【1895】 天変地異  (33・12 2006-10-04 21:54:46)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:これ】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】




 あっちの世界をこっちの世界の言葉の意味で表現すると、幻想(向こうでは幻想も現実だったが)と現実が程良く混ざっている世界だった。要するに、科学と魔法がごちゃ混ぜの何でもありの世界だ。
 そんなあちらの世界には、人類以外にも多数の種族が存在している。例えば吸血鬼とか猫耳族、エルフやドワーフ、リザードマンにドラゴンに座敷童子などなど。
 存在する種族が多過ぎて、思想や食べ物の違い(人間が主食という生物もいた)から治安はあまり良くない上に命というものが軽視されている世界ではあったけれど、とっても楽しくて素敵な所だったと思う。
 辺境の町や村がモンスターに襲われれば陽気な冒険者集団がタコ殴りに行ったり、銀行強盗に押し入ったゴブリンが高位魔法使いの資格を持っていた行員に撃退されたり、サキュバスに恋した男性が異種族間且つ国際結婚したり、と誰も彼もが面白おかしく生きていた。
 けれど、そんな世界はある日突然、全く面白味のない世界へと変わってしまった。それは、私がリリアン女学園の高等部に進学して五ヶ月ほど経った頃の事だ。
 いつもと同じように夜がきて、いつもと同じように月が昇った。けれど、いつもと違ったのは空に昇ったのが月だけではなかった事。無数の星々と普段から見慣れている月が輝く夜空には、何かの冗談のように真ん丸で巨大な目玉が浮かんでいた。
「何だあれ?」
 誰もがアホみたいな顔してそれを見上げていると、その目玉はふざけた事にやたらと高技術で超々高威力の熱光線魔法なんて撃ってきた。その一撃で一つの都市と、そこに住む三百万の人々が一瞬で焼けた。
 後で分かった事だが、その目玉は地上から三百五十キロメートル以上の高度を保ちながら地球の周囲を移動しているらしい。
 例の熱光線魔法については、一度撃つと魔力の回復に時間がかかるらしく数日に一発という制限がある模様。ただし威力は先に述べた通り絶大で、魔法使いが数万人掛かりで造り上げた数百回分の核爆発に耐え得る強度を持つ結界は、いとも容易く貫かれた挙句彼ら諸共焼却された。
 そして、この目玉だけでもお手上げな状態なのに、異変はそれだけに留まらなかった。
 空に浮かぶ目玉の出現と同時に、思わず自分の目や頭を疑ってしまうような外見を持った化け物が世界各地を襲ったのだ。奴らは僅か半日ほどで数百に及ぶ都市や街を壊滅させ、そこで暮らしていた者たちを根絶やしにした。人も、その他の種族も、家畜から植物に至るまで命を持つもの全てだ。
 いったいどこから現れたのか。何が目的なのか。あの目玉、いくら何でも趣味悪くないか。分からない事だらけだが、唯一つこれだけは言える。奴らは間違いなく、この世界に暮らす者たちにとって敵だった。
 そんな奴らに対抗するべく、「手を組もう」と吸血鬼だったかケンタウロスだったかのお偉いさんが他の種族に声をかけた。
「意思の疎通の取れない愚かな奴らもいるが、この際それは仕方がない。とりあえず話せる奴らだけで手を組んで、あの化け物共をぶちのめしてやらないか?」
「おうよ。やったるぜ兄弟」
 種族の垣根を超えて手を取り合ったのは、半世紀ほど前に起こった世界中を巻き込んだ戦争以来の事だったそうだ。
 しかし、僅か一ヶ月ほどでこの世界で最強だと思われていたドラゴンたちがあっさり絶滅すると、人類以外の種族が次々と消えていった。ま、そもそも人類以外の種族は元からそんなに数が多くなかったからね。
「うぬぬ、兄弟たちよ! ここで踏ん張らずしてどうする!?」
 人類代表の偉い人が唾を飛ばしながら言った。
 それに感銘を受けたから、というわけではないだろうけれど「ぼちぼち真面目にやるか」と人類がついに本気になった。皆(勿論、そうではない人もいるけれど)、超人的な力の持ち主なのだ。伊達に霊長類最強を誇ってはいなかった。魔法に剣、銃にミサイルに戦闘機。果ては霊能力から、術者本人でさえ何を源にしているのかよく分からない奇妙奇天烈摩訶不思議パワーまで駆使して戦った。
「諦めるな! 夜明けは近い! 頑張るんだ、我が兄弟たちよ!」
「お前いい加減ウゼーよ」
 人類代表の偉い人の事は放っておいて、多数の犠牲者を出しながらも人類は諦めずに戦った。あの空に浮いている目玉はともかく、それ以外の奴らに負けるわけにはいかない。カナブンとかスズメバチとか、カブトムシとかトンボとか、そんなのが巨大化したような奴らに――蟲共に人類が負けるわけにはいかない、と。
 とまあこんな風に、人類――というかあの世界で暮らしていた者たちは絶滅の危機に瀕しているのである。



「やる気になったってわけ?」
 先ほどまでとは服装が変わっている志摩子さんを眺めながら祐巳は呟いた。
 落雷が起こる直前まで確かにワンピースタイプの制服を着ていた彼女は、白のカッターシャツの上に黒いマントを羽織り、一本の白いラインが入った赤のふりふりミニスカートと、白と水色のストライプのオーバーニーソックスを着用して、なぜか黒いとんがり帽子を被っているという見る者を圧倒させる素敵にイカれた格好になっていた。
 右手には玩具のようなステッキが握られていて、志摩子さんはそのステッキを空に向かって掲げている。どうやらそれを使って落雷を防いだようで、志摩子さんを中心にドーム状の結界のようなものが小範囲に広がっていた。
 志摩子さんと一緒にいた乃梨子ちゃんは落雷による音に驚いたのか、それとも雷自体に驚いたのか、両手で頭を抱えるようにしてその場に蹲っている。巻き添えにしてしまった事は申し訳なく思うのだが、志摩子さんが結界を張るだろうと予想していたし、たとえその予想が外れていたとしても雷はきちんと制御しているので乃梨子ちゃんが傷付く可能性は万に一つもなかった。ちなみに、志摩子さんが張っている結界は恐ろしく頑丈で、雷程度ではまず破壊する事ができない代物だ。
「その恥ずかしい格好を見るのも随分と久しぶりに思えるよ。ほんの数ヶ月の間、見なかっただけなのにね」
「あんまり見ないで」
 恥ずかしそうに志摩子さんが身を捩った。
 今の志摩子さんの格好は、祐巳のいた世界での平均的魔女っ娘スタイルである。どうでもいい事だが、地域によって微妙にデザインが違うらしい。ちなみに魔法を使う時は、ステッキを握って呪文を唱えた後に魔法の名前を叫ぶ。魔女っ娘が魔法を行使するための神聖な儀式なんだそうだ。基本的にそうしないと威力が落ちてしまうらしい。
「こっちの世界の由乃さんに会ったよ」
 志摩子さんの細い眉が、祐巳の口から出た「由乃さん」という名前に反応してピクリと動いた。
「剣道部に入ってて、強くなりたいんだってさ。向こうの由乃さんは強かったのに、こっちではそうじゃないみたいだね。でも、どんなに強くても死んじゃったら意味がないと思わない?」
「死んじゃったら……って、まさか由乃さんが……」
「うん、そのまさか」
 友人だった人が亡くなったと知ってショックを隠せない様子の志摩子さんを眺めながら、祐巳は意地悪く口元を歪めた。
「ついでだから良い事を教えてあげる。由乃さんが亡くなったのは今から四ヶ月前。ちょうど志摩子さんがあの世界から姿を消した日なんだ。これがどういう事か、賢いあなたなら当然分かるよね?」
「っ!」
 なぜ由乃さんが亡くなったのか、その理由に思い当たる節があったらしい志摩子さんが息を呑んだ。
「その様子だと分かったみたいだね。私さ、あの時に志摩子さんがいなくならなければ、由乃さんはきっと生きていたと思うんだ。ね、一つ聞いても良い? 自分が原因で友人が死んだ事を聞かされるのって、どんな気分?」
「――」
 志摩子さんがこれ以上ないくらいに顔を強張らせたのを見て、祐巳は冷笑を浮かべた。
「あなたがいなくなったせいで由乃さんはあいつらに殺された」
 後方支援を担当していた志摩子さんが戦闘中に突然姿を消してしまい、由乃さんは化け物の群れの中で孤立してしまった。
 置き去りにされてしまった由乃さんの無惨な姿を、今でもはっきりと覚えている。彼女の身体は蟲たちに喰い荒らされて原型を留めていなかった。血溜まりの中、微塵に破壊されて転がっていた肉の欠片に見覚えのあるロザリオが引っ掛かってなければ、それが彼女だと判別できなかったほどだ。
「知ってるよね? 私が、たとえどんな理由であろうと仲間を裏切る事だけは絶対に許さない事」
 ミシッ、と志摩子さんの張っている結界が軋んだ。空を埋め尽くしている雷雲から伸びた稲妻が、結界に向かって絶え間なく降り注いでいるからだ。
「……由乃さんの死が、私のせいだという事は認めるわ。でも私だって、望んでここに来たわけでは……」
「その割には、そこの乃梨子ちゃんと幸せそうにしていたように見えたけど? 突然姿を消した志摩子さんの後を継いで、苦労しながらも立派に白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)をやっていた乃梨子ちゃんが哀れだわ。ね、それだけで十分、裏切ってると思わない?」
「……」
 あちらの世界の乃梨子ちゃんを思い出したらしく、志摩子さんが悲しげに瞼を伏せた。
(さて、と)
 もういいだろう。これ以上彼女を苛める意味も必要もないし、自分も大分落ち着いてきた。それに凡その事情を察した今、志摩子さんと本気で喧嘩をしたいわけでもない。
 祐巳は表情を崩して、「なーんてね」と志摩子さんに向かって悪戯っぽく微笑んでみせた。
「え?」
 急に態度を変えた祐巳に対して、志摩子さんが目を白黒させる。
「私も今ここにいるわけだからね。ある程度の事情は分かっているつもり。志摩子さんも私と同じなんでしょ? それなら、由乃さんの事は志摩子さんのせいなんかじゃないよ。色々と酷い事言ってごめんね」
「私を……許してくれるの?」
「許すも何も、望んでここに来たわけではないんでしょう?」
 戦闘中に別世界に飛ばされるだなんて、夢にも思わなかっただろう。だから、由乃さんの事は志摩子さんのせいではない。それに、由乃さんならきっと、自分の事で祐巳が志摩子さんを責めているのを見れば激怒するだろう。彼女は友達想いで、とても優しい人だったから。
「私も落ち着いてきたし、もう結界は解いても良いよ」
 祐巳の言葉を聞いて志摩子さんが空を見上げた。
 彼女と同じように空を見上げると、空は澄んだ青色をしていた。



 見渡せば、あちこちに落雷の痕。衝撃で抉れた地面に、枝を砕かれた銀杏の木々。普通こんな所に落雷などしないのだろうけれど、してしまったのだから仕方がない。とはいえ、世の中には不思議な事がたくさんあるので、あまり気にしなくても良いだろう。きっと。
「祐巳さん、そういうわけにはいかないわ」
「あ、やっぱりそう思う?」
「どうするの?」
「とりあえず、人が集まってこないうちに逃げよっか」
 志摩子さんとの短い会話の後、何が起こったのか分からずに混乱したままの乃梨子ちゃんを連れて祐巳たちは急いでその場から離れた。
 積もる話もある事だし――とどこか気兼ねなく話せる所を探していた祐巳たちは、おそらくこの学園で最も(どころか、全くと言っても良い)人の来ないであろう場所、屋上を見付け出して――現在そこにいた。
 屋上に出る扉には鍵がかかっていたけれど、志摩子さんがいるので全く問題がなかった。魔法で開錠し、あっさりと外に出る事ができた。それを見ても驚かなかった所を見ると、乃梨子ちゃんは志摩子さんが何者なのか知っているようだ。大方、嘘の吐けない性格の志摩子さんが馬鹿正直に話したのだろう。
「聞かせて、私がいなくなった後の事」
 祐巳が青く晴れている空を見上げていると、その馬鹿正直な志摩子さんが話しかけてきた。
「良いけど、代わりに志摩子さんの事も教えてくれる?」
「ええ、勿論よ」
 話したい事はたくさんあるのだ。



「――そして、乃梨子と出会ったの」
 志摩子さんの話によると、彼女はこちらのリリアン女学園高等部の入学式当日に飛ばされたらしい。元の世界にいた時の志摩子さんは二年生で姿を消したのが九月だったので、どういうわけか一年と五ヶ月ほどの時間のずれが生じた事になる。
 おそらく「世界」によって住居や人間関係など自分に関する事柄全ての辻褄を合わされた志摩子さんは、人の持つ力では他世界への移動はできない――つまり、自力では元の世界に戻れない事を知っていて、自分の身に突如として降りかかった災難に途方に暮れて桜を見上げていた時にこちらの世界の佐藤聖さまと出会ったそうだ。そして、あちらの世界の時と同じようにお互いに惹かれ合い、自分が魔女っ娘である事を告げたりと色々あった末にめでたく聖さまと姉妹(スール)になった志摩子さんは元の世界に戻る事を完全に諦めたらしい。その一年後にこちらの世界の乃梨子ちゃんと出会い、今では白薔薇姉妹として二人で活躍している、との事。
「そっか。志摩子さんは志摩子さんで大変だったみたいだけど、幸せでもあったんだね。こっちが必死で戦ってる最中に。あのさ、もうちょっと苛めても良い?」
「お願いだからやめて」
「仕方ないなぁ、無事な姿を見せてくれた事だし許してあげる。じゃあ、次は私の番だね」
 あっちの世界の話は、はっきりと言えば面白くない話だ。志摩子さん一人が姿を消した所で何も変わりはしない。時間が経過するごとに生き物が減っていく。ただ、それだけだ。
 劣勢なのをどうにかしたくても、自分たちの生活圏内に現われた化け物を狩るくらいの事しかできなかった。それくらいの事しかできないほど、皆消耗し切っていた。
 そして一番厄介な、空に浮いている目玉に関しては全く手出しができない。人々の期待が込められたミサイルは、音速で飛んでくる巨大トンボの群れに体当たりされて発射と同時に撃墜された。その後も何とかミサイルを撃とうとしたのだが、その度にどう嗅ぎ付けているのかは分からないが必ず奴らの襲撃に遭うためにミサイルで撃墜という手段は諦める事となり、人類はいきなり手詰まりとなった。
 では、本当に何もできないのか? と問われれば、そうでもない。実はあの目玉をどうにかできそうなものは、魔法ならばあるのだ。
 それは、頭のネジが数本外れた太古の魔法使いたちが開発した究極の魔法。完成したので試しに一発撃ってみたら自分たちは消し飛んで、ついでとばかりに世界に氷河期が訪れたっていう伝説の魔法だ。
 しかし、仮にそれを使って目玉を墜とす事ができたとしても、あんな状態の世界に氷河期が訪れたら結局人類は滅ぶだろう。でも最終的には、あんな目玉にやられっ放しなのは癪だし、生き残っている魔法使いの人たちが力を合わせて撃つんじゃないかな? いや、撃っちゃうんだろうなぁ、と思う。
 祐巳としては是非とも見てみたかった。だって、究極の魔法だ。それをこの目で見る事ができるのなら、命を懸ける価値は十分にある。忘れているかもしれないが、祐巳だってあの世界の住人なのだ。易々と死を受け入れるつもりはないが、面白ければそれに命を賭ける。
 ぐっ、と拳を強く握り締めながら祐巳は熱く語った。
「祐巳さん、話がずれているわ」
「ごめん。いつの間にか脱線してた」
「……」
 志摩子さんと一緒に話を聞いていた乃梨子ちゃんが、大きく溜息を吐いたのが見えた。



 祐巳の話が終わると、聞いていた志摩子さんは呆然としていた。
「ほぼ全滅……」
「うん、ほぼ全滅。多分、次かその次の攻撃で焼かれて全滅だと思う」
 向こうの世界の日本は、幾つかの地方の都市との連絡は取れなくなっていたが、とりあえずまだ無事と言えた。このリリアン女学園だって、通常の授業こそ行われないが傷一つ付かずに残っていた。
 でも、もう焼かれているかもしれない。日本程度の広さなら、あの目玉による攻撃で一週間と経たないうちに焼かれてしまうだろう。運が良い、と言えば良いのか。それとも、悪い、と言うべきなのか。あの目玉の攻撃目標にされなかったために次々と近隣諸国が焼かれていく中、次こそ我が国だろうか、と順番待ちの死の恐怖に怯えながらも今まで残っていたのだ。けれど、それも直に終わる事になるだろう。焼かれずに残っている国なんて、もう日本くらいしか残ってはいなかったから。
「勝ち目はゼロ。と言っても、ずっと分かってた事だけど」
 滅びるしかない、と誰もが理解していた。
「このままだと、私と志摩子さんがあの世界の生き残りって事になるのかな」
 きっと、そうなるだろう。あの状況を引っくり返す事のできる手段なんて存在しない。もしもそんな手段があったなら、もう実行されていたはずだ。
「という事は、あの世界があのまま滅んだとしても私たちがここにいる事によって、あの世界の生物が絶滅って事だけは免れる事ができるわけだ。ひょっとして私たちって、すっごいラッキーなんじゃない?」
「祐巳さんっ!」
 ちょっとした冗談を言っただけなのに、志摩子さんがきつい目をして睨んできた。
「はいはい、分かってるって。ただの冗談よ、冗談」
「たとえ冗談でも、言って良い事と悪い事があるのよ」
 厳しい表情を崩そうとしない彼女を見て、志摩子さんってば頭が固過ぎるのよね、と嘆息する。
「そんなに怖い顔しないでよ。あっちに戻る手段が見付からないし、こうやって冗談でも言って気を紛らわすくらいの事しかできないんだから」
「それでも、先ほどの冗談は性質が悪過ぎると思うわ」
 銀杏並木で散々苛めてやった事を根に持っているのか(違うと思うけれど)、ここぞとばかりに言ってくる志摩子さんに、さすがに広い心を持つ(と自分では思っている)祐巳も腹が立ってきた。
「あの世界に戻る事を諦めた志摩子さんに、性質が悪い、なんて言われたくないわね」
 ほんの少し(だと思う、きっと)の悪意を込めて言い返してやると、痛い所を突かれた志摩子さんの表情が歪んだ。
 そんな彼女の様子がおかしくて、目を細めながら祐巳は続けた。
「この平和な世界で、あっちと同じように聖さまや乃梨子ちゃんと出会って、それで満足していたんでしょ? ううん、それどころか、あの世界の事なんて私と再会するまですっかり忘れていたんじゃないの? そこにいる乃梨子ちゃんと幸せそうにしていたもんね。そっちの方がよっぽど性質が悪い、と私は――」
 思うんだけど、と続けようとした時、今まで黙って祐巳たちの会話を聞いていた『そこにいる乃梨子ちゃん』が、「待ってください!」と大声を上げて口を挟んできた。
 どうやら大好きな志摩子さんを貶されて、黙って見ている事ができなくなったらしい。彼女は親の敵でも見るような目をして、祐巳を強く睨んでいた。
「何か用?」
「祐巳さま、とおっしゃいましたよね」
 確認するように聞いてきた乃梨子ちゃんの言葉で、自己紹介をしていなかった事を思い出す。祐巳は乃梨子ちゃんの事を知っているけれど、乃梨子ちゃんは祐巳の事を知らないのだ。それでも祐巳の名前を彼女が知っていたのは、今までの志摩子さんとの会話で耳にしていたからだろう。
「そうだけど?」
「では、祐巳さま。どんな理由があるにせよ、先ほどの発言は行き過ぎだと思います」
 私たちの世界の住人ではないあなたは黙ってなさい、と言い返してやっても良かったのだけれど、わざわざそんな事を言って乃梨子ちゃんとの関係まで悪くする事はないだろう、と考えて頷いておく。
「そうね。確かに言い過ぎた。それについては謝っても良い。でもその前に、どうしても志摩子さんに尋ねたい事があるの。それくらいは構わないよね?」
 尋ねるような口調で、けれど乃梨子ちゃんの返答なんて待たずに志摩子さんへと視線を戻す。
「あの世界の乃梨子ちゃんの事は、もうどうでもいいの?」
「……それを本気で言っているのだとしたら、私はあなたを許さないわ」
 先ほどの乃梨子ちゃんと同様――けれど比べ物にならないほどの鋭さを持った眼差しで、祐巳を睨み付けながら志摩子さんが答えた。浮かべている表情も随分と険しく、彼女からは殺気すら感じられる。
(ふうん、まだそういう顔ができるんだ?)
 今の志摩子さんが浮かべているのは、祐巳たちの世界で恐れられていた、彼女の隠し持つ魔女としての顔だ。
 しかし、だからといって恐怖に身を竦めるような祐巳ではない。あちらの世界では志摩子さん同様、祐巳もまた皆から恐れられていたのだ。
「だったら、もしあの世界に戻る方法が見付かったらどうするの? あの世界の乃梨子ちゃんとこの世界の乃梨子ちゃん、あなたはどちらの乃梨子ちゃんを選ぶの?」
「それは……」
 志摩子さんの顔から魔女としての顔が一瞬で消え失せた。代わりに浮かんだのは、今にも泣き出してしまいそうな表情。
「それは、何? どっちなのよ?」
「……」
 志摩子さんは答えなかった――いや、答えられなかった。志摩子さんは何も答えられないまま俯いてしまった。
 言葉にして答えられるような事ではない、とは尋ねた祐巳にも分かっている。というか、答えてくれるのを期待して尋ねたわけではない。はっきりと言えば、答えなんてもう分かっているし、そもそもこの質問に意味なんてないのだ。彼女が元の世界に戻ろうが戻るまいが、祐巳としてはどちらでも構わない。それを決めるのは祐巳ではなく、志摩子さん本人だからだ。同じ世界の住人だからといって自分が口出しするべき事ではない、と思っている。
 けれどあの世界には、この世界の彼女とは違うもう一人の二条乃梨子っていう子がいる事を忘れないで欲しかった。
(ねえ、志摩子さん。乃梨子ちゃんが言ってたんだ。志摩子さんは逃げたりなんかしていないって。何か理由があって、帰ってくる事ができないだけなんだって。そして、たとえこのまま帰ってこなくても、あなたが無事でいてくれるのならそれで構わないって。ただ、あなたには生きていて欲しいって、そう言ってたんだよ)
 志摩子さんの後を継いで白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)となった乃梨子ちゃんは、志摩子さんが原因で苦労していた。当時の白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)だった志摩子さんの突然の失踪。それによる由乃さんの死。どこの世界にも存在する、他人の足を引っ張るのが大好きな人たちの批難の矛先は、志摩子さんの妹(プティ・スール)であった乃梨子ちゃんへと向けられたのだ。
 もしも志摩子さんがあの世界にずっと存在していたなら、由乃さんは生存していただろうし、乃梨子ちゃんも余計な苦労などせずに白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)を継いでいたはずだ。少なくとも、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だった自分よりも格段に上の器を彼女は持っていた、と祐巳は思う。
(でも……乃梨子ちゃんはどんなに辛くても、あなたの悪口を言った事なんて一度もないんだよ)
 俯いている志摩子さんの姿を眺めながら、あちらの世界の乃梨子ちゃんの事を思い浮かべていると、
「祐巳さま!」
 祐巳の意地悪な質問によって落ち込んでしまった志摩子さんを見て相当頭にきたらしく、こちらの世界の乃梨子ちゃんが祐巳に向かって再び怒鳴ってきた。
「あのさ、少しの間だけで良いから黙っててもらえない?」
 今、すっごく良い感じにあっちの世界のあなたの事を思い出していたのに、と心中で付け加える。
「黙ってなんていられません! 今すぐ志摩子さんに謝ってください!」
(……うん)
 向こうの世界と同じく、こちらの世界でも志摩子さんの妹(スール)は見た目よりも気が強いらしい。
(この子もやっぱり乃梨子ちゃんだ)
 上級生である祐巳に向かって物怖じせずにはっきりと言ってくる彼女によく知っているもう一人の彼女の面影を見付けて、これなら志摩子さんもあの子の事を忘れはしないだろう、と思った祐巳はこちらに掴みかかってこようとしていた乃梨子ちゃんの手を引いた。突然の事に頭が回らなかったらしい乃梨子ちゃんは、祐巳に抱き寄せられるままだった。けれど、すぐに自分の状態に気が付いて、祐巳の腕の中で暴れ始める。
「いきなり何するんですか!」
「何って、乃梨子ちゃんの抱き心地を堪能してるの。妹(プティ・スール)ってさ、どの子も皆乃梨子ちゃんみたいに抱き心地が良いのかな?」
「そんな事は知りません。それよりも早く放してください」
 何とか祐巳の腕を振り解こうと暴れ続ける乃梨子ちゃん。こんな所もやはり同じだ。
(妹(スール)……か)
 向こうの世界には、この子だ、と思える子がいなかった。もしかすると存在していたのかもしれないが、出会わなかった。案外、例の蟲たちに殺されていたのかもしれない。
「志摩子さんが答えられなかった事、気にしてるよね」
 暴れ続ける乃梨子ちゃんの耳元でそう囁いてやると、彼女の抵抗が目に見えて弱くなった。
 他人の前ではあまり感情を表に出さない乃梨子ちゃんだけれど、志摩子さんの事が大好きだから、その大好きな志摩子さんのちょっとした言動で喜んだり落ち込んだりする。
 だから、きっと内心ではすごくショックを受けているんだろうな、と思い、
「元の世界に戻る事を諦めた志摩子さんには、この世界で姉妹(スール)になった子がいるの。それが答えよ。言葉にする事はできなくても、答えなんてもう決まっているの」
 俯いたまま何も言わない志摩子さんに代わってフォローしてみたのだけれど、効果は覿面だったようだ。今まで暴れていたのが嘘だったかのように、彼女は全く身動きしなくなった。
 乃梨子ちゃんがすっかり大人しくなった所で、祐巳は彼女を腕から解放しながら未だに俯いたままの志摩子さんへと顔を向けた。
「ごめん、意地悪な質問だったね。別に、志摩子さんを責めるつもりはなかったの。それに、答えて欲しかったわけでもないのよ。あの世界の乃梨子ちゃんの事、忘れたのでなければそれで良かったんだ」
「え?」
 顔を上げた志摩子さんはキョトンとしていた。そんな彼女の様子が素敵過ぎてまた何かからかってやろうかと思ったのだけれど、これ以上苛めるのはかわいそうだし、また乃梨子ちゃんに怒鳴られそうなので彼女の事は放置しておく。
 その代わり、解放されたと同時に素早く祐巳から距離を取った乃梨子ちゃんへと話しかける。
「乃梨子ちゃん」
「何ですか」
 こちらに近付かないよう警戒しながら返事をした乃梨子ちゃんに、向こうの世界の彼女と全く同じ反応をしてくれるわね、と祐巳は内心で苦笑いを零した。
「私が言うような事じゃないけど。できれば、これからもずっと志摩子さんの傍にいてあげてね」
 まさかそんな事を言われるとは思ってなかったのか、乃梨子ちゃんが目を丸くした。
 あのさ、そこまで驚かなくても良いじゃない? これでも一応志摩子さんの友人なのよ、なんて思いながら身を翻して出口へと向かう。
「祐巳さん?」
 志摩子さんが背後から声をかけてくるが、祐巳は何も答えずに足を進めてドアノブに手をかけた。しかし、そこで動きを止めてしまう。
 本当は何も言うつもりなんてなかったのだけれど、まあ別に構わないか、と後ろを振り返らずに口を開いた。
「今日はこれで帰るから。また明日……ね」
 志摩子さんはどう思ったのだろうか。そんな事は知らない。彼女は「ええ、また明日」と、ごく当たり前の事のように言葉を返してきた。
(また明日、か)
 志摩子さんたちに背を向けたまま、祐巳は瞼を閉じて微かに笑みを浮かべた。
(随分と久しぶりに口にしたな)
 それは、明日を迎える事ができるかどうか分からないあの世界では、そう簡単に口にする事ができなかった言葉なのだ。



 お昼休みに発見した財布の中には、嬉しい事にお金だけではなくバスの定期券も入っていた。
 その定期券に記されていた乗車区間から、こちらの世界の自宅の場所はあちらの世界の自宅のある場所と同じ所だと推測してバスを使ってここまでやって来た祐巳は、
「お邪魔しま〜す……っていうか、正確には『ただいま』なんだけど……」
 自分にしか聞き取れないほどの小さな声を発しながら扉を開いた。
 玄関に、下駄箱に廊下。
 見慣れた光景が目の前に広がるのを確認しながら、大きく深呼吸。
(同じ匂いだ……)
 気付かない事が多いけれど、家には長年染み付いた、その家特有の匂いがある。それは、芳香剤や消臭剤、或いは化粧品や薬。もしかしたら、洗剤や柔軟剤の匂いなのかもしれない。
 祐巳の嗅いだこの家の匂いは、あちらの世界の自宅の匂いと同じものだった。
 気配を殺しながら玄関へと入り音を立てないように扉を閉めた後、すぐさま下駄箱の中を確認。そこに存在する一足の靴を視界に入れて、祐巳は緊張を解いた。
(どうやら私の住んでいる家で間違いないみたいね)
 やはり「世界」によって辻褄を合わされているようだ。下駄箱の中には、あちらの世界で祐巳が使っていた靴があった。この靴がここに存在するという事は、この家に福沢祐巳という人物が存在していて、尚且つ住んでいるという事になる。
(これで私の考えが正しいものだと証明されたし、同時に住む場所という問題も解決した……んだけど)
 問題はまだ残っている。それも、おそらく一番厄介な問題が。
 履き慣れている皮靴を脱ぎながら、祐巳は廊下の先へと視線を向けた。
(由乃さんがそうだったから、そうかもしれないとは思っていたけど)
 ここからでは見えないが、扉で仕切られたその奥に複数の人の気配を感じる。数は三つだ。見覚えのある靴も並んでいる事から、父と母と弟のもので間違いないだろう。
(何ていうか、複雑な気分だ……)
 そこにいるだろう家族が本当の家族ではないから。
(とりあえず、笑って挨拶すれば問題ないはず。よし、そうと決めたらまず笑顔。ほら、笑え。笑顔なんて簡単に作れるでしょ、私?)
 そうやって自分に言い聞かせて、祐巳は笑顔を浮かべた。
 自分の姉であると、「世界」によって記憶を書き換えられているだろう弟のために。自分たちの娘であると、「世界」によって記憶を書き換えられているだろう両親のために。
 姉として。娘として。家族として。彼らの記憶にあるだろう祐巳の笑顔で、あちらの世界では既に亡くなっている家族たちに「ただいま」と帰宅を告げるために。
 祐巳は感情を心の奥底に押し込めながら、歩き慣れた廊下へと足を踏み入れた。



 二日目、朝。
「お待ちなさい」
 銀杏並木の突き当たりにある真っ白なマリア像の前を通り過ぎようとしていると、凛としたよく通る声の何者かに呼び止められた。
 通常であれば、身体全体で振り向いた後に「何かご用でしょうか」と一言添える所なのだけれど、
(この私に向かって、『お待ちなさい』だと? 死にたいの? ひょっとして自殺志願者?)
 今朝の祐巳は非常に機嫌が悪かった。
 というのも、ちゃんと理由がある。それは昨夜の事だ。
「祐巳、国語辞典貸して――」
 弟である祐麒が、祐巳の着替え中にいきなり部屋の扉を開けてくれたのだ。幼少の頃ならともかく、まさか高校二年生にもなって弟に下着姿を披露する事になるとは思ってもみなかった。
 勿論、祐巳は不届き者に対して即座に報復した。
「うわっ! ごめ」
 ん、を言う前に、その場から吹っ飛ばしてやる。哀れな不届き者は部屋の中で巻き起こった突風によって吹き飛ばされると、背後の壁に強かに頭をぶつけて気を失った。乙女の肌を許可なく目にした代償は高く付くのだ。本当は記憶がなくなるまで痛めつけてやっても良かったのだけれど、それを実行しなかっただけありがたく思ってもらいたい。
 けれども、幾ら報復した所で自分が下着姿を見られたという事実は消えないのだ。それに、廊下に横たわって失神している祐麒が頬を赤らめていたのも何か嫌だった。更に付け加えるならば、自分で巻き起こした突風によって部屋の中のものがあちこちに散らばってしまい、それを片付けるのに時間を要した事にも腹が立った。
 以上、それらの事を日付が変わっても引き摺っているので今の祐巳は機嫌が悪いのだ。
「私に何か用――」
 不機嫌さを隠そうともせずに、しかめっ面で振り向いた祐巳の瞳に長い黒髪を持つ長身の女性の姿が映り込んだ。その落ち着いた雰囲気から察するに、おそらくは祐巳よりも年上。しかも、思わず溜息を零してしまいたくなるほどの極上の美女。
 彼女を見て、何だか楽しそうな事になりそうだ、と感じた祐巳はそれまでの機嫌の悪さが一気に吹き飛んだ。しかめっ面を一瞬で引っ込めると、代わりに胸をワクワクさせながら尋ねる。
「失礼しました。私に何かご用でしょうか」
「持って」
 彼女が鞄を差し出してきたので、素直にそれを受け取る。けれど残念ながら、開くと何かとんでもないものが出てくる、というわけではないようだ。少々落胆していると、鞄を受け取った祐巳の首の後ろに彼女が手を伸ばしてきた。
「タイが曲がっていてよ」
 祐巳が通っているリリアン女学園の制服は、緑を一滴落としたような光沢のない黒い生地が使用されており、ワンピースでローウエストのプリーツスカートは膝下丈。黒のラインが一本入っているアイボリーのセーラーカラーはそのまま結んでタイとなるのだが、通学に使用しているバスの中でそうなったのか、家を出る時にはちゃんと整えていたはずのそれが、いつの間にか見事に曲がってしまっていた。
 どうやら彼女は、それが気になって祐巳を呼び止めたらしい。曲がっているタイを直す事くらい自分でも簡単にできるので断っても良かったのだけれど、せっかくの好意(だと思う)を無碍にする事もないだろう、と考えて彼女の好きにさせておく。
(で、この美女が誰なのか、という問題は、とりあえず脇にでも置いておく事にして)
 それよりも、妙に慣れた手付きでタイを直す彼女を眺めていて気が付いた事がある。それは、彼女の表情。ボーっとしているというか、夢見心地というか、何とも不可思議な表情を浮かべているのだ。
 この名前も知らない美女が、どうしてそんな表情を浮かべているのか、なんて当然の事ながら祐巳には全く心当たりがない。だからといってそれを尋ねるのは、おそらく純粋に好意でタイを直してくれているのだろう彼女に悪い気がする。
(それはそれとして、こうして人にタイを直してもらうのは久しぶりだなぁ)
 他人のタイを結ぶのは、自分のタイを結ぶのとは随分と勝手が違うそうだ。祐巳のタイを綺麗に結ぶ事にかけては世界一だと自負していた人が、「私はハンガーにかけた自分の制服で、繰り返し何度も練習したわ」と言っていた。
(……おかしな所で努力する人だったな)
 その人の事を思い浮かべながら頬を緩めていると、何の前触れも脈絡もなく、どこからか強い視線を感じた。
 気になったので顔を動かさないように注意しながら目だけで周囲の様子を探ってみると、祐巳たちから数メートル離れた所に昨日知り合った素晴らしい縦ロールを持つ少女――つまり、瞳子ちゃんの姿を発見。どうやら彼女がこの視線の主らしいのだが、何だか様子がおかしい。酷く動揺しているように見える。
「身だしなみは、いつもきちんとね。マリア様が見ていらっしゃるわよ」
(おっと、マズイマズイ)
 聞こえてきた美女の声に慌てて視線を戻す。
 タイを直し終えた彼女はそれで満足したらしく、祐巳から鞄を取り戻すと「ごきげんよう」と残して校舎へと向かって歩いて行った。
 いったい何だったんだろう? と彼女の後ろ姿を見送った後、今度は瞳子ちゃんの方へと視線を向ける。すると彼女は、今夜の夢に出てきそうなほど怖い顔で祐巳を睨んでいた。
「ごきげんよう。機嫌悪そうだけど、どうかしたの?」
「今のはどういう事ですか」
 うわぁ、怖いよ瞳子ちゃん。意地悪な継母って感じがするよ、とか。その顔はやめた方が良いと思うよ、とか。私の挨拶は無視か、などなど彼女に向かって言いたい事がたくさん浮かんだのだが、わざわざそれを口にして怒らせなくても良いだろう。
 それよりも『今のはどういう事ですか』だって? そんなの、
「私が聞きたい」
 に決まっている。わけ分かんなかったし。
「は?」
 先ほどまでの怖い顔とは一転して、間の抜けた面白い顔を披露してくれる瞳子ちゃん。さすがは百面相の後継者だ、と勝手に感心してあげた。
「いきなり呼び止められてタイを直された。どう、綺麗になってる?」
「え? ええ、それはもう綺麗に……じゃなくて! ……あなたの相手をしていると、どうしてだか調子が狂ってしまいます」
 大きな声を出したと思ったら、今度は溜息を吐く瞳子ちゃん。何だか忙しそうだ。
「じゃあ、対策として話しかけない事をお勧めするよ」
「……何馬鹿な事をおっしゃっているんですか」
 瞳子ちゃんの言葉に、多少は私の事を気にしてくれているんだね、と少しだけ嬉しく思った。
「ところで、さっきのが誰か、瞳子ちゃんは知ってるの?」
「この学園に通っている以上、知っているのが常識と言っても良い方です」
 悪かったわね、常識がなくて。あんな人、知らないんだから仕方ないじゃない! と心の中で反論していると、
「ですが祐巳さまは昨日転入されてきたばかりだそうですし、知らなくても仕方がありませんね」
 と、瞳子ちゃんが続けて言った。
 ちゃんとフォローしてくれた彼女に向かって、心の中で「ゴメンナサイ」しながら首を傾げる。
「あれ? 何で私が転入してきた事を知ってるの?」
 祐巳の記憶が確かなら、転入生だという事を瞳子ちゃんには伝えなかったはずだ。
「昨日、部活が終わった後に薔薇の館に寄ったんです。その時に、由乃さまから教えていただきました」
 そういえば、由乃さんがクラスメイトだという事は言った覚えがある。
「まさか転入生だとは思いませんでしたよ。それも昨日からだなんて。昨日は朝と放課後に二度もお会いしたんですから、その時に教えてくだされば良かったのに。まったく」
 ブツブツと文句を言ってくる瞳子ちゃん。こちらに向けられている彼女の視線が段々と険しいものに変わってきたので、これ以上酷くならないうちに謝っておく。
「ごめんね。つい言い忘れていたの」
「普通は言い忘れたりしません」
「いや、だってほら、私って普通じゃないし」
 自分を指差しながら言った祐巳の足元から頭の先までまるで品定めするかのように見た後、瞳子ちゃんは納得がいったとばかりに大きく頷いた。
「そうですわね」
(……いや、否定して欲しかったんだけど)
 私に対する認識を色々と改めさせてやりたい、と本気で思ったのだけれど、このまま話を脱線させ続けるのは時間の無駄にしかならないのでこの辺りで元へと戻してやる。
「ね、私の事は置いておいて。それよりも、さっきの人が誰なのか、そろそろ教えてもらえないかな?」
 尋ねはしたのだけれど、祥子さまだよね、と実はもう分かっている。単に確認のために尋ねただけだ。
 あの美女が祥子さまだという事は、祐巳が最初に尋ねた時に瞳子ちゃんが返してきた『この学園に通っている以上、知っているのが常識と言っても良い方です』という言葉で分かった。この言葉から祐巳が連想したのが、薔薇さま。なぜなら薔薇さまと言えば、このリリアン女学園に通う生徒にとって憧れの存在。『知っているのが常識』に当たる存在だからだ。
 そして祐巳は、昨日の由乃さんの話で白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)と黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)の事は確認済み。この二人は自分が元いた世界でも同じだったので顔を知っている。というわけで、『知っているのが常識』な薔薇さま方の中で祐巳が知らない薔薇さまは、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)である祥子さま一人だけとなるのだ。
 祐巳の考えていた通り、瞳子ちゃんは「小笠原祥子さまです」と答えた。
 さすがは私だ今日も冴えてる、と自分を褒め称えながら気になっていた祥子さまの様子の事を尋ねる。
「私のタイを直している時、何だかボーっとしてるように見えたんだけど?」
「祥子お姉さまは朝に弱いんです」
「そうなんだ? ひょっとして低血圧なのかな」
 線の細い人だったし、そんな気がしないでもない。でも、あの時の祥子さまの様子は気のせいかもしれないが、ただ単に朝に弱いから、というのとは違ったような気がする。確認する術なんてないので、今更気にしても仕方がないのだけれど。
「ところで、そういう事って勝手に喋っちゃっても良かったの?」
 祐巳だったら、自分のいない所で勝手に「朝に弱い」とか言われても全く気にしないが、世の中にはそうではない人もいる。祥子さまが祐巳と同じであるとは限らないのだ。もっとも、喋っても良いと判断したから喋ったのだと思うのだけれど。
「誰かに知られたからといって困るような事ではありませんし、この程度の事を喋ったからといって怒るような方でもありません」
「ふうん、出来た人なんだね。そういえば、まだ姉妹(スール)になってないのに、どうして『祥子お姉さま』って呼んでるの?」
 つい先ほどもそうだが、昨日から何度もそう呼んでいるのを耳にしている。しかも、随分と呼び慣れているように感じられた。
「私と祥子お姉さまは親戚なんです」
「ああ、それで」
 幼い頃からそう呼んでいたのだろう。どうりで呼び慣れているはずだ。
「で、どうなの? 祥子さまの妹(スール)になる決心は付いたの?」
「……」
 どうやら、まだのようだ。尋ねた途端に瞳子ちゃんの表情が沈んでしまった。もっとも、一日やそこらで解決するような事なら今まで悩んではなかったのだろうけれど。
「何を躊躇っているのか知らないけど、話くらいならいつでも聞いてあげるよ。ただし、面倒臭いから相談は不可」
「ありがとうございます。祐巳さまはなんてご親切なお方なのでしょう――とでも答えれば、満足していただけますか」
 目を細めて、これでもか! ってくらいに冷たく微笑む瞳子ちゃん。
「や、やたらと刺々しく聞こえるのは私の気のせいだよね?」
 祐巳が顔を引き攣らせながら大袈裟に仰け反ると、その反応に満足したのか瞳子ちゃんは「さあ、どうでしょう」と小さく笑った。先ほどまでずっと暗い顔をしていたのだけれど、少しは元気が出てきたらしい。
「とまあ、冗談はここまでにしておいて。せっかくのご厚意なので、この際甘える事にします。お聞きしたい事があるのですが、よろしいでしょうか」
「ん、良いよ。私に答えられる事なら何でも答えてあげる」
 祐巳の返事を聞き、瞳子ちゃんが表情を引き締めた。
「祐巳さまは、どなたかと姉妹(スール)に、とは考えていらっしゃらないんですか」
「転入してきたばかりの私に、その質問はどうかと思うんだけど……そうね。とりあえず、お姉さま(グラン・スール)を作る気はないよ。妹(プティ・スール)の方は、からかい甲斐のある可愛い子が見付かれば申し込んでみるのも良いかな? でも、そういう子にはもうお姉さま(スール)がいるだろうし、今からだと難しいと思うんだよね」
 この世界で姉妹(スール)なんて作る気は全くないのだけれど、詳しく追及されると面倒なので適当に答えておく。
「お姉さま(グラン・スール)の方は、どうして作る気がないんです?」
「『タイが曲がっているわよ』とか、『恥かかせるんじゃないの』とか、口煩く言われたくないから。それに、たとえ今から作ったとしても三ヶ月も経たないうちに卒業されちゃうからね。すぐに悲しいお別れが待っているって分かっているのに作れないでしょ?」
「……そうですか。すみません、突然変な事を聞いて」
 そう言って瞳子ちゃんが頭を下げた。
(適当に思い付いた事を言っただけだから、頭なんて下げなくても良いのに。ううっ、何か凄い罪悪感が……)
 申し訳なく思いながら、伸ばした手で瞳子ちゃんの頭をポンポンっと手のひらで軽く叩いてやる。
「な、何するんですか」
 驚いて、祐巳から素早く距離を取る瞳子ちゃん。
(これで良し、と。後は――)
「瞳子ちゃんは良い子だね。もし祥子さまがいなければ、何が何でも妹(スール)にしていたよ」
 顔を真っ赤にしながら何か言い返してくるのを期待してからかい半分に言ってみるが、
「それは光栄ですね」
 祐巳との付き合い方に慣れてきたのか、期待に反して澄まし顔で返された。口元に浮かべている涼しげな笑みが憎たらしいが、まだまだ甘い。だって、祐巳の本当の狙いは――。
「うん。知り合って間もない私にここまで言わせるってのは、とっても凄い事なのよ。分かる? だから、自信を持って祥子さまの妹(スール)になれば良いの。簡単でしょ?」
 にっこりと微笑みながら言ってやると、瞳子ちゃんが、してやられた、というような顔になった。
「……やっぱり、おかしな方ですね」
「うん、やっぱりよく言われる」
 どちらからともなく笑い合った。作った笑顔でもちゃんと笑えていて自分でも驚いた。
 不思議な子だな、って隣で笑顔を浮かべている瞳子ちゃんを見て思う。
 
 それにしても。
 ああ、平和だなぁ。瞳子ちゃんは可愛いし。熱光線魔法に怯えなくても良いし。……少し退屈ではあるけれど。



 刺激のないつまらない時間が過ぎて、ようやく放課後になった。
 掃除のためか足早に教室から出て行くクラスメイトたちの姿を眺めながら帰宅の準備をしていた祐巳は、隣の席の生徒から声をかけられた。
「福沢祐巳さん、少々お話が」
 そちらに顔を向けると、そこにはフレームなしの眼鏡をかけて、胸元にはロザリオの代わりにカメラを提げているクラスメイトの姿があった。
「そういうあなたは、どこのどなた?」
「これは失礼。私は武嶋蔦子、って同じクラスで隣の席じゃない。ちゃんと挨拶もしたはずよ」
 勿論覚えている。実は向こうの世界でも割と親しかった人だし。
「覚えてるよ。で、何か用? 面白い話なら付き合うけど」
 祐巳が言うと、蔦子さんはニヤリと笑った。
(あー、見覚えのあるとてもヤな笑みだ)
 向こうの世界の彼女も、こういう厭らしい笑みを浮かべる時があった。祐巳にとって都合の悪い事をする時とかに、よく見た覚えがある。
「私が写真部に所属しているのはご存知よね」
「写真部?」
 そうだっけ? 向こうの世界では違ったような気がする。たしか、諜報部に所属してたんじゃなかった?
「ええ、写真部よ。これも挨拶した時にちゃんと言ったはずなのだけれど、覚えてない?」
「ごめん、すっかり忘れてた」
 こちらの学校には諜報部なんてない事を、と心の中で付け足す。
「そう、まあ良いわ。それよりも、これを見て欲しいのよ」
 蔦子さんは一枚の写真を取り出し、それを祐巳に差し出してきた。
「どう? よく撮れているでしょう? 目撃した時は本当に驚いたわ。まるで、姉妹(スール)のように見えない?」
 眼鏡の端をキラーンと輝かせながら自信満々に尋ねてくる。
「姉妹(スール)?」
 首を傾げながら受け取った写真を見てみると、そこに写っていたのは祥子さまと祐巳の二人の姿だった。
(……なるほど)
 蔦子さんの言った通り、こうして二人並んで写っていると姉妹(スール)に見えなくもない。けれど、それだけだ。それ以上は――姉妹(スール)云々については特に何とも思わなかった。それから、生憎と写真の技術に関しては素人なので蔦子さんの腕が良いのかどうかまでは分からない。でも、確かに綺麗に撮れているとは思う。
「これって、今朝の?」
 祐巳の曲がっていたらしいタイを、微笑みながら直している祥子さま。実物を見た時も思ったけれど、写真でもやはり美女だ。羨ましい。
「登校していたら、その場面に遭遇したの。カメラはいつも持っているから、後はシャッターを切るだけだったわ」
「ふーん」
 あちらの世界の蔦子さんも、いつもカメラを首から提げていた。おそらくあのカメラは、蔦子さんの身体の一部なのだろう。取り上げてみたら死んじゃったりするかもしれない。
「で、これを私に見せてどうするの?」
「別に何もしない。学園祭の前だったらパネルにして展示したかったほどの出来だけれど、学園祭はもう終わっているし。だから、それは祐巳さんにあげるわ」
「良いの?」
「ええ」
「そう。じゃあ、もらっておくね」
 蔦子さんのお話とはそれだけの事だったらしい。写真と交換に何か要求してくるだろう、と思っていたのだけれど、こちらの世界の蔦子さんはあちらの世界の蔦子さんほど厄介者ではないようだ。「ごきげんよう」と蔦子さんと挨拶を交わし、もらった写真を適当に制服のポケットに突っ込んで祐巳は帰宅の準備を再開した。



 残っていたクラスメイトたちに挨拶して帰路に着く。
 靴を履き替え、銀杏並木を通り抜けて学園の敷地から出る。一番近くにあるバス停で、バスを待つ事数分。やって来たバスに乗り込んで、空いている窓際の席に腰を下ろす。
 昨日も乗ったのだけれど、バスに乗るのは久しぶりだった。祐巳のいた世界では、もうバスや電車などの公共の交通機関は使えないのだ。
 祐巳以外にあまり人が乗らなかったバスは、すぐに動き出した。それに伴って、窓の外に見える赤い景色が後ろに向かって流れ始める。
 バスが速度を上げると、流れる景色もその速度を上げた。
 次々と流れる景色。けれど、いくら流れようとその色は夕陽に染め上げられていて、いつまでも赤いままだった。
(嫌な色……)
 赤色は嫌いだった。血の色を思い出してしまうから。
 夕陽も嫌いだった。嫌いなその色に世界を染め上げてしまうから。
 でも、祐巳が何よりも嫌いなのは自分自身だった。大好きだったあの人を守る事ができなかったから。
(姉妹(スール)のよう……だってさ)
 祐巳は薄く笑いながら、胸元に隠すように身に付けている十字の形をしたものを制服越しに軽く握り締めた。


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