※ このお話には暴力シーンやグロテスクな表現が含まれています。
それは小さな願いだった。
望んでいたのは、大切な人達との穏やかな日々
けれど目の前にあるのは、歪んだ世界と壊れゆく現実
求められたのは一つの決断
必要なのは決意と覚悟
たとえそれが決別を意味していたとしても
それが最良の選択だと信じて、今はその道を進むだけ
『真・マリア転生 リリアン黙示録』【No:1984】から続きます。
おびただしい数の悪魔が倒れ臥しているなか、志摩子は日本刀を手に佇んでいた。
その場に立っているのは、少し離れた位置から見守る乃梨子を除けばあとは1体の堕天使のみだった。
騎乗していた赤毛の馬の首を落とされて、怒りに震えながら地に降りたった堕天使に、志摩子は冷たい視線とともに刃を向けた。
メシア教の中では救世主(メシア)、慈母などと呼ばれる一方で、戦いの場では『戦慄の白』などとも呼ばれる志摩子である。
「改心しろ、とは言いません。あなたのいるべき世界に還りなさい」
「人間が!」
人間ごとき
人間風情が
この戦いに身を投じて以来、幾度となく耳にした言葉だ。
やはり、悪魔とは相容れない存在だと志摩子は思う。
神の救いと救世主出現を待望するメシア教に対して、ガイア教は特定の神を崇めず、あらゆる生命が入り混じり生きていく、人間と悪魔の共存する世界を作ることを目的としているという。それ故に、ヒトを襲う悪魔の存在をも容認することになるガイア教の思想は、志摩子には理解できないものだった。
悪魔が世に溢れるようになって、力無き人々はその脅威から逃れる為にこぞってメシア教に庇護を求めた。その保護施設の為の一角に悪魔が現れたとの報を受け、志摩子と乃梨子はこの場にかけつけたのだ。一刻も早く、悪魔に脅かされない体制作りが必要だった。そしてゆくゆくは神の御名のもと選ばれた人々の千年王国を築きあげる。
その為にも、こんなところでぐずぐずしているわけにはいかなかった。
音を立てて振り下ろされるその槍を体を開くようにしてわずかに横に動いてかわす。
叩きつけられた武器が地を抉り礫を巻き上げた時には、志摩子は懐深くに踏み込んでいた。
右手を一閃。
そのまま傍らをすり抜けるように後に回る。
その動きを追うように、堕天使は振り向いた。
たたきつけた武器を横殴りに振り回そうとしたところで、視界がずるりと横にずれる。
振り向く動きに下半身が全くついてこなかったことに今更気付く。
胴を上下に両断されたのだと思い至った時、振り下ろされた刃が今度は頭から体を縦に切り裂いた。
四つ切にされた体が左右に分かれてドウッと倒れる。噴き出した血の跡が地に十字を描いた。
それを数歩さがって見届けた志摩子は、刀を軽く一振りするとそのままくるりと回して切っ先を鞘にあて、その中に落とし込んだ。
その様子を乃梨子は言葉も無く見ていた。
人々の避難誘導の手はずを整えて乃梨子が戻って来た時には、志摩子は既に無造作ともいえる様子で悪魔の中に踏み込んでいた。
そのまま乃梨子に退路の確保を指示してゆっくりと歩を進める志摩子に悪魔達が群がる。
最初に襲いかかってきたのは古代の日本の鎧を付けた人型の悪魔だった。アレは確か妖鬼の類だ。
右から突いてきた槍を志摩子は左に半歩踏み出してかわしざま、すくい上げるように振り抜いた刀がその首を斬りとばす。
ついで左からくる斬撃を、踏み出した左足を軸に体を回転させて回り込むようにかわしながら右手をいったん引き付け、伸ばす。
振るった剣が空をきり、戸惑うように動きを止めた黒い翼の天使は、己の喉から何か奇妙なモノが生えているのに気が付いた。
視界の端に、ごとり、と何かが落ちるのが見える。直前に斬り飛ばされた鬼の首だった。あとを追うように頭部を失った体が倒れ、地面に叩き付けられた衝撃で血が噴き出す。
そちらに気を取られたわずかな間に、喉から生えた何かは消えていた。同時に、体から力が抜け、視界が暗転する。
志摩子は円を描くような動きで堕天使の攻撃をかわしながら背後にまわり、喉に刺突を入れたのだ。
そのまま身を翻して前へ進む志摩子の背後で、何が起きたかもわからぬままに前のめりに倒れたそれの喉から血が流れ出し、新たな血溜まりを作っていく。
右上から左下へと斬り下ろされる刃を、今度は志摩子は右に動いてやり過ごす。
右に踏み出した勢いのままに右手はさらに右へ伸ばされ、宙に浮いていた蝙蝠のような羽と矢印のような尻尾を持つ矮小な体躯の悪魔に刺突を入れる。
それを引き抜く動きからそのまま体を回転させて、空振りして体勢が崩れていた左側の骸骨に向けて遠心力をのせた刀を振り抜いた。
この間に乃梨子が相手をしたのはオニが1体だけだった。
その一本角の赤いオニは、力はあったが動きはさほど早くなかった。その攻撃をよけるのは容易かったが、二刀を手にした乃梨子はあえて一刀で受けた。正面から受け止めるのではなく、斜めから刀を当てることによって力を受け流しながら、切り払うようにして軌道をそらす。乃梨子の上に落ちてくるはずだった棍棒はわずかにそれて地を穿った。おもいきり地面を叩いた形になったオニのがら空きのわき腹に、乃梨子はあいていた方の一刀を叩きつけた。オニの体がぐらりと傾ぐ。さらに、棍棒を受け流した後の一刀を続けざまに叩き込んだ。
その間にも、志摩子は動きを止めることなく、ゆっくりと、だが確実に歩を進めていた。
澱みなく流れるようなその一連の動きは舞を舞っているのではないかと錯覚させるほどに優雅ですらあったが、そうでないことは通り過ぎたあとを見れば明らかだ。
そこには斬り倒された悪魔が死屍累々と横たわり、流れ出した大量の血が一帯を覆い尽くしてゆく。
地が血に染まる。
『屍山血河』という言葉があったな。乃梨子はぼんやりとそんなことを思った。
そんな血の海の只中にあっても、志摩子の姿は傷一つ、どころか、返り血一つ浴びずにただひたすらに白く、そして美しかった。少なくとも、乃梨子の目にはそう見えた。
戦慄の白き薔薇、か
志摩子自身は気にした様子もないが、その通り名は不本意だ、と乃梨子は思う。
私心を捨て、理想の為に邁進する姿勢は尊いものだと思う。
志摩子の前に大天使が降臨した時のことは、乃梨子の心に刻み付けられている。
それは美しいと思う余裕すらない、圧倒的な威光だった。
大天使ガブリエル。
受胎告知で有名なその名は、四大天使と言われるものの1つでもある。
志摩子が傾倒したのは無理のないことと言えた。
それは志摩子が神に選ばれた瞬間であり、救世主と呼ばれることになるきっかけだった。
だがその理想自体が正しいことなのかどうか、実のところ乃梨子にはわからない。
この時点で、祐巳の動向はまだはっきりしていないが、由乃とは明らかに道を分かたってしまっている。それでもしなければならないことなのか。
さらに言えば、自らを逆隠れキリシタンと称したことのある乃梨子が、ロウの代表的存在としてメシア教を導く立場の志摩子についていくこと自体が許されることなのかどうか、疑問でもあり不安でもあった。
「乃梨子」
悪魔の最後の1体を倒した志摩子が戻ってくる。
「お疲れさま、志摩子さん」
その言葉に、志摩子は笑顔を返す。
いつもと同じ穏やかな笑顔を。
乃梨子に向けられるその笑顔が、一緒にいていいのだと信じさせてくれる唯一の拠り所だった。
何があろうと志摩子を信じてついていく。それが、今の乃梨子にできる唯一のことだった。
そして乃梨子自身は気付いていないが、おそらくそれこそが志摩子が私的に望む唯一のことで、乃梨子にしか応えられないことだった。