「江利ちゃん、ごめん!」
鳥居江利子が帰宅するなり、玄関先でガバチョと土下座しながら謝ったのは、鳥居家次男で、歯科医師の誠二(※1)だった。
話が全然見えないので、説明してもらうべくとりあえずは応接間に移動した江利子は、ソファに身を預け、神妙な顔の兄に目をやった。
「で、結局なんなの?」
江利子の目は、まったく興味がそそられているようには見えないのだが、それはまったくの誤解で、元々江利子は、普段からやる気のない(ように見える)目をしているだけだ。
ちなみにここには、二人だけでいるのではない。
いきなり江利子に謝りだした次男に対し、何事ならんと母以外の家族が、全員集合していたのだ。
「実は……」
「実は?」
「……怒らない?」
「……聞いてみないと分からないわ。でも、あんまりグズグズしていると怒るかもね」
「う、分かったよ江利ちゃん。実は……」
覚悟を決めたのか、江利子の目を見つめて、
「好きな娘が出来たんだ」
兄がはっきりと口にした言葉は、全員の度肝を抜いた。
「貴様、裏切るのか!?」
「見ろ、江利ちゃんは傷付いているぞ!」
「この浮気物め!」
「恥を知れ!?」
「静かにして」
『………』
口々に次男を非難する鳥居ファミリー(−2)を、たった一言で黙らせる江利子。
「で、どうして私に謝るわけ?」
「え?」
「恋愛なんて自由なのに、わざわざ私に報告する必要もなければ、謝る必要もないじゃない? まぁ、長いこと浮いた噂一つ無かったから、父さんや母さんには報告した方が良いんだろうとは思うけど」
実際のところ、兄達は妹想いがあまりにも激しくて、彼女を作ることもせず、江利子べったりなのだ。
しかも、趣味はと聞けば、江利子か仕事といったざまで、江利子を相手に出来ない時は、仕事道具いじりに余念がないという。
親の心配もさもありなんと言ったところだ。
もっとも父からすれば、江利子を奪い合う相手が減ってくれるのは、大いに望むところではあるのだが。
「なのに、わざわざ一番に私に言うということは……、ちょっと特殊な相手ってことね」
江利子が今お付き合いしている相手も、かなり特殊な部類に入る。
「相手は、どこの誰?」
俄然興味が湧いてきた、といった風情で、ずずいと身を乗り出す江利子。
「実は……」
「実は?」
「リリアン生なんだ」
流石の江利子も、これには仰天した。
「そんなわけで、協力してもらいたいのだけれど」
『はぁ……』
電話の向こうから聞こえる困惑の声は、江利子の妹(元妹?)支倉令のもの。
兄が言うには、かつて通っていた花寺学院の教師が彼の患者なので、近くまで来ていたついでに薬を届けた帰り道で、リリアン女学園から出て来た一人の生徒に、一目惚れしてしまったという。
元リリアン生で黄薔薇さまだった江利子だけなら敷地内に入ることも出来ようが、兄同伴では不可能だし、しかも相手の顔が分からないから自分だけでは探しようもない。
そこで、現役リリアン生である令に連絡し、協力を依頼しているのだ。
「ほら、毎年作る新入生リスト(※2)があるでしょ。今年と去年とその前の三年分、こっそり持ち出してもらいたいのよ」
『いえ、あれは校外持ち出し禁止だから、それは無理なのはご存知でしょう』
高等部に進級或いは入学すると、写真やプロフィール、更には簡単な自己アピールや高校生活における抱負などを載せたリストが作られる。
そしてそれには、当然ながら住所や氏名、生年月日などの個人情報も掲載されているため、万一を慮って持ち出し厳禁とされているのだ。
しかもこのリスト、学園長用と教職員用、そして生徒会用の三冊しか作られないので、無くなったとなれば、一発でバレる代物だった。
「そこをなんとか。兄を思う妹心、分かってもらいたいのよ」
『いえ、でも……』
「……令、何度も言わせないでね」
『う……、わ、分かりました。でも、条件があります』
「ええ、飲める条件であればいくらでも」
受話器の向こうで令は、おずおずと条件を切り出した。
「お邪魔します」
「お邪魔します」
日曜日、江利子と誠二の二人は、支倉家を訪れた。
令が提示した条件とは、リリアンに近い我が家までは持って来るので、そこで調べることにして欲しい、ということだった。
相手によっては、リストの内容を悪用する可能性があるが、今回見せる相手は、姉の実の兄(※3)なので、この上なく身元はハッキリしている故、その懸念はゼロと令は判断した。
「では早速」
令に手土産を渡し、挨拶を交わしたあとで、すぐさまリストをめくり始めた。
「ごめんなさいね令。無理なお願いしちゃって」
「いえ、お兄さんの気持ちも分かりますので」
恋愛小説が好きな令からすれば、『一目惚れ』は外せないシチュエーションの一つ。
それに、女子高生が正しい(かもしれない)恋愛を経験するのは、推奨するところでもある。
一生懸命ページをめくる兄を横目に見つつ、手持ち無沙汰の江利子と令は、それぞれ去年と今年のリストに目を通していた。
しばし無言で時間が過ぎる。
江利子は去年の、すなわち現二年生のリストをめくり、孫の島津由乃やその同僚の藤堂志摩子、福沢祐巳のページを見ていた。
「あら? ねぇ令、このページ、破れているわ」
「え? どこです?」
江利子が指し示すところは、ページの右上辺りだった。
「本当ですね。でも、破れているわけじゃないようですよ。ほら、ずいぶんと綺麗な状態ですから、おそらく製本の時点で、誤って裁断されたんじゃないかなと思います」
桃組のページでその生徒は、写真やアピールは残っているが、名前や住所の一部分は、ズッパリ抜け落ちていた。
『テニス部に入部して、インターハイ出場を目指したいと思います』との抱負だけが、彼女の唯一の主張のようだった。
「すまない江利ちゃん、そのリストを見せてもらえないかな」
現三年生のリストからは見つからなかったのだろう、次のリストに移る誠二。
江利子は、令や祥子のリストを見ながら微笑んでおり、令は、今年のリストを見ながら、志摩子の妹二条乃梨子や、助っ人として薔薇の館に出入りしていた松平瞳子、細川可南子のプロフィールを読んでいる。
しばらくして、去年のリストからも発見出来なかったのか、
「申し訳ない令さん。そっちのリストを……」
「あ、ハイどうぞ」
とうとう現一年生のリストに移行した。
去年のリストからも発見出来ないということは、残るは今年のリストのみ。
思わず、目を見合す江利子と令。
いくら恋愛は自由とは言え、曲りなりにも成人男性が15歳の少女と付き合うのは、問題があるとは思わないが、世間の目が気になるところではある。
このままで良いものかどうか考えつつも、やはり兄の良心を信用したい。
どちらともなく頷きあうと、そのまま再びリストに目を落とした。
夢中ですっかり忘れられ、冷たくなったお茶を、令が淹れなおしてきたその時。
「あった!?」
ページのある一点を指し、誠二が叫んだ。
「え? どれどれ?」
江利子は、令ともどもそのページを覗き込んだ。
そこには、大きな瞳に、勝気そうなアーチ型眉毛の上で髪を切り揃え、耳の上辺りでちょっと変わった形のツインテールといった髪型の少女が載っていた。
それを見た江利子は、令の腕を引っ掴むと、リストを抱きしめて恍惚の表情を浮かべた兄をそのままに、慌てて部屋から飛び出した。
「ちょっと見た?」
「ええ、まさかとは思いましたが……」
「ホントまさか、彼女のことだったなんて……」
「確か、あのお兄さんは、歯医者さんでしたよね」
「ええ。だから余計に“まさか”なのよ。ひょっとしたら……」
「したら?」
「顔じゃなくて、髪型に惚れたんじゃないかしらと、ちょっと嫌な気がしてきたわ」
「……あー、そう言われれば」
江利子を除けば仕事が趣味の兄は、道具いじりに余念が無い。
歯科医師の兄は、ファイルやリーマ、ドリル、バー、キャリア等、治療に使う器具に関しては、患者を第一に考えているため、もっとも品質の良い道具を選択している。
つまり、質が良いのなら、職業病とも言える拘りで、“ドリル”に気を取られても仕方がない。
「ああ、なんて素敵なドリルなんだ……」
『やっぱり……』
気を揉む二人を尻目に、夢見る少年のような瞳で兄は、某生徒の髪型を褒め称え続けていた。
「どうしましょう、紹介して良いものなのかしら?」
「さぁ……」
江利子と令は、困った顔のまま、考え込むことしか出来なかった。
※1:もちろん適当に付けた名前。次男だから「二」が付くという、実に安直な命名。
※2:多分、こんな物は存在しないが、別に新入生リストのような物はあると思う。
※3:姉妹関係に実の兄弟姉妹が関わると、非常に分かりにくい説明になるのは、マリみての欠点ですな。