今ここに、ひとりの少年がいる。
グレーがかったブルーの瞳。
髪こそ真っ黒だが、顔の各パーツの彫りは深く、整っている。
一個人の部屋にしては広すぎるほどの自室。
ベッドやクローゼットなど、必要最低限の家具と、趣味の道具であるパソコン以外には
部屋を飾り立てるものは何もない。
その空間に、電話がおいてある。
電話は主に親しい人や、家の関係者からが多い。
ここ最近はあまり話すこともないせいか、事務的な連絡以外では鳴ることも
少なくなっていた。
ふう、と短い溜息をひとつ。
目の覚めるような美男子ではないのだが、憂いに満ちた表情がなんともいえない
味わいを出している。
その日の午後、よどんだ空気を突然動かしたベルの音に、
少年は少なからぬ驚きと、かすかな期待を感じていた。
『もしもし、康介?今何してる?』
彼の名を呼んだのは姉の声。
「どうした、真里菜」
姉の名は岡本真里菜といった。
珍しいこともあるものだ、と康介は思った。
普段用事があれば、メイドを通すかあるいは自分から部屋にやってくるかの
どちらかなのに。
そういえば電話の声が、なんとなく怒りを帯びていたような気がする。
『すぐに部屋に来て』
(俺、何か怒られるようなことしたのかな…)
会話の中で不用意なことを言ってしまったのか。
もしくは、姉に借りていた本をいまだに返していないことに怒っているのか。
康介はあらゆる可能性を考えていたが、どうしても原因らしき出来事に思い至らない。
そのかわり、なんとなく予感めいたものが脳裏をかけめぐっていた。
机の上にあるペン立ての中から、『いつもの』を取り出すと、
康介は姉の部屋へと急いだ。
「遅い」
案の定真里菜は怒っている。
しかもこちらを振り向くどころか、ベッドにうつぶせになったまま身動きもしない。
「ごめん」
短く謝罪するが、真里菜の反応はない。
(参ったな…背中に怒りが充満してるよ。こりゃ何かあったな)
「あ、あのさ…マッサージした方が…よさそうだね」
「さっさとやってちょうだい」
手にしていた『いつもの』を近くのテーブルの上におくと、康介はベッドの上に乗り、
真里菜の背中をゆっくりとさすり始めた。
こうしてまずは安心感を与えてから、それぞれの部位のマッサージに入る。
まずはふくらはぎから。
そうとう酷使しているのか、まるで鉄の棒のようになっている。
その鉄の棒を人間の足にするためには、かなりの時間と力が必要だ。
「真里菜、少し我慢してくれよ。すぐ痛みは治まるからな」
痛いのが嫌いなことは知っているが、これほど固くなってしまうと、
ある程度力を入れないとほぐれない。
それを部活(康介は水泳部所属である)で嫌というほど知っている康介は、
できる限り姉を刺激しないよう優しく話しかけた。
「い…痛…」
「ごめんごめん。ほら、これでいいだろ?」
少し力をゆるめた状態で、時間をかけてゆっくりともみほぐす。
30分ほどそうしていただろうか。
真里菜の体が、ふっと緊張を解いて、康介の手にゆだねられた。
「よしよし。もう大丈夫だからな」
その後、足の裏まで下がったあともう一回ふくらはぎをほぐして、
康介の手は背中へと移動した。
華奢な背中で両手を上下させながら、康介は思う。
(もしかしたら…淋しかったのかな?)
そう考えれば、思い当たるふしがいくつもある。
少し前の夜中に目が覚めて、トイレに行く途中のこと。
真里菜の部屋から疲れた顔で出てくるメイドとすれ違った。
「どうしたんだよ。真里菜に何かあったのか?」
メイドの返事に、康介は耳を疑った。
「真里菜さま…かなりうなされていたようで、突然目を覚まされて…
先ほどまで激しく泣いていらしたんです。
今は落ち着いて眠っていらっしゃいますけれど」
うなされて、目を覚まして激しく泣く。
リリアンの生徒会長というのは、それほどまでに激務なのか。
もしかしたら別の理由があるのか。
いずれにせよ、よほど強いストレスがかかったに違いない。
一見強気に振舞っているように見えるが、あれで意外ともろいところがある。
そのときは答えも出さずにそのまま部屋に帰ってしまったが、
その後1時間ほど心配で寝付けなかったことを覚えている。
それだけではない。
最近メイドたちが、真里菜の機嫌をとるのが大変とこぼすようになったのだ。
両親の前ではそれほどわがままは言わないのだが、
メイドや他のスタッフを相手にするととたんに不機嫌になり、言いたい放題になってしまうのだと。
康介にはなんとなく、真里菜がこれほど荒れる理由が分かるような気がした。
(あいつは極度の淋しがり屋だから)
日本陶芸界の重鎮の父親と、イタリア名門貴族出身の母親。
それぞれに自分の仕事やら付き合いやらで忙しい。
そのことを思い出していたら、知らないうちに手が止まっていたらしい。
すでに半分眠ったような声で、
「もうやめちゃうの?」
と言ってきた。
「今度は耳かきしてやるから」
すでに力の抜けた体を、そっと自分の膝に引き寄せる。
(やれやれ…俺もつくづく真里菜には甘いな)
いったいいつ、耳かきなどという技を身につけてしまったのだろうか。
記憶をたどってみても、出てくるのは空白ばかり。
その代わりに康介には、聞いてみたいことがあった。
「なあ真里菜…淋しいか?」
「今は、淋しくない」
その瞬間の真里菜の表情を、康介は忘れることができない。
(こんな…こんな、子どもみたいな顔するヤツだったか?)
それに『今は』とは何だろう。
さらに気になる。
「でも、前は淋しかった」
やはりあのとき、淋しかったから泣き叫んでいたのか。
もしそうだとしたら、なぜそんなに…?
「あのときね…夢の中で、私は暗い場所にたった一人だった。
誰を呼んでも返事もなくて、不安で仕方なくて…
だから必死にあんたの名前を呼んだのに、康介ったら近づいてきたのに、
素通りしてくんだもん…まるで私なんて見てないみたいで
目がさめて電話鳴らしたのに…何度呼んでもあんた、来てくれなくて…」
真里菜はすでに涙声。
そのとき康介の頭の中で、すべてのピースがカチッとはまった。
自分に見捨てられるのが不安で泣いていたのだ。
これではまるで、捨てられてダンボールの中で泣いている子猫みたいではないか。
康介はそっと姉を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。俺はどこにも行かない。
ちゃんと真里菜のそばにいるから」
これほど自分を追い求めてくれる人が、果たして他にいるだろうか。
「それからもうひとつ。誰もお前のこと、見捨てたりなんてしないよ。
ちあきさんとか純子さんとかも、ちゃんといつも一緒にいてくれるだろ?
そんなに淋しがることなんてないんだよ」
いつの間にか膝枕の体勢を解き、真里菜の横に添い寝する形になっている。
自分の腕の中に体を引き寄せ、背中で穏やかなリズムを刻む。
(いつかはお前も、誰かを好きになっていくんだろうけど、
今は俺だけの姉貴でいてくれよ…)
やがて呼吸が落ち着きを取り戻し、静かに眠りについた真里菜。
(たまにはこんな夜も、あっていいさ…おやすみ、真里菜)
とぎれた雲の間から、月が青く2人を照らしていた。