※由→志の告白シーンはありません(倒
志摩子は冬が好きだった。
厳しい冬が好きだった。
朝、起きるのが辛くなるということは確かにあるけれど、一度布団の温もりを捨て去ってしまえば体と一緒にきゅっと心が引き締まった。
そのまま部屋を出れば、夜気を残した上に水拭きを終えたばかりで厳しく冷たい板張りの廊下が更に意識の覚醒を促してくれる。
遠くで――時に近くで聞こえる鳥達のさえずりは澄んだ空気を静かに震わせて、静かな朝の到来を祝しているかのよう。
それは朝の早い時間に目覚めることが習慣になっている人間だけが知ることのできる、日本の美であり和の幸だ。
輪廻転生は仏教の概念だが、もし生まれ変わるとしても志摩子はきっともう一度日本に生れ落ちることを望むだろう。
愛する父と兄が生まれ、母の嫁いだこの小寓寺で生に受けることを願うだろう。
もっとも、その時もまた紆余曲折を経て主の下に跪くことにはなるのだろうけれども。
今尚愛して止まないリリアンのお姉さま、聖さまは間違いなく寝ている時間。
いつも凛としてでもどこまでも可愛いリリアンの妹、乃梨子もきっと眠っている早朝。
一人、そんな事を考えながら冷気を掻き分けて洗面所へ向かう志摩子の高校二年生、最終学期の朝は例年通りの厳しい寒さの中で始まった。
また、この季節がやって来た。
寒風吹き抜けるリリアン構内で、志摩子はそんな感慨に空を見上げる。
登校ラッシュよりも三十分ほど早い時間帯の銀杏並木は、葉を落としきった木々の合間に見え隠れする人影も疎らで、粛とした空気に満ちていた。
年を越えてから初めて登校したリリアンは、どこかもの悲しい風景にしっとりと流れる冷気を侍らせている。
冬の朝はいつもどこでも厳かだ。
実家の境内や教会の聖堂はもちろん、煉瓦畳の並木道もその例には漏れない。
小さく吐いた息が、白く濁って空に消える。
ひゅるりと音を立てて木枯らしが吹き、志摩子は顔を地上に戻した。
目の奥に残っていた良く晴れた冬の青空は、文字通り瞬く間に寒色の風景に換わる。
冬の光景、新学期の朝。見慣れた光景、馴染み深い四季の折。
その中、志摩子の胸をつくのは馴染みのない既視感だった。
「もう一年経ったのね」
思わず唇が動いて漏れた、そんな言葉が突風にさらわれる。
途端、襟首や裾下から抜かりなく染み入った冷気に志摩子は体をぶるっと震わせた。
物言えば、の歌を詠んだのは芭蕉だったか。もっとも、今は真冬も良いところなので時期はずれにもほどがあったけれど。
歌とは異なるもっと物理的な寒さに閉口した志摩子は唇を結び、今度は口に出さずに繰り返した。
もう一年経ったのね。あれから、去年の生徒会役員選挙から、と。
その出来事を回想できる人間は限られているだろうな、と他人事のように志摩子は思う。
だって、数多いリリアン行事の中でも、信任投票にも近い生徒会役員選挙は決して大きなイベントと言えるものではないからだ。
確かに全くの信任投票に過ぎない年度こそ珍しい、昨年も立候補したのは四名だった。当選したのはそして、三名のみ。
それでも、接戦になることは稀だと聞き及んでいる。
昨年の例もそうだ。四人目、蟹名 静さまは善戦したとはいえ、倍の票を得てもまだ及ばないくらいには志摩子たちから水を空けられた。
それは静さまが実力不足であったとか、信任を得るに足らない方であったとか、そんなことでは決してない。
静さまは素晴らしい方だ、もし志摩子が当事者でなければ文句なく票を投じただろう。
張りのあるお声と堂々たる風格は、同年代である祥子さまや令さまと比べても遜色のあるものではなかった。むしろ、声の通りにおいては随一であったといって良い。
しかし、美声だけで生徒会役員には選ばれない。それではただのファン投票か、アイドルオーディションになってしまうだろう。
山百合会全体に通じた視点と実績、それに知名度がなければ次代を担うには――次代を担うと、生徒を納得させるには足りないのだ。
こればかりは、半月やそこらの付け焼刃では埋められない差をつぼみたる志摩子たちとの間に生んでしまう。
だから静さまの敗因を敢えて挙げるなら、偏に、つぼみでなかったからということになる。
とはいえ、つぼみという称号を持っていたから志摩子たち三人が選ばれた、というわけでもきっとない。
つぼみだから知りえたこと、つぼみだから出来たこと、それらが評価されての大差だった筈だ。
だから志摩子は選ばれるべくして三人が選ばれたものだと信じて疑わない。今でこそ、ではあるのだが。
その結論に至るまで、志摩子は多くのことを考えた。特に去年の今頃の時期を悶々と過ごしていたことは記憶に新しい。
再び吹いた木枯らしに髪が散り、志摩子はそれを整えるついでに再び空を見上げた。
抜けるような青空が広がっている。きっと去年の今頃も広がっていただろう青空、けれど、去年の今頃には見ることのなかった青空が広がっている。
一年経った。志摩子は変わった。
また一年が経つだろう。そして志摩子は変わるだろう。
その第一歩はきっと、いや間違いなく、生徒会役員選挙にある。
出馬するのかしないのか。
何を訴えるのか何を語るのか。
あるいは、薔薇を捨ててその先どう過ごすのか。
考えることは多くあった。それぞれに弊害があり、利点があり、それに繋がった未来が待っている。
聖さまは何を選んでも何も言わないだろう。
乃梨子は何を選んでも何かを言ってくるだろう。
その上で決めるのは志摩子だ。そしてその決断を迫られる日は、年が明けた今、もう目の届く範囲に来ていた。
冬の日は早く過ぎる、きっと瞬く間にその日はやってくる。
じわりと焦燥の炎が胸を焼いた。
三度風が吹き、志摩子は前を向く。
相変わらず人影の少ない枯れた銀杏並木は、でも、決断を強いるようなことはなくただ静かに続いていた。
ほっとする。
そして静かな朝を再び歩もうとした志摩子の脇から、控えめな声が飛んだ。
「ごきげんよう、白薔薇さま。新年おめでとうございます」
聞き覚えのない声、けれどこれが新年初めての挨拶だ。
志摩子はちょっと気取って足を止め、鞄を両手に持ち替えて体の正面に。
ゆっくりと振り返って、微笑む。
「ごきげんよう」
言葉を口にしても、何故だか今度は寒さを感じなかった。
〜〜〜
冬は、一般的に良いイメージはない季節なのだろうと思う。
風景は侘しいし風は強いし、身を切る寒さは具体的な痛みだ。
辛い出来事をイメージする感覚は、寒さ。それはつまり冬が辛い季節だと言い換えることが出来ることなのかもしれない。
冬は寒くて、辛い。
でももちろん、何事にも例外はある。
冬の寒さも四季の幸、と受け入れられる志摩子のようなものや――
「私たちは一番初めに届け出を出さなきゃいけないのよ!」と、まぁ、現在進行形で燃えたぎる炎を辺りに発散する由乃さんのように。
「そうよ、順番とかじゃなくて一番初めに誰よりも先に! それが大事だったのに!」
リリアン生徒、しかも先述の「次代を担う薔薇のつぼみ」にしてはやや粗雑に(控えめな表現だけど)、足踏みを鳴らして由乃さんは叫んだ。
場所は選挙管理委員会事務所前。
更に詳細に綴るなら、来年度生徒会役員選挙の立候補者一覧の、正面だ。
大きく区切られた枠の中には唯一つの名前がつつましげに綴られている。
『一年椿組 松平 瞳子』
それは志摩子にも馴染みの深い一年生の名前、祐巳さんにとっては馴染みの深いなんて一言では決して括れない一年生の名前。
可愛らしい縦ロールが良く似合い、でもその内面に燃える炎は由乃さんのそれに負けるとも劣らず、荘厳にそびえ立つ家柄と誇りは祥子さまのそれに追随する。
一言でいえば――本来、人を一言でいうことなどできないがそれでも敢えて一言でいうなら、厳しい子。己にも、他者にも、そして周りにも。
乃梨子のもっとも親しい友人の一人で、祐巳さんとのことや今回の選挙立候補もあって現在薔薇の館でもっともその名が話題に上る一年生。
愛しむようにして、志摩子は記されたその名を撫でた。
志摩子は瞳子ちゃんのことを良くは知らない。
だから現在瞳子ちゃんが何を思って役員選挙に立候補したのか、それを推し量ることすら出来ないでいた。
けれど志摩子は思う。もし瞳子ちゃんの心を推し量れたなら、あるいはもっと正確に知れたなら、事態は果たして変わるだろうか。
瞳子ちゃんは、祐巳さんは、幸せな日常を得ることが出来るのだろうか――と。
小さく頭を振った志摩子はもう一度だけそっと名前を撫でる。そうして指を離した。
変わらない。
事態はきっと変わらない。わかっていたことだから。
今、瞳子ちゃんは道を迷わせ足を止めさせている何かに喘いでいる、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで選ばなければならないことがあるのだろう。
クリスマスの頃から見え隠れしているそんな苦悩は、志摩子や祐巳さんなど割と限られた人間だけが知っている事実。
由乃さんは多分知らない。
燃え盛る炎に油を注ぐような真似は出来ないので口にはしないけれど、事実としてそれはある。
でもそれは今回きっと無関係、瞳子ちゃんの苦悩はこの役員選挙ではない筈だ。この役員選挙”など”ではない筈なのだ。
だから志摩子は立候補者一覧から目を離す。瞳子ちゃんから目を離す。
瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで選ばなければならないことがある。それは去年の志摩子と同じように。
なれば今年の志摩子は、今年の志摩子で選ばなければならないことがある。
道を示唆するなどと大それたことをいう訳ではないが、己が道は己が意思で選び己が足で進んでこそなのだ。と、思う。
だから志摩子は道を選び、そこを往く。
志摩子は目の前の扉を開けた。
「――私は私たち三人で薔薇さまになりたいの」
恙無く手続きを終わらせ、再び廊下に戻った志摩子の前では相変わらず由乃さんと祐巳さんが対峙していた。
志摩子が手続きをしている最中にも一度大きく爆発した由乃さんだったから、声のトーンが落ちた今では随分としおらしくなっているように見える。
薄いとはいえ、扉越しにも聞こえた大声はかなりのものだったから、その反動が来ているのだろうか。
けれど場に帰ってきた志摩子に気付くこともない二人に、仄かな疎外感。
それだけ真剣な話をしているのだとは理解もするけれど、やっぱり寂しい。志摩子は小さく肩を落とした。
「瞳子ちゃんが嫌いという意味ではないわよ、でも」
「うん。わかってるよ」
向かい合う、見詰め合う二つのつぼみ。
彼女たちの世界が急速に閉じていくのが傍からわかった。
ただの廊下なのに、リリアン構内の一角に過ぎないのに、志摩子を置いて二人が二人のまま閉じてしまう――錯覚。
志摩子の胸がきゅっと締められる。
「祐――」
「ほら、由乃さんたちもそろそろ受付を済ませてしまったら?」
堪らず、志摩子はその世界に足を踏み出してしまっていた。
恐怖にも似た焦燥はもちろん志摩子の被害妄想、祐巳さんも由乃さんも決してそんなことはしない。
二人は二人で世界を構築してしまおう、なんて考えるほど浅はかではない。わかっていても、それでも志摩子は踏み出してしまった。
お昼休みが終わってしまうわ、と言い訳染みた言葉を繋げて更に踏み込むと、二人の視線が一気に集中する。
一年前なら尻込みしたかも知れないそんな雰囲気も、今の志摩子にはむしろ心地良かった。
「私はもう済ませてしまったわよ。二番だったけれどね」
小さく舌を出してそう口にすると、憑き物が落ちたように志摩子の心に安寧が戻ってくる。
それはきっと、二人の胸にも同じものが落ちてきた証拠だった。
足音も高らかに、勇ましく選挙委員会事務所へ踏み込んだ由乃さんの背中を見送って、まだ少し苦笑いの抜けない祐巳さんを志摩子は呼び止めた。
「私が言うことじゃないと思うけれど、気にしないで。誰も本当に悪くないから」
小さく頷いた祐巳さんに、志摩子は続ける。
「それに受付番号が選挙の当選番号ではないわ。私は去年四番だったけれど、ちゃんとこうして今ここにいるのだから」
由乃さんが何故あそこまで一番に拘ったのかは志摩子にもわからなかったけれど、そしてそれが爆発の本題だったとは思えないけれど、フォローはきっと必要だった。
そしてそのフォローが出来るのは間違いなく志摩子だけだった。
最後手、四番手として名乗りを上げて見事白薔薇の座を勝ち取った志摩子だけが、その言葉を言えた。その言葉に力を持たせられた。
そんな意図が伝わったのか、祐巳さんはうん、と今度は口に出して頷いてくれる。
「そうだね」
それでもやっぱり、表情から苦笑いは抜けなかった。
よほど堪えたのだろう、本音のぶつかりは時に厳しすぎるから。そして祐巳さんは、それを笑って流せるほど薄情でもまたないから。
優しい人だ、と志摩子は思った。
何かないだろうか。何か、更なるフォローを。と、やや焦った志摩子が口走ったのはしかし。
「ああ、でも静さまは三番だったわね」
という皮肉ったにしてはややキツめの言葉で、口にした志摩子が誰より驚いた。
でも、まぁ、今頃確実に三番手を貰っているだろう由乃さんに聞こえていなければ良いけれど、と軽めに流してにっこり笑う。
だってその言葉で祐巳さんの苦笑いは苦笑に変わっていたから。それなら、良いと思えたから。
ほら、と祐巳さんの背中を押して事務所へと促す。
祐巳さんはととっと一度つんのめった後で振り返り、「じゃ、行ってくる」と片手を上げた。
だから志摩子も手を上げて返す、「行ってらっしゃい」。
そうして入れ替わりに出てきた由乃さんの憮然とした表情から、先の台詞はやっぱり聞こえてしまっていたのだとわかったけれど。
頬を膨らませて不満を表現する表情が可笑しくて、志摩子は思わずくすくす笑う。
それが尚更に由乃さんの機嫌を損ねるとわかっていても、駄目だった。
でも事務局に入った時と同じようにつかつかと歩み寄ってくる由乃さんに、身の危険を感じた志摩子は気を取り直して言った。
「ごめんなさい」でも「他意はないの」でもなくて。
「おかえりなさい」
と。
でも、それでぽかん、と口を明けた由乃さんが可笑しくて、志摩子はやっぱり笑ってしまったのだった。
〜〜〜
その方は、マリア様のお庭で一人佇まれていた。
構内の喧騒の遠いマリア様のお庭はとても静かで、恐らくは部外の方だろうその女性も違和感無く風景に溶け込んでいる。
通り掛かった志摩子は、マリア様にお祈りを奉げているのだろうかと思ったので敢えて声は掛けず、そのまま横に並んで何とはなく志摩子も頭を垂れた。
残り僅かな昼休み。でも天使祝詞を諳んじるくらいの時間はロスとはいわない。
珍しい、でもとても清い気がした礼拝を終えると、その方はいつの間にか志摩子の横顔を眺めておられた。
もしかしたら初めからお祈りを奉げられていたのではなかったのかも、知れない。
「ごきげんよう、外来の方でしょうか?」
何はともあれご挨拶。
志摩子が失礼のない程度に微笑んでそう切り出すと、その方は「ええ」と品良く頷かれた。
「用事はついさっきに終わったのだけどね。静かで良い場所だな、と思ってちょっと立ち止まってしまったの。マリア様もお綺麗だし」
「ありがとうございます、管理している者もそう仰って頂けると喜ぶと思います」
聖像や花壇の手入れは環境整備委員会の仕事、思わぬところからその活動を褒められた志摩子は誇らしくなった。
日々の雑務や土いじりは時に大変だったけれど、誰かを少しでも癒せるのならと続けてきた甲斐があった。
だって少なくとも、気品のある目の前の女性の目を楽しませることは出来たのだから。
「あら、ということはあなた方がこの辺りの手入れを?」
「用務の方にお願いすることも多々ありますが、主には。毎朝、毎夕、欠かさず清掃を行っています」
志摩子が右手を軽く回して”この辺り”を指すと、女性は「まぁ」とやや大袈裟に驚かれる。
けれどそれは幼稚なあしらいというより、純粋に感嘆されたのがわかる所作だった。緩やかな物腰と合間って、嫌味がない程度に生まれの良さを滲み出させている。
(恐らくは)リリアン生徒の親族の方ともなれば、それもある意味で当然か。
そう納得すると同時に父を思い出した志摩子はどこか肩身が狭くなる。
「立派なことね、流石はお姉さま方に導かれ続けてきたリリアンというところかしら。こういう細かいところにそれは出るものだわ」
もちろん、そんな志摩子の微妙な心理は露知らず。女性はそう言って感心されたように首肯された。
「恐縮です」と志摩子が気を取り直して答えると、不意に問う。
「失礼だけれど、もしやしてあなたは紅薔薇か黄薔薇のつぼみかしら? 違っていたらごめんなさいね、話し振りからしてそう思ったのだけれど」
鋭い。
今度は志摩子が感嘆を覚えて、軽く一礼した。
「ご慧眼です。若輩ですが、私、今年度白薔薇さまを務めさせて頂いている藤堂志摩子と申します」
「あら。あらあら、まぁまぁ」
すると女性はコロコロと可愛らしく微笑まれた後、なるほど、なるほど、と二度頷かれた。
何がなるほどなのだろうと志摩子が小首を傾げると、女性は仰った。
「娘が良く褒めちぎっているわ、とてもお優しく聡明で、リリアン全土のお姉さまであると。確かに、あなたはそうあるようね」
「いえ、そんなことは」
「ほんの少しだけだけれど、話せば何かしら見えてくるものよ。私には娘の意見が的外れだとは到底思えないわね」
謙遜した志摩子を遮って、女性は更に仰った。直球の褒め言葉に、慣れない志摩子は思わず照れてしまう。
これがリリアン女学生であるならいざ知らず、歳の離れた見知らぬ相手からの賞賛は予想以上に威力があった。
女性の娘さんが志摩子の知っている人かどうかは判らないけれど、光栄なことだ。
本人のいないところで話される言葉にこそ真意はのる――もっとも、”白薔薇さま”であるという事実が持つリリアン特有のフィルタはやっぱりあるだろうけれど。
頬に手をあて、心配そうに女性は言った。
「でも大変でしょう? 二年生で白薔薇さまを務めるのは。上級生に物申さないといけない時もあるでしょうし」
「お心遣いありがとうございます、でも上級生の方にも良くして頂いておりますので大丈夫です。できた妹もおりますし、つぼみの二人もとても助けてくれています」
言って、志摩子は胸中で復唱する。そう。みんなのお陰だ、と。
志摩子は白薔薇さまだが、一人ででもそうあれたなんて自惚れることは決してない。
志摩子が志摩子として居られたのは聖さまのお陰に違いないが、今年も志摩子が志摩子で居られたのは、お褒めの言葉をいただける位には白薔薇さまをまっとうできたのは、祥子さまや令さまのお陰だ。
そして乃梨子の恩恵で、祐巳さんと由乃さんの協力に他ならない。
「来年は、それじゃあ」
問われた時、先日の出来事。選挙管理委員会事務所の前での出来事がふっと頭に思い浮かんだ。
そして更に前、一人早朝の銀杏並木を歩いた時を思い出した。
来年。三年生の志摩子達、そのころの山百合会。薔薇の館。
薔薇は永遠に咲いてはいない、次代に種を残して去ってゆくものだ。
祥子さまも令さまも卒業される。聖さまや蓉子さま、江利子さまが卒業されたことと同じくして去られてしまう。
華を欠いた薔薇の館はきっと寂しくなるだろう。
聖さまの代わりはいなかったように、祥子さまの代わりも令さまの代わりもいないから。
祐巳さんや由乃さんはきっと、いいや絶対に、淋しくなるだろう。
それに瞳子ちゃんのこととか菜々ちゃんのこととか、棚上げになっている問題は山積。順風満帆な門出とはきっとならない。
でも。
それでも。
志摩子に悩みはもうない。
志摩子はもう悩まない。
「私はもう一度白薔薇さまとして。つぼみは紅薔薇さま、黄薔薇さまとして。やっていくつもりです」
だから志摩子は歴然とそう答えていた。もうとっくに終わってしまった出来事を振り返るように、確信を持って。
聖さまが卒業なさって、辛かった自分を支えてくれた二人を今度は志摩子がしっかりと支えるのだ。
時の癒しを志摩子は知っている、他者の慰めを志摩子は知っている。
寒い冬は必ず明けて、暖かな春がやってくる。そうして館には満開の薔薇が咲く――春にはきっと。必ずや。
そんな静かな決意に、女性の頬が僅かに緩む。
「来年もよりよいリリアンにしてちょうだいね。来年もその次も、娘が通う学園ですもの」
でも、不意にそう仰った女性の視点が僅かにぶれた。
意図は読めない。
正面の志摩子でも、その向こうの誰かでも、それはない何かを彼女は観ていた。
まるで祈誓、マリア様の前で口にした言葉には並々ならぬ厳かさがあった。
志摩子は逡巡の後、はっきりと頷く。
そして「きっと」と続けた言葉は柔らかい冬風に吹かれて散った。
何とはなく、二人は揃って歩き出す。
けれど、学園生活に関わる話をしたりしなかったりしながら歩く銀杏並木は驚くほど短くて、あっという間に正門まで辿り着いてしまった。
間を繋ぐという選択肢はない、そもそもお昼休みの残りも本当に僅かな時間帯。女性と別れて、姿が見えなくなったらきっと志摩子は走らないといけないだろう。
でも後悔はなかった。
「わざわざ送ってもらってありがとう。今日はリリアンの良いところをいくつも教えてもらったわ」
そう言っておしとやかに微笑まれた女性に、志摩子は軽く頭を下げる。
「学園祭や体育祭などありますので、きっとこれからもいらして頂けるものと思っています。その折には、また」
すると、ええ、と女性は頷いた。もちろんよ、としてから更に続けられた。
「お励みなさいね。ごきげんよう」
優雅に、瀟洒に。
小笠原の清子さまをどこか髣髴とさせる仕草でしゃなりと微笑まれた女性は、そのまま正門を後にした。
行く方向、少し離れた場所に黒い大きな車が止まっている。
やはりというべきか、良いところの奥様だったのだろう。
くるりと踵を返し、志摩子は枯れ木の構える銀杏並木に目を馳せる。
冬の光景、生憎今は浸っているほど時間的余裕は無いのだけれど。
人気がないことを幸いに、志摩子は走り出した。
スカートのプリーツは乱れてしまうけれど、セーラーカラーはあまり翻らないように。
長いリリアン生活で体に染み付いた、息の切れにくい走り方で志摩子は駆ける。
寒風を頬で切って、乾燥した冷気を振り払って。
冬は深い、肌を刺す寒気がそれを声高に主張している。
けれど、走る志摩子の表情は晴れやかだった。
冬が深まれば、春が近付くということなのだから。
聖さまと出会った春。
乃梨子と出会った春。
そして、館に花咲く春。
幸せを待ち望む興奮を、冷気と一緒に与えてくれる。
志摩子は冬が好きだった。