【1933】 逃げ場無し  (33・12 2006-10-16 00:54:23)



 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:これ】→【No:1941】→【No:1943】→【No:1945】



 何とか動けるようになった所で瞳子ちゃんに支えてもらいながら保健室へとやって来た祐巳は、現在保健室に設置されているベッドの上で横になっていた。
 ベッドの脇には、祐巳と瞳子ちゃんの二つの鞄が仲良く並んで置かれている。
「私はここにいるから、もし何かあったら呼んでちょうだいね」
 祐巳が先生に体調不良を訴えたり体温を測ったりしている間に一旦薔薇の館へと戻った瞳子ちゃんは、まず山百合会のメンバーに祐巳の体調の事と付き添う事を伝えて自分の鞄を回収。その後、祐巳の鞄を取りにわざわざ二年松組の教室まで行ってくれたらしい。ちなみに薔薇の館に戻った際、由乃さんが「私も祐巳さんに付き添う!」とか言って令さまに引き止められていた、と聞いて祐巳は笑ってしまった。
「はい。ありがとうございました」
 祐巳が横になっているベッドと瞳子ちゃんが保健の先生と話している場所はカーテンで仕切られているので、その姿はこちらからは見えない。声だけが聞こえてくる。
(それにしても……)
 瞳子ちゃんが深々と保健医に頭を下げている姿を会話から想像しながら、祐巳は小さく溜息を零した。
(わざわざ付き添いなんてしてくれなくても良いのに)
 どうやら瞳子ちゃんはかなりの心配性らしい。祐巳が何を言っても、頑なに「傍にいる」と言って聞こうとはしなかった。勿論嬉しくはあるのだけれど、この調子でこの先もずっと、となると、果たして瞳子ちゃんは妹(スール)を作れるのだろうか、と心配してしまう。もっとも、祐巳よりもずっとしっかりした子なので余計な心配なのかもしれない。
(私は姉離れする以前に、失ってしまったからなぁ……)
 胸元に手をやりかけたが、そこにかかっているものがない事を思い出して伸ばしかけていた手を戻す。今まで祐巳がかけていたあのロザリオは、今は瞳子ちゃんの首にかかっているはずだ。体調不良から温室で押し倒してしまったからといって、まさかもう捨てられていたりはしないだろう。温室からここに来るまでに、さんざん謝った事だし。
 お姉さまに私の妹(スール)を見せてあげたかったな、と思っていると、先生との話を終えた瞳子ちゃんがカーテンを開いて入ってくるなりベッドの脇に立ち、両腕を組みながら祐巳を睨んできた。
「三十九度ってどういう事です?」
 体温の話だ。瞳子ちゃんが薔薇の館に戻っている間、先生に言われて測ってみたら体温計はそんな数字を示してくれた。
「どういう事だろうね? 実は私も驚いているんだ」
「『驚いているんだ』じゃありません! たかが風邪だと思っているのかもしれませんが、下手をすれば死んじゃう事だってあるんですよ!」
「分かってるってば。それより、頭に響くからあんまり大きい声しないで」
 別に痛いというわけではないのだが、言葉で言い表せない気持ち悪さがあるのだ。祐巳を心配するあまり感情的になっていた瞳子ちゃんは気まずそうな顔をした後、声のトーンを下げて言ってきた。
「とにかく、安静にしていてください」
「うん」
「……やけに素直ですね」
 素直に返事をしたらしたで疑いの目を向けられるのは、ひょっとして普段の行いが悪いからなのだろうか。
「あんまり心配かけたくないから、たまには素直になっても良いかな、って思って」
「それは素直とは言いません」
「ああ言えばこう言……う……」
 ジト目で見てくる瞳子ちゃんに、力なく答える。今まで無理していたからか、急に眠気が襲ってきたのだ。
「祐巳さま?」
 すぐに祐巳の変化に気付いて顔を覗き込んできた瞳子ちゃんに、そんなに心配そうな顔しなくても良いのに、と思った。体調が悪いのは確かだけれど、今は単に眠いだけだから。
「少し眠るね」
 何も言わずに眠ってしまったら、今の瞳子ちゃんでは妙な勘違いをして先生を呼んでしまいそうだったので、重くなっている瞼を完全に閉じてしまう前にそう伝えておく。先生だって、眠っただけの生徒のために呼ばれたくはないだろう。
「はい」
 まだ心配そうな表情を浮かべている瞳子ちゃんの返事を聞いてから、祐巳は瞼を閉じた。



 目が覚めると、窓から夕陽が差し込んでいた。
 いくら何でも重症だ、と自分に対して大いに呆れつつ、身体を起こしながらまず一番に数時間ほど前に妹(スール)となった少女の姿を探す。
 探し人はすぐに見付かった。お目当ての少女は、ベッドの脇に置いてある椅子に腰かけていた。
 瞳子ちゃんは組んだ両腕を枕にして、祐巳が横になっているベッドに寄りかかって眠っていた。耳を澄ませば、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてくる。何かあってはいけない、と眠ってしまうまでずっと様子を見てくれていたのだろう瞳子ちゃんは、可愛らしい寝顔を祐巳へと向けていた。
 出会った時には、まさかこの子と自分が姉妹(スール)になるとは夢にも思っていなかった。だって、別世界の普通の人間だ。あの世界の人たちみたいな特殊な力を持っているはずもなく、あの蟲共と戦う事なんて絶対にできない。それに、あんなに激しく拒絶したのに。
 それが、今では姉妹(スール)なのだ。世の中には本当に、不思議な事があるものだ。そう思いながら、全く起きる気配のない瞳子ちゃんの寝顔を覗き込む。
 閉じた瞼に長い睫毛、うん可愛い。顔の形も、耳や鼻の大きさもバランスが良い。唇なんて、プルンってしていて瑞々しい。肌もびっくりするくらい綺麗だし、ずっと思っていたのだけれど、やっぱりこの子は美少女だ。縦ロールについては……まあ、似合っているから良いのではないだろうか。
 手を伸ばして起こさないように頭を撫でてみると、くすぐったそうに目を細めた。起きている時は生意気なんだけれど、こうやって眠っている時は非常に素直なようだ。
(あなたのお陰かな?)
 あの日から、いつも見ていた夢を見なかった。何度も何度も、繰り返しお姉さまを失う夢。眠った時は必ず見ていたのに。
(ね、瞳子ちゃん?)
 返事はない。当然だ。瞳子ちゃんは、今も穏やかに小さな寝息を立てて眠っているのだから。
 窓から差し込んでいる夕陽が、そんな瞳子ちゃんの寝顔を朱に染めていた。
(不思議だね。あんなに嫌いだった夕焼けなのに)
 瞳子ちゃんが傍にいれば、その嫌いだった夕焼けすらとても愛しいものに感じられる。
 柔らかそうな頬を突付きたくなる衝動を何とか抑え込みながら壁にかかっている時計を見てみれば、針は四時二十分を示していた。
 自分の額に手を当てて熱を測ってみるが、自分の手自体が温かくてよく分からない。多少は下がっているような気がするのだけれど、まだ少し頭が重いように感じるので完全には回復していないのだろう。
 瞳子ちゃんの寝顔を見て、もう一度時計を見る。
(……もうちょっと寝るか)
 おそらく、瞳子ちゃんの方が先に起きるだろう。その時は、まだ眠っている祐巳に呆れながらも起こしてくれるはずだ。寝顔を見られていたなんて、これっぽっちも考えないだろう。
(おやすみ、瞳子ちゃん)
 また悪夢を見やしないかと少し不安なんだけれど、きっと大丈夫。だって、瞳子ちゃんが傍にいるから。



『ねえ、そろそろ起きないと死んでしまうわよ?』
 誰かの声が聞こえて、世界の様子が変わったのが分かった。
「祐巳さまっ!!」
 瞳子ちゃんの悲鳴と、祐巳が目を開けて彼女を抱えて床に転がったのは殆ど同時の事だった。そして、転がりながらもベッドの傍にいるそれからは目を離さない。
 ズンッと重い音を立てて、それが先ほどまで祐巳が眠っていたベッドに前脚を突き立てたのが見えた。それは、向こうの世界で何度も対峙した事のあるものだった。
「なっ、何ですか、あれはっ!?」
 怯えた表情で瞳子ちゃんが叫ぶ。
「黙ってて」
 祐巳の視線の先には、巨大な蟷螂がいた。
(何でこいつがここにいるの?)
 蟷螂が焼け爛れている頭を祐巳たちへと向けてくる。
 どうやら、どこかの誰かとの戦闘でこの化け物はすでに傷付いているらしい。よく見ると金属の身体のあちこちがへこんでいたし、後脚が一本その半ばで折れて変な方向に曲がっていた。何より、こちらに向けた逆三角形の頭部の両端にある二つの目玉のうちの片方が潰れている。
「そんな手負いの状態で私と殺しあう?」
 馬鹿にしながらも決して油断はしない。ベッドに刺さっている脚が抜けないためにその場から動けないようだが、それでも油断はできない。
 だって、こいつらの中には――。
 蟷螂の残っている目玉の奥で、微かに紅い光が瞬いたのが見えた。
「っ!」
 先ほどと同じように、瞳子ちゃんを抱えてその場に伏せる。同時に、背後にあったカーテンが激しく燃え上がった。
 そう、こいつらの中には魔法を扱える者も存在するのだ。
 祐巳は未だにその場から動けずにいる蟲を、ゆっくりと立ち上がりながら見つめた。
 まるで、あの世界に戻ってきたような感覚だった。漂う死の匂い、感じる死の気配。何よりも、目の前にいる蟲。お姉さまを殺して、仲間たちを殺して、祐巳の生まれた世界を滅ぼしてくれた。忌々しい化け物。
(こいつは殺しても構わないんだよね?)
 それを敵と認識した瞬間、祐巳の世界が切り変わった。見ているもの全てを別の世界の出来事のように。感じている感覚の全てを他人事のように。まるで、福沢祐巳という名前の人形を操るように。
「ふふっ」
 ほんの数日の間表に出さなかっただけなのに、妙に懐かしくて祐巳は笑みを零した。
(久しぶりね、『化け物』の私)
 昏い眼差しで化け物を射抜きながら言葉を紡ぐ。
「弾けろ、ムシケラ」
 その声が世界に溶け込むと同時に、化け物の頭部が破裂した。飛び散った銀色の肉片が天井や壁に張り付き、残された胴体が青色の体液を噴き出しながら崩れ落ちる。
「弱過ぎて話にならないわね」
 頭部を失ってピクピクと痙攣している蟲の残骸を見ていると、その場でゆっくりと溶け始めて蒼い染みだけを残して消えていった。やはり、向こうの世界の奴らと全く同じらしい。
「い、今のは……?」
 化け物の死骸が消えた場所を見下ろしていると、身体を起こしかけた姿勢で瞳子ちゃんが尋ねてきた。
 祐巳がそちらを見ると、瞳子ちゃんはまるで悪い夢でも見ているかのような表情をしている。その顔を見ながら、本当にただの悪い夢だったら良いのにね、と思いながら答えた。
「雑魚」
「え?」
「私の世界での雑魚よ」
 蟲の一匹一匹は大した事はない。奴らが真に恐ろしいのは、集団で行動する事だ。
「それよりも、いったいどうなっているの?」
「それが――」
 瞳子ちゃんが目を覚ましたのは四時三十分を少し過ぎた頃だったそうだ。職員室に用があるという先生に「すぐ戻ってくるから少しの間留守番していてね」と言われて見送った後、そろそろ帰宅の準備をしておかなければ、と考えてまだ眠っている祐巳を起こそうと手を伸ばした途端辺りが急に暗くなり、あの蟷螂がこの部屋に出現したらしい。
 話を聞き終えて窓の外に目を向けると、そこは薄暗かった。どうやら外は夜のようだ。その闇の中で、何者かの影が幾つも蠢いているのが見える。
 明らかにおかしい。いくら一月とはいえ、四時三十分でこの暗さは有り得ない。起きる直前、頭の中で響いた誰かの声といい、いきなり変わった世界の様子といい、おかしい事だらけだ。
 だが、この世界から受ける感覚に祐巳は覚えがあった。人の気配が感じられない世界。それなのに、祐巳に力を貸してくれる「彼ら」が存在している世界。
 おそらくここは、作られた世界だ。とすると、この場所を作ったのは?
 自分の知り合いの中では、一人しか思い浮かばなかった。おそらく桂さんだろう。でもなぜ、瞳子ちゃんや蟲までここに居るのだろう。まあ、どれ程あの蟲がいようと、今のまともに能力が使える自分の敵ではないのだけれど。
(それにしても、いくら神様だからって勝手にこんな所に転移させないで欲しいわね)
 なんて心の中でここにはいない桂さんに文句を言っていると、部屋のドアが凄まじい音を立てて軋んだ。その音に驚いて、瞳子ちゃんが小さく悲鳴を上げる。
 そちらを見ると、何者かがこの部屋に入ろうとドアを殴打しているようだった。
 どうやら、お客さんが来たようだ。先ほどの蟷螂が放った魔法によって、炎を上げて燃えているカーテンのせいだろう。奴らは光に集まる習性がある。窓の外の闇の方にも、こちらに近付いてきている蟲たちの姿が浮かび上がっていた。
「さて、どうしよう?」
「……」
 瞳子ちゃんが不安そうに祐巳を見上げてくる。祐巳はそんな瞳子ちゃんの頭を撫でながら考えた。
 どうせ創られた空間だ。壊しても問題はないだろう、と瞬時に決定する。もしも違ったら、その時はその時だ。
「面倒だから、校舎ごと吹き飛ばすか」
「え?」
「煩いと思うから、耳を塞いでいた方が良いよ」
 激しいノックによって、半分ほど曲がっていた扉が吹き飛んで蟲たちが部屋に雪崩込んでくる。窓の方からも同じようにガラスを砕き、それを踏み付けながら奴らが飛びかかってきた。
 祐巳はそんな蟲たちに、にっこりと微笑みながら挨拶してやる。
「ごきげんよう、お元気そうで何よりだわ」
 次いで、お別れの意味を込めて手を振った。
「では、さようなら」
 祐巳と、その足元で耳を押さえて蹲っている瞳子ちゃんを中心に世界が揺れた。
 起こったのは、爆発に次ぐ爆発。
 祐巳たちを中心にドーム状に広がった破壊の奔流は、内から外へと連鎖爆発を生み出しながら校舎全体に広がっていった。その有り様は、さながら死と破壊の協奏曲。蟲たちを巻き込み、断末魔の叫び声さえ呑み込んで、そこに存在するあらゆるものを破壊し尽くす。
 吹き飛んだ壁が、床が、天井が、奴らの身体が、その一部だったものが、破壊され、蹂躙され、跡形もなく消し飛ばされていく。一片の欠片さえ残さない。元より、残すつもりはない。残ったものは紅蓮の炎が喰らい尽くす。
 それらの様子を特に何を思うでもなく眺めていた祐巳は、しまった、と冷や汗を浮かべた。
(まさか、私たちの他に誰かいたりなんてしなかったわよね?)
 勿論、今更手遅れなのだけれど。



 四時三十分を少し過ぎた頃。何の前触れもなく世界の様子が一変した。
 つい先ほどまで隣にいた志摩子の妹(プティ・スール)である乃梨子や、一緒に仕事をしていた山百合会のメンバーの姿が消えたのだ。
 その代わりというわけではないのだろうけれど、部屋の中には見覚えのある生物がいた。それは、とても見慣れた生物だった。志摩子のいた世界では、ごく当たり前に生息していたあの蟲だ。
 そして、それを目にした瞬間、志摩子はすでに反応していた。「夜」を表す黒のマントに、一本の白いラインが入った赤のミニスカート。白と水色のストライプのオーバーニーソックスに、「力の円錐」とんがり帽子。
 一瞬で変身を完了した志摩子は今まで座っていた椅子を踏み台にして後ろに向かって跳躍し、銀色の皮膚を持つ蟲から距離を取りながら、
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」
 呪文を唱え、玩具のようでいて実は樫の木で作られている杖を一振り。
「ライトニング・アロー」
 どこか一般的で単純な名前のくせに実は高等魔法でとんでもない威力を秘めているそれは矢の形をしていて、対象に突き刺さるとその対象を内部から破壊する。自然界で発生する雷の数倍の威力を誇る、志摩子が最も得意とする魔法だ。
 鋼鉄の蟲は、志摩子の放った光り輝く矢を避けようともしなかった。とはいえ、それも当然の事で、放たれた矢を避ける事など不可能に近い。なぜなら志摩子の放った光の矢は、魔法によって作られたものではあるが光とほぼ等速で飛ぶ。放った瞬間には、既に対象に突き刺さっているのだ。
 今回も今までと同様だった。志摩子の放った矢はその場から全く動けずにいる蟲の身体を串刺しにして、その効果を発揮した。
(なぜ、この蟲がいるの?)
 仁王立ちしたままピクリとも動かない蟲を見ていると、ブスブスと銀色の身体のあちこちから焦げた匂いと煙を吐き出しながら前のめりに倒れた。矢が突き刺さった衝撃で腹部に開いた大きな穴から、倒れた拍子に大量の体液が飛び散って床に青い染みを作る。
(ここはどこなの? それに、皆は?)
 蟲の姿が床に溶けて消えていくのを確認しながら、志摩子は周辺に目を向けた。辺りは、全く見えないというわけではないけれど、かなり暗い。
 躓かないように足元に注意しながら薄闇の中を歩いて、志摩子は部屋に唯一ある扉へと近付いた。ドアノブを軽く握り、ゆっくりと音を立てないように開く。当然と言えば当然なのだが、あっさりと開いた。
 開いた先も薄暗かった。そのまま廊下に出てみたが、静まり返っていて物音一つしない。手摺から階下を見下ろしてみたが、物陰に何かが潜んでいる気配もない。館には自分以外の誰もいないようだった。
 けれど――。
 志摩子は再び部屋に戻り、一番近い窓へと目を向けた。先ほどからずっと、館の外から蟲たちの気配を感じている。窓へと近付いてそこから見下ろしてみると、館の周辺をうろつく蟲たちの影が見えた。
 いったい何匹いるのかしら? 五十、百……いえ、もっと多いわね。もしかしたら自分はここで――と考えかけて頭からその考えを振り払う。こんな事で諦めたりはしない。こんな所で死ねない。それは許されない。
 第五世界に残してきた乃梨子の事。自分は一生、あの世界の乃梨子の事を忘れない。どんなに幸せになっても、忘れる事などできないだろう。だって、もし志摩子が忘れてしまったら、いったい誰があの世界の乃梨子の事を覚えていてあげられる?
 それに、第六世界の乃梨子の事もある。第五世界の乃梨子の身代わりというわけではないけれど、それでも望む限り傍にいてやりたいと思う。
 そして、最後にもう一つ。許してはもらえないかもしれないけれど、祐巳さんに謝りたい。そしてもし許されるのであれば、あのお日様のような笑顔をもう一度見せて欲しい。それが、過ぎた望みだという事は自分でも分かっているのだけれど。
 ガタッ――。
「っ!」
 響いた物音に咄嗟に振り返ったが、部屋には志摩子以外に誰もいない。部屋の扉は開いていないし、そもそも今のは一階から聞こえてきた。おそらく、蟲たちが扉を破って館の内部に入って来たのだろう。そして、それは正しかったようだ。蟲たちの重くて固い足音が、志摩子のいるこの部屋へと近付いてくる。
 どうやら覚悟を決めなければならないようだ。蟲たちの足音が扉の前でピタリと止まった。

 私はっ、
「ロサロサ・ギガギガ――」
 こんな所で死ぬわけにはいかないのよっ!

 杖を一振りして叫ぶ。
「ライトニング・レイン」
 瞬間、志摩子の周りに出現した複数の光の矢が、横殴りの雨のように部屋の扉とその周辺の壁を撃ち貫いた。四散する扉、砕けて燃え上がる木製の壁。同時に、撃ち貫かれる鋼の蟲たち。けれど、次から次へと蟲は現れる。
 キリがないわね、と思いながら杖を構え直す。
(これで決める!)
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティ――えっ!?」
 呪文を唱えかけたその時、ガラスの砕ける音と共に窓を破って何者かが部屋に侵入してきた。それは銀色に輝く巨大な蜂で、窓を破った勢いのまま志摩子に体当たりしてくる。
「くぅっ!」
 咄嗟に身を捩ったのだけれど、躱し切れずに肩を掠めてしまった。その衝撃で、志摩子はバランスを崩して床に倒れ込んでしまう。
 一方で、志摩子に体当たりを躱された蜂はその勢いのまま木造の壁に激突したらしい。自分が開けた穴の中で藻掻いているが、砕けた木の破片などが邪魔をしているらしく抜け出す事ができないようだ。
 ここまでならば、ピンチでも何でもなかった。立ち上がって魔法を放てば良い。それで蜂を倒せる。しかし、この場にいる蟲はその蜂だけではないのだ。
「あぁぐっ!」
 床に倒れ込んでからすぐに身体を起こそうとしたが、馬乗りになってきた蟷螂によって動きを封じられてしまう。
(痛いっ! 苦しいっ!)
 鋼鉄の蟲の重さで、全身の骨が軋んだ。胸が圧迫されて呼吸もできない。
「あ……」
 蟷螂が、自分の上で鋭利な刃物と化している前脚を振り上げたのが見えた。
(死ぬ――? 嫌よっ! まだやり残した事があるのに――乃梨子っ! 祐巳さんっ!)
 大切な人たちの名前を心の中で叫ぶと、それに応えるかのようにどこからか大きな音が轟いて薔薇の館が激しく揺れた。世界が壊れてしまったのかと思うほどの、とんでもない揺れだった。
 その振動で残っていた窓ガラスが全て砕け、部屋の中にあった椅子が宙を舞い、蟲たちがよろける。何が起こっているのか全く分からなかったが、それでも志摩子はこの好機にすぐに反応した。
 自分の上でバランスを崩している蟲に向かって杖を一閃。格段に威力が低くなってしまうのだけれど、それでも構わないので詠唱を飛ばして叫ぶ。
「ファイアーボール」
 ソフトボール大の炎の球が顔面に炸裂した蟲が、志摩子の上から転げ落ちて苦痛にのた打ち回る。それと共に、志摩子の身体が自由になった。けれど、未だこの辺り一帯を襲っている激しい揺れのために自分も蟲たちもその場から動けない。
 だが、それでも志摩子には十分だった。
「ロサロサ・ギガギガ・ギガンティア〜♪」
 床に転がったまま杖を一振り、力ある名を叫ぶ。
「オリジナル・テンペスト」
 瞬間、辺り一帯に静寂が訪れた。
 その中心にいるのは、床に転がったままの志摩子だ。
 散乱していた書類、倒れていた椅子、砕けた机にガラス片、そして部屋の中に侵入していた蟲たち。その全てが炎に包まれながら宙に浮いていた。身体を包む炎を消そうとしているのだろう。蟲たちが激しく藻掻いているが、その炎が消える気配は全くなく、それどころか益々激しく燃え上がった。
 蟲の焼ける匂いが部屋に充満し始めた頃、風が吠えた。ここでようやく、世界に音が戻る。荒れ狂う風が縦横無尽に駆け抜けて、蟲たちを襲い炎が燃え広がった。吹き荒れる風は、それ自体が炎を纏っていた。その身を焼かれながら凄まじい勢いで壁や天井に叩き付けられて、蟲たちが悲鳴を上げる。同じように飛ばされた椅子や机が、そこに磔にされていた蟲たちを容赦なく押し潰す。
 その光景は、まさしく嵐だった。雨の代わりに炎が舞う、炎の嵐だった。今この場所では、志摩子を除いたあらゆるものが燃え上がっていた。
 ギシギシと音を立てて、館が大きく軋む。その音は会議室から始まって、すぐに館全体へと広がっていった。天井と壁の境目にできた亀裂が広がり裂けていくと、遂には雷鳴のような激しい音を立てながら天井部分が剥がれ飛び、真っ黒な空がそこに口を開けた。
 まるで空に向かって落ちていくように、蟲も、机も、椅子も、壁や床に広がっていた炎さえも黒い空へと巻き上げられていく。
「……疲れたわ」
 静かになった部屋で、彼方へと遠ざかっていく小さな炎を見上げながら志摩子は大きく溜息を吐いた。



 随分と綺麗になったな、と思った。先ほどまで校舎の建っていた場所は今は更地となっていて、唯一残っているのは祐巳たちの足元の床の一部だけだ。
 視線を下げると、祐巳の足元に蹲ったままの瞳子ちゃんがまだ耳を押さえているのが見えた。
「もう良いわよ」
 言いながら肩に手を乗せると、ビクッと身体を震わせて瞳子ちゃんが祐巳の手から逃れた。
(……だよね。それが普通の反応なんだよね)
 祐巳を見上げてくる瞳子ちゃんは、怯えた目をしていた。
 ズキズキと心が痛みだす。しかし、それを表に出すわけにはいかない。こんなにも不安で怯えている瞳子ちゃんに、それを見せるわけにはいかない。
(しっかりしろ。これくらいで私は傷付いたりなんかしない。こういう目で見られるのは慣れているんだから)
 自分に言い聞かせながら、いつだって作りだせる便利な微笑を瞳子ちゃんに向かって浮かべる。
(大丈夫、私は上手に笑えてる)
「私が怖い?」
 尋ねると、瞳子ちゃんが目を逸らして顔を俯かせた。
「そっか……」
 痛みが酷くなってきたけれど、構わずに続ける。
「それならそれで構わないよ。でもね、それでも私はあなたを守る。そう決めたから」
 伝わったのだろうか。それとも、伝わらなかったのだろうか。瞳子ちゃんは、ずっと顔を俯かせたままだ。
 何も答えてくれないので、伝わったかどうか判断はできない。けれど、自分の言いたかった事、伝えたかった事は声に出して言った。たとえ今は伝わってなかったとしても、いつか伝わればそれで良い。
「『彼ら』に周辺の探索をさせていたんだけど、どうやら志摩子さんを見付けたみたいなの。一人で薔薇の館にいるようだから、一緒に行こう?」
 そう言って手を差し伸べると、ようやく瞳子ちゃんが顔を上げた。
「え? あ、瞳子ちゃん?」
 見上げてくる瞳子ちゃんの目尻に涙が溜まっている事に気が付いて、祐巳は酷く動揺してしまう。まさか、泣くほど怖かったとは思っていなかった。
「私……」
 何か言いたそうだけれど、何を言えば良いのか自分でも分からないようだ。一粒の涙が瞳子ちゃんの頬を伝って、地面へと落ちた。
「あのね、瞳子ちゃん。私を怖いと感じるのは、仕方のない事だと思うんだ。私たち、過ごしてきた世界が違うからね。優しい世界で生きてきたあなたには、私のああいう所は理解できないと思う」
 というか、できればこれからも理解して欲しくない。だって、あれを理解できるという事は、瞳子ちゃんが生きている世界が優しい世界ではないという事を意味するのだから。
「それでも――」
 祐巳は地面に膝を突いて、目線の高さを瞳子ちゃんに合わせた。そうして、彼女の目尻に溜まっている涙を人差し指で拭ってやる。
「今だけでも良いから私を信じて」
「ごめんなさいっ」
「へ?」
 いきなり、ポロポロと涙を零しながら瞳子ちゃんが頭を下げてきた。それは、私の事が信じれないって事だろうか、と祐巳の心がどこか暗くて深い所へと沈みかける。
「あなたの事、好きなのに。それなのに、あなたが怖かったんです……」
 沈みかけていた心が急浮上。何だ、そっちか。うん、それなら問題ない。
「ありがとう」
「え?」
 涙が貯まっている瞳を、いっぱいに開く瞳子ちゃん。そのせいで、また溜まっていた涙が零れる。
「あなたが好きって言ってくれるのなら、私はそれだけで凄く嬉しい」
 おかしくなってしまってからの自分は、周囲にいる人々の恐怖と憎悪の対象だった。怖がる人ならたくさんいた。馬鹿にする人もたくさんいた。自業自得だとは分かっているけれど、好きって言ってくれる人なんていなかった。
「だから、ありがとう」

 こんな私を好きって言ってくれて。

「たとえ私の命に代えても、絶対にあなたをあの世界に戻してみせるから」
 そう祐巳が口にした瞬間、瞳子ちゃんが叫んだ。
「駄目です!」
「うぇぇ? 何が駄目なの?」
 まさか、自分の世界に戻りたくないとでも言うのだろうか。いやいや、そんな馬鹿な。
「今、『命に代えても』とおっしゃいましたよね。それじゃ駄目です。あなたも一緒に戻らなきゃ駄目です」
「ああ、うん。そうだね」 
「もう怖くない。怖くなんてない。それ以上に好きだから、もう怖くなんてありません。約束してください。ずっと私と一緒にいるって。私の傍にいるって。あなたを怖がった私にこんな事を言う資格なんてないかもしれないけれど、私はいつまでもあなたと一緒にいたいんです」
「……分かった。約束するよ。私はずっと、あなたと一緒にいる」
 立ち上がって手を伸ばすと、瞳子ちゃんがその手を強く握ってきた。
「約束ですよ? 絶対に破っちゃ駄目ですよ?」
「うん」
 大きく頷いた後、強く握られている手を引いて瞳子ちゃんを立ち上がらせようとすると、どこからか視線を感じた。
 何者かが見ている、とはっきりと感じる。ずっとこちらを見ている。正確には、祐巳だけを見ている。それは、桂さんのものではない。勿論、瞳子ちゃんのものでもない。
「祐巳さま?」
 急に動きを止めた祐巳を瞳子ちゃんが訝しげに見てくるが、それには答えずに睨み付けるように空を見上げた。空には見慣れた丸い月が浮かんでいて、雲が出ているために数は少ないが幾つかの星も輝いている。見た感じでは特におかしな所はなく、普段通りの夜空が広がっているだけだ。
 けれど、祐巳は確信を抱いていた。
 雲の向こう側に奴がいる、と。



「はぁ、はぁ、はぁ」
 最早、呼吸をするのも辛い。
「くっ!」
 肩で息をしながら、志摩子は飛びかかってくる蟲から身を躱した。ギリギリの所で志摩子に避けられた蟲は、背後にいた仲間を巻き込んで地面に倒れ込み砂埃を上げる。
「はぁ、はぁ、ふぅ」
 いったい何匹いるのだろう。まるで無尽蔵……いや、実際に無尽蔵なのだろう。館の影から、立ち並ぶ木々の間から、蟲たちが続々と集まってくる。
 戦闘場所を会議室から館の前に移した所で、志摩子は蟲たちに囲まれてしまっていた。会議室は狭くて魔法が使い辛かったので場所を変えたのだが、それが裏目に出てしまったようだ。二、三百匹程度ならどうにかできると思っていたのだけれど、まさかここまで多いとは思わなかった。
 攻撃を避ける度、魔法を撃つ度にどんどん体力を奪われて、心が折れそうになる。戦っているのは自分のはずなのに、この戦闘がいつ終わるのか分からない。もしかすると、永遠に終わらないのではないだろうか。いや、そもそも自分はまだ生きているのだろうか。本当にまだ戦っているのだろうか。実はもう死んでいて、自分の作り出した幻の蟲たちと戦っているだけではないのだろうか。あまりにも苦しくてそんな事まで考えてしまうのだけれど、身体は決して動く事をやめない。息が切れて、足が縺れて、いっそ死んでしまいたいくらいに苦しいのに勝手に動く。それもこれも、こういう事に慣れてしまっているからだ。休む間もなく戦い続ける事なんて、向こうの世界で幾度となく経験している。
「ライトニング・アロー」
 こちらに飛びかろうとしていた蟲に光り輝く矢が突き刺さり、黒焦げとなって絶命する。
(今ので何匹目なのかしら? 四百六十を超えた所までは数えていたのだけれど……)
 まだ終わらないのか。まだ終われないのか。
 いつまで戦うのか。いつまで戦えるのか。
 この身体の動きを止めてしまえば、きっと楽になれる。いっその事、もう止めてしまって楽になってしまおうか。
 そう思った時、
「そこまで頑張ったのに諦めるわけ? それならそれで、助ける手間が省けて良いのだけれど」
 幻聴が聞こえた。
「でもまあ、せっかくここまで来た事だし、頑張っていたみたいだから助けてあげるわ」
 透き通るようなその声が聞こえた直後、志摩子を囲んでいた蟲たちがいきなり弾け飛んだ。
 それに驚く間もなく、志摩子の耳に誰かの嘲笑う声が届いてくる。
「あはっ、あはははははっ! あなたたちってほんっと、世界の底辺を這いずり回っているのがお似合いね」
 その場から一歩も動く事ができずに、跡形もなく焼き尽くされる者。風の刃に全身を細かく切り裂かれる者。見えない力によって、圧し潰される者。志摩子を囲んでいた蟲たちが、為す術なく大量の体液を地面に撒き散らして青い染みだけを残して消えていく。
 その様を呆然と見ていると、千切れ飛んできた蟲の頭部が志摩子の前に転がってきた。
 濃厚な血の匂いが、周辺に漂い始める。
「あ……あぁ……」
 志摩子の背筋を冷たい汗が伝った。目の前で繰り広げられる光景に、その場にへたり込んでしまう。
 こんな一方的な戦闘ができる人が、誰かいただろうか。これだけの数の蟲を相手にして、こんな戦い方ができる人なんていないはずだ。そんな人がいたのなら、あの世界はきっと救われていた。そう思ったのだけれど、たった一人だけ思い浮かんだ。そうだ。今の彼女はあの頃と違い、本来の力が使えるのだった。
 彼女は使える能力に制限があったのに、どんなに酷い戦闘地区からも帰ってきた人。どれほどの数の蟲を相手にしても、必ず帰ってきた人。皆に恐れられていて、誰よりも傷付き易く、誰よりも強い人。志摩子が深く傷付けてしまった人……。
 残っていた最後の一匹が、身体を捻じ切られて蒼い体液を撒き散らした。
「ふん。数が多くても、今の私の敵ではないわね」
 そんな事を言っているが、彼女ならあの頃の戦い方でも勝てるだろう。彼女の戦い方はでたらめで、能力に制限があったのに有り得ないほど強かった。
 蟲たちの残した青い染みを踏み付けて、その人が現れる。
 彼女が姿を現した事によって、志摩子は酷い息苦しさを感じた。そんなはずはないのに、周囲の温度が急激に下がった気がする。そう感じてしまう原因に、志摩子は心当たりがあった。彼女のあの昏い瞳だ。平気で人を傷付けて、壊しても全く揺るがないあの瞳が怖くて堪らない。
 ゆっくりと歩いてきた彼女が、志摩子の前で立ち止まった。志摩子は震えている肩を抱き、その場にへたり込んだまま目の前に立つ彼女を見上げた。
「無様な格好ね」
 普段の彼女からは想像も付かない程の冷たい表情。そこに映されているだけで凍り付いてしまいそうなほど昏い瞳を以って、志摩子を見下ろしてくる。
「何よ、化け物でも見るような顔して。確かに私は人間ではないけれど、その顔はムカつくわよ? わざわざ助けてあげたっていうのに、そういう態度を取るわけ?」
 この視線にこの口調。どうやら彼女は、まだ戦闘状態にあるらしい。
「い、いえ、私は――」
 益々昏さを増す視線に呑み込まれながら、あなたを化け物だなんて思ってはいない、と震える唇で言いかけた時、彼女の隣にもう一つ人影がある事に気が付いた。
 その人物は志摩子の妹(プティ・スール)である乃梨子の友人で、志摩子自身もよく知っている縦ロールがトレードマークの少女だ。血の匂いに慣れていないのだろう彼女は、口元にハンカチを当てて顔を顰めていた。
「無事で良かった、くらい素直に言えないんですか」
「瞳子ちゃんに、素直に、とか言われちゃったよ。志摩子さん、どうしよう?」
 彼女の昏かった瞳に光が戻り、瞬時にとても情けない表情になった。途端に息苦しさから解放された志摩子は、安堵するよりも彼女のその急激な表情の変化に呆気に取られてしまう。
 次いで、込み上げてきたものがある。それは、
「ふ、ふふふふふ、ふふふ、あっはははははっ」
 おかしな笑いだった。
(あんな戦い方をする人が、あんなに冷たい表情をしていた人が――)
 今はとても情けない表情を浮かべているのがおかしくて、志摩子は噴き出してしまった。すると、突然笑い始めた志摩子に対して、今度は困ったような表情を浮かべる。
「……志摩子さんが壊れた」
「祐巳さまがおかしな事をおっしゃるからです。『瞳子ちゃんに、素直に、とか言われちゃったよ』って、いったいどういう意味です?」
 そう言っている瞳子ちゃんも、隣にいる祐巳さんと同じような表情を浮かべて志摩子を見ている。
 しかし、それも仕方のない事だろう。こんな風に笑う自分の姿を見るのは初めてだろうから。なにしろ、自分だって初めてなのだ。こんな風に笑いが止まらないのは。
「ふふふははは、ごめっ、ごめんなさい。ふふっ、とっ、止まらないの」
「ううん、気にしなくても良いよ。志摩子さんだって、たまには壊れたい時があるよね」
 そういうわけではないのだけれど、この際そう思われても構わない。
(だって、まるであの頃のように、祐巳さんの前で笑えるのだから)
 自分の生まれ育った世界がまだ平和だった頃を思い浮かべながら、志摩子は笑い続けた。


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