【1884】 信じているよ、いつも幸せの微笑み  (若杉奈留美 2006-09-30 22:37:49)


夏休みも終わりにさしかかっている、何の変哲もないある1日。
沈黙という名の風が通り抜けるこの家に、突然の電話。

「はい、佐伯ですけど」
『あ、あの、私、リリアン女学園1年の…』

心持ち低めの、聞き覚えのある優しい声に、私の口元は思わずゆるむ。

「ごきげんよう、美咲ちゃん」
『ごきげんよう』

電話ごしにでも、緊張しているのが伝わる。
だから私は、できる限り穏やかに話しかける。

「どうしたの?また真里菜が何か変なことした?」
『い、いえ、真里菜さまとはぜんぜん関係ないんですけれど…
あの…今日は何かご予定はありますか?』

珍しいこともあるものだ。
私に何かを誘ってくることはめったにない、この子だから。

『もしよろしければ…お姉さまのところに、ご一緒しませんか?』

智子のところに、私も?

『ええ、ちあきさまにお見せしたいものがあるんです。
来てくだされば分かります』

相変わらず緊張した声ではあるが、それと同時に力強さらしきものも感じる。
しっかり者で正直な美咲ちゃんのこと、妙なことはしないだろう。
私は彼女を信じてみることにした。


美咲ちゃんは傍らにいた智子に、いきなりこんなことを言った。

「お姉さま、今日はお姉さま手作りのドーナツが食べたいです」

ちょっと待った。
瀬戸山智子と書いて、「生活力まったくゼロの汚ブゥトン」と振り仮名振っても
過言ではない人なのに。
ドーナツって、慣れないと結構難しいお菓子のはず。

「えっ、いいの?」

智子がいそいそとキッチンに向かっている。

「ちょっと美咲ちゃん」

これは早く止めなければ、大変なことになる。
そう思って動き出した私の手の甲に重なる、暖かく柔らかな感触。

「それじゃあ、私たちはお部屋で待ってますから」
「うん!頑張るからね」

頑張るからね…って。
戸惑う私の手を引いて、美咲ちゃんはさっさと智子の部屋へ戻ってしまった。


どうにも落ち着かない。
美咲ちゃんと一緒にいても、なんとなくここにいてはいけないような気がする。
その原因は部屋の広さばかりではない。
確かに女2人で20畳もある部屋、しかも以前よりはマシになったが
やはり足の踏み場の少ないこの部屋でくつろげるほど、
私の神経は図太くはない。
でもそれだけではない。
今頃智子が何をどうしているのかが、とてつもなく心配なのだ。
我ながら過保護ではあるけれど。
早くキッチンに行って、智子を手伝ってやらなければ。
美咲ちゃんの手は相変わらず私の手に重ねられている。
あせって立ち上がろうとする私を、そのぬくもりが暖かく引き止めている。

「お姉さまを信じてあげてください」

肩より少し長く、ゆるやかにウェーブのかかった髪。
開けられた窓から、夏の風が穏やかにその髪を揺らして去ってゆく。
一瞬の、沈黙。

「あの方はどなたの妹ですか?」

その瞬間、心の中にピシッと亀裂が入る音がした。
一体何が言いたいのだ。
私は若干怒りを覚えながら答えた。

「もちろん、私の妹よ。ほかの誰でもない、私のね」

漆黒の瞳に、強さがこもる。

「それならば、なおさら信じて待つことができるはずです。
ちあきさま。あなたは紅薔薇さまでしょう?
いついかなるときにも、気高く美しく咲いている、
あの真っ赤なロサ・キネンシスでしょう?」

そうだった。
私は紅薔薇さま。
蓉子さまや祥子さま、それに祐巳さまや瞳子さまがそうであったように。
私もまた、あの強く美しい薔薇の系譜を受け継ぐものなのだ。

「お姉さまのそばにいつもいて、あれこれと世話を焼くのも愛情かもしれません。
私はそれを否定はしません。
でも、私はお姉さまの中にある力を信じます。
あの方は何もできない方ではありません。
きちんと場所さえ与えられれば、想像以上のことができる方なのです。
確かに私たちとは違う常識で動いていますが、それはただ違うというだけです。
どちらがいいとか悪いとか、そんな問題ではありません」

美咲ちゃんは1つ息を吸った。

「私はお姉さまを丸ごと受け入れます。
今までそうしてきたように、今も、そしてこれからも」

このとき私は悟った。
姉妹とはどういう関係なのか、またどちらへ向かってゆくべきなのかと。
私の孫となった、目の前にいるこの子は、
本当に幸せそうに微笑んでいた。



ドアをノックする音が響き、智子ができたてのドーナツと紅茶を持って現れた。
その表情には、今まで見たことのない輝きが宿っている。
それは何かをやりとげたとき、困難を乗り越えたときの、あの輝きだ。

「ええと、何もかかってないやつが3つ、粉砂糖かけたのが3つ、
チョコレートかけたのが2つ、メープルアイシングかけたのが2つです。
紅茶はこのポットに入れましたので、お好きなだけどうぞ」

カップを手にしたとき、智子が笑いながら言った。

「本当はダージリンを入れるはずだったんですけど、
よくみたら箱にセイロンって書いてあるんです。
紅茶のパッケージってどれも似通ってて…」

そういえば以前、私のお姉さまである瞳子さまがこんなことをおっしゃっていた。

「オレンジ・ペコでもウバでもラプサンでもいいの。
ちあきが入れてくれた紅茶だからおいしいのよ」

そのときは単純に嬉しかっただけだったけれど、今になって分かる。
どんなものでも、相手を思って一生懸命作られたものであれば、
それはかけがえのない宝物になりうるのだと。
紅茶もドーナツも、すぐにおなかに納まってしまうけれど、
そこに込められた思いは消えることはないのだと。

「智子、よくやったわ。本当においしいわよ」
「お姉さま、がんばりましたね」

そのときの智子の笑顔は、まるで秋の太陽に向かって咲く、コスモスのようだった。


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