「ここで仏像探しをしたいんじゃない?」
由乃さまはそう言った。でも乃梨子が見つけたものは……。
【No:1912】→【No:1959】→【No:1980】→【No:1990】→【これ】
(ご注意:これは『マリア様がみてる』と『ARIA』、『AQUA』のクロスです)
(ご注意2:これはクゥ〜さまのARIAクロスSSのパラレルワールド的な話に(多分※)なると思います)
(※今後、クゥ〜さまの話とリンクするか、それとも完全に袂を分かつかはまつのめにもまだ判りませんので)
≪普段着を買え!≫
しんと静まり返った朝。
まどろみからゆるりと覚醒した乃梨子の目に映ったのは、窓から差し込こむ朝日に照らされた部屋の風景だった。
「静かだ……」
昨日は起き抜け由乃さまと騒いでいたからあまり感じなかったけれど、ネオ・ベネツィアの朝は驚くほど静かだった。
乃梨子はまだ寝ている由乃さまを起こさないようにベッドを降りて、窓の方へ行った。
「そうか、自動車の音が聞こえないんだ」
都内に住んでいると、車の音からは逃れられないものだが、地球のベネツィアがそうであったように、ここネオ・ベネツィアも車両進入禁止なのであろう。この時代の自動車がどういう形態をしているのか知らないけど。
ついでに乃梨子の部屋だと、前日落とし忘れてパソコンの冷却ファンの音が響いている事もよくあった。
昨日の晃さんの話からこの時代にもパソコンはあるようだけど、ここには無い。
(インターネットとかあるんなら見てみたいな……)
などと思いつつ、窓の外を眺めると、時が止まったような透明感のある朝の景色が飛び込んできた。
この世界に来て今日で三日目。
ここが未来の火星と言われて、どうなってしまうのだろうと不安にもなったが、こうして落ち着いてみると、意外と何とかなるものだと楽観している自分に気がつく。
これも何から何まで世話になってるアテナさんや、その他の出合った人たちのお陰であることは間違いなかった。優しい人に出会えて本当に良かったといえる。
乃梨子は自分が着ているパジャマに目をやった。
(今日は、服を買いに行くんだっけ)
買い物と、それから調べたい事もあるからと今日はアルバイトの話を断ったのだ。
元の世界(時代)に帰る方法を探すにしても、このままではアテナさんに借りをつくるばかりだから、まず、その現状を何とかしたかった。
調べ物と言うのは、そういうところ。お誘いがあった通り水先案内店に就職することも視野に入れて、この街で自分達は何が出来るのかを調べてみたかった。
その結果がアテナさんに頼るしかない、となったっていい。
でも“足掻く”と決めたから。
何もせず、ただ他人の親切に甘えて流されるだけじゃ見つかるものも見つからないんじゃないかって、そう思うから。
昨日、寝る前に少し由乃さまとこの話をした。
由乃さまは同じ考えというわけではなさそうだけど、いろいろ調べる事には同意してくれた。
「まぁ〜」
足元で鳴き声が聞こえた。昨日アリスさんと一緒に帰ってきた仔猫だ。
「えっと、まぁくんだっけ?」
「まぁ」
仔猫は肯定するように一声鳴いた。
「人見知りしない子なのね」
昨日会ったばかりなのに警戒する気配が全然ないので、乃梨子は彼(実は彼女)を抱き上げた。
持ち上げるとき一回「まぁ」と鳴いて、でも、暴れる様子も無くまぁくんは大人しくしていた。
「ふぅ……」
仔猫を抱えたまま乃梨子は小さなため息をつき、窓の下のソファに腰を落とした。
ソファのたわむ音とパジャマの布がすれる音が止むと、また朝の寂静が辺りを包む。
遠くから小鳥の囀りが聞こえてきた。
(なんか、すごい落ち着いちゃうな……)
ここの世界は人も空間もどこか優しくて、ついそのまま浸りきってしまいたくなる。
肩の力を抜く事は、悪い事ではない筈だ。
でも乃梨子の心のどこかで「それでいいの?」と疑問を投げかけてくる。
「私って貧乏性なのかな?」
つい口をついて呟いていた。
「まぁ?」
「そりゃ、今は間違いなく貧乏でしょ?」
まぁくんの返事の後、何故か返事が帰って来た。しかも間違ってるし。
乃梨子が言ったのは、何もしてない時間が勿体無く感じてしまうって意味での“貧乏性”だったのだけど。
「由乃さま……」
「おはよう、乃梨子ちゃん。猫ちゃんもおはよう」
由乃さまは起き上がってからそう挨拶をし、ベッドから降りてきた。
「んー、良い天気ね」
由乃さまは伸びをしながら外を眺め、それから座っている乃梨子を見下ろして言った。
「ところで今、何月ごろなの?」
「さあ?」
ここに来てたった二日で季節感も無いものだ。一度、アテナさんが「最近秋らしくなって来た」と言っていたから秋なのだろうけど。
そこに第三者の声が聞こえてきた。
「ソファの横の棚の上にカレンダーがあります」
話し声で目を覚ましたのか、アリスさんがベッドで身体を起こしていた。
「あ、アリスさんおはようございます」
「おはようございまいます。今が何月か知らないなんて何者なんですか?」
「まあ、それは追々話すとして、カレンダーってこれ……?」
そう言って由乃さまは棚の上から写真立てのような形状のカレンダーを取り上げたのだけど、それをまじまじ見つめて変な顔をした。
「由乃さま?」
「なによこのふざけた日付は」
「はい?」
乃梨子はまぁくんをソファの上に降ろして立ち上がり、由乃さまの横に行ってそのカレンダーを覗いた。
「……」
一瞬、本当にカレンダーなのか疑った。
そこにはちゃんと乃梨子にも判る算用数字が書かれていたのだけど、その数字は「18」。
「アクアの暦を知らないんですか? マンホームと違ってアクアは一年が24ヶ月です」
「じゃあ今は18月?」
確か火星は公転周期が地球の二倍近かった……。
「見ての通りです。ちなみに季節は秋が始まったところです」
「ああ、半分にして9月上旬って訳ね?」
「つまり、あなた方はマンホームから来たんですね?」
「まあ、そんなところね」
どうでもいいことだけど、乃梨子はいきなりアリスさんにタメ口な由乃さまに感心した。
そのうちアテナさんも起きてきて、乃梨子たちはパジャマからまたここの会社の制服に着替えた。
「なんでうちの制服に着替えるんですか?」
それを見て、社員じゃないのに、休みなのに、とアリスさんが素朴な疑問を投げかけてきた。
「二人とも服を全然持ってないのよ」
「なんで……」
アテナさんの答えに反射的にそう言いかけたアリスさんは言い留まった。
「……べつに関係ありませんから」
昨日、「勝手にしてください」みたいなことを言ったのを思い出したのだろう。アリスさんはすましてソファの方へ行き、ソファの手前に座ってまぁくんをじゃらし始めた。
とりあえず、そんなアリスさんは置いといて。
アテナさんが言った。
「きょうはお買い物行くのよね?」
「はい」
「折角だから街を見て回ったら良いと思うわ」
「はい、そのつもりです」
見て回るだけでなく、ちゃんと調べないといけない。
昨日は運河から少し見たけれど、この街の事はまだその程度しか判っていないのだ。
住宅事情に就職情報、ここに住まう人の一般的な食卓事情なんかも判ると尚良し。まあ今日は買い物メインなので、見て回るだけで調べるところまで行かないかもしれないけど。
元の世界(時代)に帰る手がかりも探さないといけないから、こちらは長期戦の構えだ。
やるべき事はたくさんあるのだ。
「でもさ、乃梨子ちゃんはまず仏像探しをしたいんじゃない?」
「……由乃さま」
いや、もちろんそれもかなり魅力的なのだけど。
最初の予約客までまだ時間があるということで、アテナさんは朝食後もまだ部屋でゆっくりしていた。
「アリスちゃん、乃梨子ちゃんと由乃ちゃんが服を買うんだって」
「それがなにか?」
「アリスちゃんのお勧めのお店、案内してあげて?」
アテナさんにそういわれるとアリスさんは横目で乃梨子たちの方を意味ありげに見つめ、それから何故かため息をついた後、言った。
「……判りました。どんな服がお望みですか?」
どうやら協力してくれるようだ。
「取りあえず、普段着なんだけど……」
「予算はいかほど?」
「ええと、これが全財産で」
昨日貰った給料袋をぺらぺらと振って見せた。
「……服無しの上、無一文だったんですね」
アリスさんに半眼で睨まれた。機嫌が悪そうだ。
由乃さまがその言い方に憤慨するように言った。
「学校の制服着てたわよ」
「別にそういうことを言ってる訳じゃなりません」
「じゃあなによ?」
なにやら小さい事に引っかかっる由乃さまだけど、本当は単にアリスさんの態度が気に入らないってだけなのだろう。
これから案内してもらうのにこんな調子では先が思いやられる乃梨子だったが、
「それだったら、良い古着屋を知っています」
「古着屋?」
「ええ、その予算じゃあ新品ではロクなもの買えませんから。でも、古着といっても私の知っているところは地元(アクア)住民しか知らない穴場でなかなか良いものが揃ってます」
「そうなんだ」
アリスさんが、由乃さまがつっかかっても意に介さずマイペースで話を続けるので、攻撃的な態度を維持出来ず、由乃さまはアリスさんのペースにハマっていた。
どうやら二人の不仲を杞憂する必要はなさそうだ。
そんなやり取りを横でニコニコと見ていたアテナさんは最後に言った。
「じゃあアリスちゃんお願いね」
「でっかいお任せください」
≪海を越えて行け!≫
改めて外から見ると社員寮は古城のような風格があった。
今日も空は良く晴れて、レンガの赤茶けた色が青空によく映えていた。
その立派な寮を出てから、アリスさんは目的地は告げずに、ただ「ついてきてください」とだけ言ってあとは黙々と歩いていた。
午前中の街中は意外と静かで、石畳の狭い路地には三人の足音だけが響いていた。
狭く暗い路地はやがて途切れて、急に明るい広場に出た。
その小さな広場からすぐにまた小道に入り、しばらく行くと今度は小運河を渡る小さな橋を渡った。
こんな調子で路地、広場、路地、運河、橋と風景が小気味良く変化して、ただ歩いているだけなのにどこか心地が良かった。
やがて小道は広い運河にぶつかり、そこにはちょっと大きな石造りの白い橋が掛かっていた。
橋の周辺は小さな店が集まっていて人が多く、今まで歩いていた小道とはまたちょっと雰囲気が違っていた。
白い橋を見上げて由乃さまが言った。
「これ、リアルト橋?」
「そうです」
「お店がいっぱいあるけど、この辺の店ってやっぱり観光客相手なの?」
周辺だけでなく、橋の上はアーケードになっていて中央部分にいろいろなお店が並んでいた。
「全部そうとは限りませんけど、観光客は多いです。ここはネオ・ベネツィアの観光名所の一つですから」
「ふうん」
なるほど、この雰囲気の違いは地元住民の生活空間と観光名所の差なのだろう。
「この橋自体も美しいと言われていますが、この上から見た大運河(カナル・グランデ)の眺めもとても美しいと評判です」
「へえ」
と、そんな話をしながらその白い橋の坂道を登って、降りた。
店がいっぱいあっても目的地はここではないようで、アリスさんは橋を渡り切ってからまた狭い小道に入っていった。
そして、更にまた幾つか小運河を越えて小道を進み、最後に建物に囲まれた狭い空がいきなり開けて水平線の見えるところに出た。
マリンブルーの海は穏やかに波立ち、海猫の鳴き声が何処からか聞こえてきた。
そのまま海沿いの歩道を少し歩いていくと、ゴンドラ乗り場とはまた違った船着場があった。
「水上バス(ヴァポレット)?」
「はい。目的の店は、ちょっと離れた島にありますから、ここからこれに乗って行きます」
そう言いながら、アリスさんは窓口で切符を買って乃梨子たちに一枚づつ配った。
「ここの切符売り場は現金で買う場合、おつりがあると売ってくれないことがあります」
そういうアリスさんはカードで支払ったようだ。
給料を現金で貰って乃梨子たちに小銭が無いことを知ってるから、買ってくれたようだ。
「それは切符売り場として正しいの?」という突っ込みもあったが、それより部屋を出てからずっと仏頂面なアリスさんがそういう気の回し方をしてくれた事に少し驚いた。
「後で返しますね」
「要りませんよ。大した金額じゃないですし」
「でも・……」
「気になるんなら後でなにか奢ってください。今日じゃなくて良いですから」
どうやらアリスさん、小遣い程度の予算にも気を遣ってくれてるらしい。
顔に似合わず、といったら失礼だけど、アリスさんもけっこう気配りの人ようだ。
「……判りました」
こんなことで口論になっても仕方が無いのでそういうことにした。
受け取った切符を駐車場の無人券売機みたいな機械に通した後、桟橋の待合所で待っていると、しばらくして水上バスがやってきた。
昨日、大運河で見かけた時も感じていたのだけど、この水上バスというのがえらくレトロな乗り物で、船に乗り込むためのタラップは木製のただの板切れに滑り止めが施されているだけの代物だった。
船員さんが、その板を船と桟橋の間に手で投げ置くのを見た乃梨子は、一瞬、ここは実は50年位過去の世界でなないかと疑ったくらいだ。
乃梨子たちは、そのタラップを踏んで水上バスに乗り込んた。
バスは折り返しらしく、乗っていたお客さんは全員降りて、入れ替わりに乗り込んだのは乃梨子たち三人を除いて四、五名といったところだった。
船の床は黒っぽい板張りで、座席は両側二人がけで真ん中が通路になっていた。
乃梨子と由乃さまで並んで座り、その前の座席にアリスさんが座った。
でも、椅子の背もたれが低く、前後の間隔も狭いので、アリスさんがちょっと振り向けば前後で普通に会話が出来てしまう距離だった。
「終点まで行きます。30分くらいです」
アリスさんがそう言ったと同時くらいに、水上バスはエンジン音を響かせて動き出した。
やがて、桟橋を離れたバスは向きを変え、窓の景色が海原に変わる。
さて、しばらくはここに座って船の旅だ。
乃梨子の隣、窓際に座った由乃さまは海の向うに見える島の方角を眺めている。
時間つぶしというわけでもないのだけど、乃梨子はずっと聞きたいと思っていた事を訊いてみようと思った。
「あの、由乃さま?」
「ん?」
「由乃さまは不安とかないんですか?」
一応、乃梨子と由乃さまはつぼみ同士だけど学年が違うこともあって、こんな面と向かって個人的な話をした事は無かった。
まあ、由乃さまは“親しい先輩の友人”というポジションなのだから、そんなものだのだろうけど。
由乃さまはまるでそれが何でもないことのように言った。
「あるわよ?」
「そうは見えませんが」
ここに来てからずっとだけど、先輩という事で弱みを見せたくないのか、由乃さまは割と飄々としていてあまり不安があるように見えなかった。
「そりゃ、外から見たらね。でも不安があるからってビクビクオドオドするのって意味がないじゃない?」
「まあ、そうですね。それで誰かが助けてくれる訳でもありませんし」
「そういうことよ」
“判ってるなら聞かないで”といわんばかりにそう結んだ。
なるほど。由乃さまらしいというか、これが由乃さまの“強さ”なのだろう。
志摩子さんとは全然タイプが違うけど、これはこれで頼り甲斐のある先輩だと思った。
「ところでさ、ここに居る間、その『由乃さま』ってやめない?」
「はい?」
「アテナさんも言ってたけど、なんか召使いと姫様みたいで窮屈なのよね」
「そうなんですか?」
そういうの好きそうに見えたけど。
「ずっと気になってたのよ。ここでは立場は対等でしょ?」
「どう呼んだらいいんですか? 『島津さん』とか?」
そう言ったら、由乃さまは表情をしかめた。
「何でそうなっちゃうのよ、名前にさんずけとか、呼び捨てとか」
いきなり呼び捨てはちょっと抵抗がある。それに……。
「呼び捨てていいんですか?」
そう聞くと由乃さまは「うっ」となって言った。
「……ちょっとむかつくかも」
「勝手ですね」
まあ、正直だけど。
でも『さん』ってつけるのもなんか今更な感じがする。
「というか、私の呼びかたは変えないんですか?」
「なんでよ」
はやりというか、由乃さまが乃梨子のこと『ちゃん』付けで呼ぶのを止めるとは思ってなかった。
「だったら、対等に『由乃ちゃん』でどうですか?」
そう言うと、あからさまに嫌な顔をした。
「なんか、乃梨子ちゃんがそう言うと親戚のおばさんに呼ばれてるみたいだわ」
「じゃあ止めときます」
そんな回りくどく人をおばさん扱いしなくても、素直に『嫌だ』といえばいいのに。
なんか自分勝手だ。まあ、それが由乃さまの由乃さまたるところなのだけど。
その直後、がくんと結構大きく船が揺れた。
由乃さまは驚いて言った。
「……なに?」
それに答えたのはアリスさん。
「停留所に着いたんです。でも降りるのはここじゃありませんよ」
窓の外を見ると水上バスは停留所の桟橋に横付けしていた。
「ぶつかって止めるのね」
乃梨子がそんな感想を述べていると、数人の客が乗り込んできて乃梨子たちと反対側の列の席に座った。
バスが停まっているうちに乃梨子は話を戻して言った。
「呼び方の話ですけど」
「うん」
停まっている時はエンジン音がないので話しやすかった。
由乃さまは「対等だから」とか言ってたけど、多分理由は人前で「さま」付けで呼ばれると恥ずかしいとかそんなところだろう。
乃梨子は言った。
「単純に学年差を表すように“由乃先輩”と呼びましょうか?」
リリアンでなければこう呼んでたはずだ。
それを聞いた由乃さまは表情を輝かせて言った。
「それ! なんか新鮮で良い!」
「じゃあそうしますね、由乃先輩」
やがて水上バスは再び発進して、窓の外の風景がゆっくりと後ろに流れ出した。
停留所の桟橋を過ぎて、その向うの広場の景色が乃梨子の目に飛び込んできた。
海沿いの広場には結構人が集まっていた。
誰かが大道芸か何かをしていて、集まっている人たちはそれを見ているようだった。
その風景を見た瞬間、
「どうしたの?」
乃梨子は、我を失った。
「………」
無意識に席を立っていた。
「ちょっと!?」
そして、木の床を踏んで真ん中の通路の後ろへと走った。
「何処へ行くのよ?」
由乃さまが追いかけてくるが、気にしている余裕はなかった。
船室のドアを開けるとエンジン音が大きく聞こえてきた。
桟橋のあった方へ。
(あの広場に……)
「何してるの! 危ないじゃない!」
背後から抱きつかれて乃梨子はようやく我に返った。
「え?」
下を見ると泡立つ波が流れていた。
「飛び込むつもりだったの?」
由乃さまが乃梨子に抱きついたまま言った。
乃梨子は、再び遠ざかりつつある島の方を見た。
「でも、志摩子さんが!」
「えっ!? 志摩子さん?」
「志摩子さんが居たのよ!」
そう、乃梨子の目は、あの広場に佇む志摩子さんの姿を捉えていたのだ。
≪旅の芸人を探せ!≫
「まさか。似てただけじゃないの?」
「でも、瞳子と志摩子さんに見えたから」
「瞳子ちゃんも?」
「うん、遠かったけど、髪型とかが……」
「縦ロールだった?」
「あ、ううん」
思い出してみると瞳子に見えた人影は瞳子得意の縦ロールではなかった気がする。
ただ、髪の色や背格好が志摩子さん(に見えた人)と比較してそんな感じだったから。
「本当に志摩子さんだったの?」
「ええと……」
由乃さまに言われて自信がなくなってきた。
乃梨子が俯いて流れていく波を見つめていると、アリスさんの声が聞こえた。
「どうかしました?」
振り返るとアリスさんの胡乱な視線が乃梨子に向けられていた。
「いえ、知り合いに似てる人を見かけたので」
そう言うとアリスさんは遠ざかる島の方を眺めて言った。
「ムラノ島でですか? 次のバス停で引き返しますか? といっても、次は遠いので多分一時間後になっちゃいますけど」
それを聞いて、由乃さまは水上バスの切符を取り出して言った。
「この切符ってさ、途中で降りても損しないの?」
「これは一日切符ですから、24時間以内なら何回でも乗れます。ちなみに一日のうちに往復するなら一回券よりこれのほうが安上がりです」
それならば、時間はロスするものの余計な費用はかからないってことか。
「そうか。乃梨子ちゃんどうする?」
「えっ? 次って目的地ですか?」
アリスさんに向かってそう聞いた。
「いいえ、降りるのはまだ先ですけど」
「じゃあいいです。先、古着屋に行きましょう。多分、見間違いですから」
「乃梨子ちゃん、いいの?」
「はい。それに、一時間後ではもう何処かへ行ってしまった後かもしれないですし」
見間違いの可能性が高いのに、無駄に二往復もさせてしまうのはアリスさんに申し訳なかった。
もし本当に志摩子さんが来ているのなら、時が来ればちゃんと巡り合えるはず。なんの根拠もないけど乃梨子はそう確信していた。だから今無理をする事は無い。
「でも、もし本物だったら? 私、志摩子さんだったら会いたいわ」
「えっ……?」
由乃さまに言われて、根拠の無い確信はあっさり揺らいでしまった。
結局、確信は思い込みだった。ただでさえいつ帰れるか判らない不安があるのに、志摩子さんが来ているとか来ていないとかこれ以上心を乱されたくなかったのだ。
もちろん志摩子さんには会いたい。
でも、今の乃梨子は多少怪しい情報でも容易に志摩子さんが来てるって思い込んでしまいそうで怖かった。
思い込んで結局会えなくて、立ち直れないほど落ち込んでしまいそうで怖かったのだ。
「……」
乃梨子が黙ってしまうと、アリスさんが言った。
「でしたら戻りましょう。マンホームではどうか知りませんが、一時間というのはネオ・ベネツィアの人にとっては本当にちょっとの時間ですから」
「で、でも……」
「古着屋は逃げませんから」
即答された。その通りだった。
続けてアリスさんは乃梨子の方を見て言った。
「あと、『間違いかもしれないから申し訳ない』とか考えてませんか?」
「え、あ、……はい」
見抜かれていたようだ。それだけではないのだけど。
「無用な心配です。私はお散歩が趣味なんです」
「お散歩、ですか?」
ちょっとつながりが判らなかったから聞き返した。
「そうです。お休みの日は、ネオ・ベネツィアの街を散策したり、水上バスに乗って島巡りをしたり。いつも一人でやってる事ですから」
一人なんだ。
でも、今日は一人じゃなくて余分な人間が居る。
「あなた方を見てるのもでっかい楽しいです」
アリスさんはそう言ったあと、乃梨子たちの前で初めて、ほんの少しだけ微笑んだ。
「あ……」
「言ってくれるじゃないの。見世物じゃないのよ」
「でっかい見世物です。目立ってます」
「「え?」」
会話に励んでいる人たちも居たので全部じゃないけど、親が世間話に夢中で放って置かれているらしい小学生ぐらいの姉弟とか、上品な服装のふくよかな婦人とか、あと数人がこちらを見ていた。
目が合うと婦人はにっこり微笑んでいた。
この街の人間にとってウンディーネの服は珍しくないのだろうけど、色彩的にこの服は目立つようだ。
先ほどバタバタしていたのでそれで注目を浴びたのだろう。
「とりあえず、『あなた方』とかやめてくれる? ちゃんと名前があるんだからさ」
ここに来て初めて会話らしい会話をしたこともあってか、由乃さまは早速呼び方に文句を言った。
確かにアリスさんは、会ってからまだ一度も乃梨子や由乃さまの名前を呼んでいない。
アリスさんは由乃さまに向かって言った。
「……由乃ちゃん?」
「ちゃん付けなの?」
「嫌なんですか?」
「あなた、今いくつよ?」
「16ですけど」
「げ、同い年?」
「そうだったんですか。てっきり年下かと」
「それはこっちの台詞だわ」
なにやら睨み合ってる。
やっぱり、同行するのは嫌だったのかな、なんて乃梨子が思っていると、
「それはそうと、私のことも“あなた”じゃなくてちゃんと名前で呼んでください」
アリスさんの方も名前で呼ぶように言って来た。
結局、親しくするのは嫌じゃなかったようだ。良かった。
「じゃ、『アリス』」
「いきなり呼び捨てですか?」
「嫌なの? なんかあなたって“ちゃん”でも“さん”でもなくただの“アリス”って気がするのよね」
「でっかい訳わかりません。でもそう呼びたいんならそうしてください」
「じゃあそうするわ。よろしくねアリス」
「はい。由乃さんに乃梨子ちゃんですね」
結局由乃さまはさん付けか。
でも。
「私はちゃん付けなんですか?」
「後輩ですから」
さっきの話を聞いていたようだ。
まあ別に良いけど。
海を超えて最初の停留所で降りて、反対方向の水上バスを待ち、乃梨子たち三人がその島に戻って来たのはアリスさんの言う通り、約一時間後だった。
停留所に着く直前にバスの上から確認したが、やはり件の広場には、志摩子さんも志摩子さんに似た人も既に居なかった。
その島に降り立ってまず、その広場に向かった。
「えーとね、人形劇ー」
「あやつり人形ー!」
広場には数人の小学生くらいの子供達が遊んでいた。今、その子供達が由乃さまの質問に答えているところだ。
「どんな人がやってたのかな?」
「えっとね……」
子供達の話によると、来ていたのは旅の芸人さんで、背の高いおじさんと女の人が二人の三人連れ。
女の人の一人がバイオリンを弾いてもう一人が歌って、それに合わせておじさんの操り人形が踊っていて面白かったそうだ。
服装はみんな“黒っぽい服”を着ていたという。
アリスさんはその中でおじさんの服装について詳しく聞いていた。子供の表現力から類推すると、おじさんの服装は黒い帽子に黒マントらしかった。
アリスさんは言った。
「そのあやつり人形の芸人さん多分、私も知ってます。数年おきにこの街に来てる方です」
「じゃあ、やっぱり見間違いだったってこと?」
「ただ、私が見た時は背の高いおじさん一人でしたけど」
「なら可能性はまだあるのね?」
「はい、ただ、そのおじさんの奥さんと娘さんだった可能性も」
確かに、小さな子供から見たら乃梨子の年齢からおばさんといえる年齢まで全部まとめて「女の人」だ。
「なんとも言えないわね。もっと大人の目撃者は居ないのかしら?」
「いたとは思いますが……」
広場には数人の子供達が遊んでいるだけで今は大人の姿は見られなかった。
アリスさんは広場を見渡しながら言った。
「……ちょっと近くのカフェで休みませんか?」
「良いですよ」
「賛成」
「ホットチョコレート3つ」
アリスさんがここのホットチョコレートがお勧めだというので皆でそれを注文した。
「ここのホットチョコレートはでっかい濃厚なんです。私的にはネオ・ベネツィアで二番目にお勧めです」
実際、これってチョコレートフォンデュ? ってくらいどろどろだった。でも味は良い。
「なんか太りそう」
「ネオベネツィアには美味しい物が多いですから、油断するとでっかい太ります」
「確かに、太ったおばさんが多かったような」
「あれ、でもウンディーネの人はそうでもなかったよ?」
このカフェでは志摩子さん(に似た人)を探す件に付いて話し合うつもりだったのだけど、この辺りから話が妙な方向へ向かって行った。
「ウンディーネに体重制限はありませんが、あまり太ると業績に響きます」
「やっぱり、お客さんも舟漕ぐ人の容姿を見るもんね?」
「それもありますが、お客さんを乗せられる人数が減ります」
「いや、そこまでは無いでしょ。流石に」
「いいえ、歴代のプリマウンディーネにそういう方が居たと言う伝説が」
「マジで?」
「都市伝説の一種では?」
「まあ、信憑性は何ともいえませんが、船謳は超一流だったとも言われています」
「へえ?」
「オペラ歌手並の声量で、歌い出すとその声はネオベネツィア中に響き渡ったとか」
「なんか凄いけど、作り話っぽいですね」
と、乃梨子が話の勢いを削ぐようなことを言うと、由乃さまは、
「でも、伝説っていうくらいだからそのくらいあっても良いんじゃない?」
そう言ってアリスさんに話を促した。
「定員が普通のウンディーネより少ないことが、彼女のゴンドラに乗ることの稀少価値を高めていたそうです。全盛期には予約が一年くらい埋まってたとか」
「ちなみに実際のウンディーネはどうなの?」
「ワンシーズン予約で埋まったなんて話聞いた事がありません。三大妖精でも連続して埋まってせいぜい二、三日くらいじゃないですか?」
「凄い人だったのね。そのウンディーネさん」
「ええ。さらに、この話には続きがありまして」
と、ここで妙に神妙な面持ちでアリスさんは言った。
「そのウンディーネはですね、後年には重量が更に増えてしまって、彼女のゴンドラに乗れるのは、とうとうたった一人になってしまったと言われています」
と、人差し指を垂直に立てた。
「嘘だー!」
真剣な表情と話の荒唐無稽さのギャップに乃梨子は思わず叫んでしまった。
「あははは。そういうオチなのね」
「一人しか乗れなければ一年待たされて当然です」
まだ言うか。
「当然プレミアも付きます」
「太ったウンディーネさん大人気?」
「……重量級ウンディーネの時代が来たりして?」
と、つい乃梨子が話に乗ったもんだから……。
「……」
「……」
「……ぷっ」
その後は、ゴンドラが沈まないような絶妙の体重コントロールだとか、重さで決まる新しいウンディーネの階級だとか、下らないネタで盛り上がった。
「バランスを取る為にゴンドラの先端に重りをつけるので、限界は200kg位ですね」
アリスさんが妙にリアルに検証するのでそれが余計に笑いを誘った。
「ありえないっ!」
「い、嫌過ぎる!」
お店の顰蹙を買うかと思うほど三人で笑い転げてしまった。
まあ、周りも声高に雑談していたので、(そういうところなのであろう)店を追い出されるとかはなかったけど。
最初、無愛想だったアリスさんは初対面ってことで緊張していただけのようだ。
結局、カフェで笑い転げたのは、三人には良い方向に作用した。
アリスさんは緊張が解けて割とぶっちゃけて話をするようになったし、乃梨子はなんとなく引きずっていた暗い気持ちから浮上できた。
「目撃情報は得られませんでしたね」
アリスさんは店を出るときに店員さんに旅の芸人について聞いていた。
でも、芸人さん達はこの島にあまり長く留まって居なかったようで、店員さんは心当たりがないと言っていた。興行だけしてすぐに移動してしまったのだろう。
「でもさ、旅の芸人ってことは、今この辺を巡業して回ってるんじゃない?」
「そうですね。何処に向かったかくらいは知りたかったんですけど」
残念ながらそれは判らなかった。
結局、今日の予定もあるので、これ以上時間をかけるわけにもいかず、あとでアテナさんや晃さんにも聞いてみる事にして、再び水上バスに乗り、アリスさんのお勧めの古着屋がある島へと向かった。
志摩子さんがどうでもいいって訳ではない。
ただ、冷静になって、今は不確かな情報で悪戯に動き回るべきではないと判断しただけだ。
思い切りキャラが勝手に動きます。今回で考えていたプロットから大きく外れてしまった予感。
とっとと祐巳に会う話に持っていきたかったのに要らぬ方向に大風呂敷が広がる気配を見せています。
といいつつ、まだ半日も進んでない……。次回は早めに出したいです。