【2141】 小さな石に躓き倒れ裁かれる  (杏鴉 2007-01-25 15:29:52)


『藤堂さんに古手さんのセリフを言わせてみる』シリーズ

これは『ひぐらしのなく頃に』とのクロスオーバーとなっております。惨劇は起こらない……予定ですが、どうぞご注意を。

【No:2006】→【No:2025】→【No:2032】→【No:2038】→【No:2055】→【No:2087】→【No:2115】→【No:2125】→コレ





お姉さまと姉妹になってから……いや、なるすこし前から、胸を締めつけられるような、そんな苦しみにも似た感覚があった。
大好きで、大好きで、ずっとその姿を見つめていたい……そして私の事も見てほしいと思った。……おこがましいとは知りながら。
胸の締めつけは、時に痛みを覚えるほどだったけれど、やっぱり私はお姉さまが大好きで……。傍に居たい……そう思っていた。

ほんの数日前までの自分を振り返ってみると、今と同じように苦しみや、痛みを感じている自分がいた。
ただ、その種類はまったく違うものではあったが……。
あぁ、そうか……今頃分かった。…………私って幸せだったんだな……。


――火曜日――


私はお姉さまと瞳子ちゃんを避けるようになった。当然、薔薇の館にも行かない。
めずらしく教室でお弁当を広げる私を、クラスメートたちは不思議そうに見ていたが、誰も深く尋ねようとはしなかった。
今はそっとしておいてほしかったから、皆の対応がありがたい。
お弁当を食べ終えた後、なんとなく教室に居辛くなった私は、学園内をあてもなくぶらぶらと歩いていたが……。
困った……行く場所がない。ミルクホールはお昼時で混んでいるだろうし、薔薇の館は論外だし、温室は……行きたくない。
図書館にでもいこうかな、なんて考えていた時に築山三奈子さまに出くわした。
三奈子さまは私に哀しい姉妹の話をした。どうして今そんな話をするのかと、初めは嫌な気持ちにしかならなかった。
でも私の事を心配してくれているのが分かってしまって……私は何にも言えずに、ただ立ち尽くすしかできなかった。





放課後、志摩子さんが松組の教室に来た。大抵お昼休みや放課後に薔薇の館で会えるから、こんな風にわざわざお互いの教室を訪ねるなんて今までなかったのに。
きっと先週から私の様子がおかしい事に気付いて、会いに来てくれたのだろう。志摩子さんは普段ほわほわしているように見えて(たまに違う時もあるが……)本当は凄くしっかり者だから。
ひょっとすると昼休みに薔薇の館に行かなかったから、放課後もそのまま帰ってしまうと思われたのかもしれない。
できればそうしたいのはやまやまだけど、仕事をすっぽかすわけにはいかないから、ちゃんと行くのに……まぁ、正直来てくれて嬉しかったけど。
でも志摩子さんには申し訳ないけど、掃除当番なんだよなぁ……。

「祐巳さん、帰り支度はできていて? 一緒に薔薇の館へ行きましょう」
「ゴメンね志摩子さん。今日は掃除当番だから、先に行っていてくれる?」
「いいえ、違うわ」
「……え?……何が?」
「祐巳さんは掃除当番ではないわ」
「……へ?」

えぇと……志摩子さんは何を言っているのだろう……? 今日私が掃除当番というのは、松組で正式に決められた事なのですが……?

「あの、私本当に掃除当番なんだけど……? 心配しなくても、掃除が終わったらすぐに薔薇の館に行くよ?」
「心配なんてしていないわ。だって祐巳さんは私と一緒に薔薇の館へ行くんですもの」
「……………………」

天使のような微笑で、わけの分からない事を言うのはやめて下さい志摩子さん。
仕方がないので、さっきからチラチラとこちらを窺っている同じ担当区域の子に助けを求めた。

「ねぇ、今日って私掃除当番だよね? 間違ってないよね?」
「えぇ。確かに祐巳さんは今日掃除当番で…………ひいぃっ……!」
「えっ!? ど、どうしたのっ!?」

目の前で急に驚愕の表情になったその子に尋ねるが、彼女は顔面蒼白になって固まっていて、返事は返ってこない。
いったい何を見たんだろう……? そう思って振り返っても、そこには微笑みを浮かべた志摩子さんがいるだけで……。

「ねぇ、あなた。祐巳さんは今日掃除当番ではないわよね?」
「ひっ……!…………ハ、ハイ。祐巳サンハ今日掃除当番デハアリマセン」
「へ? あの……?」
「さぁ、薔薇の館へ行きましょう。祐巳さん」

ガタガタ震えながら、おかしなイントネーションで喋るその子と、決して私と目を合わせようとしない他のクラスメートたちをしり目に、志摩子さんは私を教室から引きずり出した。
なんだか見捨てられたような気がするのは気のせいだろうか……?

「あの……志摩子さん? さっき、あの子に何かしたの?」
「あら、何かってなぁに?」
「いや……あの……なんだか様子がおかしかったから……何かあったのかと……」
「きっと持病の癪でも起こしたんじゃないかしら?」
「…………そうだね」

もう、何も言うまい。というかこれ以上追及したら私の身が危ない気がする……。あの子には明日謝っておこう……。





薔薇の館には誰も居なかった。ひょっとしたら志摩子さんは、二人っきりで話す為に少々強引ともいえる方法で私を引っ張ってきたのかもしれない。
志摩子さんの淹れてくれた紅茶をしばらく無言で飲んでいたが、やがて私は意を決して尋ねた。

「ねぇ、志摩子さん?……志摩子さんは私より先に山百合会に出入りしていたから、私よりいろんな事に詳しいよね?」
「どうかしら? 確かに出入りはしていたけれど、最初はお手伝いという扱いだったし……」
「……じゃあ、花寺とリリアンの合併の話は知っている?」
「祥子さまから聞いたの?」

あぁ、やっぱり知っているんだ……。
志摩子さんの言葉を聞いた瞬間、胸がチクリと痛んだ。

「……先週、記念碑を見つけて……それでね」
「そう……」

なんとなく、蓉子さまの名前を出すのはマズイ気がして言葉を濁したが、このやり取りだけで志摩子さんは、土曜日に私とお姉さまの様子がおかしかった理由に思い当たったようだ。
どうしよう……? もっと志摩子さんにいろいろ尋ねてみようか……?
お姉さまに頼れないこの状況で、私がもっとも信頼しているのは親友である志摩子さんだ。志摩子さんならきっと私の力になってくれる。助けてくれる。そう信じて……いや、信じたかったのだ。
お姉さまとの関係がおかしくなってきている今、私は私を庇護してくれる人間を欲していた……。

「志摩子さん……連続姉妹失踪事件って知ってる?」
「……………………」
「あのね。去年、黄薔薇のつぼみである令さまと、その妹が転校しちゃったのって「祐巳さん」」

少し興奮気味に喋っていた私の言葉を、志摩子さんの静かな声がそっと遮る。

「……え? な、何?」
「祐巳さん。私ね、世の中には知らなくてもいい事ってあると思うの」
「……………………え?」
「紅茶のおかわり淹れるわね」

あれ……? 志摩子さん……? それって……どういう意味……?
いつもとまったく変わらぬ優雅な仕草で紅茶を淹れる志摩子さんを、私はエイリアンでも見るような目で見つめた。
まるでドライアイスを食べさせられたかのように、私の中は冷え冷えとしていた。芯から冷えている筈なのに、さっきから嫌な汗がじっとりと滲んできて、制服を湿らせつづけている。
志摩子さんはすべてを知っている……? 知ったうえで容認している……? そ、そんなまさか……。いや、でもさっきのセリフはどう考えても、何か知っている人のセリフだ。
……なんで? なんで私だけ何も知らないのよ……?
こんな時に……いや、こんな時だからこそ私は、大好きな姉と大切な親友に仲間外れにされていた事実が、無性に悲しかった。
どうしてお姉さまは私に何も話して下さらないのか……? そんなに私は信用されていないのだろうか……? 
もしも蓉子さまに聞かされる前に、お姉さまが打ち明けていてくれたら……私はたぶん……お姉さまの味方をしていただろう……。
私は蓉子さまとは違う。たとえ妹であろうと、良くないことをしたら正す、という蓉子さまの姿勢は立派だと思うし、尊敬している。
でも……。もう二度としない、そう言われたら……きっと私は全力でお姉さまを護っただろう。
蓉子さまだって祥子さまのことが大好きだ。だからこれは愛情量の差ではない。質の違いなのだ。そんなふうに考えている私だからこそ、この現状が悲しくて悲しくて仕方がなかった。

どうしてですか……? お姉さま……?


――ガチャ。


「ごきげんよう」
「ごきげんよう乃梨子。ちょうど紅茶を淹れたところなの。運ぶのを手伝ってくれるかしら?」
「はい。今行きます」

普段ポーカーフェイスな乃梨子ちゃんが、とても嬉しそうに笑っている。
本当に志摩子さんが好きなんだなぁ……いいな……。
……ん? あ、そうだ。乃梨子ちゃん……。今年リリアンに入学してきた乃梨子ちゃんは? 私と同じように何も知らないんじゃ……?
私は鞄を置いて、いそいそと志摩子さんのもとへ行こうとしている乃梨子ちゃんの腕を掴んだ。

「わ!?……どうなさったんです? 祐巳さま?」
「乃梨子ちゃん。乃梨子ちゃんはあそこに建っている記念碑を知っている?」

私はビックリしている乃梨子ちゃんを右手で掴んだまま、左手で記念碑のある方向を指さし、早口でまくし立てた。

「記念碑……ですか?……あぁ、あの人目につかない所に建っている石碑のことですか? 確か花寺学園との合併話が流れた記念に建てたんでしたっけ?」

……なんで知ってるの乃梨子ちゃん? 外部から入学してきた乃梨子ちゃんが知っているのに……ほんの二ヶ月前に、リリアンに来た乃梨子ちゃんですら知っているのに…………なんで?……なんで私だけがっ!?

私だけが除け者だった……。

「祐巳さん落ち着いて。……それと乃梨子を放してあげて、痛がっているわ」
「ねぇ、志摩子さん。なんで? なんで私だけ仲間外れにするの?」
「それは誤解よ、祐巳さん。誰もあなたを仲間外れになんてしていないわ」
「……………………」

志摩子さんの優しく諭すような声に、腕の力がするすると抜けていく。私から解放された乃梨子ちゃんが、志摩子さんに縋り付いている。乃梨子ちゃんの怯えた視線が痛い……。

「大丈夫よ祐巳さん。ちょっとした行き違いがあっただけなんだから。乃梨子も今はビックリしてしまっているけれど、すぐに落ち着くから。だから大丈夫よ」

志摩子さんの言葉に泣きそうになる。微笑んで手を差し伸べている志摩子さんは、全身で狢臂翩廚世茘瓩辰読修靴討い襪茲Δ妨えて……私は乃梨子ちゃんさえ許してくれるなら、彼女と一緒に志摩子さんに縋り付きたい気持ちでいっぱいだった。
そんな私の気持ちを読み取ったのか、志摩子さんはそっと私の頭をなでて、自分の方へと引き寄せた。そうなると志摩子さんにくっ付いたままだった乃梨子ちゃんと、急接近してしまうわけで……さっきの怯えた視線が胸に刺さっている私は、身体を固くした。
けれど乃梨子ちゃんは、もう落ち着きを取り戻したようで、私が近づいても怯えたりしなかった。ただ、慣れない状況にとまどっているようで、オロオロしている様子がなんだか可愛らしい。そんな乃梨子ちゃんを見ていると、どうしようもなく罪悪感が沸き上がってきて「さっきはゴメンね」と、そう素直に言えた。

「大丈夫。大丈夫なのですよ」

志摩子さんは私と乃梨子ちゃんの頭をなでながら、ゆっくりと、囁くようにそう言った。
強張った身体から余計な力が抜けていく……。なんだか気持ちも落ち着いてきたみたいだ……もう少しだけ、このままでいさせてもらおう。
…………お姉さまと、ちゃんと話をしてみようかな……?
私が目を閉じて、そんな事を考えていると、頭をなでていた志摩子さんの手が不意にピタリと止まった。どうかしたのかと志摩子さんを見上げようとしたら、同じように不思議そうに顔を上げる乃梨子ちゃんと目が合った。お互いちょっとテレながら志摩子さんに顔を向ける。すると志摩子さんは私たちの方は見ておらず、困った顔で前を向いていた。
何を見ているんだろうと思い振り返ると、そこにはビスケット扉に手をかけたまま、こちらを睨みつけているお姉さまがいた……。
あわてて身を離したが、お姉さまの冷たい視線の温度が上がることはなかった。

「祥子さまこれは――」
「志摩子。無駄口をたたく暇があるなら、仕事をなさい」
「紅薔薇さま。そういう言い方はないんじゃないですか? 志摩子さんは――」
「また犹嵋犹劼気鶚瓩辰童世辰燭錣諭 まったく……あれほどお姉さま、もしくは志摩子さまと呼びなさいと言っているのに。志摩子、あなた妹にどういう教育をしているの?」
「……やめて下さいお姉さま。お姉さまが腹を立てているのは私でしょう? どうして直接私を怒らないんですか……?」
「…………もういいわ。さっさと仕事を始めるわよ」
「待って下さい。お姉さまにお話があるんです」

今、話し合わないと……これ以上お姉さまとの距離が離れたら私……。

「もういいと言っているでしょう? 早くお座りなさい」
「お姉さま話を聞いて下さい。……お願いです」
「……私はあなたと話す事なんてないわ」
「っ……!」

私は薔薇の館を飛び出した。駆け出した後ろで志摩子さんと乃梨子ちゃんが私の名を呼んでいたが、振り返らずに走った。
……お姉さまの声は聞こえなかった。
どれくらいの時間が経っただろう……私は学園内を彷徨い歩き、気付けば記念碑の前に立っていた。
この間はろくに見れなかったので、今日は書かれている文字を読んでみる。
前半は計画を立案した人への恨み言が延々と続いていたので、さらっと読み飛ばして後半だけちゃんと読んでみた。


平成**年 *月*日

恐るべき、リリアン女学園と花寺学園の合併・共学化計画は撤回された。
生徒及び教師からシスターにいたるまで、すべてのリリアン女学園を愛する人間が、この撤回は自らの団結の崇高な力によってなされた事を理解している。
すでにリリアン女学園死守同盟はその役割を終え、解散しているが、そこで育まれた団結の炎は消えていない。
リリアンを愛する者の心にこの炎が灯りつづけるかぎり、再び学園が災厄に見舞われる事は断じてありえないのである。

リリアン女学園死守同盟会長 小笠原祥子書


……私なんでこんなモノ見つけちゃったんだろ?
心の底からそう思いながら、無駄に達筆な文字を指でなぞる。石に彫られた、ただの文字なのに……どうしてこんなに切なくなるんだろう?
……もう帰ろう。あれからだいぶ時間が経っているみたいだから、もう薔薇の館には誰もいないだろう……。
私は薔薇の館に置いてきてしまった鞄を取りに戻ることにした。

「お待ち下さい。祐巳さま」

薔薇の館に向かう途中、凛とした声に呼び止められた。……この声は……間違いない。

「……瞳子ちゃん」

参った……この落ち込んでいる時に、お姉さまの次に会いたくない人が現れるとは……。
私の思いなどお構いなしに、瞳子ちゃんはずんずん私に近づいてきた。
形の良い眉毛が今は豪快に顰められている。よっぽど機嫌が悪いらしい……。

「祐巳さま。あなたはいったい何を考えているのですか!? 祥子お姉さまを傷つけて……それでよく妹と言えますわね!?」

私がお姉さまを傷つけた……? 何を言っているのだ瞳子ちゃんは……? まるで話が逆じゃないか……。

「なんとか仰ったらどうなんですの!?」
「お姉さまが傷ついているって、どういうこと……?」
「……自覚すらないなんて、呆れて物も言えませんわね……! やっぱり祐巳さまは、祥子お姉さまには相応しくありませんわ」
「な、なんで瞳子ちゃんにそんなこと言われなくちゃいけないの? 瞳子ちゃんには関係ないじゃない!……それに、お姉さまに隠し事されて傷ついてるのは私の方なんだよ!?」

その瞬間……瞳子ちゃんの顔から一切の表情が消えた……。

「……では祐巳さまは、祥子お姉さまに隠している事は、何もないと仰るのですか?」

抑揚のまるでない声で私に詰問する瞳子ちゃんは、いつもの可愛さをふりまいているような彼女とは別人だった……。
な、何……? 瞳子ちゃんのこの目は……? 何もかも見透かしているような、この目は何!?……まさか蓉子さまと会っていた事を知っている……? いや、まさかそんな筈ない。だってあのお店はかなり郊外だし、瞳子ちゃんが入るような店でもない。

「どうなんです? 祐巳さま?」

そう言いながら瞳子ちゃんは一歩、私に近づいてきた。私は思わず後ずさったが、距離をとられる事を嫌ってか、瞳子ちゃんは私が後退した分だけ歩みを進めた。
……恐い……違う、これは違う……いつもの瞳子ちゃんじゃない……まるで何かにとり憑かれているような…………何かって……なに……?

「さぁ、どうなんですの? 祐巳さま?」
「…………な、ないよ! 私には隠し事なん「嘘ですわっ!!!!」」

鼓膜を突き破るような怒声……恐ろしい表情……瞳子ちゃんのあまりの迫力に、私は膝がガクガクと震えてその場にへたり込んでしまった……。

「ほら、祐巳さまにも隠し事がございますでしょう? 誰にだって隠し事の一つや二つ、あるのがあたりまえなんですのよ」

そう言った瞳子ちゃんは、もういつもの瞳子ちゃんに戻っていたけれど……私は座り込んだまま、その場を動く事ができなかった。
瞳子ちゃんがどこかに行ってしまった後も、身体の震えはなかなか止まってくれず、私は自分をきつく抱きしめた。
……なんだったんだアレは?……恐い恐いまだ恐い……あんなのいつもの…………いつもの? いつもの瞳子ちゃんってなんだろう……? よく考えたら私……瞳子ちゃんの事、何も知らないや……アハハ。
私は得体の知れないモノに対する恐怖を、なんとかごまかそうとした……。
瞳子ちゃんが牴燭瓩砲箸袒瓩れたと考えるより、元々ああいう人だったと思うほうが、恐くないから……。

「……家に帰ろう」

家に帰れば優しい両親がいる。ちょっと生意気だけど、いつも私の事を心配してくれる祐麒もいる。……だから早く帰ろう。
薔薇の館には、もう誰もいなかった。
会いたくないと思いながらも、それでもひょっとしたら、待っていてくれてるんじゃないか……なんて期待していた自分がいたりする。
なんて身勝手なんだろう……自分で自分が嫌になる。





とぼとぼ帰る家路は、いつもより遥かに遠く感じられて……私は幾度目かの溜め息をもらす。
「はぁ……」ここを曲がればやっと家が見える……長かったなぁ。
角を曲がってすぐに、何かを踏んだ。立ち止まって足元を見てみると、どうやら小石を踏んづけただけのようで、大した事はなかった。
……良かった。犬のフンとかじゃなくて。
私がその場でほっと一息ついていると、後ろからやって来た男の人が私の姿を見て「ぅわっ!?」と声を上げて驚いた。
その声に驚いて私も「ひぇっ!?」と変な声を出してしまった。お嬢さま学校に通う者として、この悲鳴はどうだろう?……と我ながら少し切なくなった。

「し、失礼……」
「……いえ、こちらこそ」

その男の人はそれだけ言うと、顔をそむけるようにして足早に行ってしまった。
悲鳴を上げてしまったのが恥ずかしかったのかな……? それにしてもあんなに驚かなくてもいいのに……でも曲がってすぐの所で立ち止まっていた私も悪いか。……あれ? そういえばさっきの人……なんだかどこかで見たような気が……?
ぼーっとその場で突っ立って考えていた私は、急ぎ足で角を曲がって来た人とぶつかりそうになった。

「わぁっ!」
「あ! すいませんっ!」

ダメだ! こんな所で立ち止まっていたら危ない! さっきの経験まったく活かせてないよ私!

「あぁ! 祐巳ちゃん! 良かった……」
「へ?……あ、山本さん」

よく見たら、お向かいの山本さんだった。良かった……怖いお兄さんとかじゃなくて。

「ごきげんよ……じゃなくて、お帰りなさい。山本さん」
「あぁ、ただいま。祐巳ちゃん。」

山本さんは挨拶を返しながら、何故か辺りをキョロキョロと窺っていて、なんだか怪しいオジサンに見える。

「あの……どうかしたんですか?」
「あ、いや実は、しばらく前から祐巳ちゃんの後ろを歩いていたんだけどね……」
「え? そうだったんですか? じゃあ、声をかけてくれればよかったのに」
「後ろっていっても、わりと離れていたんだよ。ほら、祐巳ちゃんは遠くにいても分かるから」

まぁ、この辺りでリリアンの制服を着て、ツインテールをしているのは私くらいですからね。

「それで帰る方向が一緒だから、祐巳ちゃんの事、見るともなく見ながら歩いていたら、変な男がいるのに気付いてね……」
「……変な男?」
「あぁ。ずっと祐巳ちゃんの後ろをついていくんだよ。まるで尾行でもしているように」
「え……? で、でもそれって山本さんと同じように、方向が一緒だからじゃ……?」
「うん。初めはそうなのかな、とも思ったんだけど……それにしては祐巳ちゃんが信号待ちをしている時に、近づかないようにしてたりして、どうも変だったんだよ。だから何かあったら大変だと思って、急いで追いかけてきたんだ」
「……………………」
「あ、でも今見たらいなくなってたし、おじさんの勘違いかもしれないから……。ゴメンよ。なんだか不安にさせるような事言っちゃって」
「いえ、心配してくれてありがとうございます」

私はなんとか笑顔を作りながら、お礼を言った。ちゃんと笑えていたかどうかは微妙だったが……。
山本さんと別れた後、玄関に入った私はすぐに鍵をかけて、確実に閉まっているかどうか、何度も何度も確かめた。

……勘違いじゃないよ、山本さん。
曲がり角で出くわした人……あの人はぶつかりそうになったから驚いたんじゃない……私と鉢合わせちゃったから驚いたんだ。
どこで見たかやっと思い出した……あの人、M駅に行くバスの中にいた……。
ということはリリアンを出た時からずっと私の後をつけていた……? 何故? 何のために……?

その時……私は頭を思いきり殴りつけられたような衝撃と共に、一つの単語を思い出した……。


狹捷鮫


「私も狹捷鮫瓩気擦蕕譴襪痢帖帖」



一つ戻る   一つ進む