※祐巳が二年の時の学園祭の頃のお話です
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迂闊だった迂闊だった迂闊だった〜〜っ
心の中で叫び、プリーツの裾をばっさばっさと風になびかせて瞳子は走る。目指すは『薔薇の館』全ての元凶はそこにいる。
いくら私が劇の掛け持ちで疲れているからって、30分遅刻したら祐巳さま以外皆帰られてしまっていたからって、私が凄く眠たかったからって、何も薔薇の館で休む事はなかったのだ。
しかも祐巳さまのいる前で・・・
〜1週間前の事〜
「大丈夫、瞳子ちゃん?凄く顔色悪いけど・・」
「別に。これくらい平気ですから」
「よかったら少し休んでいきなよ。私まだここにいるし」
「そのような気遣いは無用にして頂けますか。御用が無ければ帰られたらいかがです?私も帰りますし」
ぶっきらぼうに答える私に祐巳さまは苦笑しつつ答える。
「んーと、実はね、まだ帰れないんだわ」
「は?」
「これ、図書室に返さなきゃいけないんだよね。で、まだ読み終わってない」
「返却日は・・」
「今日」
あははと笑いながら答える祐巳さま。・・・そっか、別に私を待っていてくださった訳ではないんだ。体の奥で何かがチクンとした。違う。別に期待なんかしていない、私は何も求めたりしていない。
「相変わらず、ぬけていらっしゃる事」
「うん。だからね、後30分くらいはここで本読んでるから・・・」
「・・・」
「一人じゃ寂しいんだよね」
「・・・」
「瞳子ちゃんがいてくれると嬉しいなー、なんて」
・・・まったく、この人は。小さくため息をついて私は口を開く。
「わかりましたわ。待っていて差し上げます。早く本を読み終えてください」
「わ、ありがとう瞳子ちゃん!」
にっこり笑う祐巳さまの笑顔をじっと見返してやると、慌てた様にテーブルの上に置いていた本を手に取りパラパラとページを繰る。
「紅茶で宜しいですか?」
「へ?・・・あ、いい、いいって私がやる」
席を立ちキッチンに向かいつつ問い掛けると、慌てた様に立ちあがる祐巳さま。・・ホント落ち着きのない方。
「それでは、本が読み終わりませんわ。いいから座っていてください」
「う、うん。ごめんね」
「いいえ、もともと私が遅刻したせいで稽古にはならなかったようですし。これくらいは、させてください」
スタスタと歩いていると、キッチンにあと1歩と言うところで声がかかる。
「瞳子ちゃん」
「?」
「ありがとう」
「そんな、紅茶くらいで」
「ううん、そうじゃなくて・・・」
祐巳さまは真っ直ぐに私の瞳を見つめ、そのまま黙ってしまう。
「・・・そうじゃなくて、何です?」
「・・・えっと、色々?」
二人の間に流れる微妙な空気。その答えを、まだお互いに出せないでいる。
「・・・私に聞いてどうするんですか」
くるりと祐巳さまに背を向けキッチンに向かう。
そして祐巳さまの為に紅茶を入れながら、祐巳さまに聞こえないようにそっと呟く。
「どういたしまして」
それは何に対する返答であったのだろう。瞳子自身にもわからなかった。
隣の席で祐巳さまは本を読んでいる。私は紅茶を手に取り口元に持っていき香りを楽しむ。こうして目を閉じていると体の疲れが取れていく感じがする。そしていつしか私は眠りに落ちていった。
しばらくして起こされた私は、祐巳さまと一緒に帰った。帰り道、ずっとソワソワしている祐巳さまだったが、寝起きで頭の回らない私はそれに気づかなかった。バスを降りて駅に向かう私に、「ごめん、私ちょっと行くトコあるから」と言って、駅とは反対方向に向かって走り出す祐巳さま。その背中が駅ビルに吸い込まれていくのを見ながら、『祐巳さまは、いつ、本を返却なさったのかしら』と考えていた。
〜現在〜
間違い無い、あの時だ。あの駅ビルで写真を現像したんだ。そして事もあろうにリリアン瓦版に乗せるなんて〜〜っ!
瞳子は右手に握っていたリリアン瓦版を握り締める。そこに写っているのは自分の寝顔。幸いヨダレを垂らしたりとかはしていなかったけれど・・・そこには瞳子にだけしかわからない決定的な個所があるのだ。
客観的にみれば、椅子に座りつつテーブルに頭を横たえた、幸せそうに眠る少女であろう。少し開いた口が可愛らしいと言えなくもない。問題は瞳子の手である。その両手はしっかりと誰かの手を掴んで、頭の下に敷いていた。写真ではその誰かはわからないし、記事でもその事には触れず、ただ一言『天使の安らぎ』と添えてあるだけであった。
瞳子は怖かった。自分でも整理しきれない心の内が勝手に一人歩きをしたようで。しっかりと登るはずの階段を一段抜かしてしまったようで。
祐巳さまは、いったい何故これを瓦版にのせたのだろう。あの方の事だから、そんなに深い意味はないだろう。『いい写真だから』とか、そんな理由だとは思う。
でも・・・もしも・・・気づいているのなら?
薔薇の館を見上げ私は足がすくんでいた。動けない。どんな大舞台でも怖気づく事の無い私の足が、震えている。その私の背中に暖かい何かがポンと置かれる。
「ガンバレ瞳子」
言葉と共に私を薔薇の館に向かって突き出す。
私はそのまま振り返らずに、受け止めた想いを返す。
「ありがとう、乃梨子さん」
そして私は薔薇の館に入っていった。
ビスケット扉を開けると、安らかな寝息を立てる祐巳さまがいた。ガチガチに緊張していた私は、少しホッとして息を吐く。少なくとも祐巳さまが目を覚ますまで、考える時間は与えられた訳だ。私は祐巳さまを起こさない様に、静かに祐巳さまの向かいの席に腰を下ろす。
私は、きっと、この方が好きだ。
妹にと言われれば、私は多分拒めないだろう。
でも、それで本当にいいの?
大事な何かを置き忘れているんじゃないの?
祐巳さまは目を覚まさない。
そういえば祐巳さまは、私が撮られたのと同じ体勢で眠っている。
・・・私は、そっとその手を取り呟く。
「祐巳さま・・・」
すると祐巳さまは幸せそうな笑顔を見せ、両手で私の手を包み込む。
「ん・・・瞳・・・子ちゃ」
言って、ムニャムニャと続ける。一向に起きる気配はない。
ふと、視界の端に何かを見つけた。それは使い捨てカメラ。
今は・・いいや。
きっと、まだその時期じゃないんだ。
もうちょっとだけ、私に時間をください。
今はこれだけで、私は幸せですから・・
私はカメラを手に取り、静かな音が部屋の中に響いた。
「どう・・だった?」
一人きりで出てきた私に乃梨子さんは不安気に尋ねてきた。
「駄目でした」
泣き笑いの顔で答える私に乃梨子さんは詰め寄る。
「なんでっ!だって二人とも」
「乃梨子さん」
私は目を閉じ首を振る。
「私には時間が必要なんです、それはきっと今じゃなくて」
「・・・うん」
「だから、今はこれだけでいいんです」
カメラを大切そうに抱きしめる私に乃梨子さんが尋ねる。
「写真?」
「はい」
それから二人は黙ったままで、やがて乃梨子さんはため息を一つ。
「そっか・・うん、わかったよ」
そして、やおら抱きつく。
「の、乃梨子さん?」
「何があっても、私は瞳子のそばにいるから」
「・・・」
「瞳子が大好きだから」
「・・・乃梨子さん」
「以上!バイバイっ」
パッと身を翻し駆け出す乃梨子さんを、私はとっさに伸ばした手で捕まえる。
「私も乃梨子さんが大好きですわ」
クシュッと顔をゆがませて泣き笑いを見せる乃梨子さんが、手を小さく振り駆けていく。
その背中を見送った後、私はゆっくりと歩き出す。そう、ゆっくりと。時間はまだたっぷりある。答えを急ぐ必要はないんだ。
でも、段々足が早くなっていく。そっか、祐巳さまがソワソワしていたのはこれだったんだ。私はカメラを握り締め帰路を急いだ。一刻も速く祐巳さまに逢いたい。写真の中で眠る、あのマリア様に。
瞳子は走り出す。しっかりと大地を踏みしめ、行く先を見すえ、いつか答えを出す為に。
〜おまけ〜
ふぁぁ、と乃梨子が欠伸を噛み殺していると、
「迂闊でしたわ・・」
斜め前の席で瞳子がぼそりと呟く。
私はその理由を知っている。いや、椿組の全員が知っているだろう。
と、授業終了のチャイムが鳴り響く。同時に
「瞳子さん!いらっしゃいます?」
教室の戸が開けられその向こうには人の群れ。
私は瞳子に向かい合掌する。
「ガンバレ瞳子」
「助けてくださいぃぃーっ!」
今リリアンで一番『旬』な話題、それはリリアン瓦版に載った祐巳さまの寝姿。題して『つぼみ』、これはきっと瞳子が撮った写真だろう。幸せそうに眠る祐巳さまを見てリリアン中の生徒が心を打ちぬかれた。ちょっとした仕返しのつもりで乗せた写真が、とんでもない結果をもたらした。
「皆さん、御覧になりました?リリアン瓦版」
「勿論ですわ。ああ、なんて愛くるしい紅薔薇のつぼみ」
「癒されますわね」
「ええ、本当に」
「それよりも、知っていらして?この写真、瞳子さんがお撮りになったそうよ」
「まぁ、それでは瞳子さんの手元にはネガが?」
「是非焼き増しして頂かなくては」
「皆さん、行きましょう!」
「行きましょう!」