それはいつもとなんの変わりもない、ある日の昼休みのこと。
「聞いてよ〜。今日寝坊しちゃってさ〜。時計見たら授業始まる10分前だったんだよ〜」
3年菊組の教室に響く、少女たちの話し声や笑い声。
「え〜、大丈夫だった?」
「うん、何とか間に合ったんだけど、2限目終わったあとの休み時間にさあ、
ちあきユーゲントのメンバーに呼び止められて怒られちゃった」
「えっ、ユーゲントに?だからそんな疲れた顔してたんだ…」
「…まったく、ただでさえちあきさまが今の紅薔薇さまになられてからマナーだ何だとうるさくなったっていうのに、
自分直属の組織使ってあれこれやるのって、私たちにしてみりゃちょっと辛いんだけど…」
うんうん、そうよね、なんて心の中でつぶやきながら、かわら版の原稿用紙に
目をやるのは、新聞部部長、神崎沙織。
(…でももう少し声小さくしてくれないかしら。記事考えてる最中なのよ)
沙織の心の叫びを、しかしクラスメートたちは聞いてはくれない。
「ねえ…例の噂、本当なの?ちあきさまを始めとするユーゲントのメンバーが、
同じフィニッシングスクールに通っているっていうのは」
「それは私も分からないけど…友達のお姉さんがそこに通ってて、背の高い髪の長い女の子がいるって言ってた…」
(え…?今、なんて言ったの?)
背の高い髪の長い女の子。
ユーゲントのメンバーと同じフィニッシングスクール。
一番の優等生。
フィニッシングスクールを除けば、これはリリアンでのちあきの姿と見事に符合する。
「実はフィニッシングスクールは表向きで、家事とかテーブルマナーのプロを養成する秘密組織だとか聞いたこともあるけど?」
「それって、『フィニッシング界のフリーメイソン』とか呼ばれている、あの場所のこと?」
「いや、あれは『フィニッシング界のナチス党』よ、きっと。
フリーメイソンだったらあんなに堂々と取り締まりやんないわよ」
なんか嘘と本当の境目がどこにあるのかまったく分からない話が聞こえてきた。
もしちあきがそんな所に通っているのが本当なら、これは大スクープだ。
しかしフリーメイソンやナチスが引き合いに出されるほどのフィニッシングスクールとは…。
沙織は詳しく話を聞いてみたくなった。
「よろしければ、分かる範囲内でいいから教えてくださらない?」
そして放課後。
異常なほどに浮かれる沙織の姿に、緒方貴子はあきれ返っていた。
「お姉さま…まさか、そのフィニッシングスクールに潜入取材しようなんて
おっしゃらないですよね?」
振り返った沙織の顔を見て、貴子は今の質問をすぐさま口の中に戻したい衝動にかられた。
「事件は部室で起こっているんじゃないわ!フィニッシングスクールで起こっているのよ!」
「またどこかで聞いたようなフレーズを…だいたいお姉さまのクラスの方々も、
少々口が軽いのではないですか?しかも事件なんかじゃありませんし」
「うふふ、持つべきものは口が軽いクラスメイトねvv」
妹のツッコミをきれいにスルーして、沙織は少々筋違いな感謝を同級生たちに捧げた。
教室でしゃべっていた3人によれば、そのスクールの名は「フィニッシングサロン・ルイザ」。
駅前に最近できた、小さいが洗練されたたたずまいの洋館がそうだ。
しかもこの手のスクールには珍しく、高校生向けのクラスがある。
ちあきユーゲントの面々はそのクラスに在籍しているが、一般向けと変わらない本格的な授業を行うのだそう。
さすがにそれ以上のことはクラスメイトたちも知らないようだったが、
そこを探り出すのが記者としての使命だと沙織は思っている。
「…分かりました。今回はご一緒させていただきます」
貴子に残された選択肢はそれしかなかった。
暴走特急どころか暴走飛行機な沙織を野放しにしておくと、
あとから火の粉をかぶるのは自分である。
「いいですかお姉さま、くれぐれも勝手なマネはなさらないで下さいね」
「分かってるわよ」
さっそうと部室を出てゆく姉を、妹は溜息をつきながら追いかけた。
「ここですね」
「ええ、確かにここだわ。『フィニッシングサロン・ルイザ』。
私たちはここの高校生クラスの見学に訪れた入学希望者ということにしてあるから、
きっと快く入れてくださるはずよ」
M駅から3分ほど歩いたところに、その美しい2階建ての建物はあった。
この手の建物にありがちな作り物っぽい感じはまったくなく、むしろ何十年も前から
そこにあったような、しっとりとした本物の風情が漂っている。
濃い茶色の重厚なドアは、どこかリリアンの薔薇の館を思わせる。
そのドアの上部には小さな取っ手らしきものがついている。
「なるほど、これでドアをノックしろということですね」
貴子はそういうと、その取っ手でドアを2回ノックした。
ややあって、ドアが開けられた。
「こんばんは。高校生クラスの見学に参りました、神崎と申しますが」
「こんばんは。ああ、神崎さんですね。そちらの方は?」
「あ、はい、私はお姉さ…もとい、先輩の付き添いで」
「それでは中へどうぞ。もうまもなく授業が始まりますから、
こちらでお待ちください」
受付の人が、サロンの1室へと案内してくれた。
教室の中には、自分たちと同じぐらいの女の子たちが、濃紺のシンプルなワンピースに
フリルのついたエプロンと、レースのヘッドドレスといういでたちで先生の登場を静かに待っている。
(うわ…メイドさんがいっぱい)
(アキバでもこんなにたくさんいませんよね)
メイドさんという存在は知っていたが、これほどたくさんの数を一気に見られるとは。
新聞部姉妹は改めて、世間の広さとメイドさんの認知度を思い知った。
「もうすぐ先生がいらっしゃいますよ」
話しかけてくれた生徒の1人の表情が、なぜか固いのを、沙織は見逃さなかった。
そしてその理由を、3分後にとんでもない形で知ることになる。
入ってきた『先生』の顔を見た2人は仰天した。
教壇の前にいるのはまぎれもなく、リリアン女学園高等部の紅薔薇さま、
佐伯ちあきその人だからである。
『ごきげんよう!ちあき先生!』
「声が小さいわね。やり直し!」
『ごきげんよう!ちあき先生!』
「よろしい」
確かにあの3人は言っていた。
ちあきを始めとするユーゲントのメンバーたちがここに通っていると。
でも『生徒』として通っているとは言っていなかった。
大スクープという思い込みで暴走した沙織の、大きなミスだった。
今目の前にいるちあきは、リリアンで見せる一生徒の顔ではない。
教師…否、『鬼軍曹』である。
「出席番号3番!真のエレガンスとは何か、答えなさい」
3番と呼ばれた生徒は直立不動、敬礼の姿勢のまま答えた。
「はい!真のエレガンスとは、決して人様に迷惑をかけぬこと!
周囲に不快な思いをさせないこと!いかなるときでも笑顔と優雅さを忘れないこと!
この3点であります!」
「よろしい」
(これのどこが『優雅』なのかしら…)
貴子は『優雅』という言葉の意味を、もう一度調べなおしたくなった。
これではまるで軍隊ではないか。
「では今日の授業に入ります。今日は和室の掃除の仕方です。
1分以内に着物に着替えて、3分以内に和室へ移動しなさい」
『ラジャー!』
それまでのメイド服からきっかり1分で着物に着替え、白い和風前掛けを身に付けた
生徒たちは、一糸乱れぬ歩調で2階の和室へと向かった。
あわててそれを追う沙織と貴子。
和室で繰り広げられた光景。
それはまさしく、嫁いびりそのものであった。
「1番!もっとはたきがけを手早く!」
右手にしなやかな鞭の一撃。
「はい!」
「4番!畳を掃くときは目に沿ってと言ったでしょう!」
「はい!」
「3番!雑巾はもっと固く絞る!」
「はい!」
ぴしっ、ぴしっと鞭の音が響く。
これはまずい。
こんなところにいたら命が危ない。
そう思った瞬間、新聞部姉妹は逃げられる隙をうかがい始めた。
もちろんちあきには知られないように…
「そこの2人!」
…知られない、ように、したはずだったのに…。
「「は、はいっ!!」」
ちあきは凄絶な笑みを浮かべて沙織たちに近づいた。
「今日見たものを記事にしたら…どうなるか分かるわね?」
「「は、はい、分かりました、記事には致しません!!」」
「それでよろしい。逃げるのは許されないわよ」
「「……」」
その後も板の間の磨き方が悪い、障子の桟にほこりがたまっていると、
あらゆる理由で鞭打ちの刑にあう生徒たちが続出した。
「さて、本日の授業はここまで」
生徒たちはまったく表情を変えずに声をそろえた。
『ありがとうございました!』
(あんなの記事にしたら殺されちゃうわよ…)
(確かに。鞭打ちくらいじゃ済みませんよね)
その後、リリアンかわら版には次のような見出しの記事が載った。
「昨今の風紀の乱れは目に余るものがある…紅薔薇さま大いに怒る」
当初予定していた記事とは大幅に内容、見出しともに違う記事であるが、
沙織たちはその理由を聞かれても頑なに口を閉ざすばかり。
「私たちだって命が惜しいのよ…」
貴子はようやくその一言だけを発した。
この直後から、ちあきユーゲントが校内を監視し始め、
遅刻早退その他諸々の校則違反に対して過酷な制裁が下ることになった…。