キーのリロードを繰り返すうちに、「野上純子の溜息」という言葉が出てきたので
「これは書かねば!」と思って執筆。
キー登録してくださった方、まことにありがとうございます。
朝晩は涼しくなったが、それでも日中はまだ暑さが残る。
日差しは今だに夏のものだし、空気も昼中だと湿気が多い。
「ふぅ…」
大量に買い込んだレアチーズケーキの材料の袋を前に、白薔薇のつぼみこと野上純子は大きなため息をついた。
胸のうちに広がる、なんともいえぬ満足感。
我ながらよくこれを1人で運んだものだ。
「クリームチーズ20箱、ドライクランベリー2kg、飾り用のピスタチオが100g×12袋、オレオとマリービスケットダンボールに各1箱…
さっすが瀬戸山グループ系列。スケール大きすぎだわ。こんなに買っても1万円しないなんて」
幼馴染で遠縁の紅薔薇のつぼみ、瀬戸山智子の家が経営する業務用スーパー。
いい品物が安く大量に手に入ることで、一般の客にも大人気。
さすがに買い込みすぎかとも思ったが、これから何十個とレアチーズケーキの試作をするのだから、このぐらいはあったほうがいい。
むしろ10トントラックで乗り付けて、店ごと買い占めたかったくらいだ。
しかし智子の家とは違って、純子の家はごく普通の庶民。
それほどの財力はさすがになかった。
それではなぜ、こんなに大量の買い物をしたのか。
その答えは、自身が所属するお菓子同好会の会長と昨日交わした会話の中にある。
「ごきげんよう純子さん、同好会ではお久しぶりね」
「ごきげんよう会長、すみません、ご無沙汰してしまって」
「いいのよ別に。押しも押されもせぬ白薔薇のつぼみなんだし」
「恐れ入ります」
「ところで純子さん、これに出てみる気はある?」
「『高校生お菓子コンテスト』ですか?」
「そう。かつて支倉令さまも出られた由緒あるコンテストよ」
「確かあのとき令さまは優勝なさったのですよね」
「令さまのシュークリームは、パティシエをめざす高校生の間では伝説になっているとか。次の伝説を作るのはあなたよ」
「やだなあ、そんな大げさな。私はただ趣味で作っているだけです」
「趣味だなんて。あなたほどの腕前になればもう趣味の領域なんてはるかに超えているわ。あなたが出れば優勝間違いなしよ。出なさい」
「うわ、いきなり命令形ですか」
「いい結果を待っているわ」
「ちょっと、会長…!」
こうなったら、もうあとには引けない。
何度も練習してみて、一番ベストなレシピを自分のレシピとして残すのが純子流。
今回レアチーズケーキの材料をこれほどたくさん買ったのも、自分の体にレシピどおりの動きを覚えさせるのと、
試作を繰り返してベストを見つけ出すための2つの目的があったからだ。
「さて、始めますか」
この後起こる災難をまったく知らず、純子はケーキ作りにとりかかった。
1作目。
「うん、OK。おいしいわ」
2作目。
「う〜ん、これはいまいちかな…甘さが物足りない」
3作目。
「ありゃ。今度は砂糖入れすぎた」
「そう?別に私はこれでいいと思うけど」
4作目。
「…全体的に味薄い」
「言われてみれば確かにね」
5作目。
「おおっ、今までの中では」
「「これが一番ベスト!」」
「そうよね、やっぱりあなたもそう思う…って、ええっ!?」
なんといつからいたのか、純子のお姉さまと幼馴染と後輩がなぜか3人そろって
作る端からつまみ食いしているではないか。
「お姉さま!何してるんですか!智ちんも理沙も!」
「何って、試食だよねえ?」
のんきな調子で真里菜が言う。
「そうそう、純ちゃんが今度お菓子コンテストに出るっていうからさ、できる限りの
協力をしてあげようと思って」
それは協力というのか、智子。
「純子さまがスーパーを出られたあたりから、あとをつけていたんです」
「…あんたらはストーカーか」
純子はがっくりと肩を落とした。
これだけの人間がいながら、5作目になるまで気づいていなかったとは。
我ながら鈍感さにあきれてしまう。
お菓子を作っているときは、他人や周囲の状況などまるで見えなくなってしまうのが
純子の弱点。
それは彼女自身よく分かっているだけに、落ち込みぶりはハンパではなかった。
疲れ切った口調で純子は言った。
「お姉さま、この2人を連れてお引取り願えませんか…?」
「あらどうして?」
相変わらず真里菜はのんびりとした口調だ。
「もう充分試食なさったでしょう。私はあと20個は作るつもりなんですから、
あんまり食べるとおなかをこわしますよ」
しかし真里菜はまったく動じていない。
「だから何?あなたはこのお菓子コンテストで優勝を目指しているんでしょう?
そのためにこんなにたくさんケーキを試作している」
「確かにお姉さまのおっしゃるとおりですけど…」
力強い、まっすぐな瞳が、純子の心の奥まで射竦める。
「それほどの意気込みで作るケーキで、どうしておなかをこわすのよ。
たとえ何かがあったとしても、私たちはそれで本望よ。
大切なあなたの作るケーキなんだから」
大きいが、繊細で色白な手が、そっともう1人の両手を包む。
「お姉さま…」
やがて真里菜は手を離すと、6作目の純子のケーキに手を伸ばした。
「Buonissimo!」
とってもおいしいわ。
真里菜は母の故郷の言葉でその白いケーキをほめた。
夕暮れ迫る調理実習室。
あまりにもお姉さまの帰りが遅いため、涼子は心配になって迎えに来た。
「お姉さま、もういい加減で帰りましょ…うわっ、なんだこれ!」
涼子が驚くのも無理はない。
なぜならそこには、チーズケーキの食べすぎでおなかを押さえてうずくまる白薔薇さまと、
紅薔薇のつぼみと、黄薔薇のつぼみの妹がいたのだから。
「おい理沙、どういうことなんだ!」
「う〜…涼子さん、あんまり動かさないで…うぷっ」
理沙が口を押さえて流し台に駆け込んだ。
「うおえぇぇぇ!!!」
そんな後輩に内心ため息をつきながら、純子はことの次第を話した。
みるみるうちに涼子の額に青筋が浮かび上がってくる…。
「きさまら…人のお姉さまを何だと思ってやがる…」
涼子は右手の中に持っていたパイナップルのようなものを、いきなり真里菜めがけて投げつけた。
お姉さまに絶対の忠誠を尽くす涼子は、もしものときのために常に武器を持ち歩いている。
もちろんこれはお姉さま自身にも内緒である。
その封印を、涼子はついに解除してしまった。
「ちょっと涼子ちゃん、そんな爆弾なんて物騒な…!」
「話せばわかるわ、冷静になって!」
必死に止める真里菜と智子だが。
「問答無用!」
ドッカーン!!
がれきと化した調理実習室に、真っ黒こげの山百合会メンバーズ。
純子はただ一言、こうつぶやいた。
「…だめだこりゃ…次いってみよう…」