【1896】 過去から未来へと繋ぐ終わらない時の中で  (朝生行幸 2006-10-04 23:07:19)


 二条乃梨子は、非常に困っていた。

 中学二年になる、新学期を数日後に控えた春休み。
 コツコツと貯めてきたお小遣いやお年玉、お駄賃で、ようやく念願叶ってある寺社──東京郊外にある、その筋では有名なお寺──を訪れることができた。
 乃梨子には、仏像鑑賞という、良く言えば渋い、悪く言えば変な趣味がある。
 今日も散々堪能して、もうお腹いっぱいの幸せ気分で帰宅の途についたというのに、突然の雨が、乃梨子の行く手を阻んだのだ。
「嘘吐くんじゃないよ、天気予報のバカー!」
 しっかりと確認した上で傘を持ってこなかったのに、外れてしまった天気予報。
 悪態を吐きながら、どこか雨宿りが出来そうな場所を探して、辺りを見回せば。
 目に付いたのは、少し離れた場所にある、くたびれた雰囲気の教会。
 いや、くたびれたと言うよりは、古びたと言う方が適切か。
 慌てて玄関先の軒下に駆け込み、やっと一息吐くことができた。
 実際にこの教会、見かけはかなり古く感じるのだが、あちらこちらにしっかり手入れがなされているようで、しかも明らかに人の気配があった。
「参ったなぁ……、門限に間に合わなくなるかも」
 乃梨子に許された門限は午後七時。
 ここから千葉の実家まで帰るには、かなりの時間を必要とするのだ。
 ハンカチで、濡れた箇所を拭きながら、鈍い色の雲を見上げる。
 大きな雨粒が、大地で飛沫を上げ弾け散っていた。

 乃梨子は、こんな行きずりでさえなければ、雨は決して嫌いではなかった。
 少し高台にある我が家の、自室の窓枠に頬杖を突いて、不思議と落ち着く雨音を耳にしつつ、硝子に映る自分の姿越しに、灰色に煙る景色を眺めるのが大好きだった。
 汚れた街を、汚れた道路を、汚れた空気を、全て綺麗に洗い流す天の涙。
 隣の部屋から漏れ聞こえる妹の笑い声が、折角の雰囲気をぶち壊してしまうのが難点だが。
 今も、目の前で途切れることなく降り頻っているというのに、何故かほとんど音が聞こえない静かな雨。
 軒からそっと手を伸ばせば、確かな手応えを伴った雨粒が当たるのに、まるで現実味が感じられない幻のような雨。
 飽きることなく、無心で空を見つめつづける乃梨子の背後で、突然ガチャリと音が鳴った。

 大きな取っ手が、乃梨子の背中に当たった。
「あら」
 扉の隙間から、乃梨子よりも数歳年長らしい少女が顔を覗かせ、少し驚いた表情をしていた。
「ごめんなさい。気が付かなくって」
 眉を下げ、心底申し訳無さそうに謝る“彼女”。
「あ、いいえ。こちらこそごめんなさい」
 教会の中から姿を現した言う事は、“彼女”は、少なくとも客か関係者。
 雨宿りするためだけに敷地に居る乃梨子の方が、明らかに部外者。
 乃梨子は、恐縮しつつも謝り返した。
「帰り道に、急に雨に降られちゃって、勝手ながら雨宿りさせてもらってたところなんです」
「そう、雨が降っていたのね。中に居ると、音が聞こえなくって」
 教会の中は、演奏や斉唱を行うため外に音が漏れ難い造りになっており、それは同時に外の音も中に聞こえ難くなっているということ。
 気付かないのも当然だろう。
「あーあ、このまま止むのを待っていたら、絶対門限に間に合わないだろうなぁ……」
 半分諦めの表情で、ポツリと呟いた乃梨子だったが。
「良かったら、駅まで……でいいのかしら? 一緒に行きましょうか」
「え?」
「一応傘を持ってきているの。折りたたみなので少し小さいのだけれど、ずぶ濡れになるよりましよね」
 肩に掛けていた鞄から、黒い傘を取り出す“彼女”。
「それはとってもありがたいんですけど……、いいんですか?」
「もちろんよ。困った時はお互い様ね」
 “彼女”は、そう言いながらニッコリ微笑んだのだった。

 相変らず降り頻る雨の中、駅までの道のりで乃梨子は、隣を歩く“彼女”に寄り添いながら、自分らしくないとは思いつつも、途切れることなく語りかけていた。
 学校のこと、家族のこと、友人のこと、趣味のこと。
 少しでも会話が途絶えると、次の瞬間、“彼女”の姿がフッと消えてなくなってしまいそうな、そんな気がしてならなかったのだ。
 フワフワとした淡い色合いの長い髪、どこか遠くを見ているような少し潤んだ瞳、抜けるような白い肌は、まるでヒトではないようで。
 目の錯覚だとは思うが、“彼女”の背後には、眩い光のようなものが見えるような。
 そして、“彼女”の桜色の唇から、
「そう」
「そうね」
「それは素敵ね」
 と、相槌が返ってくる度に、まだそこに、確かに存在していることが認識できる。
 何時の間にか乃梨子は、どうしようもなく“彼女”に惹かれていることを自覚していた。
 ずっとこの人の傍に、隣に居ることができたらいいな、と思ってしまうぐらいに。
 しかし時間は、容赦なく二人を追い詰めてゆく。
 駅は、あと数分のところまで近づいていた。

 時刻表は、乃梨子が乗る東行きが先発であることを示していた。
 “彼女”は西行きだが、まだ時間があるからと、わざわざ乃梨子をホームまで見送りに来ていた。
 電車の出発が近いことを知らせるアナウンスが、二人の耳に届く。
「それじゃぁ、ごきげんよう。気を付けて」
「うん。ありがとう、わざわざ送ってくれて」
 急いだ様子で車両に飛び込む人が、数両先に何人も見えた。
「あの、その……また、会えるよね?」
 名残惜しく、“彼女”に手を伸ばした乃梨子。
 “彼女”は、その手をそっと握りながら、
「ええ。縁とお導きがあれば、きっとね」
 と、微笑みながら頷いた。
 ジリリリリリリと、発車のベルが鳴り響き、二人を分かつように、ドアが閉まった。
 窓に張り付くようにして、“彼女”に目を向ける乃梨子。
 手を振る“彼女”の姿は、まるで刹那の彼方に儚く消えるシャボン玉のように、ホームの向こうに流れて行った。

 乃梨子は二年後、“彼女”と運命的な再会を果たしたのだが、日々の慌しさによってか、あの日の出来事を、すっかり忘れてしまっていた。
 そしてある日のこと、乃梨子は、姉の藤堂志摩子を伴って、再びあの寺社を訪れていた。
「志摩子さん、どうだった? なかなかだったでしょ」
「そうね、写真で見たことはあったけど、実物はやっぱり違うわね」
 互いに感想を述べながらの帰り道、まるで二年前を再現するように、急に雨が降り始める。
「また? 志摩子さん、どこかで雨宿りを……」
「あの教会の軒を借りましょう」
 二人は、慌てて古びた教会の軒先に駆け込んだ。
「まったく、ここに来る度に雨が……」
 そこまで言った途端、急に乃梨子を見舞うフラッシュバック。
 彼女は今、全てを思い出した。
 弾けるように振り向いた乃梨子は、後に居る志摩子に目を向けた。
 二年前と全く同じ、フワフワとした淡い色合いの長い髪、どこか遠くを見ているような少し潤んだ瞳、抜けるような白い肌。
 “彼女”が言った、まさにご縁、お導きを確信した乃梨子。

「ねぇ志摩子さん、覚えてる?」

 志摩子は、静かに頷いた。


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