「乃梨とら」シリーズ第2部第8話です。
尚、作品中に微妙にマリみて本編「大きな扉 小さな鍵」に絡む表現が在ります。ネタばれとまでは行きませんが、できれば新刊を読了後に本作品をお読み下さい。
【No:2050】→【No:2051】→【No:2053】→【No:2054】→【No:2056】→【No:2059】→【No:2061】→コレです。
「 ごきげんよう 」
朝のさわやかな空気の中、リリアン特有の挨拶があちらこちらで交わされている。
「 ごきげんよう、白薔薇の蕾 」
「 ごきげんよう 」
白薔薇の蕾に挨拶を返してもらい、嬉しそうに立ち去る1年生。
それを見て、白薔薇の蕾と挨拶ができるのならと、傍にいた1年生達が我も我もと乃梨子へ群がり始める。
突然始まった「ごきげんよう」の嵐に半ばうんざりしていた乃梨子の前に、1年生達の列を割って現れた姿があった。
「 ごきげんよう、乃梨子さま 」
自分達の挨拶をさえぎるようにして発せられた声に、1年生達は一瞬ムっとした表情になったが、その声の主の姿を見て全員が気圧されたように押し黙る。
そこにいたのは、まさに深窓の姫君とでもいうべき少女だった。
腰まで伸びた風になびく美しい白金の髪。
南極の氷河を思わせる深いアイスブルーの瞳。
触れれば壊れてしまいそうなか細く白い手足。
150cmに満たない身長の彼女が感情を見せない顔で歩く姿は、まるで精巧なビスクドールが歩き出したかのようだった。
「 ごきげんよう 」
挨拶を返す乃梨子の嬉しそうな表情を見て、1年生達は、この生きたビスクドールが乃梨子にとって特別な存在なのだと悟る。
“ 綺麗な方ね ”
“ ホラ、あれが乃梨子さまの・・・ ”
“ ああ、あの方が・・・ ”
遠巻きなざわめきを気にも留めず、ふたりは穏やかな笑顔を浮かべながら歩み去ってゆく。
“ おふたりが並び立つと、本当に麗しいですわね ”
“ いったい、どんな会話をなされているのかしら? ”
歩み去るふたりをうっとりと眺めながら、1年生達は互いに囁き合う。
そんな羨望の視線を集めるふたりが、どんな会話をしているかというと・・・
「 朝からモテモテだな乃梨子さま 」
「 別にそういう訳じゃないわよ 」
「 朝から女の子に囲まれて嬉しいくせに 」
「 ふふふふふ・・・ 今度そんなことをほざいたら、その口捻り上げるわよ? 」
あくまでも優雅な微笑みのままで、額にくっきり青筋を立てる乃梨子。
「 だって菜々も言ってたもん。“下級生に挨拶を返す時の乃梨子さまはケダモノの目をしてる”って 」
「 ・・・・後でシメてやる 」
一見、穏やかに微笑み合いながら語らうふたりだったが、その会話の内容はこんなものだ。
とりあえず、何も知らないギャラリー達にはとらの本性を悟らせないようには出来ているので、「とら育成計画」は、可南子と乃梨子のタッグにより一応の成果を上げているようだった。
放課後の薔薇の館に、タン! タン! タン! と、軽やかな音が響いていた。
その音に気付き、乃梨子は静かに会議室の扉に歩み寄る。
そして、扉の前に無言で仁王立ちとなった。
軽やかな音が止み、扉の向こうに誰かが到着した気配が伝わってくる。
カチャ
「 ごきげんよ( びっす! )うぁ痛っ! 」
扉を開けたとらの第一声は、乃梨子のチョツプによって途中で封じられた。
「 何するの〜、扉だって静かに開いたのに〜 」
「 その前に、階段駆け上がったでしょう? それも、音から察するに一段飛ばしで。ダメよ気を抜いちゃ 」
乃梨子による打ち降ろしの脳天チョップに抗議するとらに、容赦無く教育的指導を入れる乃梨子。
「 だって・・・ 」
「 普段から気をつけておかないと、成果に結びつかないわよ? 」
「 う〜・・・ 解かりました 」
不服そうに脳天をさすりながらも素直に反省の言葉を言うとらに、乃梨子からやっと「 よろしい 」とお許しが出る。
乃梨子はとらに道を譲り、無言で部屋の中にいた人達への挨拶を促す。
とらは表情を消し静かに一歩踏み出すと、扉を開けた人間と同一人物とは思えない優雅さで挨拶をする。
「 ごきげんよう、皆様。今日は掃除が長引いてしまい、遅くなりました 」
『 ごきげんよう 』
部屋の中から、紅薔薇姉妹、黄薔薇姉妹、そして志摩子の5人分の挨拶が返ってきた。
「 もう、すっかりお嬢さまだね。 ここ一月の成果が出てるよ。やっぱり、可南子ちゃんと乃梨子ちゃんの体験談が見事に応用されてるのかな? 」
祐巳の賞賛の言葉に、とらはニっと微笑んでみせる。
「 祐巳さま、あまり甘やかさないで下さい。まだ気を抜くと“地”が出ますから 」
まだまだですと言いたげな乃梨子のセリフに、とらはしゅんとした顔になる。
当初、とらにリリアンでの所謂“御法度”を教え、何とかとらに周りとの折り合いを付けさせようと始められた可南子と乃梨子の“高等部編入組”によるリリアン初級講座。
それが、予想以上に良い成果をもたらしたことにより気を良くした乃梨子は、「それならば」と、とらを一気にリリアンにふさわしい本物のお嬢さまに仕立ててしまおうと、ここ一月頑張っていたのだった。
( そうよ、ここで気を抜く訳には行かないわ。とらを完全にお嬢さまに変身させることができれば、今後も問題無くリリアンで暮らせるんだから )
乃梨子はそう意気込み、とらを見つめた。
そんな乃梨子の意気込みを挫くように、ほのぼのとした声が聞こえてくる。
「 とらちゃん、ちょうど紅茶が入ったところだから、こっちへいらっしゃい 」
「 は〜い、志摩子さま 」
とらはトテトテと歩いて行き、手招きする志摩子の隣りへと座った。
「 志摩子さん、とらを甘やかしちゃダメだってば 」
「 あら、少しくらいは息抜きが必要ではなくて? 」
「 そうだけど・・・ 」
「 志摩子さま〜 乃梨子さまが怖い〜 」
とらはわざとらしく志摩子の影に隠れ、甘えて見せる。
それを見てムっとする乃梨子は、果たしてとらが言うことを聞かないのが腹立たしいのか。それとも、自分より上手く志摩子に甘えるとらが羨ましいのか。
「 とら! 私はアンタのために・・・ 」
「 あらあら、仲良くしなきゃダメよ? ホラとらちゃん、クッキーもあるわ。乃梨子もいっしょに食べましょう? 」
「 いただきま〜す 」
「 ・・・まったくもう! 」
薔薇の館でとらの教育が始まって一月。とらの立ち居振る舞いもだいぶお嬢さまらしくなってきていた。
その一月の間に、とらの周囲では微妙な人間関係の変化も起こっていた。
とらは相変わらず乃梨子にベッタリだったが、乃梨子に厳しく指導されちょっと拗ねた時、なんと志摩子に助けを求め、甘えるようになっていた。
志摩子も初めはどうして良いか判らずに、乃梨子ととらの間でオロオロしていたが、しばらくすると、なついてくる小さい子を可愛がるような気持ちになったらしく、甘えるとらを迎え入れるようになったのだ。
今ではすっかり“おばあちゃん”の立場で、とらに甘えさせている。
当初、とらの教育においては乃梨子が“飴”で志摩子が“鞭”という立場だったが、それが180°逆転してしまったことになる。
しかし乃梨子は「 とらの教育のためならば 」と、最近はあえて厳しく指導する立場を取っていた。
( ここで甘やかしたら、とらの今後のためにならないわ )
志摩子にもらったクッキーを無心で食べるとらを見て思わず和みそうになった乃梨子だが、「私がやらねば誰がやる」とばかりに自分に気合を入れ直す。
乃梨子は喉の渇きを覚え、水を一杯飲もうと流しへと向かった。
流しではちょうど、菜々が洗い物をしていた。
「 ・・・そう言えば、誰が下級生を見るときにケダモノの目になるって? 」
乃梨子は不意に朝方のとらとの会話を思い出し、ぐっと菜々の肩をつかみ低い声で問い詰める。
「 何のことでしょう? 」
にっこりと微笑みながらとぼける菜々に、乃梨子は「 コイツ、発言を録音でもされていない限り、都合の悪いことは絶対認めない気だな 」と悟る。
このままとぼけさせるのも悔しかった乃梨子は、去り際に菜々に一言釘を刺しておくことにした。
「 あんまり好き放題言ってると、由乃さまが恋愛小説にハマるように仕向けるわよ? 」
それを聞いた菜々の肩がビクっと震え、小さな声で「 そ、そんな恐ろしいことが現実に起こる訳が・・・ 」と呟く。
どうやら菜々には、自分がどうこうされるよりも、由乃が面白味の無い普通のお嬢さまになってしまうことのほうがこたえるようだ。
乃梨子は少しだけ気分を良くし、テーブルへと戻って行った。
水の入ったコップを手に席に着こうとした乃梨子の耳に、誰かの雑談する声が聞こえてくる。
「 まあ、今日は体育で徒競走を? 」
「 ええ、私が一等でしたの 」
「 健脚なのね。羨ましいわ 」
「 ありがとうございます 」
テーブルに戻った乃梨子を待ち受けていたのは、そんな感じの、ちょっとお上品な会話。
まあ、リリアンならば決しておかしくは無い会話だが、乃梨子は異次元に迷い込んだような衝撃を受けた。
( ・・・誰? この儚げな感じの美少女 )
会話自体はおかしく無い。おかしいのは、それを話している人物だ。
( えっと・・・ 由乃さま、よね? )
乃梨子に衝撃を与えたのは、その上品な会話がとらと由乃によるものだという事実だった。
とらはまだ判る。何せ、他ならぬ自分がそうするように躾たのだから。
それに、黄薔薇姉妹はとらの講師から速攻でクビにしたので、とらも由乃との付き合いがまだ浅く、由乃の本性とも言えるイケイケぶりにまだあまり触れていない。故に“この”由乃との会話も、特に気にせずできるのだろう。
だが、由乃のこの豹変ぶりは、いったい何事なのか?
世界の終わり?
ノストラダムスの予言って、今年だったっけ?
それとも、未知の病原菌? いやいや、実はあそこに座っているのは、由乃さまに成りすましたエイリアンだとか・・・
乃梨子はグルグルと渦巻く思考の中、呆然と由乃を見ていた。
「 あら乃梨子さん、どうかしまして? そんなに驚いた顔をなさって 」
由乃に“上品に”問い掛けられ、乃梨子は一瞬、言葉に詰まった。
「 えっと・・・ 由乃さま・・・ ですよね? 」
「 まあ、今更何をお聞きになるかと思えば・・・ 私の顔をお忘れになって? 」
「 いや、そうじゃなくて・・・ 」
儚げな微笑で問い返してくる由乃に、乃梨子はもうどうして良いものか判らず、冷や汗すら流しつつ彼女を見つめていた。
「 うふふふ、おかしな乃梨子さん 」
「 うふふふって・・・ 」
口元を手で隠しながら笑う由乃に、乃梨子が心の中で「 アンタ今までそんな笑い方したことないじゃん! 」と突っ込みを入れていると、その会話を後ろで黙って聞いていた菜々が由乃の隣りに座った。
菜々は座る瞬間、ぼそっと一言呟く。
「 ・・・きもちわるっ 」
「 なんですってぇ!! 」
菜々の呟きを聞いた瞬間、敵を威嚇する猫が「 シャー! 」と唸るような顔で、由乃が叫んだ。
( あ、由乃さま帰ってきた )
自分の知っている由乃の姿に、何となくほっとした乃梨子は思わず「 帰ってきた 」と感じる。
「 まったく・・・ 言うに事欠いて“きもちわるっ”って何よ! 」
まだ腹の虫が治まらないのか、ブツブツと菜々に文句を言い続ける由乃。菜々は珍しく「 だって・・・ 」と呟いた後、言いよどむ。
「 だって何? いくら菜々でも、事と次第によっちゃあ許さないわよ?! 」
「 だって・・・ 」
「 だいたい貴方は、もう少し姉を敬おうって気持ちを・・・ 」
「 だって私・・・いつものお姉さまが好きなんですもの 」
「 持ってもバチは当らな・・・ へ? 」
「 私の知っているお姉さまが、遠くにいってしまったような気がして、つい・・・ 」
「 菜々・・・ 」
照れた顔を見せたくないのか、菜々は由乃から顔を背けながら、もごもごと呟く。
「 もう。私は何処へも行ったりなんかしないわよ、仕方の無い子ね 」
由乃は妹の以外な一面を見たせいか、先程の怒りなど56億7千万年先の彼方へと蹴り飛ばし、嬉しそうに菜々の頭を自分の肩に抱き寄せた。
だが、幸せそうな由乃から発せられる甘ったるい空気が漂う中、乃梨子は見てしまった。
抱き寄せられた菜々の口元が、ニヤリと笑うのを。
( うわー・・・ 由乃さま、完全にコントロールされてるな )
密かに下克上の完了している黄薔薇姉妹に乃梨子が呆れていると、突然祐巳が「 懐かしいね 」などと言い始めた。
志摩子もそのセリフに「 そうね 」と同意するが、祐巳と志摩子のふたり以外には何の事か解からなかった。
「 お姉さま、何が懐かしいんですか? 」
瞳子の問いに、祐巳は「 あ、3年生にしか解からないか 」と言った後、説明を始める。
「 あのね、私達が1年生だった頃、由乃さんは心臓の病気のせいで体調がおもわしくなくて、何時も静かに生活していてね。ちょうど今みたいに儚げな美少女って感じだったの 」
『 嘘ぉ?! 』
「 ・・・・・・ある程度予想できたとは言え、やっぱりムカつくわー 」
思わずハモった乃梨子と瞳子を、由乃は半眼でジロリと睨む。
驚かなかったところを見ると、菜々は由乃からある程度聞いていたのだろう。
「 まあ良いわ。今の私とはまるで別人みたいだっていうのは、否定しないから 」
溜息をつき、由乃はコーヒーを一口啜った。
「 あの頃の由乃さんは心臓に負担を掛けられなかったから、感情を表に出すことすら控えていたのよ。だから、ちょうどさっきの会話みたいな話し方になっていたの 」
「 そうそう、令さまといっしょにベストスール賞を貰ったもの、由乃さんの“薄幸の美少女”って雰囲気が大きかったかもね 」
ふてくされる由乃をフォローしてか、志摩子と祐巳はかつての由乃の様子を語る。
「 本当に懐かしいわね 」
「 そうだね。志摩子さんと由乃さんが並んでるところに私なんかが入ったら、悪い意味で目立つとか思ったもん 」
「 でも、あの頃は色々と辛かったのよ? まあ、今はその分を取り返すほど楽しいけどね 」
「 あら、私はあの頃の由乃さんも好きよ? 」
「 だから、真顔でそういうこと言わないでってば志摩子さん! 」
「 あははは! 由乃さん、また顔赤くなってるよ? 」
「 五月蝿い! 」
昔を懐かしみ、3人で笑いあう薔薇さま達に、話に入って行けない蕾の3人は少しだけ羨ましげな視線を送っていた。
「 ところで、何故急にその・・・昔の話し方を? 」
瞳子は疑問に思ったことを、由乃に尋ねた。
「 ああ、それはね・・・ 」
由乃はちらりととらを見る。
「 とらちゃんを見ていたら、何となく昔の自分と重なってね。自分を抑えておしとやかに話さないといけないところとかね 」
由乃は、遠い日の自分を懐かしそうに思い出していた。
「 そう言えば私もあんな感じの話し方してたなぁとか思って、久々に猫を被ってみたって訳よ 」
自分語りをする由乃に、瞳子は思わず突っ込んだ。
「 ・・・ずいぶんと大きな猫ですこと 」
「 アンタが言うか?! 松平瞳子! 」
「 まあ! その言い方ではまるで、瞳子が猫を被っているみたいではないですか! 」
「 まるでって・・・ 自覚無いなら、いっぺん本気で病院行ったほうが良いわよ? 」
「 失礼な! 瞳子は猫なんて被ってません! 仮に瞳子が被っていると言うのならそう・・・ ガラスの仮面? 」
「 うっわ、臆面も無く良く言えるわねそんなセリフ。だいたいアンタが北島マヤってキャラか?! ガラスの仮面よりもむしろ、醜悪な素顔を隠すためのベネチアンマスクがお似合いよ!! 」
「 誰がオペラ座の怪人ですか!! そもそも、いくら心臓に病を抱えていたとはいえ、さっきのような儚げな由乃さまが実在していたなんて物理的にありえませんわ!! 」
「 なんだとぉ?! 物理的にありえないのはアンタのドリルみたいな髪だけでたくさんよ!! 」
やはり“キャラが被る”とノリも良いのか、突如始まった黄薔薇さまVS紅薔薇の蕾の突っ込み合戦に、館の中は笑いに包まれる。
だが、部屋を満たす笑い声の中で、胸の痛みを感じている人物がひとりいた。
その人物とは、とらに我慢をさせているという自覚があるために、由乃の「 自分を抑えて 」という言葉が胸に刺さった乃梨子だった。
だが、今やっていることは全てとらのためなのだと、乃梨子はもう一度自分に言い聞かせる。
( そうよ。とらがリリアンで暮らすためには、躾はどうしても必要なことなんだから )
今、とらは生まれて初めて、周りに溶け込むための努力を強いられている。
それは、今まで味わったことの無い苦痛かも知れない。
( とら。辛いかも知れないけど、もう少しだから一緒に頑張ろうね )
乃梨子はとらを見つめながら、セーラー服の上からロザリオを握り締める。
( もう少し。本当にもう少しで、リリアンのお嬢さま達に負けないおしとやかな貴方になれる。そうなれば、その時こそ・・・ )
ふたりの未来を想いつつ、乃梨子はとらに呼びかける。
「 さてと・・・ とら! 今日も始めましょうか? 」
「 ・・・・・・ 」
「 とら? 」
勢い良く言った乃梨子だったが、とらからの反応が無い。
「 とら、始めるわよ? 」
「 ・・・え? あ、はい! 」
何やらぼーっとしていたとらは、乃梨子の声に気付くと、慌てて返事をする。
「 もう。気を抜かないでって、さっきも言ったでしょう? 」
「 ごめんなさい・・・ 」
「 それじゃあ、始めましょうか 」
「 はい! 」
「 手は上げなくて良いってば 」
「 えへへへへ・・・ 」
乃梨子の指摘に苦笑いをするとらだったが、乃梨子はとらの笑いかたに何か違和感を感じる。
「 とら・・・ もしかして疲れてるの? 今日はやめておく? 」
「 大丈夫! 今日も頑張る! 」
「 本当に? 」
「 ホントホント! 何なら御聖堂の屋根まで・・・ 」
「 登らなくて良いから。・・・まあ、そんなに元気が余っているのなら、今日も始めるわよ 」
「 はーい 」
元気良く返事をするとらに、乃梨子はほっと息をつく。
そして、今日もとらのために勉強会が始まった。
翌週。ある晴れた日のお昼休み。
天気も良いし、たまには外で昼食をと思いぶらぶらと良い場所を探していた可南子は、芝生の上に珍しい組み合わせを見つけ、思わず近寄って行った。
「 珍しい組み合わせじゃない? 」
声を掛けられたほうは一瞬きょとんとした顔をしていたが、相手が可南子だと気付くとすぐに反論してきた。
「 友人同士がお昼を一緒に食べるのが、そんなに珍しい? 」
縦ロールを揺らしつつ反論する瞳子に、可南子はフッと笑った。
「 近頃の貴方が、祐巳さま以外の人とふたりでお昼を食べているのを見るのは、珍しいってことよ 」
「 それは・・・ 」
図星を指され、瞳子は黙ってしまう。
「 乃梨子、貴方もとらちゃんと一緒じゃないのね。最近は、志摩子さまと3人でいることが多いのに 」
珍しい組み合わせの相方、乃梨子に向かって、可南子は「 今日はどうしたの? 」と問いかける。
「 とらは午後の授業の教材の準備があるとかで、私とお昼食べてるヒマが無いんだって。志摩子さん・・・って言うか、薔薇さま達は、職員室で先生方と打ち合わせ 」
「 そう。隣り良い? 」
「 どうぞ 」
可南子は「 ありがとう 」と言いつつ芝生に座る。
隣りでは、瞳子がまだ「 姉妹が一緒にいて何が悪いんですの 」だの「 まだお姉さまと姉妹になって3ヶ月くらいなんだから、傍にいたいって思っても仕方ないじゃない 」だのとブツブツ呟いていが、可南子はすでに聞いちゃいなかった。
しばらくは3人とも無言で昼食を食べていたが、可南子は他のふたりが心ここに在らずと言った様子なのに気付く。
瞳子は祐巳のことでも考えているのだろうが、乃梨子は何か悩んでいるような気がした。
「 どうしたの? 乃梨子。 心ここに在らずって顔だけど 」
「 ・・・え? 」
乃梨子の反応の薄さに、「 これは重症ね 」と可南子は溜息をつく。
自分はこんなにお節介なキャラだったかしら? と思いながら、可南子は最近気になっていたことについて、あえて突っ込んだ質問をぶつけてみた。
「 乃梨子。とらちゃんにはいつロザリオを渡すの? 」
「 ・・・・・・・・・ 」
「 可南子。それは、貴方が口を出すべきことでは・・・ 」
瞳子が咎めるが、乃梨子は「 良いのよ 」と瞳子をなだめる。
「 私も迷ってるの。とらもだいぶおしとやかな振る舞いに慣れてきたし、そろそろかなとは思うんだけどね・・・ 」
セーラー服の上からロザリオを撫で、乃梨子は珍しく憂いに満ちた顔をして悩んでいる。
ロザリオを渡す時期について、私は何をこんなに迷っているのか。それは最近、乃梨子自身が自分に問いかけていることでもあった。
「 ・・・そういえばあの子、最近、前みたいに笑わなくなったわね 」
可南子の呟きに、乃梨子の箸を持つ手が止まる。
「 ・・・それは、勉強会の成果が出てきているってことよ 」
「 そうかしら? 」
「 そうよ。とらもやっとリリアン生らしくなってきたのよ 」
「 本当にそう思っているの? 」
「 可南子! 貴方、何が言いたいの?! 」
瞳子が再び可南子に噛み付く。今度は乃梨子も瞳子を止めなかった。
正直、もう昼食を取る雰囲気ではなくなっていた。
それでも可南子は、自分の思っていることを話すのを止めなかった。
「 あの子にスパルタ式で躾を施した私が言える立場ではないけどね・・・ 」
可南子はひとつ溜息をつくと、乃梨子の目を見て言う。
「 最近の貴方達を見ていると、少し焦りすぎなんじゃないかと思えるわ 」
「 ・・・どういう意味? 」
可南子の言葉に刺を感じ、乃梨子の表情が険しくなる。
「 あの子が前みたいに笑わなくなったのは、躾の成果ではなくて、あの子が無理をしているからじゃないの? 」
「 そんなことは・・・ 」
苦しげな顔で言いよどむ乃梨子を見ても、可南子の言葉は止まらない。
「 あの子、貴方のためなら、無理をしてでも貴方の望むような姿になろうとしているのではないの? 」
「 違う・・・ 」
「 貴方、あの子にロザリオを渡すと、これから先ずっとその鎖で縛り付けることになるような気がして迷っているのではないの? 」
「 違う! 」
可南子を睨み、乃梨子は声を荒げる。
「 とらには躾が必要だし、このロザリオはあの子の枷なんかじゃない! 」
珍しく激高する乃梨子を、可南子は何も言わず見つめる。
とらは、私のために無理をしているのだろうか?
私は、とらが望まない枷を押し付けようとしているのだろうか?
それは、薔薇の館で「自分を抑えて」という由乃の言葉を聞いた時から、乃梨子の頭の中から呪縛のように消えてくれない疑念だった。
「 ・・・決めた。今日の放課後、とらにロザリオを渡す 」
「 乃梨子?! 」
唐突な乃梨子の呟きに驚いた瞳子が「 可南子の言うことなんて気にしてはダメよ 」と言うが、乃梨子は「 もう決めたから 」とだけ答える。
「 そう。なら、私の講師の役目も終わりってことね。もうとらちゃんのことで薔薇の館に行くことも無いわね 」
可南子はそう言うと、静かにお弁当の包みを閉じ、立ち上がる。
「 ・・・私だって、乃梨子ととらちゃんに幸せになって欲しいと思っているのよ 」
去り際にそう言い残し、可南子はひとり立ち去って行った。
後には、無言で座るふたりがとり残される。
「 乃梨子 」
瞳子は乃梨子の手を取り、自分に引き寄せる。
「 貴方が私を信じて見守ってくれたように、私も貴方を信じて見守るわ。だから、自分の信じたままに進んでちょうだい 」
「 瞳子・・・ 」
乃梨子も瞳子の手を強く握り返す。
「 ふふふ、何時かの逆ね。私の手でお役に立てたかしら? 」
「 ありがとう。十分よ 」
瞳子の手のぬくもりが、乃梨子に勇気を与えてくれる。
そうだ、私は私の信じたように進もう。
乃梨子はセーラー服の上から、もう一度ロザリオを撫でた。
放課後、乃梨子は掃除を早めに終わらせると、曇り始めた空を見上げながら、とらの掃除当番の場所である校庭へと急いだ。
( 確か、とらの掃除エリアは銀杏並木の辺りだったはず )
自分の掃除を手早く終わらせた乃梨子は、走り出したいのをこらえ、できる限り急いでいた。
( 雨、降り出さないと良いなぁ )
そう思い先を急ぐ乃梨子に、声を掛けてくる者がいた。
「 お待ち下さい、白薔薇の蕾 」
それは、1年松組の餌付け3人組だった。
「 悪いけど急いでるの。後にしてくれない? 」
イライラとした様子の乃梨子に小雪と睦月は怯むが、沙耶花は構わず続けた。
「 3分で済みます。どうか私達の話しを聞いて下さい 」
何時もよりも何処か切羽詰った様子の沙耶花に、乃梨子は「 3分だけよ 」と言い足を止めた。
「 ありがとうございます 」
沙耶花は丁寧にお辞儀をし、話し始める。
「 実は、スヴェータさんのことなんです 」
「 とらのこと? 」
「 はい 」
最初は「私達の愛玩動物を返せ」みたいなことを言われるのかと思った乃梨子だったが、沙耶花の沈んだ表情にそうではないと気付き、「 とらがどうかしたの? 」と聞き返してみた。
何処か言い難そうな顔のまま、沙耶花は答える。
「 彼女・・・ 最近、前みたいに明るく笑わないんです 」
『 そう言えばあの子、最近、前みたいに笑わなくなったわね 』
乃梨子の中で、沙耶花の声と可南子の声が重なる。
沙耶花のセリフにドクンと心臓が跳ねたが、乃梨子は何とかそれを顔に出さずに済んだ。
嫌な予感が心の中で膨れ上がるが、乃梨子は沙耶花に続きを促す。
「 ・・・・・・それで? 」
「 最近、彼女から聞いたんです。乃梨子さまと離れたくないから、リリアンで生きる術を・・・ 私たちのような、生粋のリリアン生と同じように振舞える術を学んでいるのだと 」
「 なら解かるでしょう? とらが前みたいに笑わなくなったのは・・・ 」
「 『 勉強の成果が出ているから』・・・ ですか? 」
「 ・・・解かっているなら、今日は何故わざわざ私のところへ来たの? 」
嫌な予感は消えない。むしろ、沙耶花の言葉には、乃梨子を奈落へと突き落とす毒が含まれている気がした。
そう感じながらも、乃梨子は会話を打ち切ることができない。
「 前みたいに笑わないのは、勉強の成果が出てはしたない笑いかたをしなくなったからだ。むしろ誉めてくれ・・・って、スヴェータさんは笑いました。ですが・・・ 」
沙耶花は乃梨子を真っ直ぐに見据える。その瞳には、乃梨子に敵対する意志は見えず、むしろ乃梨子が傷つくのを恐れている心が見え隠れしている。
それと同時に、乃梨子が傷つくのを知りながらも、それでも言わねばならないとの決意が溢れている。
そして、沙耶花はきゅっと手を握り、乃梨子に告げる。
「 前は、あんなに寂しそうな笑い方なんてしたことは無かったんです 」
「 ・・・! 」
沙耶花の言葉は、痛みを伴なって乃梨子へと届いた。
乃梨子の心に、昼間可南子に言われた言葉が呼び起こした疑念が、再び湧き上がる。
今、自分がとらにしていることは、本当はとらのためにならないのではないかという疑念が。
「 ・・・・・・貴方に何が解かるの 」
「 おふたりの間のことだから、私には良く解かっていないのかも知れません・・・ 」
「 だったら・・・ 」
「 でも! 私にでも解かることが一つあります! 」
沙耶花は、乃梨子から目をそらさず告げる。
「 今のスヴェータさんは、無理をしています 」
『 あの子、貴方のためなら、無理をしてでも貴方の望むようになろうとしているのではないの? 』
再び重なる沙耶花と可南子の声。
返す言葉さえ失い、乃梨子は立ち尽くした。
『 とらちゃんを見ていたら、何となく昔の自分と重なってね。自分を抑えておしとやかに話さないといけないところとかね 』
由乃の言葉までもが、乃梨子の脳裏で渦を巻き始める。
私は、間違っているの?
とらは、こんなことは望んでいなかったと言うの?
自分に問い掛けてみても、答えは返ってこない。
沙耶花と目を合わすことすらできず、乃梨子は俯く。
「 乃梨子さま・・・ 」
「 ・・・何 」
自分の問い掛けに答える乃梨子の声のあまりの弱々しさに沙耶花は一瞬躊躇するが、何かに耐えるように拳を握り締め言葉をつなぐ。
「 今のままで、良いのですか? 」
「 ・・・・・・・・ 」
「 少なくとも私達のクラスは、多少の時間は掛かりましたが、ありのままのスヴェータさんを受け入れることができました 」
「 それは、何時も一緒にいる貴方達だからこそ、あの子の本質に・・・ あの子の真っ直ぐな心に気付けたということでしょう? 」
「 それは・・・ そうですが。でも・・・ 私達のように、他の人達もありのままの彼女を受け入れてくれるかも・・・ 」
「 今のままじゃダメなの! 」
乃梨子の叫び。初めて接する乃梨子の激情に、今度は沙耶花が立ちすくむ。
「 事実、あの子の素行について、山百合会でどうにかできないか? って、学校側から打診があったわ 」
「 学校側から? まさか・・・ 彼女を処分するなんてことは・・・ 」
「 そこまでは言われなかったわ。でも、今後もそうだとは言い切れない 」
「 そんな! スヴェータさんは悪い人では・・・ 」
沙耶花もまさか、とらが学校側から問題視されていたとは知らなかったらしく、かなり動揺している。
「 とらにそんなつもりは無くても、リリアンが許さないと言えば、とらのリリアンでの生活はそこで終わってしまう 」
ことの重大さを知り、今度は沙耶花が言葉を失う。
「 だから、誰かがあの子を導かなければならない 」
乃梨子は顔を上げ、沙耶花を見た。
「 そしてそれは、私の役目よ 」
あの子を導くのは、私しかいない。
いや。私以外の人にとらが導かれるなんて、私が耐えられない。
乃梨子の目は、他を拒絶する光りを宿していた。
「 3分・・・ 経ったよね 」
無言で立ち尽くす沙耶花達を置いて、乃梨子は歩き出す。
心の中で、「 私は間違ってなんかいない 」と、繰り返し呟きながら。
( そうよ、間違いなんかじゃない )
乃梨子は、一心不乱に銀杏並木を目指す。
( とらには私が必要なんだ )
わき目も振らず、銀杏並木を目指す。
( ・・・私にだって、とらが必要なんだ )
やがて、銀杏並木にたどり着いた乃梨子は、1本だけ混じる桜の樹の根元に立つ人影に気付いた。
「 ・・・とら 」
桜の花はすでに散っていたが、白金色の髪が、桜に負けないくらい美しく風に舞っていた。
「 とら 」
乃梨子は、すがるように桜の樹へと歩み寄る。
その時、とらが不意に桜の樹を見上げた。
「 あ・・・ 」
桜を見上げるその顔には何の表情も浮かんでいなかった。
乃梨子は思わず声を上げ立ち止まる。
見上げていたのは、初めて乃梨子と出会ったあの日、とらがいた枝のあたり。
花は散り、葉だけになってしまった枝を見上げ、とらは桜の樹にそっと触れる。
だが、ふるふると頭を振ると、触れていた手を離し、見つめていた枝からも視線を外し俯く。
まるで、檻の中から届かぬ空を見上げる鳥のように悲しげに。
( まさか、私の言いつけを守って・・・ )
『 無闇に高いところに登るの禁止! 』
( あんなふうに何時も、ひとりで耐えて・・・ )
『 普段から気をつけておかないと、成果に結びつかないわよ? 』
乃梨子は今、他ならぬ自分がとらに向かって言った言葉にさいなまれていた。
( 私が・・・ 私があの子を・・・ )
気だるそうに桜の樹に背を預け、寂しげな横顔を見せるとらの様子に、乃梨子はそれ以上とらに近付くことができなくなった。
自分には、今のとらの傍に近付く資格すら無いと思えた。
( 私があの子を、追い詰めていたんだ )
自由を失った横顔の寂しさに打ちのめされて、乃梨子は一歩も動けなくなる。
あんなに明るかったとらの寂しげな佇まいに、乃梨子の心は軋み悲鳴を上げる。
乃梨子は気づいてしまった。
あの子のためだと言う言葉を免罪符にあの子の自由を奪ったのは、間違い無く自分ではないかと。
「 あ、乃梨子さま! 」
とらは乃梨子に気付き、嬉しそうにこっちへ駆けてこようとしたが、慌てて急ブレーキを掛けると、苦笑いしながらゆっくりと歩き出した。
( あんな笑い方してたかな・・・ 初めて私の上に飛び降りてきた、あの日 )
乃梨子は、とらの笑顔の中にあの日の面影を探して。
( 私がさせちゃったのかな、あんな笑い方 )
でも、そこにはあの日の面影は見つからなくて。
( 私の・・・ せいなのかな )
歩み寄るとらに、笑い返すことすらできなくて。
( 私じゃあ・・・ ダメなのかな )
思わずセーラー服の上から触れたロザリオは、嘘みたいに冷たくて。
( 私・・・ )
「 どうしたの? 乃梨子さま 」
手を伸ばせば届くのに、吐息すらも聞こえるのに、乃梨子はとらに触れることすらできなかった。
( 私が、この子を縛った )
「 乃梨子さま? 」
何も返事をしない乃梨子に、とらは不思議そうな顔をして乃梨子を見上げる。
( 私が捕らえ、私が檻に入れ、私が牙を抜き、私が服従を強いた )
何時の間にか降り出した雨が顔を濡らすのにもかまわず、とらは乃梨子に問い掛ける。
「 ね〜、乃梨子さま。どうしたの? お腹痛いの? 」
不安そうなとらの顔を見ても、今の乃梨子にはとらの優しさが逆に辛かった。
( 私が・・・ 私がこの子の輝きを奪ったんだ! )
両手をきつく握り締め、乃梨子は立ち尽くす。
不意に、乃梨子の目に涙が溢れてきた。
「 どうしたの?! ホントに具合悪いの?! ねえ、乃梨子〜! 」
黙って涙を流す乃梨子に驚きすがりついてくるとらを、そっと抱きしめて乃梨子は言った。
「 もう、良いの 」
「 え? 」
「 もう、無理しなくても良いの 」
「 ・・・乃梨子? 」
何を言われているのか解からないといった顔で自分を見上げるとらをそっと離し、乃梨子はとらに笑ってみせる。
せめて笑顔で伝えようと、無理に笑ってみせる。
涙はまだ、流れ続けていたけれど。
「 とら。私は貴方が好き 」
涙を流しながら微笑む乃梨子を、とらは不安そうな顔で黙って見上げる。
「 でも・・・ 私といると、貴方は無理をする。私のためにと、無理に自分を押し殺す 」
とらは乃梨子の言葉に何かを感じ取り、慌てて言い募る。
「 私、大丈夫だよ? ほら! こんなに元気だし! 」
乃梨子の服の袖をつかみ、とらは笑って見せながら話し続ける。
まるで、黙ってしまったら、そこで何かが終わってしまうかのように。
「 私、良い子になるよ! ホントだよ! 」
「 とら 」
「 狩りもしないし、高いとこにも登らないから・・・ 」
「 とら・・・ 」
「 それから・・・ それから・・・・・・ 」
必死に言葉をつなごうとするのに、とらの唇は思うように動かない。
言葉にならなくなったとらの姿が心に痛くて、乃梨子は切なく微笑みながら囁く。
「 ・・・嘘つき 」
乃梨子の声の消え入りそうな儚さに、とらの目にも涙が浮かび始める。
乃梨子はそんなとらを見つめ、最後の言葉を伝えようと息を吸い込む。
「 ごめんね。 私といるときっと、貴方は貴方でなくなってしまうから 」
流れる涙でとらの姿は滲むけれど、乃梨子は真っ直ぐにとらを見て話そうと、滲む視界に愛しい白金色の輝きを見据える。
「 私といると、貴方の輝きが・・・ 消えてしまうから 」
最後まで伝えようと、乃梨子は震える声を無理矢理振り絞る。
「 だから・・・ 」
大切なこの子が、輝きを取り戻しますように。
乃梨子はそう願い、もう一度、そっととらを抱き締める。
「 だから、さよなら。とら 」
乃梨子は、とらの額に優しく口づけた。
優しい口づけなのに。
優しい抱擁なのに。
とらにはその優しさが逆に悲しくて、涙があふれ出す。
「 乃梨子ぉ・・・ 」
呼びかける声を振り切るように、乃梨子はとらを離し、背を向けて歩き出す。
「 乃梨子! 」
大切な人の声が、今は酷く痛い。
乃梨子は決して振り向かず歩き続けた。
「 乃梨子!! 」
大好きなあの人に届けと、とらは声の限りに叫ぶ。
でも、歩き続ける乃梨子の背は遠ざかるばかりで。
そして、とらはその背を見るうちに気づいてしまった。
届かないのは声じゃなくて、この想いなんだと。
気づいてしまったとらは、悲しくて、悲しくて、その場にうずくまって泣き出してしまう。
途切れた呼び声に、乃梨子は思わず振り返りそうになるのを必死でこらえ、尚も歩き続ける。
その唇は、「 ごめんね 」と繰り返し。
「 さよなら 」とも繰り返し。
やがて、その呟きすらも嗚咽に変わり。
降りそそぐ雨音に、嗚咽すらも飲み込まれ。
いつしか乃梨子は走り出していた。
迷子の子供のように、うずくまって泣きじゃくるとらを残して。
桜の樹の下で出会い、桜の樹の下で別れたふたり。
あの日、雪のように降りそそいだ花びらは、今はもう無い。
ただ、ふたりの涙に誘われたように、雨の雫だけが、銀杏並木に降りそそいでいた。
薔薇の館の窓に、雨の雫が流れ落ちる。
瞳子は物憂げに、その雫を目で追っていた。
「 どうしたの? 」
「 お姉さま・・・ 」
窓の傍にいた瞳子に寄り添った祐巳が「 ああ、雨か・・・ 」と呟く。
ふたりの記憶の中に、あの梅雨の頃の雨が降りそそぐ。
中途半端な優しさに負わされたあの日の傷は癒えても、あの日受けた痛みは、ふたりの心に今も残っていた。
「 ・・・やっぱり、思い出しちゃうね 」
「 ええ 」
「 あの日のおかげで得た物もあるのにね 」
「 ええ 」
それは、もう終わったこと。
でも、この時期の雨は、何処か物悲しい。
瞳子はそっと窓に触れた。
「 大丈夫 」
そう囁き、祐巳は瞳子の手に、そっと自分の手を重ねる。
「 大丈夫だよ 」
何が。とは言わない。
もう形すら失いかけた何かを振り切るように、祐巳は「 大丈夫 」と囁く。
自分の手で愛しい妹の手を包み込みながら、大切な妹の笑顔が見たくて「 大丈夫 」と囁く。
「 大丈夫・・・ ですよね 」
「 うん。大丈夫 」
絡み合う指の温もりと姉の言葉を信じ、瞳子も胸の内で「 大丈夫 」と呟いてみる。
窓の向こうに、親友の顔を思い浮かべながら。
雨は、激しさを増していた。