瞳子は変わった。
中庭で、孤独に佇む彼女に、声をかけたあの日から。
今日も一人、文庫本に目を向けるその様は、普段とほとんど変わった様子はないけれど、彼女の持つ雰囲気が、明らかに変化しているのがわかる。
今まで誰も寄せ付けようとしなかった壁が、無くなったとは言えないまでも、低くなったような、そんな感じだった。
一度心に立てた壁は、なかなか自分では壊すことは出来ない。
怪我がもうそろそろ完治しようとすると、なんとなく勿体無いような気になるのと同じように、必要ないと理解していても、壊すのが勿体無いような気がするのと似ている。
まだ怪我なら、放っておいても勝手に治ってしまう。
でも、心の壁は、自分で完全に壊せない場合、時間に頼るか、他人に壊してもらう以外、手段は無いに等しい。
彼女はずっと、その壁を壊したがっていたのだ。
壊す手段を、その手に持っていなかっただけなのだ。
壊す手伝いを、誰かに頼みたがっていた彼女が出した、ほんの小さなサイン。
それにようやく気付くことが出来た。
気付くことが出来たから、彼女の心の壁を壊してやろうと決めた。
テレビなんてどうでもいい、あの時点では、私にしか出来ないことだと、そう思ったから。
例え小さな穴が一つだけであっても、そこから向こうを垣間見ることが出来る、声を送ることが出来る。
巨大で頑丈なダムも、アリの巣ひとつで決壊することがある。
だから私は。
だから、少なくとも私は、彼女に声をかけることで、心の壁をほんの少しでも壊す手伝いが出来たと思っていた。
そしてそれは、今日の瞳子の様子から、確信へと変わった。
だけど……。
「乃梨子さん」
「可南子さん?」
教室は、ぱっと見ぃは他のクラスとそう変わらないけれど、相変らず『反瞳子』の雰囲気で包まれている。
でも、あの日以前ほど、あからさまではないようだ。
以前は私と可南子さんを除いては、瞳子とそれ以外といった、かなり極端に二分されていたが、瞳子を見直すクラスメイトも現れてから、分布が多少変化してきたのも事実。
「少しお時間よろしいかしら?」
「……うん、いいけど」
「場所を変えましょう」
そのまま可南子さんは、すたすたと歩いて行く。
コンパスに差があるので、駆け足で追いかける。
辿り着いたのは、ミルクホール。
幸いなのか人は少なく、隅っこで会話したところで、人に聞かれる心配はないだろう。
もっとも、人に聞かれて困る会話をするつもりは無いが、それは相手次第。
「彼女、少し様子が変わったわね」
ドリンクを買って、私と自分の前に置きながら、話を切り出す可南子さん。
「僅かだけど、彼女が無理して被り続けて来た仮面が剥がれ落ちたみたい。……何かあったの?」
静かな、落ち着いた目で見つめてくる。
「………」
答えられない。
いや、何から言えば良いのか、言葉が見付からないのだ。
咎めるでもなく、紙コップを両手に持って、液面をじっと見ながら、待ち続ける可南子さん。
「……可南子さん」
小首を傾げて顔を上げる彼女に、私は切り出した。
「私は、瞳子の味方よ。彼女がどんな人間であっても、ね」
紅薔薇のつぼみとの確執を乗り越え、吹っ切れ、そして今では何かの自信に溢れている彼女は、今の私よりも、よっぽど他人の心の機微に通じている部分がある。
そんな彼女と目を合わすことが出来ずに、私は俯いてしまった。
「可南子さんは……」
自分が彼女に聞こうとしていることは、瞳子は決して望んでいないだろう。
でも、瞳子のためには、心から信じられる仲間が、友人が必要なのだ。
しかしそれは、強制することも、無理矢理作り出すこともできない。
「……私、瞳子が好きよ。だから、守ってあげたい、力になってあげたい。ずっとそう思ってたし、行動もしてきたつもり」
紙コップがひしゃげ、零れた中身が手にかかる。
とても熱いはずなのに、なぜか心の痛みの方が強くて、まったく熱いとは思わない。
「でも、私一人じゃ何も出来ない。白薔薇のつぼみと言っても、所詮は一生徒でしかないのに。私だけじゃ、彼女一人も助けることが出来ない」
液面に、小さな波紋が広がる。
それが自分の涙であることに気付くのに、数秒の間を要した。
「あなたは、一人だけじゃないわ」
ティッシュペーパーで、私の手を拭く可南子さん。
そしてハンカチを、そっと私に手渡してくれた。
「大丈夫。私は『乃梨子』と、そして『瞳子』の味方よ」
その言葉に、ハッと顔を上げる。
「だから、全部とまでは言わないけど、教えて。何があったのかを」
可南子さんがそこまで明言するからには、私に躊躇う理由はない。
私は例のことを、言える範囲でぶちまけた。
「……そうだったのね」
「うん、でも私だけじゃ、そこまでだった。彼女が被ってきた仮面の、ほんの数枚しか剥がすことができなかった。それ以上のことは、私だけじゃ……」
再び、目の前が霞んで見える。
「ダメよ、それ以上自分を卑下しないで。乃梨子は、きっと誰の意見にも惑わされず、自分の意思、考えのみで行動できるはずよ」
「……うん」
「瞳子に対しては、白薔薇のつぼみなんて肩書きは必要ない。今必要なのは、彼女の親友である、二条乃梨子その人なのだから」
山百合会の手伝いとして、薔薇の館に助っ人に来ていた時を別にすれば、私は一度も瞳子に対して、白薔薇のつぼみという立場で接したことはなかった。
「あの……」
いつの間にか私たちのそばには、二人のクラスメイトが立っていた。
入学して間もないころ、瞳子と一緒に話し掛けて来た、敦子さんと美幸さんの二人。
振り向いた私を見た二人は、息を飲んで、驚いた表情を浮かべていた。
無理もない、新入生代表を務め、白薔薇さまの妹であり、何故かクールという評価をされ、椿組でも一目おかれているらしい私が、涙に濡れた顔をしているのだから。
「何?」
とりあえず、この顔のままでは拙い。
可南子さんのハンカチで、ぐしぐしと無造作に涙を拭いた。
「あの、盗み聞きするつもりはなかったのですけど……。でも、聞いてしまった以上、私たち、もう見て見ぬフリは出来ません。だから、良かったら私たちにもお手伝いさせていただけないでしょうか」
二人は、始めの方こそ瞳子と仲良くしていたが、瞳子が孤立の度合いを深めていくにつれ、自然に距離を置くようになっていた。
しかし、それで彼女たちを責めるのは筋違いと言うものだ。
彼女ら二人は、良くも悪くも害の無いお嬢様。
そのまま下手に瞳子に関れば、自分たちも孤立していくかもしれないという、危惧があったのだろうから。
だからと言って、『反瞳子』の中に入るわけにも行かず、『親瞳子』を標榜することも出来ず、中立という立場でしかいられなかったと思うのだ。
加害者になるのも嫌だけど、被害者になるのも嫌、その考えは良く分かる。
中学までは共学で、無邪気に人を見下し、差別し、侮蔑する同級生を多く見てきたのだから。
「覚悟はあるの? 今でこそ『親瞳子』は少しづつとはいえ増えているけれど、『反瞳子』は未だに多く、根強いのよ」
少々キツイ口調で、睨むような目付きで二人に尋ねる可南子さん。
瞳子の陰口を叩くクラスメイトを窘めていた生徒がいたように、瞳子を見直す者が徐々にではあるが増えては来ている。
だが、大方60%は『反瞳子』で、中立は25%、私たち『親瞳子』はせいぜい15%ってところだ。
「これまでに瞳子さんが、一人で受けてきた苦しみに比べれば」
「私たちで、その苦しみを少しでも和らげることが出来るのなら」
敦子さんと美幸さんは、はっきりと頷いた。
「……分かった。『可南子』、いいわね?」
「ええ乃梨子。『敦子』と『美幸』も、しばらく大変よ?」
「覚悟の上ですわ」
「もちろん」
二人の表情からは、今までのように臆病な陰はなく、不退転の意思が見て取れた。
まだ人数は少ないけれど、確実に『親瞳子』の生徒が増えている。
私は一人だけじゃない。
そして瞳子も一人だけじゃない。
きっと彼女は心を開く。
心の壁を、壊すことが出来るはずだ。
私たちは、全力でその手伝いをするだけだ。
私は、瞳子が紅薔薇のつぼみ(もうすぐ薔薇さまだ)の妹になって欲しいと、心底思っている。
そして、同じつぼみとして、山百合会と薔薇さま方を支えて行きたいと思っている。
さぁ瞳子、もう仮面を被って、自分じゃない自分を演じるのは終わり。
例え荒療治になったとしても、彼女の壁を壊し、その仮面を無理矢理にでも引っぺがしてやる。
決意を新たに、頷き、誓い合った私たちの声は、ミルクホールに静かに響き渡った。