あなたは何か誤解なさっているようですけど」
「え?」
 誤解って?
「海老名さんはご自分の意思で学校を移られるのですよ。私は彼女の希望に添うように姉妹校を紹介しただけ。今回彼女が学校を移るのは処分ではないの。そこを間違わないで」
 もくずが、自分で?
 まさか。
「彼女は頭の良い子です。自分の問題点をちゃんと認識していました。だから私は彼女に道をいくつかの道を示しました。ここに残って自分でその問題を解決していくか、専門家の元に行って治療をうけるかと。彼女は彼女自身で考えて選択したんですよ」

 でも、もくずは。
 ――「えへへ」と笑うもくず。
 もくずは、
 ――手を繋いだとき握り返してきた感触。
 もくずは!
 ――抱き上げた時、しがみついて来たもくずの匂い。
 もくずはっ!!

「……うそ」

「二条さん?」
「嘘だ! もくずが危険に見えるからって、厄介払いしたんだ! 選択なんて言ったって、言い方で幾らでも縛れるわ! そんな自由意志なんかじゃない!」
 落ち着いていたかに見えた私の頭に一気に血がのぼっていた。
 私は学園長に詰め寄るように執務机に両手をついて声を荒げた。
「大人はいつもそうやって、大人の都合のいい方ばっかり! もくずは病気じゃない! “治療”なんかいらない! 私が知ってるわ。もくずはもう大丈夫よ!」
「乃梨子!」
 後ろから志摩子さんの叫ぶ声が聞こえた。でも私はかまわず続けた。
「先生も話は聞いていたんでしょ! もくずは私と普通に付き合えていた、何も問題なかった! もくずは普通の子よ!」
 もくずを“精神病”扱いする学園長が許せなかった。
 もくずと居た私の時間を否定されているようで許せなかったんだ。
「乃梨子、もう止めて!」
 志摩子さんは執務机から私を引き剥がすように後ろからしがみついてきた。
「治療しなきゃならないことなんて何もないじゃない!」
 私は、志摩子さんに引き戻されながら、その力に抵抗して叫んだ。
「お願い、シスター上村の言うとおりなのよ! 愛子さんは自分から」
「志摩子さんまでそんなことを言うの!?」
「お願い判って! 一番愛子さんに残って欲しいって祈っていたのはシスター上村なのよ!」
 志摩子さんが涙を浮かべているのを見て、私は抵抗するのを止めた。
「志摩子さん……」
 学園長は私が落ち着いたのを見て静かに言った。
「二条さんは少し頭を冷やす必要があるようですね」
「シスター上村?」
 志摩子さんが不安そうに呟いた。
 学園長は厳しい表情をしていた。
「もう、授業はいいから今日は帰りなさい。担任の先生には私から言っておきますから」
「……」
 不満は残った。
 でも、これ以上学園長になにか言う気にはなれなかった。


 私は一日半の停学処分となった。






一つ戻る   一つ進む