【1903】 運命は絶えず  (七式 2006-10-07 09:43:55)


冴子には、一つ年上の幼馴染がいる。
名前は鈴白椿花。
リリアン女学園高等部の二年生で、下級生たちからは尊敬と親愛の念を込めて「紅薔薇のつぼみ」
と呼ばれている。

冴子と椿花は、小さい頃から本当の姉妹のように育てられてきた。
実際、冴子は今でも学校以外の場所では椿花のことを「お姉ちゃん」と呼んで慕っている。
別に家が近所同士という訳ではないのだが、二人の母親は共に学園の卒業生で、しかも在学中
は姉妹という間柄だった為、今でもとても親交が厚く、冴子の両親が仕事で家を留守にする時
などは、冴子はよく椿花の家に預けられていた。

冴子は、いつも優しい椿花のことが大好きだった。
独りぼっちで寂しい時に、そっと頭を撫でて慰めてくれる、そんな椿花が大好きだった。
そして椿花は、冴子を実の妹のように可愛がっていた。
寂しがる冴子を膝枕して、そっと頭を撫でてやるのが大好きだった。
だから冴子が高等部に上がった時、すぐに二人は姉妹になった。
入学式の日の夕方に、茜色に染まるマリア像の前で。



某月某日、私は椿花お姉ちゃんの後ろにくっ付いて、薔薇の館に向かっている。

子供の頃から、私はお姉ちゃんとこうして一緒に歩くのが大好きだった。
もちろん手を繋いで歩くのが一番好きだったけど、先を歩くお姉ちゃんの後ろ姿を眺めながら
歩くのも大好きだった。目の前で左右にぴょこぴょこ揺れるポニーテールのシッポを見ている
のはとても楽しかったし、何よりも、背中越しにでも自分を気にかけてくれている、そんな優
しいお姉ちゃんを見ているのがとても嬉しかったからだ。

あれから時を経て高等部に入った今、真っ直ぐ前を見据えて歩くお姉ちゃんの後ろ姿は、あの
頃よりもずっと凛々しく見える。背は決して高い方ではないのだけれど、細身な上に頭が小さ
いから、姿勢が良いのと相まって、実際よりもずっと長身に感じられるのだ。ただし、後ろか
らでは見えないけれど、その顔立ちは中性的でやや童顔(と言うと怒る)。でも、近眼のお姉ち
ゃんはいつもフレーム無しのシンプルな眼鏡をかけていて、そのせいかとても知的で大人びて
見える。髪の毛はこげ茶色で、昔から少しクセっ毛。密かにクセ毛を気にしているお姉ちゃん
は、最近ポニーテールをやめて、毛先を遊ばせたショートボブにした。



淡々と先を行くお姉ちゃんが、ちょっと辛そうに息をついた。お姉ちゃんは、両手に重そうな
鞄を抱えている。片方には教科書や文房具が詰まっているんだろうけど、多分もう片方には分
厚い本が何冊か入っている。恐らく、お昼休みに図書館で借りていた古典文学シリーズだ。

「お姉ちゃん、荷物片方持ってあげようか?」

「いらないわ。それと冴子、学校では『お姉さま』って呼びなさいって言ってるでしょ。」

「うん、ごめんなさい…『お姉さま』。」

怒られてしまった。二人だけの時とは違って、少し怖い声でたしなめられる。
お姉さまは学校では決して人に弱みを見せない。まあ学校でなくても、お姉さまは私に荷物を
持たせたりはしないのだが。お姉さまはとても優しくて、そしてとても真面目なのだ。



薔薇の館に着くと、そこにはまだ誰も来ていなかった。
私は早速お茶の用意を始め、お姉さまはいつもの席について、鞄から取り出した本を読み始め
た。読書が趣味のお姉さまは、こうしてちょっとした暇を見つけては、辞書みたいな厚さの文
学書を一心不乱に読まれるのだ。私もよくお母さまに「本をたくさん読みなさい」と言われる
し、実際かなりの量を読んでいるけれど、それでもお姉さまには敵わない。ここだけの話、お
姉さまに薦められた難解なロシア文学書を読んだ時などは、数分と待たずに枕にしてしまった。

お茶を飲みながら、読書に没頭するお姉さま。私は読書の邪魔にならないように、キッチンの
すぐ近くの椅子に腰掛けた。時間がゆっくりと過ぎていく。

本を読むお姉さまの横顔を眺めていたら、なんだか眠たくなってきてしまい、ついつい小さく
欠伸をしてしまう。

「冴子。」

見られてしまった。また怒られてしまう。そう思っていると、お姉さまが優しい顔で私を手招
きした。あれは紅薔薇のつぼみの顔ではなくて、二人で居る時のお姉ちゃんの顔だ。

「私に寄りかかって、少し休んだら?」

私はすぐに隣の席に移動して、お姉ちゃんの肩によりかかった。
お姉ちゃんが私の頭を撫でてくれる。
その手はとても優しくて、あったかくて、ちょっとだけくすぐったい。

「はあ、いつ見ても冴子の髪は綺麗ねえ。」

お姉ちゃんが優しく頭を撫でてくれている。
お姉ちゃんの手は魔法の手だ。
昔、お父さまやお母さまが忙しくて、独りぼっちで寂しくて泣いてばかりいた頃、この手が私
を慰めてくれた。この手で頭を撫でられると、その日は怖い夢を見なくて済んだ。夜の闇だっ
て平気になった。



どれ位そうしていたのだろう。
私が目を覚ました時には、外は既に薄暗くなっていた。

「起きた?」

「うん。どれくらい寝ちゃってた?」

「1時間くらいかな。」

私が眠っている間に、紅薔薇さま方がいらっしゃって、今日は休みにすると告げられたらしい。
起こしてくれても良かったのに、お姉ちゃんはずっと私に肩を貸したまま待っていてくれたの
だ。

「さ、帰りましょうか。」

学校を出て、バス停へ向かう途中で携帯電話のスリープを解除する。
復帰中の表示から待ち受け画面に移り、セキュリティソフトの起動完了を伝えるメッセージが
消えると、すぐに軽快な着信音と共に一通のメールが舞い込んだ。

「電話しなさい。 母」

相変わらず簡潔なメールだ。せめてボイスメールなりムービーメールなり使えば良いのに。
早速電話をかけると、どうやら急な用事が入ってしまって、いま成田空港に向かっている最中
らしい。お母さまは今とても忙しいらしくて、私は要件だけを伝えられた。

「今日は鈴白さんのお宅に泊めてもらいなさい。もうあちらには連絡してあるから。」

…だそうだ。なるほど、今日は久しぶりにお姉ちゃんの家にお泊りな訳だ。その事を隣を歩
いているお姉ちゃんに伝えると、頭をよしよしされた。お母さま、ナイスです。
明日は日曜日だし、帰りのバスの中では今晩何をして遊ぶかで大いに話が盛り上がった。






お姉ちゃんの家に着いて玄関の扉をくぐると、お夕飯の美味しそうな匂いが漂ってきた。
この匂いは間違いない、小母さまの得意料理の一つ「秘伝のカレーライス」だ。
スパイスの調合から完全オリジナルなこのカレーは半日をかけて熟成されており、それが絶妙
に配合された玄米ライスと合わさって、思わず三杯目のおかわりをしてしまう程の逸品なのだ。
靴を脱いでいると、居間の方からスリッパをパタパタ鳴らして小母さまが出てきた。

「おかえり椿花、冴子ちゃん。さて、今日のお夕食は何でしょう?」

「カレーライスでしょ。ただいま母さん。」

「カレーライスですね。お邪魔します、祐巳小母さま。」


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