【183】 恋に落ちたらリクエスト  (柊雅史 2005-07-08 22:38:00)


最近、二条乃梨子には不満がある。
「……ですから、私は言って差し上げたのですわ。お兄さまの考え方は間違っていると。そうしましたら、お兄さまは――」
お弁当を広げながら、意気揚々と語るのは松平瞳子。頭の両脇に下がった縦ロールを縦横無尽に揺らしながら、身振り手振りを交えてお喋りに没頭中。
一時期の落ち込んでいた様子が嘘のように、瞳子の騒々しさはかつてのレベルにまで回復していた。その騒々しさたるや、以前なら「鬱陶しいなぁ」などと思っていたに違いないほどに絶好調だ。
けれど困ったことに、最近の乃梨子はそんな瞳子に付き合わされても、嬉しい気持ちになりこそすれ、一向に鬱陶しいなんて思いが沸いて来なくなっていた。
(いかんなぁ……私。そこまで好きか、瞳子が)
ある時気付いてしまった、瞳子を大事に思う気持ち。友達として、大好きだったのだと気付いて涙を流したあの日から、乃梨子は完璧に自分の気持ちを自覚してしまった。
瞳子のことが好き。
このうるさくて騒々しくて大袈裟で馴れ馴れしくて素直じゃなくて不器用な瞳子が。
だからお弁当を食べながら、延々とマシンガントークを展開されても、鬱陶しいなんて気持ちは沸いてこない。
その代わりに沸いてくるのは、一つの不満。
どうにも乃梨子自身、その内容に心底情けなくなってくるような、些細な不満だ。
「ちょっと、乃梨子さん?」
「ん、なに?」
「なに、ではありませんわ! 瞳子のお話、ちゃんと聞いて下さいました?」
「もちろん」
「嘘ですわ! 瞳子には乃梨子さんの嘘なんてすぐに分かります。先ほどから瞳子のお話なんて上の空で聞き流していらっしゃいましたわ!」
ぷんすかと怒る瞳子に、乃梨子は「ごめんごめん」と苦笑する。
自分の裡に沸き起こる感情に囚われていたことを、こうもあっさり看過されてしまうとは。これはよほどの重症に違いない。
「全くもう……。何か悩みでもございますの? 私で良かったら、聞いて差し上げますわ」
「瞳子が?」
「ええ、私が。だって瞳子は、乃梨子さんの一番の親友を自負しておりますもの! もちろん、瞳子の一番の親友も乃梨子さんで決まりですわ」
にこにこと笑う瞳子に、乃梨子は「うーん」と視線を宙に向けた。
瞳子のセリフは正直、嬉しい。
けれど、やはり同時に湧き上がってくる一つの不満が存在していて、100%素直に喜ぶことが出来ないでいる。
これはちょっと、精神衛生上良くないだろう。
(――情けないけど、仕方ない)
乃梨子は溜息を一つ吐いてから、視線を瞳子に向けた。
「悩み、っていうわけじゃないんだけど、さ」
「はい」
「えっと……ほら、私って瞳子のこと、瞳子って呼んでるじゃない?」
「? ええ、そうですわね」
「でも、瞳子は私のこと、乃梨子さんって」
「ええ、呼んでいますけど……?」
「……それが、ちょっと」
「……は?」
もごもごと語尾を誤魔化す乃梨子に、瞳子は心底乃梨子の言わんとすることが分からない様子で目を瞬いた。
瞳子の演技力はかなりのものだけど、乃梨子だって親友なのだから、その辺の機微は分かるのだ。
「だから。いつまでも『乃梨子さん』って言うのがね、不満、って言うのか……」
中学時代の友達は、みんな乃梨子のことを「乃梨子」と呼び捨てにしていたし、乃梨子も仲の良い友達は普通に呼び捨てにしていた。
こういうことは自然とそうなるもの、だとは思うのだけど。考えてみればもう半年以上この状態、一方通行の片思い状態である。
だから思い切って言ってみた乃梨子だったのだが――瞳子はやはり、首を傾げていた。
「ですけど、どんなに親しくとも、先輩方はさま付け、同級生はさん付けで呼ぶのが、普通じゃありません?」
「いや、リリアンだけだって」
「そうなのですか……」
瞳子がちょっと眉を寄せた。
「――つまり、乃梨子さんは私に、さん付けでなく呼んで欲しい、と?」
「まぁ、そうなんだけど……」
「そうなのですか、分かりましたわ」
瞳子は最後まで首を傾げっぱなしだったけど、とりあえずは頷いてくれた。
なんと言うか……根っからリリアンの瞳子と、ずっと普通の学校で育った乃梨子の、意識の違い、なのだろうか。瞳子の中では、どんなに仲が良くても「乃梨子」と呼ぶ選択肢はなかったらしい。
「まぁ、別に無理にそうしてくれなくても」
「いいえ。それが乃梨子さんのお望みでしたら、もちろん瞳子は頑張らせて頂きますわ!」
ぐっと拳を握った瞳子は、ぴっと居住まいを正すと乃梨子のことをジッと見詰め――そして。
「――の、乃梨子……」
これまでに聞いたことのないような小さな声で、乃梨子の名前だけを口にした。



「う、うはははは……ごめん、やっぱやめよう! 瞳子!」
「え、ええ、そうですわ。そうですわね、乃梨子さん!」
しばらくの沈黙の後、乃梨子と瞳子は同時に「ボン!」と顔を真っ赤に染めるや、ぶんぶんと手を左右に振りながら言い合った。
「だって、乃梨子さんは乃梨子さんですもの! それに瞳子はめいっぱいの親愛をこめて乃梨子さん、とお呼びしておりますわ、ええ!」
「そうよね、うん。あはは、やっぱ無理はよくないよね、うん!」
あはははは、と笑いつつ、乃梨子は全身を赤く染め、ダラダラと汗を流していた。
(まさか、瞳子に「乃梨子」と呼ばれるのが、これほどこっ恥ずかしいとはっ!)
志摩子さんにそう呼ばれるのとはどこかが違う。
もちろん、中学時代の友人たちに呼ばれていたのとも全く違う。
多分この感情は、相手が瞳子だからこそ沸いてくる特別なものなのだ。


いつか自然と、二人が名前だけで呼び合う未来がくるのかどうか――
前途多難な親友関係は、まだまだ始まったばかりである。


一つ戻る   一つ進む