それは小さな不安だった。
求めたものは小さな幸せ
背負ったものは大きな十字架
小さな胸に秘められた
小さな想いと大きな枷と
『真・マリア転生 リリアン黙示録』 【No:2155】から続きます。
「祐巳さま、また何か来ます」
既に一戦闘終わった後で、微妙にまったりムードに入りかけていた矢先、可南子が空を見上げて言った。その視線を追った瞳子の顔が引き締まる。
3人の前にふわりと舞い降りたのは、白い翼を持つ女性の姿をした存在だった。
「わ、天使だ」
祐巳が感嘆の声をあげる。
天使『エンジェル』。天使の中では最下級とはいえ、人間にとっては畏怖すべき存在であることに変わりはない。その天使が、祐巳達に問うた。
「ここを襲ったのはお前達ですか?」
ここ、とはすなわちロウの施設があった場所だ。
「ち、違います。私たちが来た時にはもう、」
「いずれにしろ、志を違える者のようですね。この地はロウの統べる地。それ以外の存在は許されません」
問答無用!?
「まあ、元々天使は頭が固いですし。今日は満月ですからね。私もちょっと血が騒ぎます」
そう言って瞳子は薄く笑った。
「可南子さんも血が騒いでいるらしいですわね」
「って、可南子ちゃん!」
襲いかかろうとしていた天使の気勢を制するように、可南子は自らしかけていた。いつものことではあるが。
「先制防衛です」
それはどこの由乃さんだ。
「っていうかそんな言葉無いよ! 専守防衛だから! それ先に手を出しちゃいけないっていうのだから!」
「いずれにしろ、向こうはヤル気ですから同じことですよ」
瞳子がとりなすように口をはさんだ。
「だって天使だよ?」
「悪魔ですよ」
「う、いや、そうなんだけど」
本来この世界の存在ではないもの、人ならざるものの総称を悪魔という。言葉の問題だとはわかってはいても、天使を悪魔と呼ぶのにいまだ抵抗のある祐巳である。
「祐巳さまに仇なすものなど悪魔で充分です」
そう言って、天使とのタイマンに突入する可南子。
「あああああああ……」
「では祐巳さまは、」
あたふたする祐巳に対し、瞳子はいつも通り、戦いに参加する気をまったく見せずに祐巳に問いかけた。
「どんなものなら悪魔と呼んでも気にならないのですか?」
「え? えーと、だから……魔王とか? ほら、由乃さんのところに現れた明日ハレルヤ? とかなんとか」
「アスタロトです! 似ても似つかないじゃないですか!」
「そ、そうそう、それそれ」
はあ、とため息をついて、瞳子は言った。
「アスタロトの由来をご存知ですか?」
「へ? 由来?」
「こういった神話や伝承の類については、いろいろな説がありますから一概には言えませんけれど、アスタロトは元々バビロニアの美と戦の女神イシュタルが凋落した姿だと言われています」
「め、女神?」
「魔界に堕とされる際、パレスチナの男神アシュタルと合体させられた姿がアスタロトだという説もあります」
「それって単に間違えたんじゃ……」
「さらにその前身はフェニキアの女神アスタルテであり、シュメールに渡るとイナンナと呼ばれることになります」
「えっ? えっ?」
「ギリシャ神話のアフロディーテと同一視されることもあります。ローマ神話ではウェヌスで、その英語名がヴィーナスです。名前が変わった段階で別の存在になったと考えるべきなのかもしれませんけど、このへんの解釈はいろいろあって……」
祐巳が???な表情からもはやまったく話についてこれずにほけーっとした表情になっていることに気付いて、瞳子は言葉を切った。
「祐巳さま?」
「うぁ? うん、く、詳しいね」
「常識です」
「そ、そう? どこの常識――」
メガテンの常識?
こほん、と咳払いをして瞳子は話を続けた。
「つまりです。アスタロトが本来は美の女神であったように、現在悪魔と呼ばれているものにはかつては神や天使だったものが少なくないんです」
「な、なんでそんなことに?」
「神は唯一にして絶対の存在。ですから他に神と呼ばれるものが存在しては都合が悪いと考えた者がいたのかもしれませんね」
「……………宗教戦争?」
祐巳の表情を見て、瞳子はひょいと肩をすくめると、ことさら軽い調子で言った。
「神を追われたものの中には、生贄を要求するような、神は神でも邪神と呼ばれるようなものもいましたし、いまだに悪魔とされたものを自分たちの神として崇めている人達も少なくないんです。悪魔、邪神の類を神と崇めることも、天使を悪魔と呼ぶことも大した違いはありません。というお話でした」
ぱんっと手を打ち話を切り上げる瞳子。
「あまり二人で話していると、可南子さんがうるさそうですし」
「あっ」
二人がおしゃべりをしている間に一人で天使を倒してしまった可南子が憮然とした表情で近づいて来ていた。
「ご、ごめんね、可南子ちゃん」
「いえ、祐巳さまはいいんですよ、祐巳さまは」
「そうですよ。祐巳さまの為に戦えて可南子さんも本望でしょうから」
「そのとおりだけど、戦闘で役立たずのあなたに言われると何だか腹が立つわね」
「なんですって?」
「え、えーと………」
とりあえず声をかけたもののそこで言葉をとぎらせる祐巳だったが、突然ぽんと手を打った。
「そ、そうだ瞳子ちゃん。気になってたんだけど、その呼び方」
「は?」
「だからもうそろそろ呼び方をね?」
「なんですか?」
何か言いたげな顔をしていた祐巳は、突然何か良いことを思い付いたという表情をして瞳子にすごく嬉しそうな笑顔を向けた。
きっとろくでもないことに違いない、と瞳子は思った。
「私、今後、瞳子に『祐巳さま』と呼ばれても返事をしないことにしたから」
祐巳はなぜか少し得意げに胸をはった。
「はあ? 何、わけわからないことを言ってるんですか?」
あれ? という表情になる祐巳。何かひどく当てが外れたという顔だ。
「え、いや、だからね。ほら、呼び方――」
「もう暗いですし、またやっかいなのが来ないうちに早くここを離れましょう」
そう言って瞳子はくるりと背を向けた。
瞳子は胸元に手をやった。それに手を当てて気を落ち着ける。
それは瞳子にとっては大切なお守りになっていた。
瞳子の首には祐巳から貰ったロザリオがかかっている。それは祐巳に同行する際、報酬として受け取ったものだ。
だからいわゆるスールの契りとしてのロザリオの授受なんていうものではなかったし、二人が姉妹だ、ということにはならないのだ。
それでも、それは瞳子にとっては大切なものだった。
それでよかった。
それだけでよかった。
それなのに。
「ちょっと待ってよ」
意を決したように祐巳は言った。
「ロザリオを渡してからもう結構立つんだよ。いいかげん、ちゃんとお姉さまって呼んでちょうだい」
「さっきから何を言っているんですか?」
「ちょっとあなた……」
瞳子の言い様に、思わず口をはさむ可南子。
「これは私が祐巳さまに同行する際にその報酬としていただいた物です。妹になった憶えなどありませんわ」
「え?」
……………そういえば、確かにあの時祐巳も瞳子も妹という言葉は一度も使っていなかった。
「あれぇ?」
今更気付く驚愕の事実。
さすがに可南子も驚いた顔をしていた。あるいは呆れていたのかもしれないが。
「じゃ、じゃあ瞳子ちゃん。妹になってください」
「おことわりします」
慌てて言った祐巳に、つい、条件反射で否定してしまった瞳子である。
「ちょっと、松平瞳子!」
なぜかフルネームで呼ぶ可南子。
「これは私と祐巳さまの問題です。口を出さないでください!」
「っ!」
口を出さないと二人して自爆大会になりそうなのだが、瞳子のその言葉はまさしく正論だったから可南子は仕方なく口をつぐんだ。
代わってへこんだ様子の祐巳が言う。
「瞳子ちゃん私のこと嫌ってる?」
「……………」
バカじゃないだろうかこの人は。
嫌っている人間にわざわざ付いてくると本気で思っているのだろうか。
まったく、何を考えているのかわからない。
何故、よりによって瞳子を選ぶのか。
「私には、祐巳さまの妹になる資格はありません」
「資格? 私が妹になって欲しいと思うこと以外に何か必要なものがあるの?」
「そういう次元の問題ではありません」
「どういう次元の問題?」
「………とにかく、私にはそんな価値はありませんから」
「だから価値って、」
激昂しかけて、祐巳は大きく息をはいた。
「瞳子ちゃんの言う資格とか価値とかよくわからないし、何か事情があるのかもしれないけど、それは私にとってはどうでもいいの」
「私の事情はおかまいなしですか?」
「かまうし、話してくれるなら聞くよ?」
「……………」
「私は、瞳子ちゃんが瞳子ちゃんでありさえすれば、それでいい」
おめでたい。
私が私でありさえすれば?
瞳子は嗤った。
私のことなんて何にも知らないくせに。
「祐巳さまの言う私とはどんな私ですか? いったい私の何がわかると言うのですか」
「なんでもいいの! 瞳子ちゃんなら! だって瞳子ちゃんは瞳子ちゃんなんだもん」
……………ああ、つまり何も考えてないんですね。
そういう問題じゃないんです。
いや、まさにそれこそが問題なのだけれど。
私が私でありさえすればいい。
本当にそれだけで? そのことに意味なんてあるのだろうか。
「あのね、いろいろあったから私も姉妹についていろいろ考えたんだけど、結局姉妹になるのに一番大切なことって、お互いがお互いを好きっていう、それだけだと思うの」
信じていいのだろうか。その言葉を。
信じられる。と理性は言った。この人はまっすぐなひとだから。
信じたくない。と感情は言った。信じることが怖かったから。
「私は瞳子ちゃんが好き。大好き。妹になって欲しいのは瞳子ちゃんだけなの」
応えていいのだろうか。この想いに。
私はなんの為について来たのか。祐巳さまのそばで、その行く末を見届けたいと思ったから? 違う。そんな理由どうでもいい。
私はただ、祐巳さまと一緒にいたかっただけだ。
「だから、これはすごく単純な2択だよ。私のことを好きでいてくれるなら応えて。そうでないなら断って」
そう言って、祐巳は大きく息を吸うとまっすぐに瞳子を目を見て、そして言った。
「瞳子ちゃん。私の妹になってください」
そんな言い方はずるいと思う。
これでは、断ったら好きではないということになってしまうではないか。
祐巳さまを好きか? そんなの選ぶまでもない。
お姉さまになって欲しい人? 2択ですらなかった。
本当に私でいいのだろうかという想いは常にある。けれど選んだのは祐巳さまなのだ。付いて来たのは瞳子の意思だ。
だから信じろ。祐巳さまを。そして信じろ。祐巳さまが選んでくれた瞳子自身を。
「お受けします」
「ありがとう」
祐巳は、とても嬉しそうに微笑んだ。
瞳子に手を伸ばしかけて、ふと動きを止めて少し気まずそうな顔をした。
「どうしたんですか?」
「もうロザリオ渡しちゃってたんだっけ」
それを聞いて、瞳子は思わず笑ったしまった。
そして首からかかっていたロザリオを外して祐巳へと差し出す。
「?」
わけがわからないという表情の祐巳に、笑顔で言った。
「かけてください」
「あ、うん!」
あの時は手渡しだった。
だから、今度はちゃんと。
ドリルにひっかからないように、と思った言葉をあわてて頭の中で打ち消して、祐巳は細心の注意を払って瞳子の首にロザリオをかけた。
瞳子はロザリオの十字架の部分にそっと手を添える。
「これからもよろしくね。瞳子」
「はい。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。………お姉さま」
祐巳はそっと手を伸ばして瞳子の頬に触れた。
瞳子はその手に頬をゆだねて、目を閉じた。
たとえこの先何があろうとも、この瞬間だけは絶対に忘れない。
それは瞳子が祐巳の妹になった日。
月と、細川可南子だけが二人を見ていた。
「……………というか、私のこと、完全に忘れてますよね?」