【1897】 薔薇の記憶  (33・12 2006-10-05 11:40:09)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:これ】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】




 世界、と言われるものについて説明しておこう。
 まずは、あらゆる世界の軸として七つの世界が存在している――というのは、私の生まれ故郷では誰でも知っている常識だ。
 私が瞳子ちゃんと出会った世界が第六世界。ここは皆も知っての通り、程良く科学の発達した世界だ。
 その隣にあるのが、私の生まれ故郷でもある第五世界。魔法と科学が融合した、とっても面白くて素敵な世界だ。ただし、様々な種族や凶暴なモンスターも棲息しているので、第六世界と比べると治安が悪い。
 第四世界は魔法が発達した所。あんまり詳しくは知らないんだけど魔法世界と呼ばれているくらいだから、おそらく志摩子さんみたいな力を持つ魔法使いや魔女、魔女っ子が数多く存在しているんじゃないかな? もし行けるのなら、行ってみたい場所ではある。ちなみに、第四世界と同じく人間以外の種族も多数存在しているそうだ。
 第三世界は、魔法や科学では説明できないような現象を起こせる超能力者たちが住んでいる所らしい。色々と面白そうだし、死ぬまでに一度は行ってみたい。
 第二世界は、ただ広大な空間だけが存在している、との事。生物も存在しなければ建物も見当たらないらしい。面白くなさそうな世界だ。間違っても行きたくない。
 第一世界は謎。存在する事だけが確認されている。どうやっても進入(侵入?)も解析もできないらしい。神様でも住んでいるんじゃないのか、と言われている。なぜなら、神様だけはどの世界でも存在が確認されていないから。一応私の知り合いに自称神様がいるんだけど、詳しい事は分からないので保留しておく。
 で、最後に第七世界。ここは情報・機械世界。度重なる戦争による惑星規模の環境変化で殆どの土地が人の住める場所ではなくなり、仕方なく地下に建造された巨大なシェルターに住んでいる人たちのいる場所。そんなになるまで戦争するなんて、本当は馬鹿なんじゃないだろうか、と思うのだが、それを差し引いても彼らの技術力には目を見張るものがある。
 その最たるものが、別世界への転移だ。
 彼らが言うには世界とは膨大な量の情報集合体で、世界同士は必ずどこかで繋がっているそうだ。繋がっているのなら自由に行き来する事が可能なのではないか、と考えた彼らは世界と世界の間に存在する(目に見えるものではないらしい)壁(又は空間)を越えるための方法を発見し、転移を行うのに必要なプログラムと装置を開発した、との事。はいはい、凄いねー。
 とはいえ、彼らの技術を以ってしても生身の身体で転移する事は不可能らしく、人間そっくりに作ったロボットを転移させてそれを操作する事しかできないんだそうだ。いやまあ、それでも十分に凄いと思うんだけどね。だって、彼ら以外に異世界転移だなんていう技術を持つ者はいないのだ。神様にならできるのかもしれないが、その存在が確認されていない以上、意識して別世界に介入できるのは彼らだけという事になる。
 で、そういうとんでもなく凄い第七世界の人たちの事なんだけど、はっきり言って皆の嫌われ者。私も嫌い。というのも、彼らはどいつもこいつも性格が捻じ曲がっているらしく、国家レベルの問題に介入してくれるわ、戦争を引き起こしたりしてくれるわ、他人様の世界でやりたい放題やってくれるから。過去に一度、彼らのせいで私の世界のリリアン女学園は大変な事になり、私も被害を受けた。わざわざその時の事を話したりはしないけど、思い出すと今でも腹立たしい。
 まあ、個人的な恨みは置いておいて。こうやって七つの世界を説明してみると、この第六世界の何と安定している事か。おお、我が第二の故郷よ。私はお前を愛しているぞー! って、大丈夫か私? それはともかく、もうちょっと説明しておかないとね。
 ええっと、これらの七つの世界を軸として、そこから更に数多くの平行世界が広がっている。例えると、何かが微妙に違う世界とか、誰かが欠けた世界とか。身近な所に言い換えると、私が存在しない世界とか、そういう感じ。でも、何事にも限度はあるらしく、私に弟が二十人いるとか、そういう到底有り得ないような世界は存在しないそうだ。
 それから、自分たちの住む世界がそれぞれの世界の基準(軸)の世界なのか、それとも基準の世界から枝分かれした数多に存在する世界のうちの一つ(確率的に考えると、こちらである可能性が圧倒的に高い)なのかどうかは残念ながら解明できていない。
 私ができる説明としてはこの程度なんだけど……せっかくなので、もう一つ付け加えておく。「世界」には意識があるので、あんまり悪い事をしていると天罰が下る。第七世界は、数年前に起こった原因不明の大停電で全世界のネットワークのサーバーがダウンした。それによって、とんでもない金銭的及び人的被害が出たらしい。皆も気を付けようね。
 最後になるけど、これらの情報は第七世界の住人が第五世界に接触を図ってきた際にもたらされたものであり、全てを鵜呑みにするのはどうかと思われる。以上。あー、疲れた。



「――さまっ!」
 自分の発した悲鳴で目を覚ました祐巳は、転がり落ちるようにベッドから下りると四つん這いのまま周囲を見回す。しかし、上下左右どこに視線をやっても闇一色で、何も目にする事はできなかった。その闇の中でコチコチと規則正しく響いている音は、時計の音だろうか。その音に合わせながら乱れている呼吸を整える。
 そうしているうちに周囲の闇にようやく目が慣れてきて、ここが福沢家の自分の部屋だと確認すると、
「はぁ、またか」
 祐巳は立ち上がり、小さく溜息を吐きながらベッドの脇に腰を下ろした。
 汗で肌に張り付いたパジャマがベタベタして非常に気持ちが悪い。季節が季節なので、このままにしておくと風邪を引いてしまうだろう。仕方がないな、ともう一度小さく溜息を吐いた後、祐巳は着替えるためにパジャマを脱ぎ始めた。
(いい加減慣れれば良いのに……なんて、無理か)
 眠りに就けば、必ずあの時の事を夢に見る。おそらく、これから先もずっと慣れる事なんてできないだろう。
 まだ暗いんだけど、いったい何時なのだろう、と汗のせいで脱ぎ難いパジャマと格闘しながらベッドの脇に置いてあった目覚まし時計を手に取ってみると、午前四時を少し過ぎた所だった。どうりで暗いはずだ。
(たしか昨夜は十二時頃にベッドに入ったはずだから、四時間近く眠っていたわけか)
 久しぶりによく眠れたので、今日はもう起きておこうと思う。仮にもう一度眠ったとしても、どうせまた自分の悲鳴で目を覚ます事になるだけだから。



 三日目、朝。
「お待ちください」
 銀杏並木の突き当たりにある真っ白なマリア像の前を通り過ぎてしばらく歩いていると、何者かに呼び止められた。
 昨日もこんな事があった気がするなぁ、と思いながら振り向くと、そこには凛々しい祥子さまのお姿――ではなく、本日も素敵に渦巻いた縦ロールを持つ少女と、無愛想おかっぱ市松人形の組み合わせ。言い方を変えると、瞳子ちゃんと乃梨子ちゃんになる。
 祐巳を呼び止めたのは先ほどの声から瞳子ちゃんだと分かったのだけれど、その瞳子ちゃんはどうしてなのか分からないが、子供を心配する母親みたいな顔をしていた。その隣にいる乃梨子ちゃんは乃梨子ちゃんで、不思議そうな顔して首を捻っている。
 二人がそんな表情を浮かべている理由が全く分からないのだけれど、何はともあれまずは挨拶だ。
「ごきげんよう」
 と片手を挙げながらの祐巳の気軽な挨拶に、
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、祐巳さま」
 二人は丁寧にも会釈付きで挨拶を返してくれた。
 真面目ねぇ、と呆れ半分感心しつつ二人の挨拶を見届けた後、何だか面白い顔をしている瞳子ちゃんへと視線を固定する。
「それで、そんなに面白い顔してどうしたの?」
 まず、「余計なお世話です」と祐巳に言い返してから瞳子ちゃんが続けた。
「あの人たちを見て、何か気付きませんか?」
「うん?」
 姉妹(スール)だろうか。瞳子ちゃんが示した場所には、祐巳が先ほど通り過ぎたマリア像に向かって手を合わせている少女たちの姿があった。
「ああ、お祈りの事か」
 瞳子ちゃんは、転入してきたばかりの祐巳がそこでマリア様に手を合わせる事を知らない、と思ったのだろう。優しいというか、随分とまあ世話焼きな子だ。
「悪いんだけど、お祈りはしない主義なの」
「……」
 珍しく真面目に答えてあげたのに、返ってきたのは険しい視線と無言の圧力。それには気付かなかった事にして、祐巳は真っ白なマリア像へと目を向けた。
「無駄だって知っているからね」
「え?」
 手を合わせている彼女たちが何を願い、祈っているのかは知らないが、それをマリア様が叶えるとは思えない。だって、どんなに祈っても無駄でしかなかった。あの世界は救われないまま滅びようとしている。そして、どれほど願っても亡くなった人たちはもう還ってこない。
「要するに、神様とかそういう類のものは信じてないって事」
 祐巳と同じように何人もの人たちが祈るのをやめた。自分たちを救えるのはマリア様や神様などではなく、自分たち自身だと悟ったのだ。勿論皆が皆やめたわけではなく、それまでと同じように祈り続ける人たちもいて、祐巳には時間を無駄にしているとしか思えなかったのだけれど志摩子さんもその一人だ。
「これ以上は内緒。個人的な事で色々とあるの。それでも聞きたい? その場合、私の秘密を知ったあなたは祥子さまを諦めて私の妹(スール)にならないと駄目なんだけど」
「分かりました。祐巳さまの事なんてどうでもいいですから二度と聞きません」
 そう言って瞳子ちゃんがそっぽを向く。
「うわっ、可愛くないなぁ」
「可愛くなくて結構です」
「ウソウソ、可愛いよ。マリア様に誓って」
「信じてないくせに、何が『マリア様に誓って』ですか」
 つーん、と不機嫌そうに言い返してくる瞳子ちゃん。この反応も当然だと思われる。なにしろ言ってて自分でも白々しいと思っていた。
「あのう……」
 更に瞳子ちゃんを構おう(からかう?)とした所で横から声をかけられる。そちらに顔を向けてみると、会話から取り残されていた乃梨子ちゃんが相変わらず不思議そうな顔して祐巳を見ていた。
「どうしたの?」
「瞳子と知り合いだったんですか」
 彼女のこの質問を聞いて、それが理由でずっと不思議そうな顔をしていたのか、と理解する。乃梨子ちゃんは、祐巳と瞳子ちゃんが知り合いだという事を知らなかったのだ。
「まだ知り合ったばかりだけどね」
 一昨日、この世界に飛ばされてきたばかりなので当たり前の話である。乃梨子ちゃんも志摩子さんと一緒に祐巳の話を聞いてその事は知っているので、「そうでしょうね」と頷いた。
「でも、見ていたから分かると思うけど結構仲良しなんだよ。出会ったその日のうちに二回も抱き付かれちゃったし。ねー、瞳子ちゃん?」
 その時の事を思い出して、からかい気味に瞳子ちゃんへ話を振ってみると、
「ぶつかっただけで抱き付いたわけではありません。そんな事よりも、乃梨子ともお知り合いだったんですね」
 先ほどまでよりも不機嫌になっているらしい彼女が、そっぽを向いたまま返してくれた。
 しかも、それだけではなく、
「乃梨子ちゃんのお姉さま(グラン・スール)の志摩子さんは、私がここに転入してくるよりも前からの友達なの。んで、一昨日瞳子ちゃんと別れた後に偶然再会したんだけど、その時に志摩子さんと一緒に乃梨子ちゃんがいたってわけ」
「志摩子さまと友達? ふうん、そうですか」
 乃梨子ちゃんとどうやって知り合ったのかを答えてやると、自分から尋ねてきたくせにどうでも良さそうに返事をする。
(からかわれたから機嫌を悪くした、ってわけではなさそうだけど)
 切欠はそうだったのかもしれないが、どうもそれだけではないような気がする。ではそれが何なのかというと、全く見当が付かないのだけれど。
(仕方がないな。しばらく放っておいて様子を見てみるか)
 瞳子ちゃんが機嫌を悪くしている理由を思い付く事ができなかった祐巳は、肩を竦めながら乃梨子ちゃんへと顔を向け直した。
「どうやら、とりあえず会話をしてくれる程度の仲だったみたい」
 小さく溜息を吐き出しながら無念そうに祐巳が言うと、乃梨子ちゃんは呆れたのかそうではないのか判別し難い苦笑いを返してくれた。
「乃梨子ちゃんの方こそお互いに呼び捨てで呼んでいるようだし、相当仲が良いみたいだけど?」
「瞳子とはクラスが一緒なんです。それに、これでも私は白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)で、瞳子は紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補ですから」
「へえ、クラスが一緒なんだ? それに、そういえば二人とも山百合会の関係者だったね」
 山百合会とは他校での生徒会に当たるもので、正式な役員メンバーは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)、黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)、白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)の三人。けれど、たった三人で生徒会を運営できるはずもなく、各薔薇さまは見習いとして自分たちの妹(プティ・スール)であるつぼみ(ブゥトン)たちに手伝いをさせている。なので基本的に山百合会と言えば、薔薇さま方とつぼみ(ブゥトン)たち、更につぼみ(ブゥトン)たちに妹(プティ・スール)がいればその人たちも含めたメンバー全員の事を指す。
 乃梨子ちゃんは白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)である志摩子さんの妹(プティ・スール)で、白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)。瞳子ちゃんは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補。二人とも間違いなく山百合会の関係者である。
 しかも瞳子ちゃんの場合、祥子さまの妹(プティ・スール)になればすぐに紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と呼ばれる事になるのだ。なぜなら紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)である祥子さまは現在三年生で、あと三ヶ月ほどで卒業されてしまうから。今すぐ瞳子ちゃんが祥子さまの妹(プティ・スール)となったとしても、瞳子ちゃんが紅薔薇のつぼみ(ロサキネンシス・アン・ブゥトン)でいられる期間は、祥子さまが卒業されるまでのたった三ヶ月程度の間しかないのだ。その期間が過ぎてしまえば、次は瞳子ちゃんが紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)となる。
(いつ申し込まれたのかは知らないけど、返事を延ばせば延ばすほど後になって困るのは自分なんだよ?)
 そう思いながら瞳子ちゃんに顔を向けると、彼女もようやくそっぽを向いているのに飽きたのか祐巳に視線を合わせてきた。
 まだ機嫌は悪いみたいだけれど、ちょうど良い機会ではあるのでいつ祥子さまに申し込まれたのかを尋ねようと祐巳は口を開き、
「あのさ、祥子さまにはいつ――っと! な、何でもない」
 けれど乃梨子ちゃんの姿を視界の端に捉えて慌てながら口を噤んだ。
(危ない危ない。約束を破る所だった)
 一昨日、瞳子ちゃんが祥子さまに申し込まれているかどうかを聞き出す際に『誰かに言いふらしたりはしない、って約束するよ』と祐巳は言ったのだ。だから、すぐ傍に乃梨子ちゃんがいるこの状況では尋ねるわけにはいかない。おそらく彼女の友人である乃梨子ちゃんなら、瞳子ちゃんが祥子さまに申し込まれているかどうかなんて知っているだろうけれど、それでも一度約束したのだからそれを破るわけにはいかないのだ。
 そう思って口を噤んだのだけれど、急に黙り込んだ祐巳に瞳子ちゃんは不満を持ったらしい。
「どうして急に黙るんですか」
 と元から少々吊り上がり気味の眉を更に吊り上げて、益々不機嫌になって尋ねてくる。
「……別に。本当に何でもないから気にしないで」
 祐巳が苦し紛れに目を逸らしながら言うと、遂に瞳子ちゃんの不満が爆発した。
「何でもないなんて、そんな顔してないじゃないですか。言いたい事があるのなら、最後まではっきりとおっしゃってください!」
 爆発すると相手が上級生でも容赦してくれないようだ。自分を止めようとする乃梨子ちゃんを「乃梨子は黙ってて」の一言で黙らせて、祐巳を眼光鋭く睨み付けてくる。
(参ったな……)
 瞳子ちゃんが怒るのも無理はないと思う。もし自分が彼女の立場だったとしたら同じように怒っていただろう。もっとも、彼女のようにわけも分からず不機嫌になる事はないと思うのだけれど。
 祐巳は瞳子ちゃんの強い視線を受けながら、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ごめん。私としても最後まで言いたかったんだけど、約束を破っちゃう事になるから言えないんだ」
「約束?」
 何の事か分からなかったらしく、瞳子ちゃんが首を傾げた。
「うん。一昨日、誰にも喋らないって約束したでしょう?」
「一昨日? ……ああ、あの時の約束ですか」
 もしかしてもう忘れているんじゃないだろうか、と少々不安に思いながら付け足して言ってみたのだが、ちゃんと覚えていてくれたらしい。
 祐巳が頷くと、「それで喋るのを途中でやめたんですね」と納得したように呟いた。どうやら、乃梨子ちゃんが傍にいたから口を噤んだ、とまで察してくれたようだ。
「私と祥子さまの事なら乃梨子は知っています。ですから、おっしゃりたい事があるのなら、おっしゃってくださって構いません」
「それでも約束を破るわけにはいかないよ」
「……妙な所で頑固なんですね」
 呆れているような感心しているような、何とも言い難い表情を見せてくれる瞳子ちゃん。
「頑固ってわけじゃないよ。だって、約束ってとても大切な事でしょう?」
「……そうですね」
 先ほどまでの不機嫌さがまるで嘘だったかのように、瞳子ちゃんは柔らかく微笑んだ。
「私が祥子さまに申し込まれている事でしたら、山百合会の関係者であれば皆知っています」
 乃梨子ちゃんにも聞こえるように、自らがそれを口にする事によって祐巳が言いたい事を言えるように配慮してくれる瞳子ちゃん。
(何ていうか……、出来た子だ。本当に一年生だよね? 私より年上じゃないよね?)
 祐巳が感心しつつ疑っている一方でこの場にいるもう一人の人物、つまり乃梨子ちゃんはというと「ちょっと、瞳子! いきなり何言い出すのよ!」と瞳子ちゃんの言葉を聞いて慌てていた。関係者以外には秘密にしておかなければならない事を本人が突然口にしたのだから、この反応も仕方がないと思われる。
 とりあえず今は落ち着いてもらおう、と祐巳は乃梨子ちゃんに話しかけながら、
「慌てている所を邪魔して悪いんだけど、その事なら私、もう瞳子ちゃんから聞いてるから」
「え――」
 彼女が驚いて大声を上げようとするよりも早く、その唇を人差し指で軽く押さえてやった。
 その甲斐あって大声で叫ばれる事は阻止できたのだが、代わりに、何するんですか、と視線で抗議される。
 祐巳はその疑問に答えるために、乃梨子ちゃんの唇を指で押さえたまま彼女の後方へと目を向けた。
「大声を出すのはやめておこうね。ここにいるのは私たちだけじゃないんだから」
 小声で言ってやるとそれが何を意味するのか理解したらしく、乃梨子ちゃんが顔色を青くした。
 祐巳の視線の先には、何事かしら? とこちらを遠巻きに眺めている数人の少女たちの姿がある。白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)と紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の妹(スール)候補が揃って見慣れない人物――祐巳と一緒にいるからだろう。有名人は何かと大変なのだ。
「心配しなくても大丈夫。距離は離れているから、私たちが何を話していたのかまでは聞こえてないよ」
 幸い、と言うべきか。彼女たちの中に、こちらに近付こうとするほど度胸のある人物はいないようだ。あまり大きな声を出さないように気を付けていれば、このまま会話を続けても大丈夫だろう。
「状況を分かってくれたみたいだし、もう指は離しても良いよね?」
 尋ねると、今すぐ離してください、とばかりにコクコクと何度も頷く乃梨子ちゃん。
 それは良かった。このままずっと押さえていてください、なんて言われたらどうしようかと思っていた。どうしてなのか知らないけど、さっきから瞳子ちゃんが怖い顔して私を睨んでいるんだよね、と祐巳は顔を引き攣らせながら乃梨子ちゃんから指を離した。
「祐巳さまがおっしゃった事は本当なの?」
 押さえていた指が唇から離れた途端、瞳子ちゃんに向かって小声で確認し始める乃梨子ちゃん。
「ええ、本当よ」
「祐巳さまに何かされたの?」
 乃梨子ちゃんの一言に、私って信用ないね、と嘆きながら祐巳は空を仰いだ。でも一昨日、彼女の目の前で散々志摩子さんを苛めたのでそれも仕方のない事だろう、と文句は言わないでおく。ちなみに、仰ぎ見た空は憎たらしいくらいに青く晴れていた。
「確かに、多少強引に聞き出されたわね。でも、祐巳さまになら話しても構わないと判断したから私は話したの」
「……分かった。瞳子がそう判断したのなら、私はこれ以上何も言わないよ」
 どうやら拗れる事なく話は纏まったようだ。
「話は終わった?」
「ええ。ですから、おっしゃりたい事があればお気兼ねなくどうぞ」
「そんな風に言われると、もの凄く言い辛いんだけど」
 瞳子ちゃんが祐巳の言いたい事を言えるように配慮してくれたのでとても心苦しいのだけれど、これも彼女のためだ、と割り切る事にする。
「祥子さまにはいつ申し込まれたの? って聞きたかったんだ」
 先ほど口を噤んだ事を最後まで言ってやると、瞳子ちゃんの表情がほんの少し曇った。
「答えなくてはいけませんか?」
「無理に、とは言わないけど、できれば答えて欲しい」
「……去年のクリスマスです」
 その時から現在まで随分と祥子さまを待たせているからか、言い辛そうに瞳子ちゃんが答えて、
「クリスマス……」
 祐巳の全身から血の気が引いた。
 クリスマスという単語には、今でも夢に見る忌まわしい記憶がある。
 それは、あの世界での一年前の記憶だった。

 絶え間なく降り続ける雪。
 怒声。
 悲鳴。
 侮蔑の眼差し。
 無造作に転がっている亡骸。
 振り上げられた刃。
 祐巳の名を呼ぶ声。

 赤。
 朱。
 紅。
 足下に転がってきたのは、誰よりも大好きだった人の――。

「祐巳さま?」
「ぁ……」
 瞳子ちゃんの声に、我に返る。見れば、瞳子ちゃんと乃梨子ちゃんが二人して不思議そうに祐巳を見つめていた。
「ごめん、何でもない」
 今は瞳子ちゃんの事に集中しよう、と頭の中から過去の記憶を無理やり追い払う。
「ええっと、クリスマスって事は三週間近く返事を保留してるわけだよね」
 いくら何でもそれは待たせ過ぎなんじゃない? と祐巳は呆れながら瞳子ちゃんを見た。
「……何ですか、その呆れ顔は」
「見ての通り呆れているの。選挙まであと何日なの?」
 選挙とは、生徒会役員選挙の事だ。そこで当選した人が来年度の薔薇さまとなる。勿論その選挙には一般の生徒だって出馬する事ができるが、薔薇さまの妹(プティ・スール)が出馬していれば、当選する確立は極めて低い。現薔薇さまの妹(プティ・スール)っていう事は、ただそれだけで強い力と意味を持っているのだ。
「九日です」
「引き継ぎはどうなっているの?」
「大丈夫だと思いますよ。瞳子はいつも紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のお手伝いをしていて、一通りの仕事はできますから」
 瞳子ちゃんが答えるよりも先に乃梨子ちゃんが答えた。おそらく瞳子ちゃん自身が答えるよりも第三者である自分が答えた方が祐巳も信じ易いから、と考えたのだろう。そこまで疑り深いわけではないのだけれど、乃梨子ちゃんがそうまでして言うなら引き継ぎの方は心配なさそうだ。
 それなら次の質問を、と祐巳が口を開こうとすると、先に瞳子ちゃんから質問されてしまう。
「先ほどから思っていたんですが、一昨日転入してきた割に選挙の事にやたらと詳しくありませんか?」
「っ!」
 その質問に対して息を呑んだのは祐巳ではなく、瞳子ちゃんの隣にいる乃梨子ちゃんだ。瞳子ちゃんには気付かれていないようだが、祐巳の事情を知っているからだろう、面白いくらいに顔を引き攣らせている。その顔に吹き出しそうになるのを堪えながら、祐巳はしれっと答えた。
「前の学校で生徒会のお手伝いをしていたから興味があって、一昨日志摩子さんと話しをした時に聞いたの」
 勿論、嘘だ。選挙の話なんてこれっぽっちもしていない。ただ、あちらの世界のリリアン女学園に通っていたから知っているだけだ。もっとも、選挙や修学旅行などの学校行事に関する知識はあったのだけれど、実際に祐巳が紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になる時には選挙なんて行われなかった。いつ蟲に襲われるとも知れないあの世界で、そんな事をしている余裕はなかったのだ。
「そうだったんですか」
 納得する瞳子ちゃんの隣では、祐巳が危機を上手く切り抜けた事に安心したらしい乃梨子ちゃんが隠れて溜息を吐いていた。
(で、他に何か聞く事があったような……ええっと、何だっけ。とても大切な……あ、これだ。もし、してなかったら大変だし)
「話を戻すけど、立候補はしているの?」
「当然しています」
 瞳子ちゃんは即答した。
 という事は今までの話を統合すると、瞳子ちゃんは既に立候補をしていて引き継ぎに関する問題もない、って事になる。つまり残っているのは、瞳子ちゃんが祥子さまの妹(プティ・スール)になる返事をいつするのか、の一つだけだ。
「いつ祥子さまに返事をする気なの?」
「祐巳さま、それは」
 乃梨子ちゃんが止めようとしてきたが、祐巳はそれを片手で制しながら続けた。
「いつまで逃げるの?」
「逃げてません!」
 キッ、と祐巳を睨み付けながら瞳子ちゃんが言った。
「じゃあ、早く返事をしないと」
「あなたに言われなくても……」
 そう言いながら視線を地面に落とす瞳子ちゃん。何というか、非常に駄目っぽい。
(仕方がないなー。ここは私が一肌脱いでやるか)
 ちょうど、「良いもの」を持っている事を思い出したので、それを使っての作戦を瞬時に考える。
 まず、会話で少し揺さぶって瞳子ちゃんを動揺させる。そして、昨日ポケットに入れたまま忘れていた例の写真を見せてやる。それだけで良いだろう。なにしろ蔦子さんお墨付きの、「まるで姉妹(スール)のよう」に見える写真だ。さすがの瞳子ちゃんも慌てるに違いない。我ながら何という素晴らしい作戦なのだろうか。では早速、作戦開始。
「私が盗っちゃうよ」
「はあ?」
 いきなり何言ってるんだこいつは? というような顔してこちらを見てくる瞳子ちゃん。物凄くムカついたが、余裕があるのも今のうちだけだよ? と気を取り直す。
「早く決めないと、私が祥子さまを盗っちゃうよ」
「なっ!? 何を言っているんです?」
 どうやら効果があったようで、瞳子ちゃんは激しく動揺している様子。
「実は昨日からファンになっちゃったの。すっごい美人だし、優しくしてくれたし。瞳子ちゃんも見てたでしょ? 祥子さまが私のタイを直してる所。姉妹(スール)みたいに見えなかった?」
 瞳子ちゃんの顔色がはっきりと変わった。ここでトドメとなる例の写真を見せてやると、瞳子ちゃんは祐巳に盗られまいと慌てて祥子さまの所へOKしに行くって寸法だ。何だか瞳子ちゃんよりもこの作戦を立てた自分の方こそ駄目っぽいような気がしてきたが、二秒ほどで立てた作戦だから仕方がない。それに、たとえ失敗したとしても何かしらの刺激にはなるだろう。
「いつまでも祥子さまを放っておいた瞳子ちゃんが悪いんだからね。これを見て驚きなさい」
 ポケットに手を入れて、まるで姉妹(スール)のように見える写真を取り出す……出す……出……。
(んんっ? おかしいな、たしかここに……)
「……どうされました?」
 ゴソゴソとポケットを探る祐巳を見て、瞳子ちゃんが変な顔して尋ねてきた。
「な、何でもない」
 多分、彼女と同じくらい自分も変な顔をしている事だろう。
 今気が付いた。

 写真、どこかに落としたみたい……。



 終盤で見事に失敗した祐巳の作戦は、何とか二人を誤魔化す事によって幕を閉じた。
 乾いた笑顔で二人と別れ、地面とにらめっこしながら下駄箱に向かい、自分の迂闊さを呪いつつ上履きに履き替えて、ようやく本来の調子を取り戻しながら教室に向かうと、入り口で由乃さんに会った。どうやら彼女は祐巳が来るのを待っていたらしい。祐巳を見るなり挨拶もそこそこに言ってくる。
「ごきげよう祐巳さん。いきなりで悪いんだけれど、とにかくこれを見てくれる?」
 由乃さんが差し出してきたものを見て、祐巳は呼吸する事さえ忘れてその場で固まってしまった。驚くべき事に、落とした写真があっさりと見付かったのである。
 由乃さんが差し出してきたのは、「リリアンかわら版」という名称で生徒たちに慣れ親しまれている、新聞部が発刊する傍迷惑で碌でもなく、できるものなら見たくもない代物だった(由乃さん談)。ちなみに、向こうの世界ではかなり重宝されていた。というのも、前回や今回の戦果とか、壊滅した地域とか、どうやってここまで情報を集めたんだ? と皆が疑問に思うほど事細かに載っていたからだ。
 こういう所にも違いがあるんだ、と世界の違いを再認識すると共に、ついでに魂まで出るんじゃないか、というくらいに祐巳は大きく溜息を吐いた。
 そんな祐巳の様子を見て、由乃さんが尋ねてくる。
「どういう事なの?」
「これには、と〜っても深い理由があるような、ないような」
「どっちなのよ?」
 はっきりしなさい、と言ってくる由乃さんに、私の名誉に関わる事なのよ、と返しておいた。
(ふん、まったく)
 祐巳の手にあるリリアンかわら版には、祥子さまと二人で写っている例の写真が大きく載っていた。蔦子さん曰く、「まるで姉妹(スール)のよう」に見える写真だ。ご丁寧な事に端の方に小さく瞳子ちゃんの写真も載せてあって、「三角関係!?」なんて書かれている。全部は読まずにざっと目を通しただけなのだけれど、その文字だけで書かれている内容の大凡の見当は付いた。
(新聞部か。ふざけた真似をしてくれるわね)
 こうして、落とした写真の行方はあっさりと判明したわけなのだが、それと同じように、その落とした写真をあっさりと返してもらえるかどうかは甚だ疑問である。ちなみにこのかわら版には、一昨日に祐巳が引き起こしてしまった突風による騒ぎや落雷についても「自然界の警告? 天変地異の前触れか!?」としっかりと載っていた。ほんの少しだけ、良い仕事するわね、と感心した。



 昼休み。
 祐巳はクラブハウスの二階にある新聞部の部室の前にいた。ここに来た理由は勿論、例の写真を返してもらうためだ。ちなみに、昼食はまだ食べていない。面倒臭い事はさっさと済ませてしまおうと思い、先にこちらへと来たのだった。
 この時間になるまで本当に大変で、この学園を跡形もなく消し飛ばしてやろうか、と思ったほどだ。教室のあちこちでクラスメイトたちが話題にしているのは、当然のように祐巳と祥子さまと瞳子ちゃんの三人の事。他学年から、わざわざ祐巳を見物に来る生徒まで出てくる始末。向こうの世界の由乃さんじゃあるまいし、私は珍獣か、と思った。というのも、猫耳族は希少価値の高い種族だったから。
「素直に返してもらえるかなぁ? ま、もし返してもらえなかったとしても、その時は部室ごと焼いちゃえば良いか……っていうか面倒だし、最初からそうした方が手っ取り早くて良いような気がしない?」
「話し合いにきたのではなかったのかしら?」
 祐巳の隣には、なぜか志摩子さんがいたりする。志摩子さん曰く、「祐巳さん一人では心配だから付いて行くわ」だそうだ。
 彼女は昼休み前の休み時間中に、「これはいったいどういう事なの!」と珍しく慌てた様子で祐巳の教室に駆け込んできた。おそらく、リリアンかわら版を見た山百合会のメンバーにでも聞いたのだろう。ひょっとすると、「これって本当なの?」とクラスメイトに尋ねられて知ったのかもしれない。生真面目な志摩子さんが自分から進んであんなものを読む姿が、祐巳には想像できなかった。
(それにしても――)
 自分の隣に並んで立っている志摩子さんを、本人に気付かれないように横目で見る。
(私一人では心配だから? はっ、志摩子さんが本当に心配しているのは、私と新聞部のいったいどっちなんだろうね?)
 美の女神の化身みたいな彼女の横顔を眺めながら、祐巳は口元を歪めた。
(ま、私の邪魔さえしなければ、どっちでも構わないんだけど)
 志摩子さんから視線を戻して目の前の扉をノックする。
 返事を待つ事数秒。
「随分と早く来たのね。お昼は食べたの?」
「ううん、まだ。志摩子さんはお弁当だから教室に戻るだけだけど、私はミルクホールにパンを買いに行かなきゃならないから、できるだけ話は手短にしてね」
「そう、分かったわ」
 扉を開けて祐巳たちを迎えたのは、七三分けの前髪をピンで留めたショートカットの少女。新聞部の部長にして祐巳のクラスメイトでもある、「七三(外見から命名)」こと山口真美さんだ。
 彼女の言葉からも分かる通り、祐巳たちがここを訪ねる事は前以って約束してあった。かわら版の記事について志摩子さんに色々と追及されている時に、「話がしたいので、お昼休みに新聞部の部室まで来てもらえないかしら?」と真美さんに話しかけられて了承しておいたのだ。ちなみに、その時に志摩子さんと友人である事と二人で部室まで行く事を伝えていたので、ここに志摩子さんを伴ってきた事に問題はない。
「ようこそ新聞部へ」
 とか言われながら真美さんに案内されて(されるほど広くはないけれど)部屋に入ると、少し奥に見覚えのあるポニーテールの女性が立っていて、しょんぼりとした情けない顔で祐巳たちを見ていた。
「何か重大なミスを犯して叱られた後みたいな顔してるその人は?」
 その女性を見ながら尋ねると、真美さんが「凄いわね、その通りよ。みたい、ではなく、重大なミスを犯して叱られた後なの」と返してきた。すると、情けない顔をしていた女性が、がっくりと肩を落とした。
(ふうん、そういう事か)
 今の今まで、例の写真について詳しく取材するためにここに呼び出した、と思っていたのだけれど。
 新聞部。落とした写真。リリアンかわら版。しょんぼりと肩を落としている女性。
 これだけ情報が揃えば、今回の騒動の経緯とここに自分が呼ばれた正しい理由を導き出す事なんて容易だった。
「ごきげんよう。それとも、初めまして、の方が良いですか?」
 とりあえず、ポニーテールの女性にご挨拶。向こうの世界では何度かお世話になっていたけれど、この世界では初対面だ。
「ごきげんよう……」
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら新聞部の前部長、築山三奈子さまが返してきた。
「面白い顔されてますね」
 無言で睨むように祐巳を見てくる三奈子さまは、それまでのしょんぼりとした顔を見ていたせいもあってちっとも怖くない。
「それと、面白い事をしてくれましたね」
 ほんの少し視線に力を込めながら言ってやると、三奈子さまが「ひっ」と小さく息を呑んだ。
(何怯えているのよ? 他人に迷惑をかけるって事は、相応の報いを受ける覚悟もできているって事なんでしょう?)
 まるで小動物のように怯える三奈子さまに更に近付こうとしたその時、
「駄目よ、余計に騒ぎが大きくなるわ」
 志摩子さんが祐巳の制服の袖を引っ張り小声で止めてきた。
「……そうね」
 苦々しい事だけれど、志摩子さんの言う通りだ。ここで三奈子さまに手を上げれば、今以上に騒ぎが大きくなってしまう。これ以上新聞部にネタを提供するつもりはないのでここはぐっと我慢する事にして、祐巳は真美さんへと身体を方向転換させた。
「それで? あのかわら版を作ったのが誰なのか、とか。どうしてここに私が呼ばれたのか、とか。ある程度分かっちゃったけど一応聞いておくね。どうして私をここに呼んだの?」
「今回の騒動に関する説明。それと謝罪と後始末ね」
 思っていた通りだ。という事は当然、例の写真も返してもらえるはず。
「じゃあ、とりあえず説明からお願い」
「さっき、もう分かっている、みたいな事を言ってなかった?」
「そこでしょんぼりとしている人が真美さんの知らないうちにかわら版を作って発行した、って事くらいは分かったけど、どうやって写真を手に入れたのか、とか細かい所まではさすがに分からないよ。私は、自分が関係している事はできるだけ正確に知っておきたいの」
「それだけ分かっていれば十分だと思うんだけれど……でも、そうね。祐巳さんの気持ちは分かるし、せっかくここまで来ていただいたんだから、ちゃんと説明するわ」
 そう言って部屋の奥に向かって歩き始める真美さん。向かう先には机があるのだが、どうやらそこに用があるらしい。その机の上には、一枚の茶色い封筒が置いてあった。
「昨日、いつもと同じようにこの部屋でかわら版の作成作業をしていたら、うちの部の一年生の子が息を切らしながら駆け込んできたの。『スクープです! 凄い写真を拾ったんです。とにかく見てください!』って」
 そこまで話して一旦区切り、机の上にあった封筒を手にしてから「それが、これなんだけれど」と真美さんがその封筒を見せてきた。傷まないように、わざわざ封筒に入れて保管しておいてくれたらしい。
「これを見て私は目を疑ったわ。なにしろ転入してきたばかりの祐巳さんと、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のツーショット写真。しかも、あの紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が微笑んでいらっしゃるんだもの。二人がどういう関係なのか、色々と想像を膨らませたわよ」
 祐巳のタイを直しながら微笑んでいる祥子さま。そんな祥子さまを、どうしてこんな表情をしているのだろう? と見つめていた祐巳。
 けれど、祐巳が何を考えて祥子さまを見つめているのかまでは写真からは分からない。写真を撮った蔦子さんになら分かったのかもしれないけれど、そうでない人がそれを見ても「イケナイ雰囲気が大いに漂っている写真」にしかならないだろう。真美さんもきっと、大いにイケナイ妄想を炸裂させたに違いない。
「その子は、どこで写真を拾ったのか言ってた?」
「下駄箱って言ってたわね」
 どうやら靴を履き替える時に落としたようだ。あんな写真なんてどうでも良かったから、適当にポケットに突っ込んでおいたのがまずかったらしい。
「話を続けるわね。確かに色々と想像はしたけれど、私は堅実がモットーなの。本人に話を聞くなりして事実を確認してからならともかく、写真を見ただけで適当に判断してそれを記事にしたりはしないわ。そこで急いで祐巳さんを探したのだけれどもう帰宅していたみたいで、仕方なく翌日話を聞こうと思って失くさないようにこの机の引き出しに入れておいたのよ」
 そう言って封筒が置いてあった机を指差す真美さん。
「常識で考えれば、自分のものではない机の引き出しを勝手に開けるような人なんていないはずよね。すっかり安心した私はそのまま帰宅したの。けれど……」
 説明しているうちに怒りが湧いてきたらしく、真美さんがフルフルと肩を震わせながら三奈子さまへと顔を向けた。
「事もあろうにそこにいる私のお姉さまが、何を考えていたのかその机の引き出しを覗いた挙句勝手にあの写真を持ち出すと、馬鹿な事に徹夜までして今回のかわら版を完成させた上に発行してしまったのよ!」
 考えていた通りの話の流れだったので、真美さんの説明自体については特に何とも思わなかったのだが、妹(プティ・スール)であるはずの真美さんにここまで言われる三奈子さまが少しかわいそうに思えた。
 三奈子さまは決して悪い人ではない。多少トラブルメーカーな所もあるが、新聞部の活動に学生生活の全てを懸けているような人なのだ。向こうの世界では、身の危険も顧みず単身で危険地帯に乗り込んでは情報を収集してくるなど、自分の仕事に誇りを持って活動していた。
 こちらでもそれは同じだからだろうか。それとも、向こうの世界の彼女を覚えているからだろうか。祐巳の隣にいる志摩子さんは複雑な表情を浮かべて、真美さんに叱られている三奈子さまを見ていた。
「憶測で記事を書かないでください。かわら版の質が落ちます、って普段から何度も言ってましたよね」
(……あっちの世界に帰って妹(スール)を作る機会があれば、その時は素直で優しい子にしておこう)
 真美さんにここぞとばかりに責められる三奈子さまを見ながら祐巳が割と本気でそんな事を考えていると、三奈子さまが消え入りそうな声で弁解を始めた。
「昨日は皆の様子を見に来ただけで、引き出しを覗いたのは何となくだったのよ。確かに、勝手に引き出しを開けた事は悪かったと思うわ。でも、あの写真を見たら薔薇さま方を追いかけていた頃の情熱が蘇って――」
「お姉さまは黙っていてください」
「……」
 真美さんの一言で、床に「の」の字を書き始めるんじゃないか、っていうくらいに暗い顔になる三奈子さま。祐巳には真美さんが鬼に見えた。
「次回のかわら版に……いえ、明日には完成させて、それにお詫びと訂正のコメントを載せるわ。お姉さまもああやって深く反省している事だし、それで今回の事は許してもらえないかしら」
 さて、どうしようかなー? と小悪魔っぽく三奈子さまに顔を向けてみると、まるで子供が母親に縋るような目をして祐巳を見てきた。
「あー、えっと……うん。それで良いよ」
 今の三奈子さまを眺めているのは面白いけれど、ずっと眺めているのはどうかと思うし、そんな事で昼休みを潰したくはないし、そもそも写真を落とした自分にだって非があるのだし、別に許してあげても良いだろう。それに、ここで許さなかったら真美さんによる精神攻撃で三奈子さまが寝込んでしまいそうだし。
「ありがとう祐巳さん。後日改めて、きちんとお姉さまに謝罪させるわね」
「別にそこまでしてくれなくても良いよ。ちゃんと訂正してくれるのなら、それで今回の事は全部忘れる事にするから」
 でも、許すのは今回だけね、と心中で密かに付け足していると、「ところで、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)とは本当に何もないのね?」と怒れるしっかり者の妹(プティ・スール)から記者へと顔を変えた真美さんが尋ねてきた。
 やっぱり気になっていたようだ。そういえば、説明の途中で『色々と想像を膨らませた』とか言ってた。
「祥子さまとはあの写真を撮られた時が初対面だし、その場面を偶然居合わせたらしい蔦子さんが撮っただけ。だいたい、転入してきたばかりで祥子さまの事なんて殆ど知らない。私の方こそ、私と祥子さまの間に何かあるの? って聞きたいくらい」
「……そう、残念だわ。あ、写真は返しておくわね」
 何が残念なのよ? と思いながら真美さんから封筒を受け取る。念のために中を開いて確認してみると、ちゃんと祐巳と祥子さまが姉妹(スール)のように見える写真が入っていた。
「さて、これから大急ぎでかわら版を完成させないといけないわね……っと、その前に紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)にも謝罪しないと。お姉さま、勿論手伝っていただけますよね?」
 そう言って三奈子さまを睨む真美さんには、有無を言わさぬ迫力があった。どうやら祐巳は誤解していたらしい。真美さんって人族だと思っていたのだけれど、実は鬼族だったようだ。
「はぃ……」
 がっくりと肩を落とす三奈子さま。ついでに姉(グラン・スール)としての威厳も地に落ちたようだ。何だか目尻に涙が浮かんでいるように見える三奈子さまに、ガンバレ、と祐巳は心の中で応援しておいた。



 新聞部の部室から出てクラブハウスの一階に降りるまで、隣を歩いている志摩子さんに「あっさり返してもらえたね」「拍子抜けしちゃった」などと何度か話しかけてみたのだが、まるで祐巳の言葉など聞こえていないかのように返事をしてくれない。不思議に思って顔を覗き込んでみると、志摩子さんは深刻な顔して何か考え事をしている最中のようだった。
 その顔があまりにも深刻そうに見えたので「どうしたの?」「何か悩み事でもあるの?」「私に話せない事?」「気になるなぁ、教えてよ」などなどしつこく何度も尋ねていると、ようやく重い口を開いた志摩子さんに「あの時、三奈子さまに何をするつもりだったのかしら?」と逆に尋ねられてしまう。
「あの時って?」
「祐巳さんが三奈子さまに近付こうとした時の事よ」
 言われて思い出したのは、祐巳に睨まれて小さく悲鳴を上げた三奈子さまの怯えた表情だ。ちょっぴりだけれど、可愛い、と思った事は内緒である。
「何かと思えば、そんな事を気にしてたんだ? 別に大した事じゃないよ。何本か指の骨を折ってやろうとしただけだから」
 祐巳が質問に答えると、志摩子さんが急に足を止めた。
「どうしてそこまでする必要があるのかしら?」
 突然立ち止まられたために追い抜いてしまう事になった祐巳は、同じように足を止めて志摩子さんへと振り返った。
「今回の事で色々と迷惑をかけられたから。さすがに指の骨を折られたら懲りるでしょ? もう他人に迷惑をかけるような事をしようとは思わないんじゃないかな」
 残念ながら志摩子さんに止められてしまったために、報復も兼ねた一石二鳥のそれは実行できなかったのだけれど。
「本気でそこまでするつもりだったの? 少し迷惑をかけられたからって、それだけでそんな酷い事を……」
 呻く志摩子さんの青褪めた顔を見つめながら、大袈裟ね、と祐巳は呆れた。
「そんなに酷いかな? 今まで私がやってきた事、知ってるでしょ? それに比べれば、ちっとも酷いとは思えないんだけど。ひょっとして、乃梨子ちゃんと遊び呆けているうちに全部忘れちゃった?」
「誤魔化さないで」
 キッ、と目付きを鋭くしながら言ってくる志摩子さん。
「誤魔化さないで?」
 その視線を真っ向から受け止めながら、祐巳は口元に酷薄な笑みを浮かべた。
「はンっ、誤魔化しているのは志摩子さんの方でしょう? はっきり言ったらどうなの? 祐巳さんはおかしい、祐巳さんは壊れている、って」
「いい加減にしてっ!」
 祐巳の言い方や態度が気に食わなかったのか、志摩子さんが怒鳴った。周囲に人がいなかったので良かったのだけれど、そうでなければ大騒ぎになっていた事だろう。あの温厚な白薔薇さま(ロサ・ギガンティア)が声を荒げていた、と。勿論、周囲に人がいない事くらいは分かっていて志摩子さんも怒鳴ったのだろうけれど。
「ごめんごめん。ちょっと言い過ぎた。でも、怒ってもやっぱり美人さんなんだね。羨ましいな。私なんて狸顔だもん」
「そうやって茶化して、祐巳さんはいつも大切な事を誤魔化そうとするわね」
「……でも、私が壊れている、ってのは事実でしょう?」
「祐巳さんは壊れてなんか……」
 熱でもあるのだろうか、と心配した。福沢祐巳は壊れている、なんて向こうの世界の学園では有名な話だったから。
「誰も彼も皆、私の事を壊れているって言ってた。私自身、そう思ってる。それでも壊れてないって言えるの? ねえ、お優しい志摩子さん。他の人ならともかく、あなたがそんな事を言えるはずがないわよね?」
「――っ」
 祐巳の言葉に、志摩子さんの表情が一瞬にして凍り付く。
(なーんだ。やっぱり、まだあの時の事を気にしてたんだ? ホンット、向こうにいた時とちっとも変わってないね)
「違う……のよ。あの時のあれは……」
 志摩子さんは今にも泣き出してしまいそうな表情で、それでも何か言わなければ、と必死に頑張っていたようだけれど結局それを言葉にする事はできなかった。
「ほら、やっぱり何も言えない。ね、この際だから友達ごっこも終わりにする? 私としては、その方が気を使わなくて楽で良いんだけど」
「本気で怒るわよ……」
 震える唇で。掠れた声で。悲しげに揺れる瞳で。けれど、その双眸にありったけの力を込めて志摩子さんが言い返してくる。
「……悪かったわ、冗談よ」
 自分に向けられている志摩子さんの視線から顔を逸らして、祐巳は、ふっ、と表情を緩めた。
「志摩子さんとは、ずっと友人でありたいと思っているんだから」
 怖い顔をしている志摩子さんに向かって、優しく安心させるように話しかける。けれど志摩子さんは祐巳を見つめたまま、浮かべている凄絶なまでの怒りの表情を変えようとしなかった。
「もうっ、そんな顔しないでよ。私は気が弱いんだから。それに本当は、私の事をちゃんと考えてくれているんだな、って嬉しかったのよ。ね?」
 そこまで言った所で、ようやく志摩子さんが表情を緩めてくれた。
「だから、ありがとう志摩子さん。本当に感謝してる」
 ありがとう、なんて言うだけなら幾らでも言える。作った笑顔なら幾らでも浮かべられる。だから、「福沢祐巳は壊れている」なんて言われるのだろう。
 志摩子さんは、この笑顔にあっさりと騙された。いや、騙されたフリをしてくれたのだと思う。志摩子さんが浮かべた表情は祐巳と同じように笑顔だったけれど、祐巳の笑顔を映しているその瞳はちっとも笑ってなかったから。



 志摩子さんは結局、新聞部での話しばかりかミルクホールでの買い物にまで付き合ってくれた。しかし、そんな優しい志摩子さんとは一緒に教室まで戻っている途中で別れる事となる。というのも、「お話があります」と声をかけてきた瞳子ちゃんに出会ったからだ。どうやら祐巳を探していたらしい。
 というわけで志摩子さんと別れた祐巳は、現在瞳子ちゃんと二人で階段の踊り場にいた。瞳子ちゃんが言うには、ここは目立つようで目立たない場所なんだそうだ。
「で、話しって何?」
「かわら版の事です」
「ああ、それならついさっき解決してきた所」
 正確に言えば、まだ解決していないのだけれど。でも真美さんが約束してくれたのだから、解決するのも時間の問題だろう。もし解決しなかった場合は、どうしてなのかは知らないが新聞部の部室が突如崩壊するという謎の怪奇現象に見舞われる事となる。
「元々ただの誤解だからね。何がどうなってあんな事になったのか、ちゃんと話せば分かってくれたよ」
「……そうですか」
「まだ何かあるの?」
 何か言いたそうな顔をしていたので尋ねてみると、瞳子ちゃんはとても真剣な眼差しを祐巳に向けてきた。
「祥子お姉さまの事、本当はどう思っているんです? 本当に、ただの誤解なんですか?」
「ああ、それを聞きたくて私を探してたんだ?」
 リリアンかわら版に載ったあの写真を見て、祥子さまを盗られる、と不安に駆られたのだろう。今朝の祐巳の言葉もあって余計に不安を煽られたに違いない。まさか失敗に終わったはずの作戦が、こんな形で成功するとは思わなかった。
「あれは瞳子ちゃんをその気にさせるためのもので本当は何とも思ってないし、瞳子ちゃんから祥子さまを盗ったりもしないから安心して良いよ。まったく、そこまで不安に思うくらいなら早く姉妹(スール)になっちゃえば良いのに」
「自分の事は自分でできますので、余計な気は回していただかなくて結構です」
「そ、そう? ごめんね?」
 何で私が謝っているんだ、と泣きたくなった。
「だいたい、そういう祐巳さまはどうなんですか」
「へ? わ、私っ?」
 おいおい、なぜここでそう切り返してくる? と焦ったのだけれど瞳子ちゃんは止まってくれない。
「祥子お姉さま……いえ、誰でも良いんです。特定の誰かをお姉さま(スール)に、と考えたりはしないんですか」
「えっと。それってさ、昨日ちゃんと答えたような気がするんだけど」
 『口煩く言われたくないから』とか『今から作ったとしても、三ヶ月も経たないうちに卒業されちゃうから』とかの事だ。
「あんな、その場で適当に思い付いたような理由で私を誤魔化せたと本気で思っていらっしゃったのでしたら、祐巳さまは相当おめでたいですわね」
「そ、そう。私っておめでたかったんだ……」
 どうやら瞳子ちゃんは、昨日祐巳がそれを言った時には既に嘘だと見抜いていたようだ。
(鋭いのは良い事だけど、度が過ぎると厄介よね。すぐに嘘ってバレるから)
 どう答えるべきか祐巳が迷っていると、瞳子ちゃんが言ってきた。
「何か隠している事があるのは、祐巳さまを見ていれば分かります。私では力になれませんか? その……色々とお世話になっていますし」
「瞳子ちゃんは優しいね」
 なぜお姉さま(グラン・スール)を作る気がないのか。それについては瞳子ちゃんの言う通り、確かに隠している事がある。けれど、それを話した所で到底信じてはもらえないだろうし、たとえ信じてもらえたとしても彼女では祐巳の力になる事はできないだろう。そもそもが、ちょっと親しいだけの他人でしかない彼女に話したいとは思わない。
 祐巳は眉根を寄せて、困ったような笑顔を浮かべた。
「でも、せっかくの申し出なのに悪いんだけど」
 こうやって、その場に合わせて思い通りの表情を作る事なんて、聖さまに百面相と名付けられた頃の自分とは違って容易くできる。
「瞳子ちゃんじゃちょっと難しいかなー、なんて――」
 必要以上に傷付けないように瞳子ちゃんの申し出をやんわりと断ろうとしていた祐巳は――けれど顔色を蒼白にしている彼女に気が付いて、それ以上言葉を続ける事ができなくなってしまった。
(そんなっ! どうして……)
 祐巳は今までと同じように、他人には見抜く事が到底不可能な表情を作ったはずだった。その表情に騙されず、そこに隠されている祐巳の本心を見抜く事ができるのは、長年一緒に暮らしてきた家族と、様々な意味で自分と深く関わっていたあの世界の山百合会のメンバーくらいしかいない、そう思っていた。
 それなのに出会ってまだ間もないはずの瞳子ちゃんは、自分の申し出が断られようとしている本当の理由に気付いてしまったらしい。瞳子ちゃんの大きな瞳が、祐巳の顔に張り付いている嘘で塗り固められた笑顔を映してゆらゆらと不安に揺らめいていた。
(……ふん。随分と醜い笑顔を浮かべられるようになったものね)
 祐巳は瞳子ちゃんの瞳に映っている自分の笑顔から目を逸らした。
 今のように薄っぺらな笑顔を貼り付けるようになる前の自分は、いったいどうやって笑っていたのだろう。思い出そうとしたけれど、思い出せなかった。でも、それで良いと思う。どうせ思い出した所で、志摩子さんたちと笑い合った日々は還ってこない。そこにはもう由乃さんがいないから。あの人が好きだと言ってくれた笑顔は、もう浮かべる事なんてできない。その笑顔は、そう言ったあの人が引き出してくれていたものだから。
(あれから一年。まさかこんな場所で、こんな子と出会う事になるとは思わなかったわ)
 おかしな子ね、と祐巳は小さく頭を振り、瞳子ちゃんへと視線を向け直した。
(もう断るのは無理みたいね)
 なにしろ相手は、上級生相手でも眉を吊り上げて怒鳴った瞳子ちゃんなのだ。見た目と持っている雰囲気からも分かる通り、本来の彼女は気が強い。彼女を拒絶する祐巳の言葉が途切れた事により、急速にその瞳に本来の強さを取り戻しつつある今となっては、祐巳が再度断ったとしても先ほどのように大人しくはしていないだろう。何かしら言い返してくるに決まっている。
(それを跳ね除ける自信はあんまりないし……。仕方がないわね。ほんの少しだけなら本当の話をしてやっても良いか)
 素直に信じてくれたりはしないと思うけど、と祐巳は憂鬱な気分になりながら口を開いた。
「私がこれから話す事。信じるか信じないかは瞳子ちゃんの勝手だから」
「は?」
 祐巳の意味不明な前置きに、瞳子ちゃんが目を白黒させた。
「どうして私がお姉さま(グラン・スール)を作らないのか。その理由となる、私のお姉さまの話をしてあげる」
「ちょっ、ちょっと待ってください。祐巳さまのお姉さまのお話しって……ああ、実のお姉さまの事ですか」
「いいえ。姉妹(スール)制度のお姉さまの事よ」
 勘違いしたようなので正してやると、瞳子ちゃんが眉間に皺を寄せた。
「祐巳さまは一昨日転入してきたばかりじゃないですか。それなのに、そんな話を信じろとでも?」
 確かに、祐巳が転入してきてまだ三日しか経っていない。それなのにお姉さま(グラン・スール)がいるだなんて、信じる方がどうかしていると思う。
「だから、最初に言っておいたよね。信じるか信じないかは瞳子ちゃんの勝手だよ、って」
「……分かりました」
 瞳子ちゃんが渋々とだけれど頷いたのを見て、祐巳は話を続けた。
「私のお姉さまはね。美人で、頭が良くて、少し意地悪だけど、とっても優しい人。いつでも私を守ってくれて、私の一番守りたい人。私の全て、と言っても良い」
「……そうですか。そこまでおっしゃるなら、さぞ素敵な方なんでしょうね」
 惚気にでも聞こえたのか、瞳子ちゃんが両腕を組み、不機嫌顔で面白くなさそうに言ってくる。
「うん。少なくとも私には、祥子さまよりもお姉さまの方がずっと魅力的に思える」
「――」
 祥子さまを引き合いに出されて絶句する瞳子ちゃん。
 祥子さまは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)で、全校生徒憧れの存在だ。一方、祐巳のお姉さまはあちらの世界では祥子さまと同じく紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だったのだけれど、こちらの世界の住人である瞳子ちゃんはそれを知らない。こちらの世界でどちらが魅力的なのか、なんて考えるまでもない。誰もが祥子さまを選ぶだろう。もっとも、由乃さんたちが山百合会のメンバーとして存在している事から、おそらくこちらの世界でも祐巳のお姉さまは紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だったと思うのだけれど。
 でも、たとえお姉さまが紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)ではなかったとしても、祐巳はお姉さまを選ぶ。
「気に障ったならごめんね。別に、祥子さまの方が劣っている、と言いたいわけじゃないの。私はただ、お姉さまの妹(プティ・スール)である私としては、祥子さまよりもお姉さまの方が大切なの、って言いたかったのよ」
 今の瞳子ちゃんには分からないかもしれないけれど、祥子さまの妹(プティ・スール)になれば、その時にきっと理解するだろう。自分のお姉さまが一番だって思うのは、妹(プティ・スール)としてごく当たり前の事なのだと。
「お姉さまの事、大好きだった。何があっても守ろうって、本気で思ってた。あの頃の私は弱かったけど、どんなに辛い事があっても泣き言なんて言わないで頑張っていたんだよ」
 そっと、瞼を閉じる。
 お姉さまを想い、浮かぶのは、凛とした笑顔。
 祐巳の名を囁く穏やかな声。
 見つめる、優しい眼差し。
 抱き締められた時の温もり。
 くすぐったかった髪の匂い。
 繋いだ手の感触。

 ――真っ白な雪。

 眩いばかりに輝いていたお姉さまとの宝石のような思い出の数々は、たった一度の忌まわしい現実に塗り潰されてしまった。
 赤く!
 朱く!
 紅く!
 それは、夥しく降り注いだ血の色。大好きだったお姉さまが、祐巳の記憶に焼き付けてしまった色。
「でもね」
 掠れた声は、自分のものではないように思えた。
「私は守れなかったんだ……」
 強烈な眩暈を感じながら瞼を開く。いつからか握っていた両手が、強く握り過ぎていたらしく血の気を失って白くなっていた。
「守れなかった?」
 目の前には困惑している様子の瞳子ちゃん。この平和な世界の住人である彼女には、祐巳の言葉がどういう事を意味するのか理解できないのだろう。
「そう、守れなかった……いいえ、それどころか」
 白く冷たくなった指先を伸ばして、胸元からお姉さまが存在していた証となる品を取り出す。
 それは、辛うじて十字の形を保っている錆びたロザリオ。
 お姉さまから受け取った時には美しく輝いていたそのロザリオを、よく見えるように瞳子ちゃんの前に掲げてやる。
「この私が、お姉さまを殺したのよ」
 誰よりも大好きだったその人の名は、蓉子、と言った。


一つ戻る   一つ進む