【1950】 甘い永遠を一瞬に込めて  (沙貴 2006-10-22 13:50:12)


 ※完全オリジナルです。



 高梨 優介(たかなし ゆうすけ)が幼馴染の一人である三木 美香(みき みか)への恋心に気が付いたのは、あろうことか当日彼が彼女の正面に立った正にその瞬間だった。
 それはもう皮肉や数奇な運命などという次元の話ではない、笑い話の領域だ。
 しかし笑えればまだ多少は気も楽になれようにも、彼と彼女の立ち位置・関係が愛らしいまでに滑稽過ぎて笑えない。
 精々彼の口元を微かに歪めさせたくらいで、当然、誰もそんな彼の小さな所作には気付かない。
 苦笑よりも更に小さく彼は安堵の息を吐いた。
 
 恋の成立に関して、大衆は「落雷のような衝撃を受ける」だの「強い何かを感じる」だのいう。
 しかし生憎と、その際の優介はそんなものは微塵も感じなかった。
 ただ漫然と、ごく漠然と。
 
 ああ。
 俺、美香が好きだ。
 ああ、ああ。
 すげー、好きだ。
 
 と胸中で感じただけで、それは心に染み入るように静かに、そしてスムーズに彼の中へと溶け込んだ。
 好きだ。堪らなく彼女が好きだ。
 極々シンプルで原始的なその感情は、彼の中に根付くが早いか蕩けるような温かみを発し始める。
 目を伏せてその想いに浸れば、自覚したばかりの恋はいよいよ彼の頬を火照らせ胸の鼓動を高めてくれた。
 足が微かに震える。いつの間にか緊張していた。
 それもその筈、何故なら彼は今、恋をしている相手の正面に立っているのだ。それで平静に居られるわけがない。
 
 興奮と緊張と、あとそれ以外の浮き足立つ感情の諸々は際限なく高まってゆく。
 目を開けて、抱き締めて、甘い永遠を約束できればどれだけ幸せなことだろう。
 微笑まれて、手を取られ、遠い未来を展望できればどれだけ安らぐことだろう。
 そんな、妄想かも知れない願望に引き摺られるようにして伏せていた彼の瞼が持ち上がる。
 眩い光に世界が瞬き、美香は変わらずそこに居た。
 はにかんだ、彼女独特の笑顔を浮かべて。
 美香はいつものように、そこに居た。
 
 
 〜〜〜
 
 
 はにかんだ、彼女独特の笑顔を浮かべて。
 美香はいつものように、そこに居た。
 
「な、何でここにいるんだよ」
 それがあんまりにも唐突で、思い掛けなくて、優介は口篭りながらも彼女に抗議する。
 聞いていなかった、彼女がここに来ることなんて知らなかった。
 見られて恥ずかしい姿だとは思わないが、誰かに見られたい姿だとも思わなかった。
 幼き子供のそんな些細な矜持に突き動かされるようにして、立ち上がった優介は慌てて泥と土塗れの制服を叩く。
 けれども大乱闘を演じたお陰でズタボロだった制服は、そんな簡単には整ってくれたりしない。
 美香の優しい視線に晒されているお陰で覚束ない手付きの優介によるのだから尚更だ。
 わたわたと傍目にも判りやすく狼狽する彼に、美香はやがて言った。
「ゆ−すけ、だっせー」
 微笑んで、端的に投げられたそんな気安い雑言に、優介は顔を紅く染める。
 うるせい、と返した言葉にも力が篭らなかった。
 
 高梨 優介八歳。
 小学三年生、夏のことだった。
 
 
 発端は些細なことだ――昼休みの運動場、ドッヂボールをしていた優介ら三組の領域を隣の四組の連中が侵犯した。正確には、遠くで高鬼(たかおに。地面より少しでも高いところに居ると鬼にタッチされない)をしていた者達がエキサイティングしすぎた結果、優介らの陣地に雪崩れ込んできたのだった。
 雪崩れ込んでただけならまだ良かったのかも知れないが、それは運悪く優介が敵陣目掛けて渾身の一球を放った丁度のタイミングで、投げた必殺球は見事四組一のスポーツマンであった藤田 誠(ふじた まこと)の顔面を直撃した。
 助走までつけて投げた必殺の一投、優介の目にはボールの纏うオーラすら見ることが出来た。
 その割には速度が微妙だったその玉は誠の顔面にぶち当たって軽く跳ね上がり、誰しもが呆然とした一瞬の浮遊時間を持った後、てーん、てんてん……とパンパンに空気の詰まったボールらしい音を響かせて退場する。
 後に残されたのはフォロースルーをしっかり取って固まる優介と、仰け反るように上向いた姿勢のまま硬化した誠。それに三組四組のその他諸々の姿。所謂モブというやつだ。
 ひゅうと小さく吹いた風がどこからか空しさを運んでくる。
 
「顔面だからセーフだ。アウトじゃないね」
 
 フォローに困った優介はここぞとばかりに渾身のギャグを放ったが、勿論そんな論理は通じる訳もなく。
 瞬く間に烈火の如く怒った誠は、「ってーじゃねーかーっ!」と絶叫するが早いか優介に掴み掛かった。
 初めは「ご、ゴメンって! ゴメンってば!」と殊勝な態度を見せていた優介も、揺さぶられ罵倒され殴られる内にキレ、「そっちが勝手に入ってきたんだろ!」と遂に握り締めた拳を彼の胸に見舞う。それで本当に収拾が付かなくなった。
 両軍入り乱れての乱闘にこそならなかったが、逆に優介と誠の取っ組み合いを止める者も居らず、彼らは五分以上も砂埃を上げながら地面を転がりあった。
 殴ったり殴られたり、転がったり揺さぶられたりして体は痛くて仕方がない。
 それに体の奥底で爆発している怒りだか苦痛だかが入り混じった激情が辛くて、持て余して、気を抜けばその瞬間にも優介は泣いてしまいそうだった。
 でも泣かない。泣かない。泣かないったら泣かない。
 顔を真っ赤にして圧し掛かってくる誠を押し退けながら、優介はひたすら心の中でそう念じていた。
「このっ! くそっ!」
「でぇ! あぁっ!」
 罵る気力も語録も尽きて、口をついて出るのはそんな気合の声ばかり。聞こえてくる声のどっちがどっちの声なのだか、殴りあう二人にこそ判らなくなって。何故に二人してごろごろ目を回しながら相手の服を掴んでいるのかも忘れてしまって。
 ただただ、そうするしかないように。
 
 ただただ、優介は拳を振るった。
 ただただ、誠は制服を捻り上げた。
 
 優介は勿論、恐らくは誠にとってすらも不幸だったのは。
 誠には兄が居たことだった。しかも同じ小学校に通う六年生。児童ヒエラルキーの最上位に位置する存在である。
 名は宗司(そうじ)といった。
 彼もまた誠同様、昼休みは級友を誘ってドッヂボールやら缶蹴りに明け暮れる元気印であり、その日も優介らの領地を挟んで誠らとは反対方向の位置で三角ベースに興じていた。
 校内の揉め事は許さんといった風の正義感に突き動かされたというより、単なる野次馬根性の発露であったが兎も角として、宗司はやおらその場に現れた。ご丁寧に三角ベースの両軍を引き連れての正に”推参”である。
 丁度誠に対して馬乗り体制で拳を振り下ろしていた優介が再び固まる。不利なマウントポジションからの脱却を必死で目論んでいた誠もまた、ぴたりと動きを止めた。
「てめー、誠に何やってんだー!」
 そうして上がる鬨の声。兄の絶叫。
 勝負は正に一瞬でついた。
 
 
 小学三年と六年では、どう足掻いても前者は後者に勝てないようになっている。
 そこには体格差であったり体重差であったり、胆力やら人生経験等々の様々な理由が関連しているのだろうが、そんな小難しいことを考えるまでもなく「三年生は六年生に勝てないようになっている」。そう納得してしまうのが手っ取り早く、また、大勢的な事実である。
 優介も勿論それに習った。
 一対一でも話にならないというのに相手は六年生の集団、全員が具体的に参戦した訳ではないとはいえ、脇に存在しているだけでも三年生からしてみれば非常なプレッシャーを受けることになる。足が竦み、腰が引け、圧し掛かったまま振り上げた拳を下ろすことも出来ず、優介は飛来した宗司の跳び蹴りによって2mも吹っ飛んだ。
 
 ずしゃっと砂煙を上げて転がる優介。蹴られた痛みと地を擦った痛みが二重で押し寄せ、それで限界を迎えていた涙の堤防が遂に破れる。ぼろぼろぼろぼろと大粒の涙が頬を転がっていく、誠とどれだけ殴り合っても零れなかった涙が、それまでの分を取り返すかのように溢れてくる。
 悔しかった。
 蹴り飛ばされたことより、体中が痛むことより、訳も判らず涙が零れたこと自体が何より悔しかった。
 優介は泣きたくなかったのだ。それは喧嘩相手に泣き顔を見られるのが恥ずかしいとか、喧嘩に負けることが嫌だとかそんなことではなくて、単に、優介は泣きたくなかったのだ。
 誠との意地の張り合い、拳を振り合った中で自分へ課した決まりごと。泣かない。それが破られたことにこそ、優介は恥じ入った。悔しがった。それがまた涙を生んだ。
 ぐいっと涙を拭って立ち上がる。
 気付けば、優介を除いて三年三組の仲間はその場から居なくなっていた、先生を呼びに行ったのだろう。それが誠と殴り合っていた間からなのか、宗司らがやってきてからなのかは判らない。クラスでは優介と一番仲の良かった辰野 氷一(たつの ひょういち)の姿もなかった。

 でもそんなことはもう、どうでも良かった。

「うあああっ!!」

 そうして叫んだ優介は己が激情に背中を押されるまま、誠を引き起こしていた宗司へと突進したのだった。
 
 
 優介は勿論再び地面に転がされた、三度地面を這わされた。四度土を舐めて立ち上がったその時には、しかし、宗司らは彼に背を向けて走り出していた。それは勿論撤退などではない、ただの放置だ。もう構っていられない、面倒臭いから捨てておけ。それだけだ。
 雀の涙ほども残っていなかった優介の体力では彼らを追いかけることなど叶わず、獣のような荒い息を吐きながらそれを見送る。
 そうして彼らがただの一度も振り返ることなく校舎に消えていくのを見届けた優介は、くず折れるようにその場に座り込んだのだった。
 一人、体の節々が上げる悲鳴と擦り傷切り傷の上げる苦悶の声に耳を傾けながら、蹲った優介は鼻をすする。ボロボロだった。肉体的にも精神的にも、ボロボロだった。
 元々宗司らが介入してきた段階で対等な喧嘩ではなくなったし、そもそもの非は優介にある。全面的なそれではないにしろ、被害者面ができるほど軽いものでもない。悪いのは――彼だ。事故とはいえ。
 しかしながら、かといってそれで受けた苦痛と侮辱に納得できるほど小学三年の精神などというものは発達していない。転がされたことも蹴られたことも、そもそも投げたボールが誠にぶつかったことすら理不尽なことだ。ありえない。
 勿論そんな論理は彼の中だけで生滅するより理不尽なものだが、それでも彼に取っては唯一の真実。自分は被害者で、誠と宗司が加害者に他ならなかった。
 そんな暗く深い憎悪の念を胸中でゆらゆらと燃やしながら、三角座りの体勢のまま爪先で地面を抉っていた頃。
 
 彼女は唐突に現れた。
 
 現れたタイミングを、方向を、優介は知らない。
 だたその時、彼がそろそろに昼休み終了のチャイムなどが気になり始めて我に返ったその時、彼女、三木 美香はそこに居たのだ。
 いつもと変わらぬ筈の彼女の笑顔、けれどその時の優介には何故だかそれが輝いているようにすら見え、体の痛みを寸時忘れる。半月ほど前の道徳で習った「笑顔には力がある」ということの意味が、少しだけ判った気がした。
「な、何でここにいるんだよ」
 しかしそんな感慨は即座に襲い来た羞恥と行き場のない怒りに取って代わられ、優介は立ち上がりながら彼女に抗議する。そうして涙を拭い、何度も拭い、力強く服を叩いたお陰で体の痛みがぶり返した。
 今まで、優介は美香と色んなことをして遊んできた。格好良いところを見せてきたし、みっともないところを見せてきた。また、可愛いところを見てきたし、可愛くないところも見てきた。お互い、後者の割合の方が大きい筈だ。
 だから今更何をしても恥ずかしがるような仲ではないが、もし。もしここで、美香が「大丈夫?」やら「頑張ったね」やら、気遣うような姿勢を見せれば優介はきっと深い傷を負ったに違いない。それは多分に同情だからだ、対等な立場からの声ではないからだ。
 だが、美香から掛けられた言葉はそのどちらでもなかった。
「ゆ−すけ、だっせー」
 ある種の残酷さすら伴って、美香はそう言ってのけたのだ。笑いながら。いつもの笑みと、いつもよりは幾許か優しい目をして。
 
「うるせい――っ」
 そう返せたのは殆ど奇跡にも近かった。それでも、後数秒”彼”がやってくるのが遅れればきっと優介は彼女の前でも泣いてしまっていただろう。情けなくて、嬉しくて、悔しくて、そして救われて。そんな複雑すぎる感情を表現するには泣くしかないから。
 けれどそうはならなかった。緩やかに、短くとも過ぎるまでに優しい時間を満たしていた彼らに大声が飛んできたからだ。
 
「おーい、ゆーすけーっ!」
 
 見れば、担任とさっきまで一緒にドッヂをしていたクラスメイトを引き連れて駆けてくる、氷一がいた。
 恥ずかしげもなく大声を上げて、ぶんぶんと手を振って。
 氷一は真っ直ぐ、真っ直ぐ、優介と美香のもとまで走っていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 恥ずかしげもなく大声を上げて、ぶんぶんと手を振って。
 氷一は真っ直ぐ、真っ直ぐ、優介と美香のもとまで走っていた。
 
 軽いデジャブを覚えた優介の頬が緩む。横目で盗み見た隣の美香も思い出したようで、くすりと笑った。
 学ランを振り回して、溢れ出る歓喜を包み隠さずに爆発させて走る氷一の表情はあの時とは全く違う。勿論、待ち構える優介も美香も、あの時とは全く違う。
 けれど彼が一所懸命に駆けてくるという僅かその一点にのみ存在する符合性、随分と遠い昔のように思えた。
「あった! あったぜ! ユースケ! ミカミカ! 俺達、また一緒だ!」
 そう叫ぶや否や、がっしりと洋風の抱擁――というよりハグと表現すべきか、あるいはベアハッグか。氷一はがっしりと優介を抱き締めた。その際「ぐぇ」と情けない声が優介の口から漏れたが、幸運にも歓喜に沸く氷一にそれは聞こえない。不幸にも、隣の美香にはしっかり聞こえたようであったけれども。
 だが嬉しいのは勿論優介も一緒だ。寸時後れて、彼も華奢な氷一の体を抱き締め返した。
「よーしよしよし、やったじゃねーか! 感謝しろよヒョウー!」
 とはいえ、男同士でいつまでも抱き合えるほど彼らの性癖は常から逸脱してはいない。お互い一度肩を掴んで距離を作り、にぃっと唇を吊り上げて喜びを分かち合った。
 
 高梨 優介十五歳。
 中学三年生、冬のことだった。
 
 
 この日は氷一の高校受験、その結果発表の日。場所は市立中央高等学校の正門だ。
 市立中央高等学校とは市内はおろか、県内でも有数の新学校。国立私立を問わない高い大学の進学率を誇り、六大学への合格者も毎年数多く輩出している優秀な学校である。
 中学に入り学問の方向でめきめきと頭角を現していた優介と美香の二人は、既に推薦で入学を決めていた。しかし氷一は――仲良し三人組+1が基本構成だった彼らの中で唯一、学が不得意だった氷一は一般試験で受験したのだった。
 ちなみに+1とは恋多き優介の恋人のことで、三ヶ月や二週間といった短いスパンでころころと変わっている女子のことだ。この時期は一学年下の高橋 都(たかはし みやこ)がそれに当たる。
 氷一の合格率は、初め絶望的だった。二年終了時に志望校の調査があったが、自信満々に中央高等学校と第一志望に書いた彼はその日のうちに職員室へ連行され、懇々と説得を受けたくらいには、分不相応だった。
 しかし彼はめげなかった。
 寸暇を惜しんで底上げした基礎学力を優介と美香がフォローし、本気だった彼をどうにか同門に仕立て上げようと強いた更なる特訓をこなした。
 その結果が遂に、合格というこれ以上ない最高の一意解を得て返って来たのだ。
 それは氷一の勝利であり、また、優介と美香の勝利でもあった。
 
「ミカミカもマジありがとな、俺、超嬉しいよ。おめーらのお陰だ」
 歓喜冷め遣らぬ氷一は、優介を解放すると今度は美香へと右手を差し伸べる。流石に性差か、無理矢理抱擁するよな真似はしなかった彼のフェミニズムに苦笑して、美香はその手をそっと握った。
 はにかんだ、いつもの笑顔を浮かべて彼女は賛辞を送る。
「おめでとう。何だかんだ言っても努力の成果ね、ヒョウなら出来るって思ってたわ」
「何言ってんだ、帰ってくるまで大丈夫かしら、大丈夫よね、大丈夫に決まってるわ、って散々不安がってたくせに」
 賛辞紛れに調子の良いことを言った美香を優介がからかいながら突っ込むと、彼女は彼に向けてにっこりと笑った。
 
 いや、にっこりと哂った。
 食肉目の瞳がぎらりと煌く。

「か……カラオケ行っか!」
 その壮絶な笑み――生存本能が警鐘をガンガンに鳴らす笑顔から無理矢理に顔を背け、再び氷一との感動シーンに舞い戻った優介がそう言うと、浮かれる氷一は素直に「おうよ、パーっと行くぜパーっと!」と賛同した。
 びしびしと突き刺さる鋭利な視線を撥ね退けるように、優介はやや強引に氷一の肩に腕を回して、引き摺るように歩き始める。一番近いカラオケまでは中央高等学校から歩いて十分程だ。そして兼ねてからの約束に拠ると、合格時の代金は全て氷一持ちとおうことになっている。
 氷一としてはその出費すらも嬉しいらしく、歩き始めて三歩を待たずに引き摺るのは彼、引き摺られるのが優介、という図式に摩り替わった。
 
 
 その道程。
 何だか肩を組んだ体勢を解くタイミングを逃し、仲睦まじく(少々不気味に)優介と氷一は美香の前を行っていた。
 後ろを気にしながら、優介は小声で言う。
「馬鹿だな、ヒョウ。お前、あの時は俺に抱きついた勢いでミカミカにもいっとけよ。違和感なかったって」
 すると氷一は歓喜に満ちた表情から一転、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「いや、実は俺もそう思ったんだ。でもな……無理だってやっぱ。ノリと勢いで出来ることと出来ないことがある」
「お前、忘れてんじゃないだろな? 気合、あんのか? 出来んのか?」
「うー、実はな。実は……」
「おいヒョウまさか」
「悪ぃ。無理だ」
 
 氷一が分不相応な学校への進学を決めた理由。
 優介がその心意気に打たれて本気のフォローを決めた切っ掛け。
 つまりが、そういうことだった。
 氷一は、美香に恋をしている。だから美香の傍に居るため、居続けるために勉強したのだ。中央高等学校に入学を決めたのだ。
 そして、結果の合否に関わりなく、この日氷一は美香に告白をするのだ、と。一年ほど前から優介に宣言していた。
 宣言していた、のだか。
 
「何かな……合格した、って判った瞬間にイロイロ折れてさ。気合とか何か、覚悟とか。今告白したら、俺絶対駄目だ。何言うかわかんねぇよ」
「馬っ鹿。お前そう言って今まで何回も逃してきたんじゃねぇか。告白なんて一瞬だ、大丈夫だって」
「お前と一緒にすんなよ色男。都ちゃんだってお前コクられた側だろ?」
「望(のぞみ)の時は俺がコクったぞ」
「だからお前とは違うんだって。俺はシャイボーイなんだよ」
「そんなこと言ってるとお前一生チェリーボーイだぞ」
「詰まんねぇし最悪だお前」

 と、男二人の密談は茶々を挟みながら徐々に本線から外れていく。
 そろそろに背後の美香もくっついて離れない彼らに不審感を覚え始めたようで、少しずつ、しかし確実に距離を詰めてきているのが優介には知れた。それは氷一にも感じ取れたようで、口早に彼はこう締め括る。
「ま、じっくりやるさ。何せあと三年の執行猶予が付いたんだからな」
 がばっ! と。
 丁度台詞が終わった正にその瞬間、美香は二人の間に割り込むようにして彼らの背後に圧し掛かった。
 ずしりと掛かる人体の重みと温かさ、それにふわりと香る柔らかな匂いが二人の心拍数を急上昇させる。幼馴染とはいえ、二人はこういう時いつも美香が女子なのだと痛感するのだった。逆をいうと、こういう時にしか女子だと思わない(特に優介)のはかなり失礼なのだろうけれども。
「内緒話なんて水臭いわよー、私だって当事者の一人だって忘れてないー?」
 優介は優しく鼻で笑った。
「忘れてる訳ないだろ? でもま、ほら、野郎には野郎の話ってものもあるもんなのだよミカミカ君」
 すると美香は一瞬寂しそうな顔をしたが、けれどすぐに取り直して言う。
「良いわよ、別に。ユースケなんかに聞かないもん、ヒョウは優しいから私が何を聞いても答えてくれるから」
「お、俺かよ」
 頼られて嬉しい気持ち半分、何があろうと絶対に話せない事情から苦しさ半分、わたわたと慌てる氷一が微笑ましくて。
 
 清々しい思いで、優介は雲一つなく晴れ渡った青空を見上げる。
 細く長い飛行機雲が、空の彼方へと伸びていた。どこまでも――見えない場所まで。
 
 
 〜〜〜
 
 
 清々しい思いで、優介は雲一つなく晴れ渡った青空を見上げる。
 細く長い飛行機雲が、空の彼方へと伸びていた。どこまでも――見えない場所まで。
 
 
 大学の屋上を取り囲む金網で細切れにされた空は蒼くて、遠くて。
 いっそ潔いまでに描かれた飛行機雲の白線がその遠さを痛感させる。
 元々空なんて手の届かない場所だ、金網があろうとなかろうとそれは関係ない。
 でも何故だか、眼前の金網は彼と空の間にそそり立つ絶対の隔壁のようで、胸にわだかまった寂寥感を一層に募らせた。
 
「行かなかったのか」
 不意に、背後から掛けられた馴染みの声に優介は沈黙を持って肯定する。
 
 高梨 優介二十一歳。
 大学三年生、春のことだった。


 彼の隣でがしゃ、と金網が音を立てる。
 空を見上げる、遠い飛行機雲に視線を乗せる彼と同じ姿勢で氷一が金網を掴んでいた。
 屋上の強過ぎる風が二人の間をすり抜ける。何かが足りない。広い隙間が空いている。それを象徴するかのように。
「行かなかったさ」
 優介は端的に答えた。「そうか」と神妙に頷いた氷一はそれを最後に口を閉ざす。
 名詞も目的語もない会話だったが、二人が通じ合うには十分過ぎた。
 二人。そう、二人。
 
 三木 美香はもう、彼らの間に居なかった。
 
 
 この日、美香は飛行機に乗って遠い海の向こうに旅立っていった。大学で専攻していた語学の更なる研究の勉強の為という名目の留学だ。
 行き先はイギリス、尖塔の町オックスフォード。ホームステイで二年の予定、しかし美香は三年になるかも、と楽しげに笑っていた。
 相談は勿論随分前から受けていた、三人揃って同じ大学に入学した頃から留学したいと彼女は口を酸っぱくして言っていた。
 いわばそれは彼女の夢だった。彼女は夢を実現させたのだ、友として幼馴染として喜び祝いこそすれ引きとめたり駄々を捏ねたりすることは出来ない。
 だが実際に留学の話が持ち上がり、実現に向けて着々と話が進んでいくに連れて優介と氷一は慌て始めた。
 氷一は兎も角、優介は自分がこんなにも慌て、うろたえたことに驚きを禁じえなかったが――事実として、彼は日々磨り減っていく己が精神を感じていた。
 寂しかった。
 恋だったのか、幼馴染としての情だったのか、それは判らない。ただ寂しかったし、可能ならば引き止めたかった。
 しかし氷一が――今尚告げられていない叶わぬ想いを胸に秘める氷一が何も言わない以上、彼に彼女を説得することは出来なかった。
 
 物理的に離れ離れになるからといって精神的に疎遠になる、とは思いたくない。
 小学校から続いていた二人、いや、三人の関係がこんなことで散り散りになってしまうなんて、あってはならないことだ。
 あってはならないことだ、けれども。
「二年、か」
 呟いた優介のそんな言葉を強風が掻っ攫ってゆく。
 ばたばたと音を立てる春着用のコートがうざったるかった。
 二年。
 それは――きっと長い。長い、期間だ。
 二年。二十四ヵ月。七百三十日。一万七千五百二十時間。百五万一千二百分。六千三百七万二千秒。
 そんな期間よりもきっと、もっと、長い。
「二年なんて、すぐさ。美香はすぐ帰ってくる」
 けれどそんな彼の思惑を否定するように、すぐ、と繰り返した氷一の声はまるで泣き言を呟く時のように弱く小さなもの。それが何より彼の胸中を雄弁に語っていた。
 彼はまたしても、機会を逃してしまったのだ。
 
「発表は上手いこといったのか? まさか、気が散ってそれどころじゃなかったとか言わないよな」
 優介がそう問うと、氷一は小さく頷いた。
「大丈夫だった。驚くほど落ち着いてたよ、桑野(くわの)助教授からも褒められた。自分でも信じられねぇくらいにさ……完璧だった」
 まるでそれが罪だと言わんばかりに。
 肉に食い込むほど金網を強く握り締めて、氷一はそう”告解”した。
 
 この日、美香旅立ちの当日。氷一は今度こそ、という覚悟を決めていた。
 即ち、美香に告白すると。
 今まで何度も、本当に何度も生まれながも目前で手放したり見逃してしまったりしていた告白のチャンス、今度が本当に最後だと氷一は何となく悟っていた。
 だから今回こそは、今までの関係を例え崩す結果になったとしても、それでも、告白するのだと決めていた。優介はその覚悟を知っていた。
 しかし運悪くゼミの合同発表会がその日に組まれた。他校からの学生、教授、一般参加すらも含めての大発表会だ。
 大学に入り、いつのまにか好きになっていた情報処理を専攻していた彼は、三年次の今や院生と肩を並べるほどゼミの筆頭に位置し、欠席は許されなかったのだ。
 それを知った美香は、さも当然の如く見送りを断った。
 そうして、だから、彼の機会は失われた。
 最後の止めを刺したのが美香だった、その事実が彼の胸をどれほどまで抉ったのか。それは優介をして知れない。
 
 だから。
 この日、優介は見送りには行かなかった。理由は、氷一が見送りに行かなかったからだ。それだけだ。それ以上でも以下でもない。
 氷一の告解に「そうか」と頷いた彼は、それで黙り込んだ。
 春の陽気は穏やかで。
 けれど春の風は冷たい。
 がしゃん、とどこかで金網が鳴った。
 
 本当は、本当に、見送りに行きたかった。
 彼女の門出を少しでも彩ってやりたかった。
 もう当分会えなくなる――もしかしたらずっと会えなくなる彼女の背中を押してやりたかった。
 だがもう彼女は行ってしまった。
 
 胸を抉るこの後悔はなんだ?
 ぽっかりと空いた心の穴はなんだ?
 美香は。すぐ傍に居た美香は。優介の隣で、氷一のそして隣で、はにかんでいた美香は何だったんだ?
 
 その答えは彼に見つけること叶わない。
 きっと氷一はすでに見つけているその答え、優介には判らない。きっと、判っていない。

「俺、馬鹿だよな。俺、馬鹿だよ」
 空を見上げ続ける優介の隣で、氷一は言った。
「なぁユースケ。俺。俺さ。好きなんだよ。美香。美香のこと、好きなんだよ。マジで好きなんだ。今でも、昔からも、なぁ、俺好きなんだよ」
 蒼と白のコントラストが目に痛くて瞳を潤ませる優介の隣で、氷一は言った。
「俺馬鹿だよ。何年抱えてんだよ。何で美香そのまま行かせてんだよ。なぁ、俺、馬鹿だよ。俺、俺」
 やがて目を伏せ、慟哭に心を奮わせる優介の隣で氷一は言った、けれど。
「俺、俺――っ」
 がしゃん、という金網の悲鳴と共に、彼はもう、何も言えなくなった。
 
 
「馬鹿だな。お前」
 氷一が落ち着いた頃を見計らって、ひいては自分が落ち着いた頃を見計らって、優介は言った。
「まだ終わってねぇよ。美香は死んだ訳じゃない。二年経てば帰って来る。メールすりゃ良い、バイトして金稼いで、電話すりゃ良い。そうだろ? 向こうだって思ってるに決まってるぜ。ああ、あの二人が居ないとやっぱり寂しいわ、ってな」
 空を見上げて、そして続けた。
「その間ばっちり男、磨いてよーぜ。美香が帰ってきた時にビビるくらいにさ。向こうでカレシ作ってても、それを捨てて惚れちまうくらいに男磨いて待ってよーぜ」
 
 びゅうびゅうと吹き荒ぶ春風の中でそう宣言した彼の表情は諦観した風にも決意に満ちた風にも取れる、微妙な表情で。
 氷一は数秒じっとその横顔を見続けた後。
「そう……だな」
 と、だけ、呟いた。
 
 ”男、磨いてよーぜ”。
 その言葉が氷一だけに向けられていたのではなかった、ということに優介が気付くのはそれからずっと後のことになる。
 
 瞼の裏にいつものはにかんだ笑みを浮かべた美香の顔を思い描いて。
 美化されすぎだよな、と自嘲できるくらいには可愛らしく描けた顔に苦笑して。
 じっと、観て。
 
 
 そうして、優介はそっと瞼を開けた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 そうして、優介はそっと瞼を開けた。
 
 眩い光に世界が瞬き、美香は変わらずそこに居た。
 美香は――変わらずそこに居た。
 
 変わらない、変わっていない、あの、美香だ。
 小学校の頃から変わらない、はにかんだ笑み。
 今まで何度も癒され救われてきた笑み。
 優介の大好きな笑み。
 優介の――大好きな美香。
 
 非現実的な光景で、非現実的な衣装を身に纏って、いつにも増して輝いて。
 優介は思った。
 可愛い。
 綺麗だ。
 それ以外の感想が浮かばない、それほどまでに端的に可愛らしく、綺麗だった。
 だから愚直にも彼は再度思ってしまった。
 
 ああ。
 俺、美香が好きだ。
 ああ、ああ。
 すげー、好きだ。
 
 今までに彼が告白し、告白され、付き合ってきた様々な女性に相対した時と似たような、そうでないような、不思議な昂揚が身を満たした。
 好きだ。堪らなく彼女が好きだ。
 ただ、好きだ。
 傍に居たい。
 傍に居させたい。
 触れたい。
 触れられたい。
 時々刻々と思考が幼稚化していく。
 優介のあらゆるベクトルが美香に向いていた。まるで本当に告白するかのようだった。
 
 息を吐く。
 めちゃくちゃに足が震えた。
 
 息を吸う。
 途方もなく心臓がバクバクした。
 
 真正面から彼女を見合った。
 とてつもなく胸がドキドキした。
 
 そして彼はゆっくりと口を開く。
 言うべき言葉を言うために――今日この時この場所でキメる言葉を口にするために。
 一週間、考えに考え抜いた。昨日もこの瞬間のことだけを考えて殆ど眠れなかった。
 それでも思いついたのは僅か殆ど一言だった、けれどだからこそ万感の思いがその一字一句に乗っている。
 それを今。
 幼馴染であり、元クラスメイトであり、愛すべき親友である彼女らに向けて言うのだ。
 ――言うのだ。
 
 
 
 
「結婚おめでとう――美香。ヒョウ……氷一と末永く仲良くな」
 
 
 新郎、辰野 氷一。
 新婦、辰野 美香。
 その二人へ。
 
 式に中盤、友人代表としてそう口にした高梨 優介の目には、涙の粒が光っていた。
 
 
 高梨 優介二十五歳。
 社会人二年生、秋のことだった。


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