【214】 もう一人の青い傘〜前編〜  (柊雅史 2005-07-13 02:46:54)


その傘に気付いたのは、本当に偶然だった。
「リリアン女学園……」
その柄に刻まれた懐かしい名称に、私の心が小さく脈動した。
シスターに頼まれた買い物を終え、最寄り駅に到着したその時に、音を立てて首から滑り落ちた銀のロザリオ。
私にとって、思い出のロザリオ。どこにでもある――それこそ、カトリック系の学園の購買部でも売っているようなロザリオだけれども、私にとっては何よりも大切で、神聖なロザリオだった。
慌ててしゃがみこんでロザリオを拾った私は、そこでたまたま、座席横の手すりに引っ掛けられていたその傘を視線に捉えていた。
私の下車駅はこの路線の終着駅。周りを見回しても、既に人影はなく――とりあえず駅員さんに渡すべきだろうと、私はその傘を手に取った。
その際に指先に触れた小さな違和感。マジックか何かで書かれた文字ならば、気付かなかったかもしれない。柄に傷をつけて刻まれたものだったから、気付くことの出来たその感触。
違和感に手元を確認した私は、そこに懐かしい名称を見出すこととなったのだ。
『リリアンじょがくえん ふくざわゆみ』
そう刻まれた青い傘。
見るからに使い込まれている様子で、ところどころに繕った形跡もある。持ち主がどれだけこの傘を大事に思っていたのかが、伝わってきた。
これもマリア様のお導きなのだろうか、と思う。
大事にしてきた思い出のロザリオが気付かせてくれた、青い傘。
私が記憶の底に沈めておいたものを、呼び覚ました青い傘。
マリア様は、この傘を通じて何を私に伝えようとしているのだろう――?
「……ここ、破れてる……」
大事に使われてきたであろうその傘に、小さな綻びを見つけ、私はそこをそっと指で撫でてみた。
小さな小さな綻び。
けれど『傘』の性質上、その綻びは大きな意味を持っていて、きっとこの時点でほとんどの人が新しい傘を買い換えてしまうに違いない。
けれどこの傘の持ち主は、そうではなかった。それは数箇所に見られる手作業での繕いの痕から容易に想像できる。
ちょっとくらい傷ついたからといって、それを簡単に捨てられる子ではないのだろう。
それを丹念に繕って、大事に出来る子なのだろう。
そう思うと、顔も知らない「ふくざわゆみ」という名のこの子のことが、とても愛しく感じられた。
「――傘も、思い出も、同じなのでしょうか」
ふと、そんな言葉が私の口をついて漏れる。
私の中に、小さな傷となって残っている記憶。
リリアン女学園で過ごした、一年足らずの大切で、それでいて悲しい記憶。
大好きな人と過ごした記憶。
そして大好きな人を傷つけてしまった記憶。
私は、その記憶を捨てようとしているのではないだろうか。
少し破けた傘を、簡単に捨ててしまう人のように。
「――そうかもしれないですね」
充実した新しい修道院での生活の中で忘れていた――忘れようとしていたことを思い出していた。
傘は破れても繕えば、こうして大事に使い続けることが出来る。
同じように悲しい思い出も、忘れることなく抱き続けることが出来るはずだ。
この青い傘にめぐり合わせて下さったマリア様は、私にそのことを教えようとして下さったのかもしれない。


私はその傘を修道院に持ち帰り、破れた箇所を丁寧に繕うことにした。
この傘が、ふくざわゆみさんのところへ戻った時に、ふくざわゆみさんがいつまでもこの傘を大事にしてくれるように。
この傘が彼女の元に戻ることを、私は全く疑っていなかった。ほんの少しの勇気を私に与えるために旅をしてきたこの傘の、本来あるべき場所は、ふくざわゆみさんのところなのだから。
翌日、傘を拾った駅のホームの、ゴミ箱横のベンチにその傘を置いて。私は修道院への帰路に着きながら考える。
戻ったら、手紙を書こう。
まだ繕いものの途中の私には、彼女に直接手紙を書く勇気はないけれど、優しかった学園長に手紙を書こう。
ふくざわゆみ、という名前に心当たりはありますか?
そして――私が傷つけてしまった、一番大切で大好きなあの人は、今どうしているでしょうか?


佐藤聖さまは、お元気でしょうか――?


一つ戻る   一つ進む