【1893】 突然すぎです  (33・12 2006-10-04 16:44:22)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:これ】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】




 薄々とは気付いていたし、前々から思っていた事なんだけど。どうやらこの世の中には、不思議な事が多種多様に渡ってそこらにごろごろと転がっているものらしい。例えば、ミステリーサークルとか、ナスカの地上絵とか、神様とか、平行世界とか。
 だから今、自分の身に起きている事は同じように世の中にごろごろと転がっている謎とか不思議とかの一つに過ぎないわけで、別段何も慌てる事はないはずなのだ……多分。で、自分の身に現在進行形で起こっている摩訶不思議で謎な出来事を単純かつ明瞭に説明すると、どうやら別世界に飛ばされちゃったようです……くすん。

 祐巳の通う私立リリアン女学園の敷地内には、銀杏並木と呼ばれている道がある。今現在、祐巳が歩いている道がその道だ。この道は銀杏並木と呼ばれるに相応しく、道を挟んで左右に銀杏の木が幾つも立ち並んでいる。
 その道の真ん中で、
「うん?」
 不意に違和感を抱いた祐巳は、血を分けた実の弟曰く「祐巳のトレードマーク」であるツーテールに纏めた二束の髪を勢い良く翻しながら後ろへと振り返った。ほんの小さな異変ですら捉えようと自然と険しくなった視線の先には、つい先ほど通り抜けてきたばかりの学園の正門がある。しかし、それだけだ。見た限り特におかしいと思える所はない。
「……えっと」
 いつもと変わらぬ光景に少々戸惑いながら周囲へと視線を向けると、季節柄葉っぱを失って枝が剥き出しとなっている銀杏の木々が見えた。これまた、いつもと同じ見慣れた光景である。険しい顔から浮かない狸顔へと表情を変化させながらキョロキョロと周囲を見回してみるも、おかしな点などまるで見当たらない。
「う〜ん」
 祐巳は小さく唸りながら、ムズムズする目を擦った。昨夜は遅くまで起きていたので寝不足なのだ。きっとそれが原因で妙な違和感を抱いたのだろう、と身体を反転させて再び歩き始める。
 刺すような寒さを肌で感じながら「今日も寒いなぁ」と手に息を吹きかけたりなんかしているうちに、二叉の分かれ道へと辿り着いた。右へ向かえば講堂やお聖堂、武道館などがあり、左へ向かえば高等部校舎がある。祐巳は迷わずいつもと同じように真っ白なマリア像を横目に左へと進み――そして「いつもと同じように」は唐突に幕を閉じた。というのも、いつもと同じように下駄箱に来たまでは良いが、いつもと同じ場所に自分の上履きが見当たらなかったからだ。
 これって苛め? どこの命知らずよ? 見付け次第叩き潰してやるんだから、なんてまだ少し眠い頭で思ったのだけれど、いつも自分が上履きを入れている場所すら見当たらないのはおかしくないか、と考えて思い留まる。
 靴がないのは仕方がない。どうする? そうだ、職員室へ行こう。きっと何とかなるはずだ。うん、そうしよう、と来客用の上履きの履き心地を確認しながら職員室へと向っていた祐巳は、お約束というか何というか、廊下の曲がり角に差し掛かった所で反対側から飛び出してきた人影と衝突した。
「きゃっ」
「うわっ」
 その相手と二人して小さく悲鳴を上げる。悔しい事に可愛らしい「きゃっ」が向こうで、「うわっ」が祐巳だ。飛び出してきた人物を抱き留めて一緒に倒れそうになる所を何とか踏ん張ると、その甲斐あって二人とも倒れずに済んだ。
 深く感謝しなさい。私が他人を助けるなんて、そんなの滅多にないんだから。だいたい、廊下は非常時以外は走るな、って教わらなかったの? そんな事も知らないって、いったいどんな奴よ? と相手の顔を確認しようとして――未確認生物を発見。
(なっ、何なの。このドリルのようなものは?)
 恐る恐る手を伸ばして、その感触を確かめる。それは、見た目と予想に反して硬くはなかった。この手触り、どうやら髪の毛のようだ、と少し安心する。実物を目にしたのは初めてなので戸惑ったが、どうやらこれは縦ロールというもののようだ。なぜ分かったかというと、よく見ればそれは大きめのリボンで留められてあったし、随分と昔に自分が持っていた人形にもこれと同じような髪型のものがいたのを思い出したから。
 それはともかく、相手が人間であると判断したので「大丈夫?」と声をかけてみる。すると、縦ロールの持ち主が勢いよく顔を上げた。
(……縦ロールって、似合う人にはちゃんと似合うんだね)
 祐巳の視界に飛び込んできたのは、大きな瞳が印象的なとっても可愛らしい女の子。
 もう支えてなくても大丈夫だろう、と抱き留めていた身体を離すと、
「す、すみませんっ」
 自分が何をしでかしてしまったのかに気付いたらしい彼女が深々と頭を下げた。
 見た感じ一年生かな? なかなか礼儀正しい子のようね。廊下を走っていたけど、などと思いながらも彼女を安心させるために言ってやる。
「気にしなくても良いよ。怪我はしてないし」
「ですが……」
 綺麗に整えられている眉を歪めながら尚も申し訳なさそうにしている少女は、祐巳が許しても彼女自身が自分を許せないらしい。難儀な性格しているのね、と内心で深〜く溜息を吐いてやる。
「気にしなくても良いって言ってるんだから、本当に気にしなくても良いの。私は許した。あなたは許された。だから、これ以上謝られても逆に困っちゃうよ」
 それに付け加えて、いつまでもこんな所で油を売っている暇はないのだ。なぜなら、チャイムが鳴る前に職員室まで行かなければならないから。このままここで会話を続けていては、遅刻する可能性が高い。そして、それだけは絶対に避けなければならない。時間に遅れるという事は、時として命に関わる事だってあるのだから。
「用事があるからもう行くね」
「え、ええ」
「おっと、言い忘れる所だった。廊下は走らないようにする事。良いわね?」
「分かりました」
 もう一度深く頭を下げる少女を置き去りに、祐巳は足を進めた。そういえば、私を前にしても怯えてなかったわね、なんて思いながら。



 職員室に着いて、ノックをしてから扉を開ける。
 近くにいた先生に事情を話すと、その先生は他の先生を呼びに行った。待つ事数十秒。やって来たのは祐巳のクラスである二年松組の担任の先生。
「上履きが見当たらないんです」
 早速とばかりにそう告げようとした祐巳は、その場で彫像のように固まった。
「あなたが転入生の福沢祐巳さんね。私はあなたのクラスの担任の――」
 という先生が祐巳よりも先に口にした言葉によって、固められてしまったのである。
(転入生? 誰が? 福沢祐巳さんが。なるほど、同姓同名だなんて珍しい事もあるんですね。ところで、さっきから何で私を見てくるんです? まさか、この私が転入生だなんて言い出したりしませんよね? いくら先生でも、冗談が過ぎると痛い目に遭わせちゃいますよ? ……いえ、分かっています。分かりたくないのに理解しちゃいました)
 参ったなぁ、と深く大きく溜息を吐き出す。
(どうやらここは、私のいた世界とは違う世界みたいだ)
 この世界に飛ばされたのは、おそらく銀杏並木で違和感を抱いた時だろう。あの時違和感を覚えはしたものの、周辺に変わった様子がなかったからそうとは気が付かなかった。というか、飛ばされた先が飛ばされる前と同じ銀杏並木で景色が一緒。加えて季節まで一緒では気付く方が難しいと思う。
(もしかすると違う所はあったのかもしれないけど、銀杏並木の事を隅から隅まで記憶しているわけではないし……。それにしても、まさか別世界に飛ばされるとはね)
 話に聞いた事はあったけれど、自分が体験する事になるとは思わなかった。
(さっさと戻りたい所だけど、戻る方法なんて知らないし。……そういえば、別世界から戻ってきた人なんてほんの数人しかいない、って何かの番組で見た事があったなぁ)
 覚えていたくない事は、意外と覚えているものである。



「転入生の福沢祐巳さんです」
 担任の先生によって二年松組の黒板の前に立たされ、よく知っているはずのクラスメイトたちに紹介される。視線を向けてくる生徒たちを見渡すと、彼女たちは転入生が珍しいのかキラキラと瞳を輝かせていた。
(……なるほど)
 間違いなく別世界だ、と確認を完了する。彼女たちには危機感がない。自分たちの居場所を守るという覚悟がなければ、死に対する覚悟もない。何と平和な事だろう。
「福沢祐巳です。こんな時期からですが……本当にこんな時期からですが、よろしくお願いします」
 引き攣った顔に苦笑いだか愛想笑いだかを浮かべながら自己紹介する転入生は、おそらく端から見ていて非常に滑稽なものだったであろう。だいたい、二年生の三学期に転入してくる人なんて他にいるのだろうか。もしいるのであれば、今の祐巳と同じように余程複雑な事情があるに違いない。
 何とか無事に自己紹介を終えた祐巳は、担任の先生に指示された席へと座って早速とばかりに気になっていた事を考え始めた。
 それは、この世界に福沢祐巳という人間は存在していたのだろうか、とか、あちらの世界は今頃どうなっているのだろうか、というものだ。
 一つ目については、よく分からない。けれど、精神のみが入れ替わった、という可能性はない。この身体は間違いなく自分のものだ。ここ一年の間ずっと酷使し続けてきた身体だから、それくらいの事は分かる。となると、もし入れ替わったのであれば精神も肉体も丸ごとだろう。だとすると、あの世界に飛ばされた「この世界の福沢祐巳」に同情する。弱者に厳しいあの世界では、おそらく何もできないままに命を落とす事になるだろうから。
(飛ばされたのは私のせいではないけど、やり切れないなぁ)
 ここにいる自分にはどうしてやる事もできない。せいぜい無事を祈ってやるくらいだ。
 祐巳は気を取り直してもう一つの可能性――この世界に福沢祐巳という人物は存在していなかった、という場合について考え始めた。
 この場合だと、別世界から飛ばされてきた祐巳が原因で、この世界に福沢祐巳という人物が突然存在してしまう事になる。そうなると、矛盾や混乱が生じるのではないか、と考えられるのだが実はそうでもないのだ。
なぜなら、「世界」が辻褄を合わせるから。「世界」は強くて賢いのだ、と中等部の頃に習った事がある。その時に得た知識を使って今の自分の状況に当て嵌めてみると、ひょっこりとこの世界に現われてしまった祐巳のために「世界」が辻褄を合わせようと転入生という手段を取った、という事になる。ならば、辻褄を合わせるために祐巳に関わる人たちの記憶も書き換えられているはずだ。というか、そうでなければならない。
 では、その影響を自分が受けてないのはどうしてか――つまり、別世界に飛ばされた自分の記憶が弄られていないのはどうしてなのだろう、と考えかけてやめた。さっぱり分からないから。けれど、もし弄られていたならば、この世界で過ごす上で必要な情報を与えられていただろう。それだと色々と楽だったと思うのだが、頭の中を勝手に弄くられるなんて絶対にお断りだ。
 それから、当然というか何というか、住む場所。祐巳の部屋や家具、衣類や食器などの日用品も、その辻褄合わせによって揃えられているはずだ。おそらく家に帰れば見付かるのだろうけれど、どうせなら鞄の中にでも良いから上履きを用意しておいて欲しかった。
 で、二つ目の気になる事。あっちの世界は今頃どうなっているのだろうか、なのだけれど、これは考えるまでもなく分かり切っている事だ。今日とか明日とか、すぐではないと思いたいけれど最悪の結末しかない。あの忌々しい化け物たちによって、奪われて、踏み躙られて、焼かれて、滅んでいくだけだ。あんまり考えたくはないのだけれど、祐巳があちらに戻れた時には既に滅びているかもしれない。
(参ったなぁ。これからどうすれば良いんだろう?)
 ふと気が付けば、いつの間にかホームルームの時間は終わっていたらしく、周りの席のクラスメイトたちがチラチラと祐巳を見ていた。無視するのはさすがにまずいだろうと思い、愛想笑いを浮かべながら彼女たちに挨拶してみる。
「えっと、よろしく」
「ええ、よろしく。福沢……祐巳さんよね?」
 お、反応があった。ちょっと嬉しいぞ、と思いながら一番最初に反応してくれた生徒の顔を見て驚く。だって、その姿。二つの長い三つ編みがトレードマークの彼女は――。
(嘘っ! まさか由乃さん!?)
 思わず彼女を凝視してしまう。
 すると、祐巳の様子がおかしい事に気付いたらしく「どうしたの?」と由乃さんだろう少女が尋ねてきた。
「あ、ううん、知ってる人によく似てて。ごめんね、気を悪くしちゃった?」
「別にそんな事はないわよ。それに、そんな事で謝らなくても良いから」
 実に在り来たりな言い訳だったのだが、彼女は特に何とも思わなかったようだ。由乃さんらしきこの人物が単純で助かった、と胸を撫で下ろす。
「私は島津由乃って言うの。よろしく」
「うん、よろしく」
 やはり由乃さんで間違いないようだ。
 いや、でも本当に驚いたよ。まさか由乃さんだとは思わなかったから。へぇ、世界が違うとこういう事もあるんだ、と妙な所で感心した。
「祐巳さん、って呼んでも良い?」
 勿論良いに決まっている。祐巳の世界のリリアンでも、同級生同士は名前の後に「さん」を付けて呼んでいたのだ。こちらでもそれが同じなら呼び易くて助かる。ちなみに、上級生には「さま」、下級生には「さん」または「ちゃん」を付けて呼んでいた。おそらく、それも同じだろう。
「じゃあ私も、由乃さんって呼ぶね」
「……」
 なぜか由乃さんが不思議そうに首を傾げた。そんな彼女の仕草を見て、自分は何かおかしな事を言ってしまったのだろうか? ひょっとして、こちらの世界では名前で呼ばないとか? と不安になる。
(でも由乃さんは、『祐巳さん、って呼んでも良い?』って言ったよね?)
 しばらく考えてみたのだが、首を傾げられた理由がちっとも分からない。
「私、何かおかしな事でも言った?」
 分からないものは考えても仕方がないので尋ねてみると、由乃さんは「いいえ、そうじゃないの」と軽く手を振った。
「ただ、転入生なのに珍しいな、って思って。初対面の相手とか、普通は苗字の方に『さん』を付けて呼ぶでしょう? ここでは同級生同士は名前に『さん』を付けて呼び合うのが普通なんだけれど、外部から入学してきた人たちは慣れてないみたいで大抵それに戸惑うのよ。それなのに祐巳さんは、あっさりと『由乃さんって呼ぶね』って言ったから」
 それを聞いて、なーんだ、と拍子抜けした。慣れるも何も向こうの世界では、幼稚舎から高等部まで祐巳はずっとこのリリアン女学園に通っていたのだから。



 授業の合間の休み時間。
 あちらの世界とそれほど変わりはないと思うのだけれど、念のためにこちらの世界の学園の事を由乃さんに聞いてみた。 
 まず、ミルクホールや講堂などの建物の位置はあちらの世界と変わりがないようだ。聞いた限りでは校舎内の教室の配置なども同じようだし、放課後にでも一度確認に見て回ったらそれで十分だろう。他には、上級生が下級生を(逆もあるような気がする)清く正しい道へ導くというリリアン女学園高等部特有の姉妹(スール)制度と呼ばれる古くからの伝統は勿論の事、山百合会や薔薇の館なども存在していた。ちなみに、スールはフランス語で姉妹の事。また、姉、妹、という意味も持っている。
 さて、ここまではあちらの世界と変わらなかったのだが、やはり異世界。違う所も存在していた。
「紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が三年生の小笠原祥子さま」
 誰だそれは? そんな人は知らない。あちらの世界で紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と言えば、二年生の自分だった。
「祥子さまに妹(プティ・スール)はまだいないんだけれど、一年生に松平瞳子ちゃんっていう子がいて、その子が妹(スール)候補って言われているわ」
 こんなにも平和な世界で、この時期になってもまだ妹(スール)がいないのか、と呆れる。それから、その妹(スール)候補の松平瞳子とかいう子も、祥子さまと同じように全く知らなければ名前すら聞いた事がなかった。
(この調子だと、由乃さんのお姉さま(グラン・スール)が令さまではないとかも有り得そう。というか、令さま自体存在してないとかじゃないよね?)
 祐巳がそんな事を考えているなど露ほどにも思わないだろう由乃さんが話を続ける。
「それから黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)が、祥子さまと同じ三年生の支倉令さま」
 あ、ちゃんと存在しているんだね。良かった良かった、と安心する。それなら、令さまの妹(プティ・スール)は――。
「その支倉令さまの妹(プティ・スール)、つまり黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)がこの私」
 自身を指差しながら、得意げに胸を張る由乃さん。何だかとっても微笑ましくなる光景だった。
「そうなんだ?」
「……あんまり驚いているように見えないわね」
(そりゃまあ、知っていたからね)
 もっと驚いてくれると思っていたのに、と愚痴を垂れる彼女を見て祐巳は、かつての自分であればきっと目を丸くして驚いていただろうな、と思った。もう一年ほど前になるが、その頃の祐巳は考えている事が分かり易く表情に出てしまうこの顔を指して百面相と呼ばれていたのだ。
(今思えば、屈辱以外の何物でもない呼び名よね)
 名付け親である聖さまに一言文句を言っておけば良かった、と思っていると由乃さんが愚痴るのをやめて尋ねてきた。
「私の話、聞いてる?」
「勿論、聞いてるよ。愚痴の部分からは聞いてなかったけど」
「そ、そう。案外、はっきりと言い難い事を言うのね……。まあ良いわ、話を続けるわね。白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が、私たちと同じ二年生の藤堂志摩子さん」
「え?」
 ついさっきまで愚痴っていたのに切り替えが早いね、なんて感心していたから油断する事にもなった祐巳は、由乃さんが口にした名前に激しく動揺してしまった。
「志摩子……それって、こう――ふわふわっとした巻き毛の優しそうな人?」
「え? ええ、そうだけど。志摩子さんを知って――」
(ふうん、ここでも白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)なんだ……)
 祐巳が目を細めたその瞬間、

 おおおぉぉぉぉぉぉんっっっっ!!!!

 どこかで何かが吼えた。
 同時に、教室の窓が激しく音を立てて揺れ始める。まるで地震のような揺れだったが、そうではなかった。揺れているのは床ではなく窓で、それも中庭に面した窓だけだ。加えてこの揺れは、祐巳のいるこの教室だけに起こっている現象ではないらしくて、校舎内の其処彼処から生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。
 あまりにも激しい揺れにガラスが全て砕けるのではないか。そう思われた時、その揺れは唐突にやんだ。
「もう大丈夫みたいだよ」
 声をかけると、瞼を強く閉じて祐巳の腕に抱き付いていた由乃さんがゆっくりと目を開いた。
「い、今のは何よ?」
 周囲を見回しながら恐る恐る祐巳に尋ねてくる。
「単なる突風でしょ」
 実際、それ以外の何物でもなかった。
「突風? それにしては変だったような気がするんだけど」
 抱き付いていた祐巳の腕から手を離し、不思議そうに首を傾げる由乃さん。その様子が可愛くて――彼女のそんな姿が懐かしくて、祐巳はつい笑みを零してしまう。
「あ、今笑ったわね」
 目敏い由乃さんがそれに気付いて、祐巳に詰め寄ってきた。
「いいえ、見間違いじゃない?」
 しれっと答えてやると由乃さんが唇を尖らせる。
「そんな事ない。だって、この目で見たもの。絶対笑った」
 こっちの由乃さんも手強いなぁ、なんて頭の片隅で思いながら、その手強い由乃さんをどう宥めるか祐巳は思考を巡らせ始めた。



「で、一昨年手術を受けて、もうすっかり健康になったわけ」
 昼休み。
 祐巳は見慣れた校舎の中庭に見知った顔の――けれど、こちらの世界では今日初めて会った事になる人たちが集まっているのを、由乃さんの話を聞きながら教室の窓からぼーっと眺めていた。
 何でもあの時の突風が、中庭にある木々の僅かに残っていた葉っぱを全て吹き飛ばしたとか。祐巳のクラスにもわざわざそれを見るために中庭に出て行った生徒がいて、祐巳が眺めているのはそういう暇を持て余しているらしいクラスメイトたちだ。
 ちなみに、お昼ご飯は鞄の中を探っても食べられそうなものが見当たらなかったので、わざわざミルクホールまで行ってパンを買って食べた。
 殆ど滅びかけているあちらの世界では、お金なんてものは持っていても使い道がない。なので当然祐巳は財布なんて持っていなかったのだが、しかし私は転移によってここにいるのだ、と異世界転移の辻褄合わせに期待して制服のポケットや鞄の中を探ってみた所、鞄の底から財布が出てきたのだ。中を覗いてみると、千円札が数枚と幾らかの小銭。思わず小さくガッツポーズした事は、誰にも見られていなかったと信じたい。
「それで剣道を始めたわけなんだけど、これがなかなか上達しなくて少し挫けそうなの……って、私の話ちゃんと聞いてる?」
 尋ねてくるので、祐巳は仕方なく由乃さんへと視線を向けた。
「聞いてるよ。ずっとやっていれば大丈夫だと思う。才能ありそうだし、強くなるって」
「何だか、どうでも良さそうな感じね」
(いや、だって、実際にどうでもいい事だし。それに――)
「上達するかどうかは由乃さん次第でしょ?」
 強くなろうと決めたのなら、強くなれば良い。そうでないのなら、やめておけば良い。とっても簡単で、すっごく単純な事だ。
「それはそうなんだけど、『頑張って』って応援するとか、背中を押すとかしてくれたって良いじゃない」
「頑張って。で、背中を向けてくれたら押してあげるけど、どうする?」
「あのねぇ」
 由乃さんが呆れ顔になった。



 放課後になり、祐巳は校内の探索を開始した。元の世界に戻る方法は分からないが、学園の地理などを確かめておきたかったからだ。由乃さんの話で同じだとは分かっているが、もしかすると違う所があるかもしれないし、その場合何かあった時に困るのは自分となるのだ。不安の芽は摘んでおくに限る。



 パタパタと、どこからか響いてくる足音。
 鞄を片手に相変わらずの来客用の上履きで校舎内を探索していた祐巳は、聞こえてくるその足音をBGMにして向こうの世界の事を考えていた。
 学園は無事なのだろうか? 皆は持ち堪えているだろうか? それとも、もう全滅してしまっただろうか?
 彼女たちがどうなろうと知った事ではないが、逃げたと思われるのは嫌だった。自分はそんなに弱くない。逃げるようなら最初から戦ったりなんてしなかった。でも……それを考えた所でどうする事もできない。だって、帰り方がちっとも分からない。いったいどうすれば、あの世界に戻る事ができるのだろう。
(それともまさか、もう戻れない……とか)
 浮かぶのは嫌な事ばかりで、自分でも知らないうちに俯き加減になって廊下を歩いていた祐巳は、
「って、またなのっ!?」
「きゃっ!」
 運命的なのか狙われていたのかは知らないが、今朝と同じように曲がり角から飛び出してきた人影と接触する事となった。
 幸い、これまた今朝と同じように相手を抱き留める事に成功する。
「廊下を走るのはやめなさい、って今朝確かに言ったと思うんだけど、何か言い訳はある?」
「すみませんっ!」
 割と小柄な彼女が素直に頭を下げて謝ってくる。吊り上がり気味の眉毛のせいか生意気に見えるのだけれど、こういう所はちゃんとしているようだ。
「部活に急いでいたものですから……って、あなたはっ!」
 まるで巻き貝のような縦ロールを頭の左右に一本ずつ下げている彼女は、ぶつかった相手が祐巳だと分かると驚きの声を上げた。おかげで耳がキンキンと鳴ったけれど、それには構わず挨拶をしておく事にする。なにしろ今日は、まだ一度もその言葉を口にしていない。なぜなのかは自分でも分からないが、一日に一度は口にしなければ気が済まないのだ。
「ごきげんよう、また会ったわね」
「え? ええ、ごきげんよう」
 突然挨拶なんてされたからか一瞬ポカンと呆けた少女だったが、すぐに挨拶を返してくれた。
「で、部活って?」
「演劇部です」
 おおっ、演劇部! そんなものがあるんだ? 私の世界にはなかったなぁ、そんな余裕のある部活動、とこんな所にも世界の違いを発見して感激する。
「演技上手いの?」
「それなりに」
 それなりに、なんて言いつつも自信満々な様子の少女。うん、気に入った。特に縦ロールな所が希少価値が高そうで良い。
「あなた、私の妹(スール)にならない?」
 百パーセント混じりっ気なしの冗談なのだけれど。
「は? 妹(スール)?」
 祐巳の冗談に、彼女の浮かべていた表情が変わる。その表情はどう好意的に解釈したとしても、驚きに満ち溢れた顔にしか見えなかった。もっとも、それも当然の反応だと思われる。まさか二度しか会った事のない相手に、『私の妹(スール)にならない?』なんて言われるとは思っていなかっただろうから。
 けれど、彼女のその表情を眺めながら、
(うん? ちょっと待てよ)
 祐巳は自分がとんでもない思い違いをしている可能性がある事に気が付いた。彼女の見た目と雰囲気だけで自分よりも年下だと勝手に判断していたのだが、ひょっとすると年上なのかもしれない。若しくは、同級生なのかもしれない、と。だとすると祐巳は、同級生だか上級生だかの彼女に向かって『私の妹(スール)にならない?』と言ってしまった事になる。それは、非常にまずい。
「ええっと、確認のために聞いておきたいんだけど、あなたって一年生だよね?」
「はい、そうですけれど?」
 恐る恐る尋ねると、祐巳を安心させる答えが返ってきた。
「それなら問題なし。上級生の威厳や貫禄なんてどこにも見当たらないかもしれないけど、私はこれでも二年生なのよ」
「そ、そうですか」
 どう反応すれば良いのかしら、とでも言いたげな彼女。何とも居心地が悪いので、場を動かすために祐巳は先ほどの返事を催促する事にした。
「というわけで、返事は?」
「返事?」
 何の事か分からなかったらしく、不思議そうな顔をする少女。
「だから、私の妹(スール)になってくれるの? くれないの?」
 言ってあげると、それで理解したらしい彼女が不思議顔から一転こちらを警戒するように見てきた。
「それ、冗談ですよね?」
 うん、確かに冗談だけど、と心の中で答えた後、続けて「どうして?」と声に出して尋ねる。
「だって、私の事を知らないだなんて……」
 自慢じゃないが全く知らない。なにしろ、まだ二度しか会った事がないのだ。それなのに知っているはずがない。けれど今の彼女の反応から、どうもこの子は有名人らしい、という事が分かった。
「そういえば聞き忘れてたけど、あなたのお名前は?」
「本当に知らないんですか?」
 祐巳が転入生だとは微塵も思っていない様子の少女。それもそのはずで、まさかこんな時期に転入してきたなどと普通は思わないだろう。別に教えてあげても良いのだが、それだと「どうしてこんな時期に転入してこられたのですか?」と尋ねられるかもしれない。クラスメイトたちや由乃さんには適当に理由を作って冷や汗やら脂汗をかきつつ誤魔化しておいたのだけれど、その時と同じ事を実行するのは非常に面倒臭く、また精神的にも辛いので今回は黙っておく。
「うん、本当に知らないの。だから教えて、お願い。ね?」
 祐巳のお願いに、「皆が皆、知っているわけじゃないのね」と小さく零した後ようやく彼女が名乗る。
「一年椿組、松平瞳子です」
「え゛」
 その名前を聞いた瞬間、できる事なら『私の妹(スール)にならない?』発言はなかった事にしてもらいたい、と思った。
「ええっと……。ひょっとして、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補の松平瞳子?」
「いきなり呼び捨てですか」
「あ、ごめん」
 瞳子さん……はしっくりこないので、瞳子ちゃんと呼ぶ事にする。
「紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補の、松平瞳子ちゃんなの?」
「ええ、そうです。私の事、知っているじゃないですか」
 瞳子ちゃんが冷ややかに言ってきた。
「まあ、一応ね。クラスメイトから聞いた事があるの。でも、名前とか妹(スール)候補って事は聞いていたから知っていたんだけど、さすがに容姿に関する事までは聞いてなくて」「本人を前にしても、それが私の事だとは分からなかった、という事ですか」
 祐巳の言葉を遮って、頭の回転が早いらしい瞳子ちゃんがそう続けた。
「そういう事。ちなみに、瞳子ちゃんの事を私に教えてくれたクラスメイトの名前は、島津由乃さんって言うんだよね」
「黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)の?」
「そう。その由乃さん」
 偶然ぶつかった相手と最初に話しかけてきたクラスメイトが共に山百合会の関係者。リリアン女学園という限られた範囲での出来事とはいえ、世の中って狭いものだ。
「それにしても、まさかあなたが瞳子ちゃんだったとはね。できれば、『私の妹(プティ・スール)にならない?』発言は聞かなかった事にして欲しいんだけど」
「それは、私を妹(スール)にするのは諦めるという事ですか?」
「だって、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補なんでしょう? さすがに紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のものを横から攫うのはねぇ」
「私は祥子お姉さまのものではありませんし、まだ妹(スール)になると決まったわけでもありません」
「でも、『祥子お姉さま』とか呼んでるし、決まったも同然みたいなんだけど?」
「それは、そうかもしれませんが……」
 急に歯切れが悪くなる瞳子ちゃん。ひょっとして妹(スール)候補とか言われてるのにまだ申し込みをされていないの? と考えて確認のために尋ねてみる事にした。おそらく、答えてはくれないだろうけれども。
「祥子さまから、姉妹(スール)の申し込みはされているんでしょう?」
「ご想像にお任せします」
「やっぱり、まともには答えてくれないか」
 なぜ瞳子ちゃんがまともに答えないと予想できたのかというと、たった今祐巳が質問したような事に迂闊に答えてしまうと、たちまち面白おかしい噂となって学園中に広がってしまう恐れがあるからだ。祐巳としてはそんな噂を流すつもりなんて全くないのだけれど、瞳子ちゃんにしてみればそんな事は分からない。何でもかんでも話せるほど信用されてないのだ。なにしろ、今日初めて出会ったばかりの相手だから。
 そこで祐巳は、やむを得ず強行手段に出る事にした。
「そういえば、二回も私にぶつかってきたよね。ぶつかった所がまだ痛むんだけど、許してあげるから教えてもらえない?」
 適当に胸の辺りを押さえて、苦しそうにしながら言ってやる。
「それについては、もう謝ったはずです」
 さすがは演劇部員。即座に演技だと見抜いて、全く顔色を変えずに言い返してきた。けれど、これは予測済み。問題なし、である。
「うん、確かに謝られた記憶があるし、私もそれで許した。でも、それは一度目だけで二度目も許した覚えはないよ?」
 余裕の笑みを浮かべながら言ってやると、その事に気付いた瞳子ちゃんが「あっ」と声を上げた。
「それに、『廊下は走らないように』って私が言った時、あなたは『分かりました』って返事したよね。それってつまり、約束してくれたって事でしょ? それなのに、瞳子ちゃんはその約束を破ったんだよ?」
「それは……」
 言葉に詰まる瞳子ちゃん。このまま今までと同じ調子で話を進めても良かったのだけれど、そこまで強引にする必要はないと判断して彼女に有利な条件を付けてあげる。もっともそれには、その方が瞳子ちゃんも話し易いだろう、という狙いも含まれているのだけれど。
「誰かに言いふらしたりはしない、って約束するよ。もし私に話した後で変な噂が広まったら、私があなたに申し込んだ事を言いふらしても良い。それだと、私の方がダメージは大きいでしょう? よりにもよって紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補に申し込んだんだもの。間違いなく、私に不利な噂にしかならない」
 最後に、「教えてもらえるよね?」とお願いするように付け足してやると、しばらくの間祐巳を無言で見つめていた瞳子ちゃんは深い溜息と共に口を開いた。
「結構、強引なんですね」
 そうじゃなきゃ、やってこれなかったのよ! と言えるものなら声を大にして言ってやりたい。向こうの世界は色々と大変だったのだ。
「まあね。強引なのは認めるよ。それで? 結局、申し込まれているの? いないの?」
「申し込まれています」
「なーんだ。それなら、後はロザリオを受け取るだけじゃない」
 申し込まれていません、なんて言われたらどうしようかと思っていたので彼女の言葉に安堵して軽い気持ちで言ったのだけれど、瞳子ちゃんは気に入らなかったらしい。
「簡単におっしゃいますね」
 と冷めた声で冷めた言葉を祐巳に投げてきた。しかし、その声や言葉とは裏腹に瞳子ちゃんの表情は暗く沈んでしまっている。
「簡単じゃないの? それとも、祥子さまと姉妹(スール)になるのに何か問題でもあるの?」
「……問題なんてありません」
(表情が、『ある』って言っているようにしか見えないんだけど。本当は姉妹(スール)になりたくないとか?)
 あまり他人の事に踏み込みたくはないのだけれど、気になって仕方がないので少し探りを入れてみる。
「本当は祥子さまの事が嫌いだったりする?」
「馬鹿な事を言わないでください。いくらあなたが上級生と言っても本気で怒りますよ!」
 キッと強く睨み付けてくるその反応で、瞳子ちゃんが祥子さまに対して親しみを持っているという事が分かった。それなら、姉妹(スール)になりたくない、というわけではないだろう。
(となると、二人が姉妹(スール)になる事を皆が反対しているとか? でも、妹(スール)候補って言われているくらいだから、祥子さまの妹(スール)に相応しいと皆も認めているはずだよね。それなら、これは違うか)
 勿論祥子さまも、瞳子ちゃんを自分の妹(スール)に相応しいと思っているはずだ。そうではない相手に姉妹(スール)の申し込みをするはずがないだろう。
(では逆に瞳子ちゃん自身が、自分は祥子さまの妹(スール)に相応しくない、って思っているとか? ……うん、これは有り得そう。祥子さまとやらが優秀であれば瞳子ちゃんがそう思っていても不思議ではないし、口にしてみる価値はあるか)
「ひょっとして、自分は祥子さまの妹(スール)に相応しくない、なんて思ってない?」
「なっ!? どうして……」
 祐巳の言葉に瞳子ちゃんが過剰に反応した。つい先ほどまで怖い顔して祐巳を睨み付けていたのに、今はその顔が面白いほど強張ってしまっている。
(むむっ! さっきから思っていたんだけど、実に様々な表情を見せてくれるね。栄えある百面相という称号は、密かにあなたに授ける事にするよ)
 ふざけた事を考えながらも、瞳子ちゃんの見せた反応に自分の推測が正しいものであると確証を得た祐巳は真顔で言葉を続けた。
「相応しいとか相応しくないとか、そういうのって、好きって気持ち以上に必要な事なのかな?」
「……」
 尋ねてみるも瞳子ちゃんは何も答えない。ただ、自分の問題に首を突っ込まれるのが嫌らしく、不機嫌そうに顔を歪めた。
「祥子さまの事、好きなんだよね? 祥子さまだって、瞳子ちゃんの事が好きだから妹(スール)になって欲しいって、そう思って申し込んだはずだよ? それだけじゃ駄目なの?」
 並べている言葉を変えただけの、同じ意味の質問。けれど、どこかに引っかかるものがあったらしい。
「そんなに単純なものではないんです」
 と言い返してきた。
「ふうん、そう。相応しいかそうではないかが、そんなに大切なんだ?」
「あなたに何が分かるって言うんですか」
 瞳子ちゃんの当然と言えば当然な一言に祐巳も異論はなく、「そうね」と頷く。
「確かに分からないよ」
 瞳子ちゃんが、自分は祥子さまに相応しくない、と悩んでいる事は分かったのだけれど、祥子さまの何に対して相応しくないと思っているのかまでは分からない。それが分からない限り、何を言っても瞳子ちゃんには届かないだろう。
「でもね、瞳子ちゃんが本気で悩んでいるって事くらいは分かる。その悩みの分だけ、祥子さまの事を本気で想っているって事も分かる」
 祥子さまがどんな人なのか祐巳は全く知らないのだけれど、瞳子ちゃんにここまで想われているのだ。素敵な方なんだな、って分かる。それって、とっても凄い事だと思う。
「十分だと思うよ? 出会ったばかりの私にこんな事を言われても瞳子ちゃんは気に入らないかもしれないけど。少なくとも私が見て、言葉を交わしたあなたは、祥子さまの妹(スール)に十分相応しいと思う」
「……」
 瞳子ちゃんは祐巳の言葉に声を出せないほど驚いたらしく、目を見開いて祐巳をじっと見つめている。
「頑張れ瞳子ちゃん。あなたが紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)って呼ばれる日が来る事を、私は楽しみにしているから」
 その頃には私はこの世界にはいないのかもしれないけど――心の中でそう付け加えて祐巳は腕時計へと視線を落とした。
「私の言いたかった事は以上でお終い。ところで、部活に急いでいるんじゃなかった?」
「あっ、そうでした」
 話し込んでいて、すっかり忘れていたようだ。我に返った瞳子ちゃんが、しまった、と口に手を当てた。
「それじゃ、これでお別れね。あ、そうだ。もう二度と廊下は走らないようにする事。今度こそ守りなさいよ?」
 ほんの少し睨みを効かせながら言うと、瞳子ちゃんは素直に「はい」と頷いた。
「祥子さまと上手くいくと良いね」
 そう言い残して背を向ける。けれど、足を踏み出そうとした所で「待ってください」と呼び止められた。
「何?」
「あなたの名前を教えていただけませんか」
 そういえば名乗ってなかったような気がする。もっと早く言ってくれれば良かったのに、と思いながら祐巳は瞳子ちゃんへと振り返った。
「名乗るほどの者じゃないんだけど、福沢祐巳って言うの」
「祐巳さま、ですか。おかしな方ですね」
「よく言われる。じゃ――」
 ごきげんよう、と今度こそお別れしようとした所で、じっと見つめられている事に気付く。
 その眼差しは何だか期待に満ちていて、居心地の悪くなった祐巳が「どうしたの?」と声をかけてみたのだが、
「私は見付けてしまいました」
 返ってきた言葉は意味不明で理解不能なものだった。おまけに、何を見付けたの? と聞き返す間もなく、言いたい事を言ってすっきりしたのか、
「では、ごきげんよう」
 と妙に清々しい顔で祐巳の前から立ち去って行く。
(……あ、しまった)
 何が何だか分からなくてポカーンと間の抜けた顔で呆けていた祐巳は、瞳子ちゃんの姿が完全に見えなくなるまで見送ってから思い出した。
 挨拶を返し忘れた、と。
 


 彼女との再会は唐突だった。
 いつまでも居残っていても仕方がないし、瞳子ちゃんの言葉の意味も分からないし、今日はこれで帰ろう、と一人でとぼとぼ歩いていた銀杏並木。祐巳はそこで、二人の少女を見かける事となった。
 彼女たちはどちらも幸せそうに笑顔を浮かべながら歩いていて、そのどちらもが祐巳のよく知っている人物だった。
 一人は市松人形を思わせるおかっぱ、黒髪の一年生。彼女は二条乃梨子ちゃんと言って、向こうの世界で白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)を継いだ少女。もう一人はまるで西洋のアンティーク人形のような外見に、落ち着いた雰囲気を持つ美少女。あちらの世界で、乃梨子ちゃんの前に白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)と呼ばれていた人だ。
 彼女は二人を見つめていた祐巳に気が付くと、目を大きく見開きながら持っていた鞄を落とした。
「祐巳……さん?」
「……どうして私を知っているの? ねえ、志摩子さん。私たち、ここではまだ知り合ってないはずだよね?」
 笑顔を浮かべようとしたのだが、上手く浮かべられなかった。けれど、どうせ作った笑顔しか浮かべられないのだから、と諦める。
「そう……。休み時間のあれは祐巳さんの仕業だったのね」
 志摩子さんの言う通り、あの時の突風は祐巳の仕業だ。感情の昂ぶりが原因で、意図せずに引き起こしてしまった。でも、だからどうしたと言うのだろう。あんなものは、彼女がここにいる事に比べれば些細なものでしかないはずだ。
 だって、彼女はこの世界の人間ではない。彼女の身体に秘められている者たちの存在が、それを証明している。
 それは、この世界の人たちには存在しないもの。契約済みの魔法使いだという証。疑いようもなかった。彼女は、祐巳の世界にいた志摩子さんだ。
「何でここにいるの?」

 ――ざわざわざわざわ――

 世界がざわつき、
「何であなたがここにいるのよっ!!」
 世界が吼えた。
 青い空に雷鳴が轟く。
 まるで意思を持っているかのように、四方八方から学園の上空へと集まってくる黒い雲。それは瞬く間に空を侵食して、学園全体を影で包み込んだ。
 志摩子さんの隣にいるこの世界の人間である乃梨子ちゃんも、さすがにこの状況が異常なものであると気が付いたらしい。不安そうな表情を浮かべながら、志摩子さんの制服の袖を掴んでいる。
 そして、その乃梨子ちゃんに袖を掴まれている志摩子さんはというと、
「祐巳さん! やめてっ!」
 懇願するような顔で、声で、祐巳に向かって必死に叫んでいた。
 けれどその声は、
「答えなさいよ藤堂志摩子っ!」
 祐巳の声と、彼女目掛けて降り注いだ稲妻の奏でる轟音によってかき消されたのだった。


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