【1945】 生きてるということ  (33・12 2006-10-19 18:35:37)


 色々なものを混ぜつつ人物設定を弄りまくり、次々と出てくる問題点から目を逸らしながら作った、半分オリジナルな話です。ツッコミ厳禁←これ重要。
 話の都合上、及びこの話に出てくる祐巳の性格上、不快な表現や暴力表現等があります。できるだけ抑えましたが、少しだけグロっぽい表現もあります。主要人物に不幸があり、且つ痛いかもしれません。そういうのが駄目な方は見ない方が吉です。
 【No:1893】→【No:1895】→【No:1897】→【No:1907】→【No:1908】→【No:1911】→【No:1913】→【No:1921】→【No:1926】→【No:1933】→【No:1941】→【No:1943】→【No:これ】




 行く手を阻むものに死を与え、爆風で舞い上がった土煙に包まれながら蟲の死骸の山と青い染みの間を駆け抜けてようやくそれを見付けた時、それは傷塗れの身体を自分の両手で抱き締めるようにして小さく丸まって地面に転がっていた。
 今、自分の目の前で這い蹲って震えているこれが、あの世界を滅ぼした神様のはずだ。見下しながら嗤ってやるはずだった。無様な神様の姿を心の底から嗤ってやるはずだった。嗤って、嗤って、嗤いながら、殺せなくても、自分の心を殺してでも殺してやるつもりだった。そう決めたはずだった。それなのに嗤えなかった。殺せなかった。替わりに、自分の裡で何か大切なものが砕けたような気がした。
「嘘よ……」
「祐巳さん、しっかりしてっ!」
 どこか遠くで志摩子さんの声が響いている。
 夢だ、と思った。全部悪い夢で、目が覚めたらきっと笑顔のお姉さまが隣にいて、優しく頭を撫でてくれている。そうじゃなきゃ嫌だ。
「こんなの嫌よ……」
 少女を見つめる祐巳の表情は凍り付いていた。
 精霊が降りてきた時に巻き添えを食ったのだろうか。祐巳の瞳に映る血に塗れた少女は、その小さな身体を震わせていた。
 神様は子供だった。目の前の、祐巳の世界を滅ぼした神様は子供の姿をしていた。そして、それだけではなかった。こちらに顔を向けている少女は――今、祐巳の目の前にいる地面に這い蹲って震えている少女は、自分にとって大切なあの子の面影を持つ――。
「こんなの嘘よぉっ! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 祐巳が悲鳴を上げると同時に、ゆっくりと高度を下げていた目玉の欠片が街に墜落した。
 轟音と共に大地が激しく揺れる。墜落の衝撃で様々なものが空中に巻き上げられて、あちこちに飛び散った。祐巳たちのすぐ傍にも、拳ほどの大きさのコンクリートの塊が降ってきた。地面にぶつかってへこませた後、飛んできた勢いのまま数度跳ねてどこかに転がっていく。
 けれど、祐巳はそれどころではなかった。そんな事に構っていられなかった。
「あ……ああ……」
 祐巳はただ一人の少女を見ていた。血に塗れている少女の足元には、地面に染みて黒ずんだ血溜まりができている。
(私がっ! 私が傷付けた! よりによって私がっ! この私が傷付けたっ!)
 お姉さまを失った時と同じくらい、心が悲鳴を上げていた。
「何で!? 何で教えてくれなかったのよ! 何で黙ってたのよっ!」
 叫ぶけれど答えは返ってこない。祐巳の姿をした神様は、ここにはいない。祐巳の声は、ただ周囲に響いただけだった。
「殺せないっ! 殺せるわけないじゃないっ!」
 殺すくらいなら自分が死んだ方がマシだ。
「どうして……どうして……」
 見間違えるはずがない。子供の姿でも分かった。見慣れた特徴のある髪型ではないけれど、それでも分かった。彼女は目を瞑っているけれど分かった。彼女の事なら分かってしまう。だって、今の自分にとって一番大切な少女だ。第六世界の彼女とは違うけれど、それでも同じあの子だ。
「どうして……瞳子ちゃんなのよぉ……」
 膝を突いた祐巳の背中で純白の翼が弾け飛んだ。
 彼女だと教えてくれなかった、自分と同じ存在であるはずの少女に腹が立った。知らなかったとはいえ、瞳子ちゃんと同じ存在である彼女を傷付けてしまった自分が許せなかった。
 小さな瞳子ちゃんは、傷と血に塗れた身体を起こそうとしていた。無理に立ち上がろうとするから、傷口から更に血が溢れている。
「瞳子ちゃ――っ!」
「祐巳さんっ!」
 志摩子さんの静止の声。
 肩にかけられた手を振り払い、少女に駆け寄りかけた祐巳は見えない何かに弾き飛ばされた。数度地面を跳ねて、ようやく止まる。意識が飛びかけていたけれど無理やり立ち上がろうと地面に手を突いて、なぜかバランスを崩して倒れてしまう。
 見れば、右の手首がおかしくなっていた。皮膚の下で何かが飛び出ている。どうやら骨でも折れたようだ。けれども、そんな事を気にしてはいられない。
「その手……」
 駆け寄ってきた志摩子さんが、祐巳の状態に気付いて声をかけてくる。
「こんなのどうでもいいの、痛みなんて感じないから」
 そう答えながら、祐巳は立ち上がって少女を見た。
 彼女は片腕を伸ばして、祐巳と同じようにこちらに顔を向けていた。けれど、その瞳は祐巳を映してはなかった。当然だ。彼女の双眸はずっと閉じられたままなのだから。そしてそこからは、真紅の涙が流れ出ている。
「自分が世界を滅ぼす様を見るのが嫌で、あの子は自らの目を抉ったわ」
 その声に反応して、ピクリと祐巳の肩が震えた。
「消えていく命の悲鳴を聞きたくないから、耳も聞こえなくしたの」
 少女の両方の耳からも真っ赤な血が流れていた。顎を伝って、ぽたり、ぽたり、と血溜まりの中へと紅い雫が落ちていく。
「あの子は優しいの。あなたの妹である松平瞳子と同じくらい優しいの。あの子にも端末は存在しているわ。でも、あの子はそれを使わずに本体でここにきた。どうしてだか分かる? あなたのような、神様を傷付ける事ができる『彼ら』を使役する者と戦うから。同一存在とはいえ、『降臨』して松平瞳子という人間の身体を傷付けたくないからよ」
 けふっ、と瞳子ちゃんの姿をした神様が血を吐いた。
「あの子は世界を滅ぼしたくなんてないの。それでも、滅ぼさなければならないのよ」
「何よ……それは……」
 祐巳は振り返った。
 そこには、自分の姿をした少女の姿があった。その隣には、祐巳の妹(スール)である瞳子ちゃんの姿もある。
 ここまで急いで走ってきたらしく、激しく肩を上下させていた瞳子ちゃんが祐巳に向かって駆け寄ってくる。そうして、よろめく祐巳の身体を支えようとして手首の異状に気付いたようだ。
「これ……」
 それを見て、サッと顔を青褪めさせた。
 そんな瞳子ちゃんに、「大丈夫だから」と言って神様の少女を睨む。
「世界を滅ぼす、という役目を与えられた以上、どんなに嫌でも遂行しなければならないわ」
「何よ、それ」
「それが神様なのよ」
「神様って、何なのよ……」
「世界に創られたもの。世界のために生きるもの。与えられた役目を遂行するもの。あの子も、他の子も、私もよ。私たちは、そう創られているの」
「……で? 何で私にあの子を殺させようとしたの? そんなに殺したいのなら、自分で殺せば良いじゃない! 私に殺させようとしないでよ! 何で私が――」
「できる事なら私がこの手で楽にしてやりたいわよ!」
 強い視線で祐巳を睨み付け、少女が言い返してきた。
「でも、役目が違うから私にはどうやっても手が出せないのよ……」
 そこにいるのに手が出せない。
「そもそも、どんな理由があっても私たちに同族を殺す事はできないの」
 すぐ目の前にいるのに、自分の手では救う事も殺す事もできない。だから、この少女は神様を殺す事のできる祐巳をこの世界に連れてきた。
「ねえ、痛みを取り戻したあなたになら、どんなにあの子が傷付いているか分かるでしょう? 痛みが分かり、優しいあなただからこそあの子を殺せる」
 だから、この少女は祐巳に痛みを取り戻させた。
「そんな……」
「あなたでなければ殺せないの。あなただけが私たちを殺せるの。私たちは、自分で自分を殺す事もできない。どんなに自分を傷付けても死ぬ事はできないの。あの子は、これからもずっと泣き叫びながら自分を傷付けて、それでも死ぬ事は許されずに世界を滅ぼしていかなくてはならないの。だから、お願い」
 神様の少女が祐巳に頭を下げた。
「これ以上あの子が自分を傷付けなくても良いように――」
 何でこの少女が頭を下げる? 何でこいつがここまでする?
「もう楽にさせてあげて」
 この少女に、そういう感情はないと思っていた。
 人類なんて滅びた方が良い、と。誰が傷付こうと知った事ではない、と。そう言ってた神様だ。まともな感情なんてないと思っていた。
「あの子は、あなたの何なのよ……」
「……『世界』によって創られた、私の妹よ」
 妹? 姉妹なのに死を願うのか。最低な姉ね。そう思ったのだけれど、殺す事でしかあの少女は救われないのだ。
「あの子を殺して、ここにいる瞳子ちゃんがどうにかなったりしないでしょうね」
「それはないわ。第六世界の島津由乃は生きていたでしょう?」
 確かに、祐巳の世界では亡くなっていたけれど、こちらの世界の由乃さんは生きていた。あの傷付いている瞳子ちゃんは神様で由乃さんの時とは状況が違うのだけれど、神様が言うのだから信じても良いだろう。少なくとも目の前にいる神様の彼女は、出会ってから今までに嘘は言わなかった。
「分かった」
「祐巳さんっ!」
 志摩子さんが声を上げた。祐巳の決めた事が分かったからだろう。それは抗議の声だった。
「仕方がないじゃない」
 祐巳の言葉に、子供がイヤイヤするように志摩子さんが首を振る。もしも志摩子さんが今の祐巳の立ち位置にいれば、おそらく彼女は死を選ぶだろう。志摩子さんに、あんなに傷付いている少女を手にかける事なんてできない。そしてまた、祐巳も志摩子さんにそんな事をして欲しいとは思わない。
 祐巳は志摩子さんから視線を外して、神様の少女を見下ろした。
「後悔しない?」
「今の何もできない状態以上に後悔する事なんてないわ」
 何もできない、なんて事はない。彼女は自分の妹を、死を以って救うために祐巳をここに連れてきた。それ以上の事は彼女にはできなかったけれど、彼女は彼女なりに必死だったはずだ。
「そうね」
 どんな思いでここに祐巳を連れてきたのだろうか。同一の存在ではあるが、その心までは分からない。漠然と、辛いだろう、悔しいだろう、という在り来たりな事くらいしか祐巳には浮かばなかった。
「祐巳さんっ! 本気であの子を殺す気なの!?」
 志摩子さんが再度抗議の声を上げる。
「煩いわね。私はもう決めたのよ。それとも何? あの子を犠牲にしてまで生きたくない、なんて言うつもり? 私は嫌よ。死にたいのなら勝手に一人で死になさいよ!」
 志摩子さんが祐巳を睨んで、祐巳も志摩子さんを強く睨み返した。
「でも、絶対に死なせない。死なせてなんかやらない。何が何でも絶対に連れて帰るわ。だって、あなたには乃梨子ちゃんがいる。向こうの世界で、あなたが失踪した後の乃梨子ちゃんがどんなに傷付いていたか知らないでしょう? またあの子を傷付けるつもり? あなたには帰るべき場所があり、待ってる人がいるの! こんな所で死ぬわけにはいかないでしょう?」
「……」
 乃梨子ちゃんの名前を出されて、志摩子さんが辛そうに俯いた。
「それに、私にだって今は瞳子ちゃんがいる。瞳子ちゃんと一緒に生きたいの」
 だから、これから祐巳が行う事は神様の少女のためではない。血を流して傷付いているあの少女のためでもない。
 自分が生き延びるためだ。瞳子ちゃんと一緒に生きていくためだ。そのために自分は、あの傷付いて血に塗れている少女を殺す。
 祐巳は志摩子さんから顔を背けて、自分の身体を支えてくれている瞳子ちゃんに顔を向けた。
「瞳子ちゃん」
 返事はなかった。けれども彼女は、祐巳の瞳を真っ直ぐに見ていた。
「私は生きるために、もう一人のあなたを殺すわ」
「……」
 瞳子ちゃんは何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。



 蟲たちの流した血液で青く染まった大地を踏み締めて、祐巳は少女と対峙していた。
 祐巳の視線の先にいる少女は、痛みに耐えるように小さく震えている。
 そんな少女と重なる姿があった。
(痛いよね)
 過去の祐巳の姿だった。
(辛いよね)
 世界を滅ぼす事が嫌で、それなのに滅ぼさなくてはならなくて、自らを傷付けている少女。おそらく、死にたいとまで思っているだろう。
 それでも彼女は、第五世界の生き残りである祐巳に攻撃してきた。
『アアアああぁぁぁぁぁぁぁァァァッ』
 それが、彼女の存在する理由だから。
 それが、彼女に与えられた役目だから。
 双眸から血を流し、泣き叫びながら祐巳に向かって手を伸ばしてくる。そこから何かが飛んでくるわけではなく、ましてや何かを呼び出したわけでもなく。けれども祐巳は、胸に強い衝撃を受けたと思った瞬間それまで立っていた場所から吹き飛ばされた。
 先ほど吹き飛ばされた時と同じように身体のあちこちをぶつけながら地面を転がり、ようやく止まった所では星々が煌く美しい夜空が視界いっぱいに広がっていた。このままじっとしていたら楽にしてくれるんだろうな、なんて事を考えながら起き上がる。
 ここで死ぬわけにはいかない。
 生きたい、と思ったのだ。瞳子ちゃんと一緒に生きていく、と決めたのだ。だから、あの少女を殺すと決めたのだ。
 立ち上がった場所で、未だに悲鳴を上げ続けている少女を見る。
(何でなのかな……)
 祐巳の背中で純白の翼が広がり、輝く羽根が舞い上がった。
(何で生きるために殺さなければならないんだろう?)
 祐巳が左腕を少女に向けて突き出すと、集まった数千万の彼らが敵である少女を中心にして全方位を囲んで咆哮を上げた。
『ああぁぁぁッ』
 それに応えるかのように血塗れの少女が叫び、彼女の周りに黄金に輝く小さな六角形の板のようなものが幾つも浮かび上がってくる。
 それは、少女を守る黄金の盾だった。少女を守るべく、黄金に輝くそれが幾重にも重なリ合いながら彼女の周囲を囲む。一枚一枚は薄くて小さいけれど、祐巳が呼んだ彼らの数に匹敵するくらいの数量だった。
 それを見て、精霊たちに愛されていないと神様を倒せないわけだ、と祐巳はようやく納得できた。あの数の盾が築く防御網を、普通の天使族が集める事のできる最大数である八百万程度で抜けるとはとても思えない。
 彼らと盾が一斉に行動を開始する。
 祐巳の呼んだ、五千万の彼らによる全方位からの攻撃。
 それを防ぐために高速で移動する、少女を守る五千万の盾。
 前後左右、上下に至るまでのあらゆる角度に加え、時間差を駆使しての攻撃までもが少女を守る盾によってことごとく防がれてしまう。
 精霊たちの放つ光が闇の世界を彩り、黄金に輝く盾が行く手を阻む。双方がぶつかり合い、その度に小さな光の粒を散らして消えた。
 盾が消えていく。彼らが消えていく。命が消えていく。
 仲間たちが次々とその命を散らしても、彼らは躊躇わずに少女へと向かっていく。祐巳がそう願い、彼らが祐巳を愛してくれているからだ。
 あの少女と自分の、いったいどこが違うのだろう。だって、彼女と祐巳の違いなんて、使役しているのが蟲か精霊か、種族が神様かそうではないか、それだけでしかないのだ。
(どうして『世界』は、あの子に世界を滅ぼすなんて役目を与えたのだろう?)
 少女を囲んでいた盾の幾つかが、突如として刃へと形状を変えて祐巳に向かって飛んでくる。
 考え事をしていた祐巳は反応が遅れたが、指示を出すより先に彼らが反応していた。彼らは再三、その身を犠牲にして祐巳を守ろうとしたのだ。
「あぐっ」
 しかし、高速で撃ち出された刃の全てを迎撃する事は叶わず、そのうちの一本が切り裂かれた彼らの隙間を抜けて祐巳へと到達した。右肩を貫かれた衝撃で祐巳の身体は宙に浮き、後方へ二メートルほど飛ばされた所で背中から地面へと打ち付けられる。咳き込みながらもすぐに立ち上がろうとしたが、頭でもぶつけてしまったのか身体のバランスを保てずに尻餅を突いてしまった。更には今まで蓄積してきた疲労が一気に噴き出したらしく、身体から急激に力が失われていく。
(くっ、まずい……)
 何とか立ち上がろうとするのだけれど、手足は震えるばかりで思うように動いてくれない。
(駄目だ。身体が言う事を聞かない。私、ここで死ぬの? こんな所で殺されてしまうの? お姉さまも、家族も、世界も守れず、あの子を救う事さえできずにこんな所で…………でも、ああ、そうね。ここで死んだら――)

 お姉さまや家族に会えるかもしれない。

(……案外、死ぬのも悪くはないかもしれないな)
 もし会えたら、守れなくてごめんなさい、って謝ろう。そして、今までよく頑張ったね、って抱き締めてもらおう。お姉さまと家族の姿を思い浮かべて、祐巳は小さな笑みを零した。
 もうこのまま諦めてしまおう。そうすれば、これ以上傷付く事はなく、あの子も殺さずに済むのだ。
 そうして身体から力を抜いた祐巳は、
(あ――)
 朦朧とする視界の隅に瞳子ちゃんの姿を捉えた。
 祐巳の有様を見て顔を真っ青にしている彼女は、それでもこちらに駆け寄ろうとはしない。あれだけ祐巳の事を心配していた瞳子ちゃんが、こんなにも傷付いている祐巳を見てもそこから動かないのはなぜなのだろう。そんな事を考えて、祐巳は自分を殴り付けてやりたい衝動に駆られた。
(そんなの、私の事を信じているからに決まっているじゃない!)
 彼女の世界に一緒に戻る、と。ずっと傍にいる、と。お姉さまと同じくらい大切な瞳子ちゃんと約束した。そして、瞳子ちゃんと一緒に生きたいと願う自分のために戦う、と祐巳は決めたはずなのだ。
(それなのに、何を諦めているのよ私はっ!)
 震える膝に爪を立てて血が滲むほど力を込めると、
「うぅっぅぅぅぅぁぁああっ!!」
 気力を振り絞って祐巳は一気に立ち上がった。
 荒い呼吸を繰り返しながら、頭から流れ出て頬を伝っていた血を左手で拭う。
(立ち上がったは良いけど、右手は動かないし足も使えない。頼りにできるのは『彼ら』だけど、どこから攻撃してもあの盾で防がれる。正直に言って、八方塞りだわ。参ったわね)
 祐巳は大雑把に指示するだけで、どこからどう攻撃するのかなどの細かい所は彼らの判断に任せている。つまりあの少女は、たった一人で祐巳と、祐巳に従う精霊たちと戦っているのだ。いったいいつから、一人ぼっちで戦い続けているのだろう。ここで祐巳たちが滅ぼされたら、あの子はその後も一人ぼっちで戦い続けるのだ。
(これ以上あの子が自分を傷付けなくても良いように、もう楽にさせてあげて……か)
 少女を守る盾とぶつかり、彼らが次々と消えていく。
 少女の命を奪うために。
 少女の命を守るために。
 黄金の光が弾け、色とりどりの命が散り、その全てがこの世界を覆っている闇へと溶けていく。
 力が入らないせいで頼りなく小刻みに震えている左手を伸ばし、ゆっくりと少女へと向ける。
 少女を見れば、彼女も同じように祐巳へと向けて手を伸ばしていた。
『アああぁぁッ』
 少女の悲鳴と共に襲ってきた目に見えない攻撃を、自分の身を包むように背中から伸ばした煌く翼で防御する。
 衝撃で純白の羽根が舞い散る中、祐巳は少女を見据えた。傷だらけで、血塗れで、一人ぼっちで、それでもまだ世界を滅ぼすという役目のために戦おうとしている少女。
 終わらせたい、と思った。あれ以上、あの少女が自分を傷付けなくても良いように。精霊たちが死ななくて済むように。祐巳が瞳子ちゃんと生きていくために。
『アああぁァァァァァッ!!』
 自分の攻撃が防がれた事を悟ったのだろう。一際大きく少女が悲鳴を上げると、祐巳の左腕が燃え上がり始めた。
 制服の焼ける音に肉の焦げる嫌な匂い。けれど、そこに痛みはない。そんなものは感じない。
 燃え上がり激痛を感じているはずのその腕を少女に向かって突き出すと、精霊たちが全方位から今まで以上に激しく彼女を攻撃し始める。
 あの目玉であれば、もう四、五回は墜とせる事ができるほどの火力だ。しかし、それだけの猛攻を繰り出しているにも関わらず少女の周囲を高速で移動するあの盾は、その攻撃の全てを阻んでいる。このまま彼らをぶつけても、無意味に生命を散らせてしまう事になるだけだ。
(どうすれば良い? どうすれば――くぅっ!)
 今度は少女の動きに注意していたので、彼女が黄金の刃を撃ち出すのに気付く事ができた。もっとも、気付く事ができたからといって、目で見て避けられるようなものではない。
 勘に頼って咄嗟に身体を捻っただけで避ける事ができたのは、祐巳の心臓を狙ったのだろうそれが数体の精霊を切り裂いた事が原因で速度を落としていたからだ。もしも速度が落ちていなかったら、祐巳が身体を捻る前にあの刃は到達していただろう。
 けれども、凶刃を避ける事はできたが祐巳の身体は既に限界を迎えていて、無理に捻った身体を力の入らない足で踏ん張る事まではできなかった。
(あぁ…………)
 成す術なく斜めに傾いていく視界を、この戦いを見守っている瞳子ちゃんたちの方へと向ける。
 まず最初に、神様の少女が無表情でこちらを見ているのが見えた。体勢を崩し地面に向かって倒れつつある祐巳を見ていったい何を考えているのか、その表情からは全く窺う事はできない。
 次に見えた瞳子ちゃんは、先ほどと同じように真っ青な顔したまま口元を両手で押さえていた。あの様子では悲鳴でも上げているのかもしれない。
 そして、その隣にいる志摩子さんは強い意志を感じさせる眼差しをしていて、祐巳と目が合うと小さく頷いた。
(……そう。決めたのね?)
 祐巳と少女が戦闘を開始する前からずっと悩んでいたようだが、ようやく乃梨子ちゃんと共に生きる覚悟を決めたらしい。
「あああああっ」
 傾いている身体をそのままに、祐巳は少女へと向かって焼け焦げた左手を伸ばす。
(志摩子さんっ――!)
 祐巳が心の中でその名前を叫んだ瞬間、志摩子さんがその手に隠し持っていたステッキを少女目掛けて振った。
「ライトニング・アロー!」
 少女に向けて放たれたそれは、闇を切り裂き一本の筋を残して光の速さで少女へと到達する。しかし――――無情にも、祐巳を愛する彼らと同じように黄金の盾に阻まれてしまった。
 それは、一秒にも満たないほんの一瞬の出来事だった。自分の盾が祐巳以外の者によって破壊された事に気付いた少女が志摩子さんへと意識を向けたのが、志摩子さんが攻撃を加える寸前から少女の動向に注意を向けていた祐巳には分かった。
(そこっ!!)
 その瞬間を、地面に左半身を打ち付けながらも祐巳は見逃さなかった。志摩子さんの一撃によって作られた小さな小さな――本当に小さな盾と盾の隙間を、祐巳の指示に従って精霊たちのうちの一体が駆け抜ける。
 その場所には、黄金の盾の防御範囲内よりも更に内側に入られて無防備に立ち尽くしている少女の姿があった。
(……ごめんね)
 呆気なく。
 本当に呆気なく。
 これが本当に神様なのか? と疑ってしまうくらいにあっさりと、少女の左胸を精霊の乙女が持つ銀の槍が貫いた。
 少女の小さな唇から鮮血が零れる。
 まるで時間が止まってしまったかのように、黄金の盾も精霊たちも一斉に動きを止めた。
 その止まった時間の中で、少女だけが動いていた。血に塗れている少女の表情が変わる。
(やめてよ……)
 間違いなく殺した。祐巳が彼女を殺したのだ。
 それなのに、
(殺した相手に微笑まないでよっ!)
 少女は祐巳に向かって微笑んだ。
 嬉しそうに微笑んだまま、仰向けに倒れていく。
「ぁ……」
 宙に浮かんでいた全ての盾が一斉に弾けると、黄金の光が雨のように降り注いでその粒が大地に漂った。
 まるで、黄金の海原だった。
 その海原に、祐巳に向かって微笑んだまま血塗れの少女が沈んでいく。
 やがて少女の姿が光に紛れて見えなくなると、彼女の死に合わせたかのようにその海原から光が消え失せた。

 視線の先に少女が倒れているのを確認して、祐巳はゆっくり立ち上がると左腕を振った。残っていた小さな炎――少女が遺したこの世界での最後の力がその一振りで消える。
 焼け爛れ赤黒くなった皮膚には溶けた制服が張り付いていたが、そこに痛みなどない。身体の痛みなんて感じないのだ。そんなものは随分前に失ってしまった。
 けれども、身体の代わりに心が痛くて。それは弱さであるはずなのに、泣き叫んでしまいそうになるほど痛くて。でも、あの少女の命を奪ったのは自分なのだ。そんな自分が絶対に泣くわけにはいかない、と祐巳は決して泣かなかった。
 吹いた緩やかな風がまるで慰めるかのように祐巳の髪を撫でると、纏めていて当たるはずのない髪が頬に当たった。気が付けば、ツーテールに纏めていたお気に入りのリボンの片方がいつの間にか解けている。どこかに飛んでいったのか、周囲にそのリボンは見当たらない。
 解けた髪が何度も頬に当たって鬱陶しいので掻き上げようとしたのだけれど、両腕が共に使えない事に気付いて仕方なく上げた手を下ろす。
 祐巳はその場から一歩も動かなかった。
 少女の死に顔を見ようとは思わなかった。少女の亡骸に近付こうとも思わなかった。
 それを見て良いのは自分ではない。彼女に近付いて良いのは自分ではない。それが許されるのは、あの神様の少女だけだ。
 瞳子ちゃんたちの駆け寄ってくる足音が聞こえてきて、祐巳の背後で止まる。ただ、神様の少女だけは祐巳の横を通り過ぎた。通り過ぎて、そこに倒れている少女を見下して――けれど、そこで見下ろしているだけだった。
「何やってるのよ……」
 手を握ろうとも、抱き締めようともしない少女に祐巳は叫んだ。
「あなたの妹なんでしょう!?」
 神様の少女は、自分の妹である少女の亡骸を見下ろしながら言った。
「触れないの」
「え?」
「役目が違うから手を出せない。それは、そういう事も含めての意味なのよ」
「そんな……」
 馬鹿な事があってたまるか。触る事すら許されていないなんて、そんな……。
「私たちは『世界』にそう創られているの」
「……」
「『世界』は残酷で、とても厳しいのよ」
 そんな事はないはずだ。
 世界は優しかった。そうでなければ、祐巳の生まれ育った世界での出来事は全て嘘となる。そうだ、あんな世界になる前はずっと優しかったのだ。でも……それならなぜ、あんな世界になってしまった? それは、世界が優しくないからではないのか?
 そう考えていた祐巳の視線の先で、
「生命とは死を以ってその尊さを伝えるもの」
 少女が静かに言った。
「それが軽く扱われる世界が滅びの対象となるのよ」
(そうか、それが――)
「ええ、あなたの世界が滅ぼされた理由ね」
 確かにあの世界は、生命というものがこの世界よりもずっと軽く扱われていた。
 桂さんの言っていた通りだ。それは、とても当たり前の事で、対策の立てようのない事だった。命を軽く見る人は、多かれ少なかれ必ず存在する。そうでなければ誰も争ったりしない。他人を傷付けたりもしない。戦争なんて起こらないし、他人を殺す事もない。けれど……それが分かったからって、どうする事もできない。あの世界が元に戻るわけではないし、祐巳一人でどうにかできる事でもない。
「そんな事、今更どうでもいいわ。それよりも、もう帰してくれる? 早く帰りたいんだけど」
 祐巳の言葉に少女が空を見上げた。
 黒い空に大きな亀裂が走る。それは空一面に広がって、まるでガラスの割れるような音を立てながらバラバラに砕け散った。
 割れた空の向こうには、黒く塗り潰された空間があった。光すらも呑み込んでしまいそうな、暗くて深い闇だった。砕け散った空の破片が、そこに吸い込まれていく。
「祐巳さま……」
 祐巳と一緒にそれを見上げていた瞳子ちゃんが、怯えたように名前を呼んできた。
 次いで、精霊たちの気配がこの世界から消える。世界が揺れ始めて、周囲に残っていた建物が次々と地面に呑み込まれ始めた。
「……あなたは、これからどうするの?」
「しばらく、ここに残るわ」
 そう答えて、神様の少女がそこに座った。
 まさか死ぬ気じゃないでしょうね? と祐巳が訝しんでいると、「その傷、治してあげるわね」と少女が言ってきた。腕や肩の事だろう。腕は、片方は折れて、片方は火傷。右肩には穴まで開いている。痛くはないけれど、見た目はどれもかなり酷い。もっとも、天使族は高い治癒能力を持っているので、もう治りかけているのだけれど。
「必要ないわ。どうせすぐに治るから」
「他人の好意は素直に受け取っておくものよ」
「嫌いな奴の世話にはなりたくないの」
「そう」
 小さく答えて少女が祐巳を見上げてくる。
「松平瞳子の事、大切にしなさいよ」
「あなたに言われるまでもないわ。私と瞳子ちゃんは――」
 姉妹(スール)なんだから、と言いかけて祐巳は口を噤んだ。けれども、読まれてしまったらしい。少女は寂しそうに微笑んだ。
 その表情を見て、祐巳はそれ以上何も言う事ができなかった。
 表面上はそうとは見えないように振舞っているけれど、自分がお姉さまを失った時と同じくらいこの少女は哀しんでいるだろうから。
 そんな少女に、祐巳が何も言えるはずがなかった。彼女の大切な人を殺したのは自分なのだ。
「祐巳さん!」
 志摩子さんが呼んできたのでそちらを見ると、祐巳が吹き飛ばした校舎のあった場所に大きな闇が口を開けていた。空と同じように、どこまでも深い漆黒の闇だ。その闇が恐ろしい速度で広がりつつあった。
 あれに呑み込まれたらどうなるんだろう、と祐巳が顔を引き攣らせていると、
「この子を救ってくれてありがとう」
 背後からそんな言葉が聞こえてきた。
 祐巳が振り返るよりも早く、周囲が眩い光に包まれる。それは、祐巳の持つ純白の翼よりも尚白く煌く光だった。そのあまりの眩さに思わず目を閉じてしまったが、それでも入ってくる光の粒が閉じた瞼の裏で踊っている。
 瞼を閉じて尚、視界を埋め尽くす白に次第に何も考えられなくなり――祐巳は意識を手離した。



 他の姉妹たちと同じく『世界』によって創られた私の妹の一人が、自らを傷付けながら世界を滅ぼそうとしてる事を知ったのは随分と昔の事だ。あの子は生命の尊さを理解していて、それを自分が滅ぼさなければならない事に絶望していた。
 その傷に塗れた姿を一目見て、私は彼女を救うと決めた。
 神様には与えられた役目があり、死ぬまでその役目を遂行するように創られている。つまり、その命を奪う事でしか妹を救う事はできない。
 けれども、空間転移や時間停止ができるほどの大きな力を持つのに、同じ神様であり役目の違う私の手ではあの子をその苦しみから解放する事ができないのだ。そんな私にできる事はただ一つ。
 精霊が人を愛する事はごく稀で、随分と長い間生きている私でさえ八百年ほど前に六人目を見たきりだ。
 過去へと飛んで連れてくる事はできるが、それが全くの無駄である事は間違いない。彼らは確かに精霊に愛されているが、その優しさ故に自らを傷付けているあの子を殺す事ができるほどの強い心と優しさまでは持ち合わせていないからだ。
 となれば、新たに精霊に愛された者が生まれていないか、または、愛される可能性のある者がいないか探すしかない。
 しかし、そう決めてからありとあらゆる世界を巡った私だったが、どの世界を探しても見付け出す事ができなかった。そうして見付ける事ができないまま長い年月が経ち、とある世界があの子による滅びの対象となったのだ。
 その世界で私は、私と同一の存在である天使族の福沢祐巳を見付けた。けれども当時の彼女には家族がいて、彼らのために戦っていたからなのだろう、精霊たちに愛されてはいなかった。
 見付けたのが天使族だったので一応気に留めておく事にはしたのだが、その時にその世界を見た限りでは住人同士が互いに足を引っ張り合っていて、今まで滅ぼされてきた幾つもの世界と同じようにただ滅ぼされるだけだろうと思っていた。
 でも違った。私が別の世界を探していた時、藤堂志摩子が『世界』によってこの第六世界へ転移された、と桂から報告を受けたのだ。
 それまでも気紛れで悪戯好きな『世界』が人や物を転移する事はあったのだが、その時は状況が状況なだけに引っかかるものがあった。どこへ逃れたとしても追ってきて滅ぼされる事になるのに、なぜ転移させたのだろうか、と。
 そこで、何か意味があるのではないか、と藤堂志摩子が飛ばされた先といずれ滅びるだろうと思っていた世界を再度探ってみた私は、傷付いた松平瞳子と、精霊を愛し、精霊に愛されている福沢祐巳を見付けたのだ。

「姉として、私はあなたに何もしてあげられなかったわね」
 崩壊していく世界の中で、横たわる妹の亡骸に手を伸ばしながら姉である少女は呟いた。
 伸ばした手が妹の頬に触れる事はなかった。そこに姿はあるのに、まるで幻のように手が擦り抜けてしまう。
「こうなる事は最初から分かっていたはずなのだけれど。それでも……こんなにも悲しいだなんて思わなかったわ……」
 一滴、少女の頬を雫が伝って地面に落ちた。
「……そう。そういう事だったのね。『世界』はこの私にこそ生命の尊さを伝えるために――」
 直後、少女によって創られていた世界が完全に崩壊する。その世界が構築されていた空間には、闇すらも残らなかった。



「ううん――」
 差し込む紅い光に眩しさを感じて、祐巳は薄っすらと瞼を開けた。
(あれ?)
 ボーっとする頭を振り、寝起きのために霞がかった目で周囲を確認する。
 どうやらここは保健室のようだ。
(夢? 全部夢だったの?)
 シーツを跳ね除けて、起き上がりながら見た自分の両腕には火傷の痕も骨折した痕跡もなかった。失くなっていたはずのリボンも微妙に歪んではいるがちゃんと結ばれてあったし、焼けたはずの制服でさえ多少皺が寄っているだけで、このベッドで眠りに就く前と同じ状態だった。
 けれど、
(そんなわけないか……)
 まだ匂いが残っていた。自分の腕の焼けた匂いが祐巳の鼻腔に微かに残っていた。
 ふと、視線を窓へと向ける。そこからは夕陽が差し込んでいて、部屋の中を茜色に染めていた。時計を見れば、四時四十分となっていた。保健の先生の気配は部屋の中にはなく、どうやらこちらの世界は先生が職員室に向かった直後から時間を止められていたようだ。
 ベッドの脇には、両腕を枕にしてベッドに寄りかかり、すやすやと寝息を立てている瞳子ちゃんの姿がある。周囲に志摩子さんの姿は確認できなかった。おそらく薔薇の館に戻されたのだろう。
 ベッドから降りて、祐巳は上履きを履いた。
「何が、『ありがとう』よ」
 神様の少女の言葉を思い出して、祐巳は夕陽の差し込む窓へと近付いた。
 死の間際に、祐巳に向けてきた少女の嬉しそうな表情を思い出す。
「どうして微笑むのよ」
 空を見上げてみたが、陽の光だけで夕陽そのものは見えない。
「罵声でも浴びせられていた方がマシだわ」
 吐き捨てるように言った。
 視界に入ってくる茜色が、やけに気に障った。
「ふざけるんじゃないわよ」
 茜、赤、朱、紅。
 夕陽は、あの世界の由乃さんやお姉さま。そして、つい先ほど自分が殺した少女を思い出してしまう。
 眩しくて、辛くて、目に沁みて、祐巳は視線を足元に落とした。
「強くても」
 夕陽を浴びて、伸びる祐巳の影も頭を落としていた。
「結局、何一つ救えなかったじゃない……」
 失ったから強くなった。たくさんのものを傷付けて、自分は強くなったはずだった。
「祐巳さま」
 背後からの声に、祐巳は慌てて下げていた頭を上げる。けれど、振り返れなかった。瞳子ちゃんの姿を見るのが、今は何よりも怖かった。
 背を向けたまま彼女に応える。
「ごめん。起こしちゃった?」
「夢……ではなかったんですね」
 祐巳の独り言を聞いていたのだろうか。瞳子ちゃんはあの出来事が夢ではなかったと確信しているようだった。
 それなら、誤魔化しても仕方がないだろう。どうせ瞳子ちゃんには見破られるのだ。
「本当、嫌になっちゃうよね。まあ、せめてもの救いは制服とかリボンが元に戻って――」
「もう泣いても良いんですよ」
「……私が泣くわけないでしょう?」
 何言ってるのよ――と、そんな声を無理やりに捻り出す。けれど、瞳子ちゃんには通じなかったようだ。
「泣いても良いんです」
 再度同じ事を言ってくる。
「だから、何で私が泣かないといけないのよ」
「泣く事くらい自分に許してあげてください」
「しつこいわね! 泣かないって言ってるじゃない! いい加減にしてよ!」
 泣いてやるもんか。あんなふざけた連中のためになんか、絶対に泣いてやらない。一滴だって涙なんて流してやるもんか。
 そう心に誓って、祐巳は両手を強く握り締めた。



「しつこいわね! 泣かないって言ってるじゃない! いい加減にしてよ!」
 そう言ったきり口を閉ざしてしまった祐巳さまの背中は小さく震えていた。
「自分のために泣いてください」
 両手を強く握って、この人はまだ我慢をしていた。もう涙を流しても良いのに、誰もそれを馬鹿にする人はいないのに、それでもこの人は我慢していた。
「出会った時から、あなたはずっと戦っていましたね」
 いきなり違う世界に飛ばされて。そこに自分と同じような翼を持つ人は存在しなくて。たった一人でどんなに不安だったのだろうか。
「私と出会うよりも前から、ずっと頑張っていたんですよね」
 祐巳さまはずっと戦ってきた。辛い時も、哀しい時も、この人はずっと耐えてきた。
「疲れましたよね」
 夕陽が作る祐巳さまの影に足を踏み入れ、その背中に近付く。
 祐巳さまは振り返らなかった。瞳子に何も返してはくれなかった。
「少し、休んでください」
 もう一歩祐巳さまに近付くと、祐巳さまの作る影の中に瞳子の身体が入った。目の前には、小さく震えている祐巳さまの背中がある。
 祐巳さまはそれでも振り返らなかった。けれど、ようやく口を開いてくれた。
「私……」
 祐巳さまの声は、背中と同じように震えていた。
「殺したくなかったよ……」
 その声には嗚咽が混ざっていた。
「あんなに傷付いていたのに……。殺す事しかできないなんて」
 ゆっくりと瞳子に振り返った祐巳さまは、頬を涙で濡らしていた。透明なはずのそれは夕陽の朱に染まり、祐巳さまの顎を伝ってそのまま床に落ちて弾けた。
「そんなのってないよ……」
 痛みがあるからあの少女を殺す事ができた祐巳さまは、その痛み故に大きく傷付いてしまった。
「どうしていつも救えないの?」
 いつもの虚勢を張れないくらい――瞳子を誤魔化そうとできないくらいに深く傷付いてしまった。
「いつもいつもいつもっ! どうして私はっ――」
「いつも救えない、なんて事はありません。だって、祥子お姉さまとの事で酷く傷付いていた私を救ってくれたのは、あなたなんですから」
 それ以上見ている事ができなくて、尚も自身を責め続ける祐巳さまを遮る。
「それに、あの子とは違いますが、それでも私とあの子は同一人物なんですよね? でしたらあなたはあの子と私、二人の私を救ってくれたんです」
 瞳子の言葉に祐巳さまが膝を突いた。
「ごめん……ごめんね……。私……あなたをっ……あなたを殺して……」
 子供のように泣きじゃくりながら縋り付いてくる祐巳さまは、瞳子にあの少女の姿を重ねているようだった。
 それを、嫌だ、とか、情けない、とは思わなかった。そこには確かに同情もあった。するな、という方が無理だろう。
 あんなに傷だらけになって、自分の心を殺してまで生き抜いたのに。生きようとするのは命ある者として当たり前の事なのに。この人は優し過ぎて、自分が傷付いただけだった。
「私が許します。だから」
 瞳子は身体を傾けて、祐巳さまを覆うように上から抱き締めた。
「泣いてください。ここは、それが許される世界なんですから」
「ぅあああ――……」
 大声を上げて泣き始めた祐巳さまを見て、この人はもう駄目かもしれない、と思った。本当に壊れてしまうかもしれない、と思った。
 
 見捨ててしまえば、きっと楽なのだろう。
 けれど、私はずっとこの人の傍にいる。
 見捨てようなんて、この人から離れようなんて絶対に思わない。
 それだけは、これからずっと未来――たとえこの命が果てたとしても、間違いなく確かな事だ。

「……ようやく泣く事ができましたね」
 泣き続ける愛しい人をあやすように抱き締めながら、瞳子もそっと涙を零した。

*エピローグ*

 祐巳さまはどこへ行ったのだろう?

 講堂に集まった人たちによる拍手と歓声が鳴り響く中、生徒会役員選挙の結果が記されている紙を握り締めながら瞳子は祐巳さまの姿を探していた。
 選挙の結果は既に確認済みだ。瞳子の名前の所に紅い花のシールが張られていた。それは当選の印で、由乃さまや志摩子さまの所にも張られてある。
 瞳子が祥子お姉さまと姉妹(スール)にならない事を知った時の、生徒たちの反応は様々だった。もうとっくに姉妹(スール)になっているものだと思っていた、という言葉も幾つか聞かれたが、特に何事もなく無事に当選できたのは、懸命に山百合会の仕事を手伝っていた瞳子の姿を皆が見てくれていたからなのだろう。瞳子にしてみれば、祥子お姉さまに自分を見てもらいたいがために頑張っていただけなので、苦笑いを浮かべるしかなかったのだけれど。ついでなので付け足しておくが、今年は三人しか選挙には出なかったので、余程の事がない限り落選のしようもない。
 それはともかく、瞳子は来期より紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)となる。選ばれたからには精一杯頑張るつもりだ。
「おめでとう、瞳子ちゃん」
 かけられた声にそちらを見れば、そこでは祥子お姉さまが微笑んでいた。
「はい」
 頷きながらも瞳子の視線は、つい祐巳さまの姿を探してしまう。そんな瞳子を見て、何を探しているのか分かってしまったようで祥子お姉さまが言ってきた。
「祐巳なら――」
(むっ!)
 祐巳、と呼び捨てにした祥子お姉さまに、瞳子の頬の辺りがピクリと反応した。すると、それに気付いた祥子お姉さまが苦笑を浮かべながら、さん付けへと変えた。
「祐巳さんなら、先に薔薇に館に戻ると言っていたわよ」
「館に、ですか?」
「ええ、そう言っていたわ」
 おかしい、と思った。なぜ祐巳さまは、それを祥子お姉さまに伝えて瞳子には伝えなかったのだろう。瞳子が生徒たちに囲まれていたからだろうか。いや、そもそもなぜ先に帰る必要がある? と思考を巡らせる瞳子に、祥子お姉さまが言葉を付け足した。
「あの子、何か悩んでいるようだったわ」
「悩んで……」
 あれから祐巳さまは、表面上は何もなかったように振舞っている。
 けれど、笑わなくなってしまった。瞳子には笑顔を見せなくなった。あの少女の事を思い出してしまうのであろう、瞳子に向けてくるのはいつも哀しそうに歪んだ表情だった。
 その事に悩んでいたのか、それとも違う事を悩んでいたのかまでは瞳子にも分からない。祐巳さまの顔を見ていないので、本当に悩んでいたのかすら分からない。
 しかし、
「尋ねても何も答えてはくれなかったのだけれど、そういう表情をしていたのよ」
 祥子お姉さまがそう言うのであれば、祐巳さまは確かに何かに悩んでいたのだろう。二人は姉妹(スール)ではないけれど、どこかで通じ合っているようだった。それは、違う世界からやって来た者同士だからなのだろうか。それとも、別の世界の事ではあるが、お互いに水野蓉子さまという方を姉(スール)に持っていたからなのだろうか。
 理由なんてないのだけれど、もしもこの世界に二人が生まれていたならば、祐巳さまと祥子お姉さまは姉妹(スール)になっていたのではないだろうか、という気がしてならない。勿論、その場合でも祐巳さまの妹(スール)は瞳子だ。
 祐巳さまの事に関しては、祥子お姉さまにだって負けるつもりはない。
「行くの?」
「自分の妹(スール)が薔薇さまに選ばれたというのに、おめでとう、の一言もなく先に戻ったなんて文句の一つでも言ってやらなければ気が済みません」
「ふふっ、そうね。それが良いわね」
「はい。そういう事で申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます」
 祐巳さまの事が心配で心配で堪らない瞳子の心中なんて、お見通しなのだろう。微笑ましそうに頬を緩めている祥子お姉さまに頭を下げて、瞳子は薔薇の館へと向かって足を踏み出した。



「おめでとう、瞳子ちゃん」
 静まり返った薔薇の館の二階にある会議室で、空いていた椅子に腰かけたまま祐巳は一人呟いた。
 今は静寂が心地よかった。刺すような空気の冷たさが、ざわつく心を落ち着かせてくれた。今だけは一人きりになりたかった。
 講堂で皆に囲まれて歓声を受けていた瞳子ちゃんが、祐巳には眩しく見えた。まるで、違う世界の人間のように思えた。
(……まるで、なんかじゃないよね。本当に違う世界の人間だもんね)
 机に肘を立てると両腕を枕のようにして、そこに横向きに頭を乗せる。
(そろそろ潮時かな……)
 瞳子ちゃんは、もう祐巳がいなくても大丈夫だろう。あの子には支えてくれる人がたくさんいる。化け物の自分なんかと一緒にいなくても良いはずだ。
 それに、傍にいても祐巳では彼女を傷付ける事しかできない。だって、瞳子ちゃんに笑顔を見せてあげられない。あんなにも簡単だった、作った笑顔でさえ見せる事ができなくなってしまった。
 どうしても、あの子の姿を瞳子ちゃんに見てしまうのだ。そして、その度に瞳子ちゃんを傷付けてしまう。瞳子ちゃんは気付いているのだろうか? あれから祐巳を見る時、いつも寂しそうな顔をしてる事に。
 お互いに傷付け合うくらいなら、傍にいない方が良いのではないだろうか。
(私がいなければ瞳子ちゃんは立派な紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になって、私の事なんて忘れて……それで……幸せになって……)
 祐巳がいなくなれば、瞳子ちゃんにあんな顔をさせずに済むだろう。
 それに――保健室で泣いた時、祐巳を包み込んでくれた瞳子ちゃんはとても優しくて温かかった。あんなにも優しい瞳子ちゃんと同一の存在を自分は殺した。あの少女も瞳子ちゃんと同じように優しかったのに、それなのに自分は殺した。
 生きていく、とあの時に決めた。決めた以上、生きようと思う。でも、あの少女を殺してまで生き延びる価値が本当に自分にあったのだろうか、とも思ってしまう。
(『世界』は残酷で、とても厳しい、か)
 神様の少女の言葉を思い出す。
 世界はあんなにも優しい瞳子ちゃんを生んでくれた。そんな世界が、あんな酷い事をするなんて祐巳には信じられなかった。
 あんな哀しい事をするなんて信じたくなかった。世界は優しい、と嘘でも良いから信じさせて欲しかった。けれど、祐巳の身に起こった現実やあの神様たちの現実では世界は優しくなんてなかった。自分の力ではどうする事もできない、哀しくて辛い現実しかそこにはなかった。
 生きる、なんてずっと当たり前の事だと思っていた。何もしなくても生きていけるものだと思っていた。
 けれど、違った。生きるためには代償を払わなければならなかった。あの子を殺す事でしか自分は生き延びる事ができなかった。自分のために、瞳子ちゃんと一緒に生きていくために、あの子を殺した。
 けれど今は、瞳子ちゃんの顔を見るのが何よりも辛い。
「ふん、あの馬鹿の言った通りね」
「あら、馬鹿とは酷いわね」
「――っ!?」
 突然背後から聞こえてきた声に驚き、祐巳は声なき叫び声を上げながら椅子から飛ぶように立ち上がった。そのせいで、座っていた椅子が音を立てて転がる。
「いっ、いくら何でも心臓に悪いわよ! 止まったらどうしてくれるのよ!?」
 冗談ではなく、本当に止まるかと思ったのだ。胸に手を当ててみると、かなり動悸が激しい。
 けれど、声の主はそんな祐巳の状態など知った事ではないらしい。
「あなた、ひょっとして一人でいるのが好きなの?」
 と尋ねてくる。
 大きなお世話だ、と思いながら祐巳は振り返った。
「お久しぶりね」
 そこには、無表情で立っている口の悪い神様がいた。



 薔薇の館へと足を進めながら瞳子は顔を顰めていた。
(ああもうっ、じれったい)
 祐巳さまの事が心配で本当は走って向かいたいくらいなのだが、瞳子は薔薇さまになったのだ。皆の手本となるべき自分が、スカートを翻して走っている姿なんて見せるわけにはいかない。
 しかし、そうやって逸る気持ちを抑え付けて歩いているせいで、考えたくもない事が勝手に頭に浮かんできてしまう。
 それは、祐巳さまが瞳子に何も告げずに薔薇の館へ戻った理由だ。
 何かしらの用事があって先に戻ったのであれば良い。瞳子に一言も告げなかった事には文句を言いたくなるかもしれないが、用事があったのなら仕方がないだろう。
 何となく、そういう気分になって戻ったのであれば、それでも構わない。やはり文句の一つくらいは言いたくなると思うが、それくらいは許せる。
 けれど、もしもこのまま瞳子の前から姿を消してしまうつもりなのであれば――。
(そんな馬鹿な事、絶対に許さないわ!)
 自分と重なる所の多い人だから、祐巳さまを見ていれば大抵の事は分かる。
 祐巳さまが笑顔を見せなくなった事で瞳子は傷付き、そして自分が瞳子を傷付けてしまっている事に祐巳さまは気付いている。
(でも、それがどうしたって言うのよ)
 瞳子の足は、自然と速度を上げていた。



「何しに来たのよ?」

 倒してしまった椅子を元通りに立ててそこに座り直した祐巳は、半眼になって突然現れた神様の少女に尋ねた。
「様子を見に来たの。あなたが泣いてやしないかと気になったから」
 ケンカを売りに来た、と解釈して良いのだろうか。
「泣いてなんかないわよ」
 祐巳が唇を尖らせると、やれやれ、とでも言いたげに少女は肩を竦めた。
「天地に響くようなとんでもない泣き声だったわ。私であれば恥ずかしくて、しばらくの間は人前に姿を出せないわね」
「……悪かったわね。天地に響くようなとんでもない泣き声で」
 祐巳が睨み付けると少女は視線を落とし、そのまま頭を下げた。
「ごめんなさい。私たちのためにあなたを傷付けてしまって」
「なっ、何よいきなり」
 傲慢で不遜なはずの少女にこんな風に謝られると、こちらの方が慌ててしまう。更には幼くも美しい外見も相まって純真無垢な少女に無理やり謝罪させているような錯覚まで起こし、罪悪感まで湧いてくるのだから始末に負えない。
「色々と言いたい事はあるけど……まあ、生き残れたんだからそれで良いわよ」
 少女に頭を上げるように告げた後、祐巳はふと窓の外へと視線を向けた。そこからは曇った空と、以前祐巳が葉を吹き飛ばしてしまった裸の木々と、その木々から伸びた枝の向こうにある校舎が見える。
 瞳子ちゃんは、今どこにいるのだろう。まだ講堂で皆に囲まれているのだろうか。それとも、祐巳の事が気になってこちらへ向かっている途中だろうか。
「今、幸せ?」
 視線を部屋の中に戻すと、祐巳は表情のない少女の顔を見つめながら尋ねてみた。
 それに対して、少女は全く躊躇わずに答える。
「ええ、幸せよ」
「無表情でそう言われてもね。どうせなら分かり易いように微笑むとか、そういう幸せそうな顔してよ」
「あなたに笑顔を見せて、私に何の得があると言うのかしら」
 ああ、うん、この少女はこういう奴だった、と祐巳は溜息を吐いた。
「私の事はどうでもいいわ。それよりも、あなたはこれからどうするつもりなのかしら? あなたには世話になった事だし、望むならどこへでも連れて行ってあげるわよ。そもそも、あなたをこの世界に転移させたのは私なのだし」
「やっぱり、あなただったんだね」
「驚かないのね」
 最初は桂さんだと思っていた。でも、精霊に愛されている祐巳の力を必要としていたのは目の前の少女だ。それならば、彼女が祐巳をこの世界に転移させたと考えるのが普通だろう。もっとも、その事に気付いたのはここ二、三日の事なのだけれど。
「また会ったらぶん殴ってやるつもりだったんだけど、今が幸せなら良いわ。それで水に流してあげる」
「優しいのね。ついでなので言っておくけれど、あなたに死んで欲しくない、という桂の想いは本物よ。あの子は、たとえどれだけ自分が恨まれようとあなたに生きていて欲しかった。幾つかの世界で端末を通してあなたを見ているうちに、絆されてしまったようね」
「そういう事ってあるの?」
「神様にも心はあるのだから、そういう事があってもおかしくはないわ。さて、それでどうするの? ここから去る? それとも残る?」
「……今は、残っても良いかなって思ってる」
 答えて、少女の隣へと視線をずらした後、その視線を再び少女へと向けて祐巳は尋ねた。
「あなたには結末が分かっていたんじゃない?」
「どうしてそう思ったのかしら?」
 表情を変えずに尋ね返してくる少女。
「志摩子さんをこの世界に飛ばしたのは、『世界』なんだよね?」
 以前、桂さんがそう言っていたのを覚えている。
「そうよ」
「そのお陰で、あなたは私の事を見付けたんだよね?」
 これは、目の前の少女が言っていた事だ。
 祐巳がそこまで言った時、少女の表情に僅かに変化が見られた。口元が微かに笑っている。
「つまり、『世界』はあなたという存在を私に伝えるために藤堂志摩子をこの世界に転移させた、とでも言いたいのかしら?」
「違うの?」
 つい先ほどまで無表情だったはずの少女は、それを見間違いだったと祐巳に思わせるほどの美しい笑顔をその顔に浮かべた。
「これも桂から聞いたと思うのだけれど、『世界』は私たち神様よりも上位の存在なのよ。そして私は、『世界』は残酷で、とても厳しい、と言ったわよね」
 その笑顔に惹き込まれつつも、確かに言われた記憶があったので祐巳は無言で頷く。
「でも、母なの」
 少女のその言葉で、祐巳は理解した。 
「『世界』は私たちを生んでくれた母なのよ。それが、先ほどのあなたの質問に対する答えでは駄目かしら?」
 そう言った後、神様の少女が自分の隣にいる「もう一人の少女」に向かって穏やかに微笑んだ。
「良いんじゃない?」
 祐巳も、神様の少女が手を繋いでいる「もう一人の少女」に向かって微笑む。
「えっと。あのぅ、私が何か?」
 その少女は、二人の祐巳に微笑まれて恥ずかしそうに頬を赤く染めていた。



(祐巳さまっ――祐巳さま祐巳さま祐巳さま祐巳さまっ! 嫌ですっ! お願いだから……お願いだから私を置いていかないでっ!)
 確かに祐巳さまが傍にいなければ、瞳子がこれ以上傷付く事はないだろう。
 それが分かっているから、あの人は瞳子の前から姿を消す。あの人は、それで瞳子が傷付く事が分かっていても、それが後に瞳子のためになるのであれば間違いなく実行する。そういう人だ。
 けれど、
(それでは意味がないんですっ!)
 祐巳さまが傍にいてくれないと意味がないのだ。
 あの人のために生きる、と決めた。あの人の傍で生きていく、そう瞳子は決めた。
 あの少女を殺したのは、祐巳さまだけではない。
 だって、あの時に頷いた。もう一人の瞳子を殺すと祐巳さまが言った時、自分はそれに頷いた。
 あの子の事は、確かに可哀相だとは思った。そうする事で救いになるのなら、とも思った。でも一番の理由は、自分が祐巳さまと一緒にいたいからだ。
 奇麗事なんて言わない。
 あの子と祐巳さまのどちらかを選べと言われたなら、間違いなく祐巳さまを選ぶ。何度同じ事を聞かれても、たとえそれが他の誰であろうと、その人を犠牲にしてでも自分は祐巳さまを選ぶ。
 そして、瞳子は実際に選んだのだ。



「さてと、それではこれで帰るわね」
「え、もう?」
「私のいる世界は、私がいなければ色々と不都合が生じてしまうのよ」
 本来、祐巳に会うための時間を割く余裕さえないそうだ。それでも無理に会いに来てくれたのを素直に喜ぶべきか、非常に悩む。
 けれど、きっと良かったのだろう。幸せそうに手を繋いでいる二人を見て、祐巳はそう思う事にした。
「あ、ねえ、最後にもう一つ聞いておきたいんだけど」
 それは、とてもとても大切な事だ。
 しかし、
「もう滅ぼしに来たりはしないと思うわよ」
 読まれていたらしく、尋ねる前に答えられた。
「そうなの?」
「世界は可能性に満ちていて、あなたの生まれ育った世界は滅びる可能性もあれば滅びない可能性もあった」
 ずっと滅びるしかないと思っていたから、少女の言葉を聞いて少し驚いた。もっとも、可能性を量る事ができる天秤があったなら、滅びる方へ大幅に傾いていたと思うのだけれど。
「あなたの世界は滅びたけれど、あなたと藤堂志摩子はそれを跳ね除けて滅びを免れた。それが、結果なのよ。もしもあなたたちがこの世界の人間を大量虐殺でもすれば、もう一度滅びの対象となる事も可能だとは思うのだけれど、さすがにそんな事はやらないでしょう?」
 当たり前だ。やるわけがない。
「でも……」
 人ではないけれど、たくさん殺した。人だって、たくさん傷付けたのだ。そんな自分が滅びを免れても良いのだろうか。
「そうしなければ、あなたは殺されていた。そうしなければ、あなたは生き残れなかった。生きるという事は、本来それほど重い事なのよ。様々なものを犠牲にして、あなたたちは生きているの」
 それに、と少女が続ける。
「私と、桂や可南子といった私の部下たちはあらゆる世界の様々な可能性を観察しているの。そして、私が一番嫌いな事は諦める事よ。だって、そうでしょう? 良い方向へと向かう可能性があるのに、自ら放棄しているのだもの。その点、あなたは諦めなかった。藤堂志摩子と共に生き残り、この子も救ってくれた」
 神様の少女が愛しそうに隣にいる少女の頭を撫でて、撫でられた少女がくすぐったそうに目を細めた。
「自分で掴み取った命、大切にしなさい。それは決して、悔やむ事ではないはずよ」
「そうね」
「それと、ついでだから言っておくわ。悲しい時には無理に我慢なんてしたりしないで、素直に泣いても良いと思うわ。あなたには、あなたを支えてくれる大切な人がいるのでしょう?」
「それでも私は泣かないわ。それが私だもの」
「意地っ張りね」
「意地っ張りなのよ」
 そう言ってやると、呆れたように少女が溜息を吐いた。隣の少女に、こんな馬鹿になっては駄目よ、なんて言っている。
「その子の事、大切にしなさいよ」
「あなたに言われなくても大切にするわ。なにしろ姉妹だもの」
 胸を張って言う少女の言葉を聞いて、思わず吹き出しそうになった。
「それ、あの時の私の言葉じゃない?」
 少女が悪戯っぽく唇の端を少しだけ歪める。
「あの時、あなたは最後まで言わなかったわ。だから、これは私の言葉よ」
「こうなるって分かっていれば、間違いなく言ってたわよ。でも、まあ良いわ。その言葉はあなたにあげる」
 ありがたく頂いておくわね、と少女は笑った。
「では、これで本当にお別れね。それでは、ごきげんよう」
「あのっ、ごきげんよう」
 ぺこり、と頭を下げてくるもう一人の少女に、思わず頭を撫でてやりたくなる衝動に駆られながら言ってやる。
「あなたの世界の私は怖いらしいけど、仲良くしてやってね」
「はいっ!」
 瞳子ちゃんの面影を持つ笑顔で本当に嬉しそうに、少女が元気良く返事をした。



 二人の神様が去り、再び静寂が訪れた部屋で祐巳はここに来た時と同じように椅子に座った。
 この季節特有の冷たい空気の中、頬杖を突いて瞼を閉じる。
 あの神様の瞳子ちゃんが、『世界』によって再び生み出されたのは確かだ。けれど、以前の記憶がないようだった。
 果たして、新しく創られた別人なのか、それとも、以前の記憶がない同一人物なのか。どちらにせよ、祐巳があの少女を殺した事は紛れもない事実で、それが自分の中から消えるわけではない。
 けれど、心に重く圧しかかっていたものが、ほんの少しだけ晴れたような気がする。
 あの少女、今度は神様の祐巳の下で働くらしい。こき使われて泣かなきゃ良いんだけど、と少し心配だ。
 ハッピーエンドには程遠いのだけれど、それでもギリギリの所でハッピーエンドになるのだろうか。
 そんな事を考えて、一人苦笑いを零す。
(ハッピーエンドだなんて……)
 祐巳は椅子に座ったまま大きく伸びをした。
(まだまだ、これからだよね)

 らしくない。
 らしくないよね。
 いつまでも下を向いているなんて、私らしくない。
 今こうやって生きているんだから、どうせなら未来へと目を向けよう。
 そして未来へと目を向けるのなら、幸せになってやろう。
 後悔する時もあるだろう。泣きたくなる事もあるだろう。
 お姉さまの事。他人を傷付けた事。あの少女の事。忘れるわけではなく、全部背負って尚幸せになってやる。
 生きて、生きて、誰よりも強く生き抜いてやる。

(それが、生きるって事じゃない?)
 バチーン、と両手で自分の頬を叩く。
「よしっ!」
 瞳子ちゃんの所に戻ろう。きっと、まだ講堂にいるはずだ。そして、会ったらまず「おめでとう」と言ってやろう。
 そんな事を考えながら椅子から立ち上がろうとして、
「お姉さまっ!!」
「うわああぁぁぁぁああっ!?」
 勢いよく開かれる扉の音と部屋に響いた大きな声に、祐巳はもの凄い勢いで飛び跳ねた。ガターン、と激しい音を立てて椅子が倒れる。
(こっ、今度こそ止まったかと思った……)
 激しく鼓動する左胸に手を当てながら睨むようにそちらを見ると、そこでは扉を開けた瞳子ちゃんが肩で息をしていた。
「あのさ、心臓に悪いから扉を急に開いたり大声で叫んだりするのは――」
 やめて欲しいんだけど、と言いかけて祐巳は口を噤んだ。瞳子ちゃんの目尻に、小さく光るものが見えたからだ。
「良か……った。良かった良かった良かった……」
「瞳子? いったいどうしたのよ」
 良かった、を何度も繰り返し、両手で顔を覆って泣き始めた瞳子ちゃんに慌てて駆け寄る。
 もしかして誰かに苛められたりしたのだろうか? 酷い事を言われた、とか? もしそうなら、二度と馬鹿な事を言えないようにしてやる。思い付く限りの痛め付け方を頭の中で繰り広げていると、瞳子ちゃんが嗚咽交じりに言ってきた。
「先に帰ったって聞いて……。お姉さまがどこかに行っちゃうんじゃないかって……」
「……馬鹿ね。そんな事で泣いてるの?」
 どうやら、それだけでここまで急いで来たらしい。まったく――と呆れながら、できるだけ優しい声で言ってやる。
「私の居場所は、あなたのいる所。そう言ったじゃない」
 瞳子ちゃんが頷く。
「それとも、私の事が信じられない?」
 両手で顔を覆ったまま、瞳子ちゃんが首を振る。
「あなたとの約束、そんなにしてるわけじゃないけど全部守っているよね?」
 もう一度、こくん、と瞳子ちゃんが頷いた。
「だよね。良い子、良い子」
 瞳子ちゃんに手を伸ばすと彼女は顔を覆っていた手を下ろし、赤くなった目で祐巳を見上げてきた。
「ぁ……」
 普段なら払い除けられていたのだろうけれど、今の瞳子ちゃんは大人しく祐巳にされるがままだった。
 どこの世界でも自分と瞳子ちゃんの組み合わせは苦労してそうだなぁ、と頭を撫でてやりながら祐巳は思った。



「だよね。良い子、良い子」
 そう言いながら頭を撫でる祐巳さまの手を、その姿を確認した事によって段々と冷静になってきた瞳子は急に恥ずかしくなり払い除けようとした。
 でも、その顔を間近で捉えた瞬間、瞳子の上げかけた手は止まってしまった。
「ぁ……」
 本人は気付いていないのかもしれないのだけれど、祐巳さまは微笑んでいた。それは、瞳子が今までに見た祐巳さまのどの笑顔よりも輝いて見えた。出会ってから初めて目にした笑顔だった。
 作って見せていた笑顔と、それほど違いがあるわけではない。けれど、明らかに違った。
 なぜ急に? そんな事、どうでもいい。どこかに行ってしまうかも? それも、もうどうでもいい。
 気が付けば瞳子の不安なんて、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
 おそらくこれが、世界がおかしくなってしまう前に志摩子さまがいつも見ていたという祐巳さまの本当の笑顔だろう。
 それは、春の日差しのように暖かで、晴れ空のように穏やかで、母親のような深い慈愛に満ちている。
 そう感じられる笑顔が瞳子の前にあった。



 祐巳が撫でていた手を下ろすと、瞳子ちゃんは熱に浮かされたようにその場でぽーっとしていた。
「ねえ、瞳子」
 呼びかけると数度瞬きをした後、
「……え? あ、何でしょうか?」
 名前を呼ばれた事に気が付いて慌てながら返事をしてくる。
 そんな瞳子ちゃんに向かって、笑みを深めながら祐巳は言った。
「私ね、幸せになりたい」
 その言葉に瞳子ちゃんが視線をあちこちへと彷徨わせる。
 窓から天井へ、天井から机の上へ、机の上から床へ、そして床から再び窓へ。その動作をもう一度繰り返した後、瞳子ちゃんは再び祐巳へと視線を戻して「こほん」と咳払いをした。
「そうですね。それでは」
 微かに頬を赤らめて。
 僅かに瞳を潤ませて。
 祐巳の顔を真っ直ぐに見て。
「私と一緒に幸せになりましょうか」
「いや、冗談だったんだけど。まさか本気で答えてくれるとは思わなかったわ」
「……」
 祐巳の視線の先で、瞳子ちゃんの肩がプルプルと震えだした。
 爆発寸前にしか見えないので、大爆発して文句を言われるより先に瞳子ちゃんを強く抱きしめる。
「やっ、離してっ!」
 瞳子ちゃんが腕の中で暴れた。
「ごめん。本当はあなたの前から消えるつもりだった」
 身を捩って逃れようとする瞳子ちゃんの耳元で囁くと、彼女が小さく肩を震わせた。
「でも、もう二度とそんな事は考えないよ」
 腕の中で、瞳子ちゃんが目をいっぱいに見開いて祐巳を見上げてくる。

 そういえば、まだ言った事なかったよね。
 誤魔化してばかりで、意地っ張りで、捻くれ者の私にはなかなか伝える事ができないかもしれないけど……。

「一緒に幸せになろうね」

 あなたの事、大好きなんだ。

「約束ですよ?」
 可愛らしく少しだけ首を傾けながら、世界で一番大切な少女が言ってくる。
「うん、約束する」
 頷いて祐巳がもう一度微笑むと、瞳子ちゃんも負けじと微笑んだ。

 私の笑顔が彼女に力を与えるのなら、彼女の笑顔もまた私に生きる力を与えてくれる。
 だからさ、

 きっと、幸せになれるよ――。

 お姉さまを失った時と同じ季節なのに、瞳子ちゃんが笑顔でいるからだろうか。
 今は、ほんのりと暖かく感じられた。


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