試験休み明けの日、祐巳さまが一年椿組を訪れたのは昼休み時間も残り後10分位という頃だった。
「乃梨子ちゃん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、祐巳さま。どうかなさったんですか」
出入り口に近い自分の席で文庫本を読んでいた乃梨子が応対に出た。
「瞳子ちゃんに用があってきたんだけど、呼んでもらえるかな」
祐巳さまの発言にクラス中の生徒全員が微かにピクッと反応したが、祐巳さまご本人は気にかけていないのか、あるいは気づいていないのか。
「はい。少しお待ちを」
乃梨子は一礼してから教室の奥の方の瞳子の席へ向かう。
「瞳子、祐巳さまがお呼びだよ」
「まあ、そうですの? 何のご用でしょう」
窓から外を見ていた瞳子は、絶対聞こえていたくせに今初めて気がついた風を装い、ゆっくり立ち上がると祐巳さまの待つ出入り口へ歩いていった。
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
「ごきげんよう、祐巳さま。瞳子に何かご用ですとか」
一礼し、いつものようにぶっきらぼうに尋ねる瞳子に対して祐巳さまは言った。
「うん。じつはちょっと大事なお話があってね。放課後に時間もらえないかな」
「だ、大事なお話?」
「あ、演劇部、今日は練習ある日だったっけ?」
「いえ、その、ありません、ありませんとも。あったとしてもそんなもの祐巳さまのご用に比べれば、大事の前の小事に過ぎませんわ!」
瞳子、あんた声が上づってるよ。いつもの腹式呼吸はどうした。
二人の様子を遠巻きに見ていた乃梨子は心の中でツッコんだ。
「ほんとに?よかった。それでね、その時に渡したいものがあるの」
その瞬間、教室の温度が一気に急上昇した。
「わわ、わたわた渡したいもの?」
「うん、だから楽しみにしててね。それじゃあ放課後、第二体育館に行く途中にある古い温室でね」
そう言い残して手を振り笑顔で去っていく祐巳さまを、ただ呆然と立ちつくして見送る瞳子。
パチパチ、パチパチパチ、パチパチパチパチパチ。
教室のあちらこちらから起こった小さな拍手はやがて教室中を包み込み、ついにはスタンディングオベーションとなった。見れば可南子さんまで笑顔で拍手をしている。
「おめでとう。瞳子さん」
「瞳子さん、遂にやりましたわね」
敦子さん、美幸さんが駆け寄り瞳子の背中に口々に話しかけるが、瞳子は未だに祐巳さまの去っていった方を見つめたままだ。
そこへ乃梨子も歩み寄り瞳子の右肩にポンと手を置き、よかったね、瞳子、と言うと瞳子は、
「な、何のことですの?」
と言ってやっと振り返ったが、その時の未だかつて見たこともないようなふやけた顔に、期せずしてクラス全員が一斉に一歩退いたのだった。
遂にキターーーーーーーーーーーー!!ですわ!
思えば今年の夏休み、避暑地での西園寺の曾お祖母さまのお誕生バーティでフォーリンラブして以来、ずっとラブラブ光線を送ってましたのに、鈍すぎる祐巳さまはちっとも気づいてくださらなくて、この間なんか茶話会で妹を選ぶとか言い出す始末。さすがにその時はもうだめかと諦めかけましたけど、待てば海路の日和ありとは、昔の人はいいことを言ったものですわね。
何で今になって突然、しかも祥子お姉さまと遊園地デートをした直後にこんなことになったのか正直よく分かりませんが、考えてみればそもそも祐巳さまは元々よく分からない方ですし、変に憶測するだけ無駄骨というものですわね。
何にせよ、祐巳さまのお気持ちが変わる前に頂けるものは頂いてしまいましょう。そうすればこっちのものですもの。もう勝ったも同然ですわ。
午後の授業から掃除の時間の間中、そんなことがずっと頭の中で無限ループしていた瞳子だが、遂に待ちに待った放課後がやってきた。約束の場所へ向かう足取りが今にも駆け出しそうになるのを、必死にこらえていた。
瞳子が古い温室につくと、既に祐巳さまは来ていた。
「来てくれてありがとう。瞳子ちゃん」
「いいえ。祐巳さまのお呼び出しとあらばどこへでも参りますわ」
いつもと変わらない笑顔の祐巳さまに対して、糖子はこれ以上ないほど緊張していた。思えば初舞台だってこれほどではなかったはずだ。
「瞳子ちゃん、知ってる?これがロサ・キネンシスだよ。去年祥子さまに教えていただいたの」
傍らに咲く薔薇を慈しむように見つめて、祐巳さまは言う。
「ええ、存じていますわ。」
祐巳さまがそれをお好きだということも。心の中で瞳子はそうつぶやいていた。
「それで話っていうのはね。」
ああ、この日まで長かった。どんなにこの日を待ったことか。
「この間祥子さまと遊園地デートしたんだけどね」
ええ、存じておりますわ。でも今は瞳子だけをご覧になって。
「途中で祥子さま、具合が悪くなられて。柏木さんは昔からこうだって言ってたけど、そうなの?瞳子ちゃんも知ってた?」
あれ?なんだか……。
「ねえ、瞳子ちゃんったら」
「え?あ、はい。存じてましたわ」
「なんか病気とかじゃないよね?」
……何だかお話が逸れていってませんか。
「いえ、そうは伺っていませんが」
「そう。あとそれとね、柏木さんにもっと上のステージを目指せって言われたんだけど、どういうことか瞳子ちゃん分かる?」
ゆ、祐巳さま?あの、もしかして大事なお話って……。
「さ、さあ。何のことだか瞳子には……」
「うん、そうだよね。ごめんね、わざわざ呼び出して変なこと聞いて」
まさか、これで終わりってことは……。最初の思わせぶりなロサ・キネンシスのお話は何だったのですの。
「あの、そういえば何か頂けるというお話だったと思うのですが」
どうにかこうにか声を絞り出して最後の望みに賭けると、祐巳さまは無邪気な笑顔で応えてくれた。
「そうそう、忘れるところだった。これ、遊園地のお土産。ほんとは柏木さんと一緒に来るはずだったんでしょ。だから。はい」
そう言って手渡されたのは、遊園地のキャラクターのイラストが描かれたカンボックス入りのチョコクランチの詰め合わせ。
「瞳子ちゃん、前に好きだって言ってたよね」
「……ぁ、ありがとうございます」
「今日はありがとう。私これから薔薇の館に行くんだけど、よかったら瞳子ちゃんも一緒に行かない?今日は祥子さまも来てるよ」
「ぃぇ、私は用事がありますので……」
「そうなんだ。残念だね。じゃあごきげんよう」
「……ごきげんよう」
温室を後にする祐巳さまを、出入り口でただ呆然と立ちつくして見送る瞳子。
温室の外でこっそり見守っていた乃梨子は瞳子の元へ歩み寄ったが、うつむいて肩をプルプルと震わせる瞳子に、掛けるべき言葉がなかった。
すると一体どこにこんなに隠れていたのか、一年椿組の生徒全員が瞳子の周りに集まって来た。
そればかりか志摩子さん、由乃さま、武嶋蔦子さま、山口真美さままでいる。
「うふふ。残念だったわね、瞳子ちゃん」
「さすが祐巳さん。やってくれるわ」
「あ〜ぁあ。来年の学園祭で展示する、福沢祐巳三部作の最後を飾る作品が撮れると思ったのに、祐巳さんったらもう」
「リリアンかわら版久々の大スクープと思ったんだけど、さすがにこれじゃあ記事に出来ないわね。いや待てよ。これはこれで面白いかも」
言いたい放題勝手なことを言う面々を無視して乃梨子は、瞳子、とやっとの事で声を掛けると。
「……ふ」
「?」
「ふふふ、はははは……」
「ちょっと瞳子? 大丈夫?」
「大丈夫ですって? 何をおっしゃってるの、乃梨子さん。私はこの位、何ともありませんわ。何しろ相手はあの祐巳さまですもの、一筋縄でいくわけがありませんわ。でもさすがの私も今度という今度はキレました。もう本心を偽るのはやめです。今ここに宣言いたしますわ。こうなったら意地でも祐巳さまの妹になってみせると。絶対に逃がしませんわ!」
「そうよ、瞳子さん。頑張って!」
「私たちみんな瞳子さんの味方よ!」
言ってることはなんだか妙だが、拳を握りしめて決意表明する瞳子に感化されて、敦子さん、美幸さんが瞳子に声援を送る。それに呼応するかように再びスタンディングオベーションが巻き起こり、こうして一年椿組の結束はかつてないほど強固になったのだった。
そして一年椿組が敵なのか味方なのかよく分からない状態になったことを祐巳さまが知るのは、もうしばらく先のことである。