【No:2162】【No:2165】『後味が悪いシリーズ』※一部暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意ください。
翌朝。
最近夜遅く、朝も遅い菫子さんに「行ってきます」と声をかけ、乃梨子は家を出た。
そしてエレベータで降りて、マンションのエントランスから出たところで、
「乃梨子ちゃん」
聞き覚えのある、でもこの場所では初めての聞く声を聞いた。
「え? ……祐巳さま?」
「ごきげんよう。いい朝だね?」
良く晴れた空の下、祐巳さまは朗らかに微笑んでいた。
「ど、どうして祐巳さまが居るんですか?」
「え? えっと、その……」
乃梨子の疑いの目に祐巳さまはうろたえていた。
「ほ、ほら、昨日話が途中だったし、なんか乃梨子ちゃん不安そうだったからね……」
「それで、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」
「そうなのよ」
あからさまに怪しかった。
どういうこと?
昨日の様子では、聖さまが何かいろいろ調べていることを、祐巳さまは知らないようだった。
でも、だとすると、何でここに?
朝っぱらから祐巳さまが乃梨子の家の前に居なければならない理由ってなに?
――監視。
すぐにその言葉が浮かんだ。
でも誰が?
警察と繋がってる聖さまに仲間外れにされ、それでも乃梨子を監視するとしたら答えは一つ。
背後にいるのは『藤堂本家』だ。
「さ、早く行こう?」
「は、はい」
でも、監視するって事は、今すぐに消そうとか考えていないってこと?
それとも――。
祐巳さまと駅までの道を歩きながら乃梨子は言った。
「祐巳さまは、ご存知なんですか?」
「ん? 何のこと?」
「志摩子さんの家のこと」
「うん、実はお寺だってことを、初めて聞いたのは令さまからだったかな?」
「祐巳さま……」
ここでボケるか? 普通。
「な、なあに?」
祐巳さまの笑いは引きつっていた。
「……わざとですね?」
「わ、判っちゃった? ちょっと緊張をほぐそうと思ったのよ。なんか乃梨子ちゃん笑ってくれないから」
「仏頂面はもともとです」
「怒らないでよ……」
話す気があるのか無いのか?
流石、次期紅薔薇さまか。その意図は今ひとつ読めなかった。
でも、今ので判った。
祐巳さまがここに来たのは『心配だから』なんて単純な理由ではない。
何らかの使命をおびて乃梨子の前に現れたのだ。
やがて駅に近づいて、同じ方向に歩いて行く通勤通学の人々が目に入ってきた。
祐巳さまは言った。
「志摩子さんさ……今、大変なんだよね」
「『藤堂本家』のことですか?」
「うん……」
「やっぱりご存知だったんですね?」
「うん。黙っててごめん」
「いいえ、祐巳さまに聞いたのは今が初めてですから」
「私も最初聞いた時はびっくりしたんだよ。志摩子さんが次期頭首だなんて」
何処まで知っているのだろう?
志摩子さんが頭首代行を務めていることや、本家が裏のやくざ屋さんと言われてることまで判ってるのだろうか?
いや、そんな感じではない。
ということは、利用されて?
「……祐巳さま。誰に言われてここに来ましたか?」
「え? 私は……」
「祐巳さまが一人で思いついて私の家まで来たなんて、私に信じろとか言うんじゃないでしょうね?」
「え、ええと」
「口止めされてますか?」
「ううん、なんで口止めなんてしなきゃいけないの? 言われたのは令さまだよ」
令さま?
「祥子さまじゃないんですか?」
祐巳さまが言うことを聞くとしたら祥子さまだから、最初そう思ったのだ。
でも、その答えを聞いて確信した。
令さまの家は、『小寓寺の檀家』だ。
聖さまの話からすれば、小寓寺は間違いなく藤堂本家の配下にある。
小寓寺の檀家の一部、あるいはその多くは藤堂のコントロール下だろう。
それは、魅祓神社の伝説や祟りの噂が小寓寺の檀家に広まっていることを考えれば容易に想像がつく。それらは宗教的脅しとして作用するのだ。
そう考えれば、昨日の田中姉妹が乃梨子の名前を聞いてあんな反応をしたことも説明が付く。
そして今日、令さまに言われて祐巳さまがここに居る。
つまり、この祐巳さまも藤堂本家の尖兵ってことだ。
祐巳さまはそんな様子も見せずに言った。
「勿論、祥子さまも知ってるけど……『乃梨子ちゃんの側に居てあげて』って言ってくれたのは令さまなんだよ」
乃梨子は立ち止まって言った。
「……大きなお世話ですね」
乃梨子に遅れて、数歩歩いてから立ち止まり、祐巳さまは振り返った。
「乃梨子ちゃん?」
「大方、逃げ出さずにちゃんと学校に向かうように仕向けたってところでしょうけど」
「え? 仕向けたって?」
「祐巳さまは利用されてるんですよ。いいえ、もしかしたら自覚してますか? 私の監視役ってことを」
それを聞いた祐巳さまは、困惑の表情を浮かべた。
「わたし、乃梨子ちゃんの言ってることが判らないよ。利用されてるって? 監視役って何のこと?」
「自覚は無いようですね。ならば教えてあげます。私は藤堂家に狙われているんですよ。令さまは藤堂本家の意思で動いています」
「狙われて!? の、乃梨子ちゃん、何か大変な誤解をしてない?」
「誤解? 『リリアンは安全だ、山百合会は大丈夫』って思ってたことですか?」
「それは誤解じゃないよ。みんな乃梨子ちゃんの味方なんだよ?」
「……みんな?」
「そうだよ。志摩子さんが家のことであまり関われないから乃梨子ちゃんが心配だって話してて……」
祐巳さまはおめでたい。
いつか瞳子の言ってたことが判った気がした。
令さまが『みんな』を騙していない保障なんて何処にもないのに。
「……それを、一番気にしてたのは令さまなんだよ?」
「 嘘だ ! ! 」
祐巳さまが怯えた顔をした。
「祐巳さまは聞かされていないだけです」
「乃梨子ちゃん!」
通学の知らない学生が何事かと振り返っている。
「私は思い通りにはならない! 絶対生き残ってやるんだ!」
「乃梨子ちゃ、きゃっ!」
乃梨子は祐巳さまを突き飛ばして、駅に向かって走った。
祐巳さまを振り切った後、走って電車に駆け込んだ乃梨子は、満員電車の中で鞄を抱えてこの先の行動を考えていた。
まず祭具殿に忍び込んだ江利子さまと山辺さんが死に、そして魅祓神社と藤堂家について調べていた蓉子さまは、その祟りに便乗する形で消された。
乃梨子の話を聞いて、これは想像だが、なんらかのアクションを起こした菜々ちゃんも消えた。
朝姫さんは祭具殿に忍び込んだ翌日行方不明。じゃあ、そのあと朝姫さんを演じて乃梨子の様子を探っていたのは志摩子さん?
――『姉猫はとても怒っています』
菜々ちゃんが言っていた。
『悪いこと』をした朝姫さんが妹猫なら、姉猫とは志摩子さんのことだ。
すなわち、私達が祭具殿に忍び込んだことを一番怒っているのは志摩子さんだってこと。
そして、全ての事件は糸を辿れば藤堂本家に行き着く。
祭具殿に本当に何があったのかは判らない。
でも、もはや、謝って済むような話ではないことは明らかだ。
このまま何処かに身を隠してしまおうか?
お金なら銀行のカードを持っている。しばらく生活するくらいの貯金はある。
でも、藤堂本家は乃梨子が身を隠した時から、祟りで消えたことにして、秘密裏に始末しようとするだろう。
「武器が必要だな……」
乃梨子の呟きは不躾な車内アナウンスに紛れて誰の耳にも届かなかった。
乃梨子は電車の中で考えぬいた末、結局リリアンに向かうことを選択した。
平日の昼間、制服で街中をうろつくのは目立ちすぎる。『襲ってくれ』とアピールするようなものだ。
かといって着替えに家に戻るのは却下。待ち伏せされていない保障は何処にも無い。
服を買おうにも、この時間では、お店は何処も開いていないし。
だからといって、店が開くまで街中で制服姿のまま時間を潰すのでは本末転倒だ。
木を隠すなら森の中。
相手の思う壷なのかも知れないが、一番目立たなく、紛れやすいのはこのままリリアンに登校することだった。
学校の中で上手く立ち回り、脱出のチャンスを待つしかない。
いつ何処で襲われるか判らないから、学校でも油断は禁物だ。
校舎に向かう制服たちに紛れて、乃梨子は銀杏並木を歩いていった。
そして、毎朝みんなが手を合わせてお祈りするマリア像が見えてきた所で声をかけられた。
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん?」
立ち止まって振り返ると、長身でベリーショートの髪が美少年風の美少女。
「……令さま?」
乃梨子は、サーっと血の気が引くのを感じた。
令さまは、いつの間にか乃梨子のすぐ後ろに立っていたのだ。
「どうしたの気分でも悪いの?」
乃梨子は慌てて一歩退いたが、令さまは、近付いて乃梨子の肩に手をのばした。
「嫌っ!」
乃梨子は思わずその手を跳ね除けていた。
腕を弾かれて、少し驚いた顔をした令さまは、あたりを見回した。
こんな往来の中だ。二人は何気に通学中の生徒達から注目の視線を集めていた。
「……ちょっと場所を変えようか?」
「嫌です」
即答した。
冗談じゃない。危険を押してまで普通に登校した意味が無くなる。
幸い乃梨子は白薔薇のつぼみとして存在を殆どの生徒に知られている。
だから一人きりにさえならなければ、乃梨子はほぼ安全なのだ。
両手で鞄を抱えて拒絶の意を全身で表す乃梨子に、令さまは頭を掻いて言った。
「まいったな、別に取って食おうって言うんじゃないから、そんなに警戒しないでよ」
「近づかないでください」
「判ったよ、じゃ、ちょっとだけ付き合って。大事な話なんだ」
「話ならここで」
「ここじゃ、ちょっと目立ちすぎる」
「……何処なら良いんですか?」
「人気の無いところじゃ心配? じゃあ、ちょっと道から外れたところなら良いかな?」
そう言って、令さまはマリア様の前の二股の、講堂へ向かう方へ歩いていった。
乃梨子は立ち止まったままそれを見送っていたが、
「どうしたの? そんなに時間は取らせないわよ」
「……」
仕方なく、乃梨子は数メートルの間を空けて令さまに付いていった。
そして、講堂の脇まで行って令さまは立ち止まった。
もし講堂の裏まで行くようなら乃梨子は逃げ出すつもりだった。
ここなら一応、並木道からも見える場所だ。
だから、乃梨子は油断した。
「話っていうのはね……」
講堂の壁を背に、令さまは手に提げていた鞄を持ち上げて、反対の手でロック外した。
慌てていたのか、立ったまま鞄を開けたことが無かったのか、取っ手は鞄の蓋についているのに、その取っ手を持ったままロックを外したもんだから本体が横になり中に入っていたものが飛び出して地面にぶちまけられた。
「ああ、ごめんごめん、ちょっと待ってね……」
令さまは、慌ててノートや教科書を拾い集め始めた。
でも、乃梨子は、ぶちまけられた勉強道具に混じって、見慣れない黒光りする塊が落下するのを見ていた。
(あれは……!)
令さまがその黒い『何か』に手を伸ばしたとき、乃梨子はその手を足で踏みつけた。
「痛っ! 乃梨子ちゃん?」
「令さま……」
令さまは唖然とした顔をして乃梨子を見上げていた。
乃梨子はその『何か』を拾い上げ、抑揚の無い口調で言った。
「これは、何ですか?」
そういいながら、その『何か』のトリガを押して、それをバチッと放電させた。
「それは……」
「スタンガン、ですね」
そう、これは昇圧トランスで乾電池の電圧を十数万ボルトにまで上げて相手に瞬間的に流し、一時的に行動不能にする護身用具だ。
「そうよ。扱ったことあるのね?」
「令さまは、どうしてこんなものを鞄に忍ばせていたのですか?」
そして、これは手っ取り早く人に危害を与える武器にもなる。
「乃梨子ちゃん、今、説明するから足をどけてくれる?」
「もう判りました」
「いや、判ってないと思うわ。きっと誤解してる。だから……」
「黙れ!」
令さまの手の甲を踏んだ足に体重をかける。
「うっ……。良いわ、じゃあ、そのままで聞いて。今日は乃梨子ちゃんにそれを渡すつもりだったの」
「私に?」
「そうよ、あなたの身が危ないからよ。でも身辺警護にも限界があるし、いざという時はあなた自身でも身を守ってもらいたくて……」
「嘘だ!!」
「う、嘘じゃないわ!」
「じゃあ、聞きますけど、何故、今まで私にそれを言わなかったんですか? どうして隠れて警護する必要があるんですか?」
「それは……その……」
令さまは目を逸らした。
やはり嘘だ。
「……令さまのことは尊敬してました」
「え?」
「でも。わたしが間違ってました」
乃梨子は踏みつけた令さまの手をしっかりホールドして、スタンガンを令さまの背中に当て、トリガを押す指に力を入れた。
「乃梨子ちゃん!」
その放電が始まる刹那、乃梨子は弾き飛ばされてしりもちをついた。
令さまは踏まれたのと反対の肘を地面に付けていたので簡単に体勢は変えられないだろうと思っていたが、少し甘かったようだ。
相手が乃梨子だからと、令さまは本気を出していなかったのだ。
流石に剣道で鍛えた体だけある。あんな不安定な体勢からの体当たりなのに乃梨子は易々と飛ばされてしまった。
「ふふっ……本性を現しましたね?」
まだ、スタンガンは乃梨子の手のあった。
乃梨子は注意深く立ち上がり、スタンガンを令さまの方に向けた。
「……」
令さまは表情を変え、鋭い目つきで乃梨子を睨んだ。
それで良い。
懐柔しようが、強引にしようが、やることは一緒なのだ。
悪者は悪者らしくしてもらわないと。
でも、乃梨子はやられはしない。
チャンスは一度。
丸腰とはいえ令さまは剣道の上級者だ。こんなものを持っていても、まともにやりあって勝てる相手ではない。
「くっ……」
そう呻いて、乃梨子は腹を抱えるように蹲った。
「の、乃梨子ちゃん?」
「来るな!」
蹲ったまま乃梨子は令さまに背を向けた。
「ちょっと、大丈夫?」
不用意に近付いて来た令さまは、乃梨子の肩に手を置いた。
(――掛かった!)
振り向き様に、腰を浮かせて脇の下から手を伸ばし、トリガを押したまま令さまの腹にスタンガンを押し付けた。
「うっ……」
令さまはうめき声をあげてその場に倒れこんだ。
意識はあって、乃梨子の方を睨んでいる。
令さまを見下ろし、乃梨子は抑揚の無い冷淡な声で言った。
「ごきげんよう。令さま――」
†
乃梨子は教室には行かず、鍵が壊れて開いていた校庭の隅にある用具倉庫に身を隠していた。
もう学校にも来れなくなった。
乃梨子は、店の開く時間まで身を隠して、学校を抜け出すつもりだった。
そして、いろいろ準備をして本格的に身を隠すのだ。
預金に不安もあったが、潜伏先で年齢を偽って働く位はする覚悟があった。
その前に聖さまに連絡を取ろうかとも思った。
聖さまの大学は同じ敷地内だし、不可能ではないだろう。
でも、聖さまは警察と繋がっている。警察が乃梨子の味方をしてくれる保障は何処にも無いのだ。
むしろ、さっきのことを傷害事件として扱い、乃梨子を逮捕する可能性だってある。
令さまに『被害者』という隠れ蓑を与えるわけにはいかない。
だから聖さまにも会えない。
このまま一人で身を隠すべきだ。
とにかく身の安全を確保してからその後の対応を考えよう。
「……学校の中に居るのかな?」
その時、用具倉庫の外から話し声が聞こえてきた。
「制服じゃ目立つから絶対まだ中に居るわ」
「そうかな……」
祐巳さまと由乃さまだ。
「もっとやる気を出しなさいよ」
「だって……」
「だってじゃないでしょ、令ちゃんが襲われたのよ! 一刻も早く見つけ出さないと」
乃梨子を探しているようだ。
(まずいな)
用具倉庫に踏み込まれたら隠れる場所が無い。
一人だけなら不意打ちで何とかなるだろう。
でも二人となると……。
(何かないか? 何か……)
乃梨子は辺りを見回した。
用具倉庫というのは要するに物置で、梯子やらバケツやら囲いを作る網やら、主に造園用品が格納してあった。
そんな中に、目を引くものがあった。
折りたたみ式の剪定用の鉈――。
「ねえ、あそこは?」
「物置?」
祐巳さま達が用具倉庫に気づいた。
「……用具倉庫って書いてあるよ?」
「つまり物置でしょ。でもあそこはいつも鍵が掛かってるから入れないわよ?」
「そうなんだ。あ、でも見て?」
足音が近付いてくる。
「なあに?」
「鍵、壊れてる」
(来た)
乃梨子は息を潜めて、ドアの内側――扉が開いても見えない位置に――に立った。
「あー、本当だ。無用心ねぇ……」
ガチャガチャと音がする。壊れた錠を弄っているのだろう。
「にしても、こんな『探してください』と言わんばっかりのところに隠れるかな? あの乃梨子ちゃんだよ?」
「まあ、そうね。この鍵、前から壊れてたみたいだし……」
そう、乃梨子が壊した訳ではない。
「……てことは、これはブラフ? 捜査をかく乱するための罠ね? きっとこの中に仕掛けた罠に掛かっている隙に逃げ出すつもりなんだわ。中に居ると見せかけて実は裏とか屋根の上に隠れているのね?」
「由乃さん、考えすぎ。何処のアクション漫画よ?」
「でも、菜々だったらそのくらいやるわよ……」
そこで、由乃さまの言葉に勢いが無くなる。
「あー、菜々ちゃん、何処いったんだろうね? 気を落とさないで、きっとどこかで元気してるよ」
「うん、それね、足取りはつかめたそうよ」
――足取りが掴めた?
乃梨子は思わず聞き耳を立てた。
「本当?」
「うん、令ちゃんが教えてくれた」
令さまが?
やはり令さまはそっちと繋がってるからか……。
きっと、隠し切れないで、由乃さまに話してしまったのだ。
「ど、どうだったの?」
「捜査上の秘密だから誰にも話しちゃだめよ。令ちゃんにもそう言われたから」
だったら、祐巳さまにも話したら駄目じゃないですか。と、乃梨子は思わず心の中で突っ込んだ。
でも、そのおかげで乃梨子はその話を聞くことが出来るのだ。
「わ、わかった。それで?」
「あの日ね、菜々、志摩子さんの家に行ったらしいの」
「ええ? 志摩子さん? 何で?」
「判らないわ。でもね、小寓寺まで行って志摩子さんに会って、そこから二人で何処かに行ったらしいわ」
「それって確かなの?」
「うん。令ちゃんが嘘言うとは思えないし」
藤堂本家の仕業とは思っていたが、志摩子さんが直接手を下したと聞いて乃梨子はショックを受けた。
やはり、志摩子さんは藤堂本家の頭首の立場に居る。
今までは、『仕方なく』だとか『形だけ』とか思っていたが、それは乃梨子の希望的観測に過ぎなかった。
実質のトップかどうかはまだ判らないが、志摩子さんは確実に『あっち側』の人間だ。
「……でも、志摩子さんあの日休んでたよね?」
「だから不思議なのよ。でも志摩子さん今日も休んでて電話にも出ないから判らないのよね」
「うーん、謎だね……あ、お祭りの日に忘れ物して取りに行ったとか」
「わざわざ夜中に、一時間もかけて小寓寺まで行く?」
「うん、だからどうしてもその晩のうちに必要だったのよ」
「それって、どんな物よ?」
「たとえば次の日提出する宿題のノートか」
「お祭りのアルバイトするのになんで宿題のノートなんか持って行くのよ」
「えー、でも朝早かったし、本番まで結構空き時間あるって言ってたよ?」
祐巳さまたちの雑談を遠くに聞きながら。
俯いた乃梨子の顔から水滴が滴り落ちて埃っぽい用具倉庫の床に染みを作っていった。
「……さん」
無意識に、乃梨子の口からその名前がこぼれ落ちていた。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
「え?」
「この中からよ!」
(まずい……)
気づかれた。
改めて乃梨子は左右それぞれの手に力を入れ、その感触を確かめた。
「乃梨子ちゃんなの?」
右手にスタンガン。
「少し離れて。……開けるわよ」
左手に鉈。
その手は振り上げたままだ。
「う、うん……」
引き戸を滑らす音が響き、用具倉庫内に外の光が差し込んてきた。
(まだ……)
「居ないわね?」
由乃さまが恐る恐る顔を覗かせる。
(もう少しだ。祐巳さまも入って来るまで……)
由乃さまが見回すように首を動かして、やがてこちらを向く……。
由乃さまの目が恐怖に見開かれ、奇妙にゆがんで開かれた口から息を吸い込む音がヒューっと鳴った。
が、次の瞬間、悲鳴が上がる前にそのお腹にスタンガンを押し当てた。
「由乃さん?」
続いて、祐巳さまの声。
脅かしすぎたようで、由乃さまはスタンガンを当てた直後気絶した。
流石に天然といおうか、由乃さまが倒れて、扉の影から鉈を担いだ乃梨子が現れても、祐巳さまは何が起きたか理解できないようにポカンと突っ立っていた。
乃梨子は、祐巳さまを由乃さまの時と同じように声を出される前に動けなくして、気絶した由乃さま共々、扉の内側に引きずり込んだ。
そして、内側から扉を閉めて、先に体が動かせるようになりそうな祐巳さまの手足を縛り、口にテープを張った。
造園用品の揃った倉庫内では捕縛する材料には事欠かなかった。
意識がある祐巳さまは『どうして?』としきりに目で訴えていた。でも無視した。
由乃さまにも同じ処置を施したあと、外の様子を伺い、誰も見てないことを確認して外に出て用具倉庫の扉を閉めた。
鍵は開いているし、二人はすぐに誰かが見つけてくれることだろう。
†
もう一刻の猶予も無かった。
乃梨子はポケットにスタンガンを、学生鞄の中には剪定用の鉈を忍ばせて学校を出た。
鞄の中身を全部出したら鉈はぎりぎりで鞄に納まった。
これからの行き先も決まっていた。
(……志摩子さん)
全てから逃げてひとりで生活するなんて無理だ。そんなの今の乃梨子には絶えられない。
冷静に考えれば、初めから身を隠すなんて選択肢は無かったのだ。
本気で警察と藤堂本家の追っ手から逃れられると思っていた自分が滑稽だった。
決着を付ける方法は一つしかない――。
校門を出ると、濃いグレーの乗用車が停まっていた。
「聖さま……」
聖さまはサイドの窓を開けて乃梨子に話しかけた。
「やあ、ごきげんよう。乃梨子ちゃん」
「……」
黙っている乃梨子に聖さまは続けて言った。
「乃梨子ちゃんは私に聞きたいことがあるんじゃない?」
「何の、ことですか?」
「志摩子の居場所。藤堂本家の所在地とか」
まさにタイムリーだった。
小寓寺に行って志摩子さんのお父さんに聞くつもりだったのだ。
「どうしてですか?」
「うん?」
「どうして私がそれを聞きたいって思ったんですか?」
「うーん、なんとなく、かな?」
「真面目に答えてください」
「まあ、良いじゃない。乃梨子ちゃんは聞きたい。私はそれを知ってる。それだけのことよ」
「……教えてくれるんですか?」
「勿論よ。はい。ここに住所と行きかたが書いたあるわ」
そう言って聖さまはノートを千切った紙を乃梨子に渡した。
何故そんなに用意周到なのだろう?
でも乃梨子には、怪しんでいる余裕が無かった。
こんなことは早く終わりにしてしまいたい。ただ、そう思っていたからだ。
「ありがとうございます」
そう言って乃梨子が去ろうとした時、聖さまは言った。
「乃梨子ちゃん、一つだけ」
「はい?」
「私は志摩子にとって悪い姉だったわ」
何のこと?
学年の関係で、聖さまと志摩子さんの間に何があったのか、乃梨子は殆ど知らない。
「だから、志摩子に会ったら伝えておいて」
伝言か。
「なんて伝えればいいのですか?」
「『ごめんなさい』って」
「判りました。伝えておきます」
聖さまとの会話はそれきりだった。
藤堂の本家は志摩子さんの家より遠かった。
聖さまに貰った『行きかた』に従って、H駅より先の駅まで電車で行って、駅前でタクシーを捕まえ、「藤堂の本家へ」というと運転手はちょっと訝しげに乃梨子を一瞥したが、何も言わずに車を走らせた。
行く道中、乃梨子は鉈の入った鞄をずっと両手で抱えていた。
志摩子さんに会ってどうするかなんて具体的には何も考えていなかった。
謝るのか、問いただすのか、とにかく全てを終わらすんだ、ってそれだけを考えていたのだ。
その結果、志摩子さんの手に掛かるのならそれもやむなし。
でも、納得がいかないまま消されるなんて絶対嫌だった。
やがてタクシーは舗装されていない道路に入ったらしくガタガタ揺れた。
そして、片側森が広がる道をしばらく行ってタクシーは停まった。
「お客さん、着きましたよ」
「え?」
周りを見るとどう見ても田舎道の途中だった。
運転手は訛りのあるイントネーションで言った。
「本家はこの先で、ここから先は藤堂家の土地だ。歩けばすぐわかる」
どうやらタクシーはここまでらしい。
その時、黒塗りの車がタクシーの進行方向へ追い越していった。
「……」
乃梨子がそれを目で追っているとタクシーの運転手は言った。
「ありゃ本家の車か、他所者だな。タクシーはここまでだ」
どうやらこの辺りの人間はこれ以上近付かないらしい。
乃梨子は料金を支払ってタクシーを降りた。
運転手は乃梨子に何も聞かなかったが、帰りがけにもう一度興味深げな視線を乃梨子に向けていた。
(まあ、セーラー服の女子高生がそんなところに向かうなんて珍しいんでしょうけど)
舗装されていない砂利道を少し歩くと、森の向こうに大きなお屋敷が見えてきた。
屋敷の周りには黒塗りの車が十数台泊まっているのが見えた。
なんだろう?
近付いていくと、どの車にも中には屈強そうな男が複数乗り込んでいるのが見えた。
警備だろうか?
他に道を歩く人が居ない中、乃梨子が一人、そこを抜けていくのに彼らは全く無関心だった。
藤堂本家の大きな門は開いていた。
中にも数台車が停まっていてこちらは人は乗っていなかった。
「ええと、玄関は……」
と、乃梨子が門から一歩入ったところで、周囲を見回していると、母屋と思われる大きな建物から数人の男が出てくるのが見えた。
男といってもどちらかというと年の行った人が多く、外の車に乗っていた厳つい男達とは雰囲気が違っていた。
やがて、その男の人たちが出てきた出入り口から和服を着た女性が現れた。
男の人たちが車に乗り込むので、見送りかと思ったら、その女性は、男達にかまわず、乃梨子の方に向かってきた。
そして、その女性は乃梨子のよく知った人物だった。
「……志摩子さん」
「乃梨子。待ってたわ」
乃梨子は、抱えていた鉈の入った鞄を、ぎゅっと抱きしめた。