【1959】 仔猫ちゃんようこそ  (まつのめ 2006-10-26 17:46:46)


 大分悩んだり書けなくなったりしてましたが、どうにかつづき。
 導入部だけで二話もかけてるよこれ……。
【No:1912】→【これ】
(ご注意:これは天野こずえ著『ARIA』『AQUA』とのクロスです)



≪水上の街≫


 陸を歩いていたときはまだ高かった太陽も今はすっかり傾き、夕日が照り返す海面が眩しいほどに輝いていた。
 進行方向に背を向けてゴンドラを漕いでいた乃梨子は、その眩さに目を細めた。
「ん? なあに?」
 そんな様子に気付いたのか、いままで右だ左だとナビゲーションをしていた由乃さまは、乃梨子の視線を追って振り返った。
 その途端、感嘆の声があがった。
「うわあ……」
 遠くの海猫の鳴き声と穏やかな波の音が響く海原に、きらきらと眩しく輝く照り返し。
 そして鮮やかにオレンジ色に変化していくのは沈み行く夕日。
 乃梨子も手を休めてしばしその光景に見入っていた。
 由乃さまは振り返った姿勢のまま言った。
「なんかさ」
「はい?」
「太陽、小さくない?」
「えーと、水平線に、比較するものがなにも無いからでは……?」
 比較の対象となるものが無いと太陽は小さく見え、地平線や遠景の建物などがある場合、それより大きく見えるといわれている。
 日中の太陽に比べて、朝日や夕日は大きく見えるというのはこの理屈だ。
 これと同じで、遠景の建物のバックで沈む夕日を見慣れていると、水平線に沈む夕日は小さく見えるのかもしれない。
 でも、乃梨子は、ちょっと自信が無かった。
 何故なら。
「……実は、私も小さく見えてたんです」
「でしょ?」
 まだ日が高いときは、眩しくて大きさの違いなんて意識出来なかった。
 でも、こうして沈み行く夕日を見るにつけ、乃梨子の記憶にある夕日の大きさより3割方小さく見えていた。
 最初、錯覚だと思っていたのだけど、由乃さまに言われてやはり、小さいんじゃないかって思えてきた。
 ただ、地球に居る限り、太陽が小さくなるなんてありえないんだけど……。

 ……いや、まさか。

 その時だった。
 がくんと、足元がゆれた。
「きゃっ」
「なに……?」
 バランスを取り戻してから、オレンジ色に染まる街の方に振り返った。
 由乃さまも姿勢を戻し、同じ方向をじっと眺めた。
 水上の街の手前には海上を行き来する船の姿がちらほらと見えていた。
 左手に陸地、正面に街並み。
 そして、その風景はゆっくりと遠ざかっていく……。
「……沖に流されてるわね」
「……はい、流されてます」
 ゴンドラは潮の流れに捕まって街と陸地から遠ざかる方向に流されはじめていた。
「やばいじゃない! 急いで!」
「はい!」

 乃梨子は潮の流れに逆らって、必死でオールを漕いだ。
 でも、流されるスピードが意外と速くてゴンドラは思うように進まなかった。
 それに、
「あの、由乃さま」
「なあに?」
「すみません。もう手に力が入らなくて……」
 もう、いいかげん疲労が限界近くまで来ていた。
 ここへ来て急に全力を出したせいか、すぐにもう“漕ぐ”というより、オールの柄にしがみつくように体を支えているような有様だった。
「代わる? 私じゃあんまり進まないけど」
「はい、……足元、注意してくださいね」
 海に落ちたら、シャレにならないから。
「うん、判ってるわ」
 といいつつ、気が緩んで滑りそうになった。
 足元に気をつけなければいけないのは乃梨子の方だった。
 ずっと立って漕いでいたので、足にきたのだ。
 よろけながら由乃さまと場所を交代して、乃梨子は腰を下ろし一息ついた。
 ちょうど街並みは、昼間から夜に切り替わる微妙な時間帯で、暗くなりかけた空とレンガ色の屋根とオレンジ色に染まる建物の壁、そして、灯り始めた街灯や窓の柔らかな明かりが絶妙なバランスを醸し出していた。
 もうすぐ日は沈み、街の建物は暗いシルエットに変わるであろう。



≪水先案内人と出会う≫


 乃梨子は疲れた体を休めながら、由乃さまのぎこちないオール捌きを眺めていた。
 立ってゴンドラを漕ぐのが初めてなのは乃梨子だって同じだったのから、ぎこちなさは大差ないとは思うけど。
「由乃さま、オールの向きに気をつけて」
「え? ああ、そうね、こうかしら?」
 見るからに危なっかしい動作でオールを操る由乃さまだったが、何回も漕いでるうちにだんだん、ちゃんと進むようになってきた。
 潮の流れもピークを過ぎたのか和らいで、ゴンドラはゆっくりとではあるけど、また街に近づきつつあった。
「なんとか辿り着けそうですね」
「ふふん、私もなかなかなもんでしょ?」
 そう言って由乃さまが偉そうに胸を張った時だった。
「……二人とも、漕ぎ方間違ってます」
「「え!?」」
 思いもかけぬ第三者の声に、二人で驚いて振り返った。
 振り返ってまず目に飛び込んだのは白い船体とオレンジ色のライン。
「素人さんは、流されると危ないから」
 そして、声のするほうへ首を巡らせると、白地に記号のような黄色い模様の入った、スリットのあるロングスカート、ではなくよく見るとワンピース。その上にセーラー襟のこれまた白いシャツを着た女の人が白いゴンドラの上に立っていた。
 彼女は見た目、3、4歳年上という感じで、浅黒い肌に銀髪の涼しげなショートヘアーが印象的な美人さんだった。
「あ、あの?」
「えーっと……」
 いきなり「間違ってる」とか言われても、どう答えて良いか判らず、二人して唖然としていた。
 「二人とも」ってことは、この人、結構前から観察してたってことだけど。
 二人が固まっているうちに、その人はオールを操り、白いゴンドラを乃梨子たちのゴンドラに寄せた。
 そして、手際よく二つのゴンドラの先端をロープで結び、それから彼女は立ち位置がゴンドラの後ろになるようにしてオールを操り、乃梨子たちのゴンドラを牽引し始めた。
「休んでて」
 背を向けたまま、彼女がポツリとそういうのが聞こえた。
「あ、はい」
 おそらくまだゴンドラの端に立っていた由乃さまに対して言ったのであろう。
 由乃さまもそう認識して、オールを抱えたまま乃梨子が座っているところに降りてきた。
 とりあえず、助けてくれたってことで良さそうだ。
 その直後、乃梨子は頬にあたる潮風を感じた。
 ゴンドラはきれいな軌跡を残して波に乗っていた。
「……すごい」
 彼女の白い後姿を見ながら乃梨子はそう呟いた。
 流石に「間違ってる」と言うだけのことはある。
 白いゴンドラの後ろに立ち、不安定な筈の足場にも関わらす、オールを操る彼女はとても安定していた。
 殆どしぶきも上げず、そんなに力を入れて漕いでるように見えないのに、二つのゴンドラはすいすいと水上を進んでいくのだ。
「こっちが後ろだったのね?」
 由乃さまが感心したようにつぶやくのを聞いた。
 なんにせよ、今まで張り詰めていた乃梨子の気持ちは「助かった」という認識から緩んでいた。
 牽引するロープを伝って穏やかなリズムがゴンドラを揺らし、その心地よさにいつしか乃梨子はまどろんでいた。


「……ありがとうございました」
「どういたしまして」
 話し声に目を覚ますと、頬にゴンドラの底板の感触があった。いつのまにか船底に横になって眠ってしまっていたようだ。
 起き上がって見回すと、ゴンドラはもう桟橋に係留してあった。
 由乃さまも白いゴンドラの彼女も既に降りて桟橋の上で話をしていた。
 桟橋の向うに街灯のやわらかい光に照らされて、建物の白やレンガ色の壁が浮かび上がっている。
 見上げれば、もうすっかり藍色に変わった空。
「あ、乃梨子ちゃん起きたね?」
「はい」
 まだ気だるさが残る身体を起こして立ち上がり、ゴンドラから桟橋に上がろうとしたら、白い服の彼女が手を貸してくれた。
「それで、あの……」
「ここは、ネオ・ベネツィアって所なんだって」
 何処なんですか? と聞こうとして由乃さまに先手を打たれた。
 乃梨子が眠っている間に聞き出したのだろう。
「ベネツィアですか?」
 思わず由乃さまに聞き返したが、今度は彼女の方が答えた。
「ううん、ネオ・ベネツィア。二人とも来るのは初めて?」
 「ネオ」が付くらしい。
「は、はあ」
「初めてですけど……」
 乃梨子は海外に出たことは無いし“ネオ・ベネツィア”なんて地名聞いたことも無かった。
 ただ、辺りにライトアップされて浮かび上がる街並みはとっても“ベネツィア”っぽかった。空を飛んでる奇妙な物体以外は。
 彼女は二人の答えを聞くと、すぐに次の質問をした。
「何処から来たの?」
 その問いには思わず二人で目を合わせた。
「えっと……」
 乃梨子がどう答えたものかと、口篭もっていたら由乃さまが、
「あっちの方から」
 海の方を指差しながら、そう答えた。
「いや、由乃さま」
 まあ、確かにその通りだけど、そういう質問じゃないでしょ、と突っ込みかけたが、
「そうなの」
 と、何故か彼女は納得してしまった。
 疲れていて「納得するんかい!」と突っ込めなかったことが悔やまれる。
 というかこの人、最初“頼りになるお姉さん”って印象だったのだけど、こうして会話してみると、微妙に言葉足らずというか、ボーとした印象があった。


「……今日、泊まるところは?」
 彼女は、おそらく「どこの宿に泊まってるのか」という意味の質問をした。
 無論、そんなものは無い。乃梨子たちは旅行者ではなく言ってみれば遭難者なのだから。
 由乃さまはその問いに大変簡潔に答えた。
「無いわ」
 どういうことかと聞き返してくると思ったら、彼女もまた簡潔に返した。
「じゃあ来て」
 そう言ってさっさと歩き出してしまったのだけど、宿でも紹介してくれるつもりだろうか?
 でも、乃梨子も由乃さまも確か無一文だった。
 もっとも、お金があったとしても、ここでそのお金が使えるとは到底思えないのだけど。
「あの、どちらへ行くんですか?」
「明後日まで同居人が居ないから」
 ってことは、この人の家?
 というか、この人、乃梨子たちの事をろくに聞きもしないで勝手に話を進めてしまっている。
 悪い人ではないって判るんだけど、このままじゃまずいと思って乃梨子は言った。
「あ、あの、私達お金も着替えも無いんです。ご迷惑をかけてしまうと思うんですけど……」
「ちょっと乃梨子ちゃん」
 由乃さまが「何を言い出すの」って顔でそう言った。
 いや、自分らの立場をはっきりさせるために言ったのだけど、乃梨子も疲労でテンパっていたみたいだ。口に出した後、自分でも「もっと言い方があるでしょう」なんて思ってしまった。まあ、言いたいことは伝わったと思うけど。
 先を歩いていた彼女が振り返って言った。
「乃梨子ちゃん」
「はい?」
「私はアテナ。アテナ・グローリィ」
「あ、二条乃梨子です」
「私は島津由乃よ」
「そう。乃梨子ちゃんに由乃ちゃん」
 アテナさんは確認するように二人に視線を向けながら言った。
「服もお金も無いって判ってよかった」
「え? どうしてですか?」
「困っている人を放り出さなくて済んだから」
 そう言って微笑んだアテナさんは、どうやら底抜けに“いい人”らしかった。



 ≪水先案内店へようこそ≫


 アテナさんに連れて行かれた先は、ホテルみたいにでっかい社員寮だった。
 建物に入ってまず気がついたのは、中で出会う女の人が皆、アテナさんと同じデザインの服を着ているって事だ。
「なんかみんな同じ服着てますね」
 白い服に混じってリリアンの黒い制服は目立ちまくってる気がしておもわずそう呟いていた。
 アテナさんは言った。
「ウンディーネの会社だから」
「ウンディーネ?」
「ウンディーネというのはゴンドラを漕いで観光案内する人のことよ」
 その答えを聞いて由乃さまが言った。
「ああ、ベネツィアのゴンドリエーレみたいなものね?」
「そう。でもここでは女の人がなるのよ」
 つまり、この人もそのウンディーネなのか。どうりでゴンドラ漕ぐのが上手なはずだ。
 彼女は続けて言った。
「マンホームのベネツィアを知っているのね?」
「ええと、イタリアのベネツィアなら行ったことがありますけど、マンホームって?」
「え?」
 由乃さまの答えにアテナさんは変な顔をした。
「あの?」
「……由乃ちゃん、今、何歳?」
「は? 十七ですけど? ちなみにこの子は一つ下です」
 年齢を聞いて何故かほっとしたようながっかりしたような微妙な表情をしたアテナさんは言った。
「マンホームのイタリアに存在していた水の都ベネツィアは二十一世紀の中ごろ水没しちゃって今は存在していないの」
「「ええ!?」」
「ここアクアのネオ・ベネツィアはそのベネツィアをベースに作られた街なのよ」
 わからない単語がまたまた出てきたけど、それよりもクリティカルに気になる言葉があった。
「あ、あの、“二十一世紀の中ごろ水没”って、じゃあ今は何世紀なんですか?」
 アテナさんは質問に答えず、何やら腕組みして考え込んでしまった。
「あの、アテナさん?」
 彼女は一つのドアの前で立ち止まって言った。
「・……あ、ここ、わたしの部屋」


 部屋に招き入れられてすぐ、アテナさんは部屋から出て行ってしまい、乃梨子たちは少し待たされた。
 ドアから入って正面、部屋の真中に四角い絨毯が敷いてあり、その向こうの窓辺にソファ。
 ベッドは左右に一つづつあったので二人部屋であろう。
 とりあえず、正面のソファに座らせてもらった。
「“マンホームのイタリア”って言ってたわね」
「ここは“アクアのネオ・ベネツィア”?」
「とりあえず、マンホーム、アクアって単語がわからないわね」
 由乃さまが腕を組んでそんな事を言った。
 アテナさんが戻ってきたら聞いてみれば良いのだ。
 でも、乃梨子には既にある考えが浮かんでいた。
「あの、由乃さま?」
「ん? なあに?」
「常識とかは、どこかに置いておいて聞いて欲しいんですけど」
「まあ、あの変な飛行機とか浮かんだ物体とか見たから、今更何聞いても驚かないわよ。むしろ最初に会った人が原始的な船を漕いでるの見て驚いたくらいだし」
「じゃあ言いますけど、多分ここは未来の地球じゃない何処かです」
「ふうん」
 予告どおり、由乃さまは驚かなかった。
「マンホーム、アクアって言うのは、多分惑星の別名か惑星上の地名です」
「じゃあ、マンホームが地球?」
「ええ、もしくはイタリアを含む広域の地名とか」
「なるほどね。じゃあ、ここが地球じゃないっていうのは?」
「太陽が小さかったじゃないですか。太陽系なら地球より外側で太陽の周りを回っている惑星です」
「火星とか木星とかってこと?」
「木星はガス惑星ですし、その衛星でもはないと思います。太陽の大きさからすると」
 太陽系の各惑星の太陽からの平均距離を乃梨子は覚えていた。
 木星は地球の約5倍太陽から離れているから、太陽の大きさはもっと目に見えて小さい筈だ。
 一方の火星は地球の1.5倍。乃梨子が見た太陽の大きさからするとこっちの可能性が高い。
「じゃあ、ここは火星? 信じられないわ。だいだい、火星って空気が凄く薄いんじゃなかった?」
 いや火星とは限らない。太陽系じゃない可能性だってあるのだから。
 だが、その答えはあっさり返ってきた。
「火星なのよ」
「「え?」」
 いつから聞いていたのか、アテナさんが戻ってきていた。
「火星といわれていた星は150年前に惑星地球化改造(テラフォーミング)で水の星に生まれ変わって今はAQUA(アクア)と呼ばれているの」
「150年前? 惑星地球化改造?」
「そう」
 惑星地球化改造という単語は初めて聞いた気がする。
 が、要は人の住めない環境の火星を人が住めるように海を作ったり、空気を濃くしたりしたってことだろう。
 火星に人が住めるようになって150年だそうだ。
「じゃあマンホームっていうのは?」
「かつて地球と呼ばれていた、人類発祥の星のことをマンホームというのよ」
「じゃ、じゃあ……」
「寮長に話をしてきたから、お食事に行きましょう。お話は食べながらで」
「はい……」


 社員食堂はちょっとお洒落なレストランみたいだった。
 “人類はいったい何処まで宇宙に進出しているのだろうか”なんていう疑問は、今、目の前の問題に比べたら実に些細な事柄に過ぎなかったんだと、乃梨子は不本意ながらも実感しまっていた。
 すなわち、ここ食堂に充満する匂いがどうしようもなく食欲をそそるという事実である。
「これイタリア料理だわ」
 由乃さまがはしゃぎ気味に声を上げた。
「というか、うどんとか蕎麦もあるみたいですけど?」
 特に食券を買うとかもなく、カウンターに行って好きなのを取れるようになっていた。
 うどんや蕎麦はともかく、乃梨子の感覚からすれば豪華に感じてしまう料理の数々が並んでいた。
「あの、いいんですか?」
 思わずこう訊いてしまうのは、庶民感覚って判るのだけど、訊かずにはいられなかった。
「寮長の許可貰ってるから遠慮しないで」
 そういうことだけど、とりあえず二人の黒い制服はこの会社の白い制服達の中で目立ちまくっていた。
 でも、疲れていることもあってか社員食堂の料理はとても美味しかった。


「……じゃあ、過去のマンホームの人なんだ」
 食事をしながらアテナさんと時間に関するやり取りの末、ここは乃梨子たちの居た時代から約300年後の火星であることが判明した。
 判明したといっても、乃梨子にとっては突拍子も無い話で、近い推理をしておいてこういうのもなんだけど、俄かには信じがたかった。
 それに、乃梨子たちが300年まえの人間だと聞いたアテナさんの反応も不可解だった。
「あの、疑うとか驚くとかしないんですか?」
 乃梨子たちが過去の人間だって話を聞いても、アテナさんは訝しがる風もなく、ニコニコと上機嫌なのだ。
 もしかして担がれているのだろうか? それとも、この世界の人はこういうことが日常茶飯事だとか?
 そんなことを考えたいたら、アテナさんは言った。
「ううん、最初、妖精さんかと思って、ドキドキしてた」
「は?」
 妖精さんと来たよ。
「私のお友達にそういう不思議な体験を良くする子がいるのよ。話を聞いて私いつも羨ましかったから」
 つまり、不思議に出会えて嬉しいってことらしい。
 この世界の人全員がそういう常識外の事態に大らかな訳では無さそうだけど、その能天気な態度は嘘や演技には見えなくて、乃梨子は疑う気を失くした。


   ◇


 食事が終わってからアテナさんに誘われて寮の小奇麗な庭に出た。
 そこで、彼女から乃梨子たちを見つけた経緯などを聞いた。
「涼しくなったから夕日を見に行ったのよ」
 残暑で昨日くらいまでとても暑い日が続いていたそうだ。
 でも、今日は風が変わって秋の始まりを思わせるような涼しさだったから、仕事が終わってから気が向いて夕日を見に海まで出て来たのだそうだ。
「そうしたら……」
 夕日の照り返しの中に、妙に下手に舟を漕ぐ影が見えたのだそうだ。
 もちろんその影は乃梨子と由乃さまの乗る舟だったのだけど。
「下手ですみません……」
「ううん、はじめてだったら仕方がないわ」
 それで、流されて困っているみたいだから助けに向かったってことだった。
 もし今日までアテナさんの言う暑い日が続いていたら、まず暑さであの草原でへばっていただろうし、運良くあのゴンドラを見つけたとしてもアテナさんが助けにきてくれず、餓えと渇きに苛まれながら未だに海上をさまよっていたかもしれない。
「なんか凄い偶然に助けられたって感じですね」
 思わずそう呟くと、アテナさんは目を丸くしてこちらを見た。
 そして何故か乃梨子の右手を取って、それから由乃さまの手も取って両手で包み込むように握って言った。
「それは、偶然じゃなくってきっと奇跡」
「「へ?」」
「帰ってきたら、灯里(あかり)ちゃんに自慢しなきゃ」
 なんか感動してるし。てか、灯里って誰だ。


 アテナさんによると、最初会った時、乃梨子たちは“薄汚れて”、“へろへろ”してたそうだ。
 まあ、昼間は地べたに寝そべったりもしたし、炎天下をずっと歩いてきた後(半分は船だったけど)だったからその通りといえばその通りなのだけど、そこでアテナさんはとにかくごはん食べさせてお風呂に入れてあげなきゃって思ったそうだ。
 「猫じゃないんだから」なんて思ったのだけど、アテナさんはどうやらそういう感覚で乃梨子たちを世話してくれてるようだ。
 そんな話をしつつ、小一時間、寮内を案内がてら散策して(迷ってたようにも見えたけど)、部屋に戻ってからアテナさんは言った。
「お風呂、入ってきましょう」
「あ、でも着替えとか……」
「貸してあげるから」
 そう言って、アテナさんは箪笥から衣類を引っ張り出してきた。
「これは?」
「アリスちゃんの」
 今は居ないという同居人はアリスちゃんと言うらしい。
 由乃さまにはその同居人のパジャマを、乃梨子にはアテナさん自身の物を渡してくれた。
「それからこれも」
 下着とタオルだった。
「下着は新品だから」
「何から何まですみません」
「ううん、気にしないで」
 この人は基本的に世話好きなのだろう。アテナさんは嫌な顔一つしないで始終にこやかにいろいろ世話を焼いてくれる。
 その彼女の後について共同浴場へと向かった。


「うわあ……」
「何というか、立派なお風呂?」
「由乃さま、ボキャブラリが枯渇してませんか?」
「うるさいわね。いいでしょ、感動したんだから」
 湯気に煙る浴場は、シックな色合いに統一されていて、広い湯船に注ぎ込むお湯の出口がライオンの顔の彫刻だったりと凝ってるけど、変に派手に装飾しているって感じではなく、使い込まれた落ち着いた雰囲気があった。
「すいてますね」
 これだけ大きな寮だったらもっと混んでいそうなものなのに、広い風呂場は三人で貸し切り状態だった。
「この時間はすいてるの。みんなもっと早く入るから」
 すいた時間に入れるように先に食事にしたり、散歩して時間を潰したりと気を遣ってくれたみたいだった。
「ふぅ〜」
 身体を洗った後、湯船につかり、身体を伸ばした。
 慣れないゴンドラを漕いだせいで、身体のあちこちが固くなっていた。
 これは明日は間違いなく筋肉痛だ。
 まあ、それは良い。いや、良くはないけど、些細な問題だった。
「なんか生き返るわ〜」
 隣で由乃さまもくつろいでいた。
 湯につかっているのは二人だけで、アテナさんはまだゆっくりと身体を洗っている。
「あの、由乃さま」
「なあに?」
「緩みきってるところ申し訳ないんですけど」
「なによ改まっちゃって?」
「……これからの事です」
「その話、後にしない?」
 即答されて、乃梨子は由乃さまの危機感の無さにちょっと苛立ちを感じた。
 親切な人に出会ったお陰で、豪華な食事にありつけて、こんなお風呂まで入れたわけだけど、基本的に無一文でこの先どうしたらいいかなんてさっぱりなのだ。
「どうしてですか?」
 ちょっと険しい口調になってしまった。
 由乃さまは乃梨子の苛立ちに気付かないのかあえて無視したのか、普通に返してきた。
「疲れてるとロクな考えが浮かばないわ。今日のところはアテナさんの厚意に甘えさせてもらって、動くのは明日からにしましょ?」
「でも、動くのは明日にしても、話し合いくらい……」
 そこまで言いかけて、由乃さまの瞳に不安の色を見つけた。
 と、同時に言葉の裏が見えて、言葉を続けられなくなっってしまった。
 由乃さまは本当に“ロクな考えが浮かばな”かったのであろう。
「……判りました。とにかくゆっくり休んで回復しましょう」
「それがいいと思う」
 身体を洗い終わったアテナさんがそう言いながら湯船に入ってきた。


 のぼせない程度にゆっくりお湯につかった後、風呂から上がり、脱衣所でアテナさんの用意してくれたパジャマに着替えた。ちょっと大きめで、シャツの袖と下の裾を折り返す必要があった。
 そして一面を覆って据えられてる横長のでっかい鏡の前に座って髪を拭いていると、アテナさんがドライヤーとヘアブラシを持って近寄ってきた。
「あ……」
 何をするかと思えば、おもむろに乃梨子の髪にドライヤーをあて始めた。
「……すみません」
 やはり、楽しそうに乃梨子の髪を乾かすアテナさんだった。
「……」
 隣に座った由乃さまがなにか言いたそうにこちらを見ていたが、
「次は由乃ちゃんだから」
 アテナさんが乾かし甲斐のある由乃さまの長髪を見逃すはずが無かった。


「ベッド使って」
「で、でも……」
 部屋に戻ってから、アテナさんは部屋に二つあるベッドを乃梨子と由乃さまに勧め、自分はソファで寝ると言ってきた。
 でも、無一文で転がり込んだ自分達にそこまでしてもらうのはいくら無いでも気が引けるというもの。
 由乃さまも当然そう思ったみたいで、乃梨子が言う前に言った。
「あの、ここのベッド大きいから私達二人で眠ります。ね、乃梨子ちゃん、いいよね?」
「あ、はい。私もそれでいいですから」
「……わかったわ。じゃあこっち使って」
 入り口から見て左側のベッドを指してそう言った。
 結局、二人でアテナさんのベッドを貸してもらい、アテナさんは同居人のベッドを使うってことで落ち着いた。
 まだ眠るには微妙に早い時間だったけど、由乃さまが隣でさっさと寝息を立て始めてしまったので、乃梨子もそれに従うことにした。
 なんにせよ昼間の疲れがあったので、悩んでる暇も無く横になってすぐ、乃梨子も眠りのまどろみの中に沈みこんでいった。








 祐巳側の謎にはあまり干渉しないか、あるいは独自解釈で行くとか?
 勝手に設定を借りておいてこんなことをいうのはアレかもしれませんが、とりあえず別物と思ってくださったほうが無難です。
 クゥ〜さま、勝手に枝分かれしてごめんなさい。怒らないで。(<イマサラナニヲイウカ)

                                                    まつのめ


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