【2183】 走れ瞳子  (ますだのぶあつ 2007-03-06 16:05:20)


 自分が好きな人たちがいないのならば、ここに留まっている意味はない。
 社会科準備室を飛び出した瞳子は、廊下を駆け出した。


 演劇部の部室の扉を開けたら、部長が驚いた顔をしていた。
 ここまで全速力で走ってきた。だから今の瞳子は、息が乱れ、タイも曲がり、只ならぬ雰囲気なのだ。部長が驚くのも無理はない。
「ど、どうしたの?」
 瞳子は荒い息でごきげんようと挨拶をして部室に入る。
 部長は先日、瞳子が来たときと同じく、ただ一人、事務仕事をしていた。
「これを返しに来ました」
 四つ折りにして生徒手帳に挟んであった退部届を差し出した。部長があの日、お守り代わりに渡してくれた一片の紙。
 部長は一瞬硬直していたが、瞳子の差し出した無記入の退部届を受けとると書類棚に戻した。
「そう……決めたのね」
 部長は瞳子がこれから何をするつもりなのか理解したようだった。と、同時に、やっぱり瞳子はこの人が好きなんだと自覚した。もし祐巳さまがいなければ、未来は変わっていたかも知れない。
 でも祐巳さまはいる。だからこそ、瞳子は祐巳さまの所に行く前に、あの時の返事をしておく必要があった。
「すいません。私はやっぱり、祐巳さまのことが――」
「ストップ!!」
「……」
「それ以上は言わなくていいわ」
 部長は寂しそうに微笑んだ。こうなるって、わかってたって。
 でも瞳子にはもう一つ言わなければならないことがあった。瞳子はガバッと頭を下げる。
「それから三年生を送る会、できれば部長と一緒に演じさせてください」
「……え?」
 部長にとって辛いお願いをしていることは自覚している。もし部長が嫌というなら、瞳子は諦めるしかない。でも一本一本断ち切ってきた絆の中で、それは部長が繋ぎとめていてくれた大切な絆だった。それを、瞳子自身の手で裁ち切ることだけは、もうしたくなかった。
 部長はふっと笑うと。
「あたりまえじゃない。見る人が嫉妬するぐらいに息のあった素晴らしい劇にしましょう」
 部長にとって『見る人』とはきっと祐巳さまだけなのだろうけど、それを言わないのは大人だった。その瞬間、部長はまさしく瞳子の姉だった。でもその瞬間はうたかたのごとく消えていく。
「さ、行きなさい」
 部長のボールペンは部室の扉、方向はまるで違うが、その先にいるであろう祐巳さまの方向を指した。
「はい!」
 瞳子はもう一度ガバッと頭を下げる。ここにも手を取ってくれる人がいたことに感謝する。
 瞳子が顔を上げたとき、部長は眩しそうに目を細めていた。
「その顔を引き出したのが共演者である私じゃなくて、祐巳さんっていうのは少し癪だけど……」
 部長はそこで言葉を止め、瞳子のためにとっても優しい笑顔を浮かべてくれた。
「いい顔してるわよ。とびきりの――」
 だから瞳子は踵を返し、部長の目の端から転がり落ちた雫を見なかったことにした。


「細川可南子! ……さん」
 体育館中に響き渡る声でフルネームで呼ばれてしまった当人は、フリースローの姿勢で振り返り、そのまま硬直した。手から離れたボールはゴールに嫌われ跳ね返る。
 体育館を使用していたすべての部員の視線が、大声を上げた瞳子と可南子さんに注がれる。ただ勢いで呼びつけてしまったものの、リリアンの生徒としていくらなんでも不躾すぎた。
 その大失態に狼狽する瞳子よりも先に我に返った可南子さんは、仕方ないわねと肩をすくめると少し小柄な上級生に声をかける。
「キャプテン、すいません。少しだけ抜けさせてください」
 声をかけられた先輩が頷くと、可南子さんは急いで寄ってきて、瞳子の腕を掴んで体育館の外に連れ出す。
「ちょっと、なんの嫌がらせ?」
 人通りの少ない渡り廊下で可南子さんは腰に手を当て文句を言った。
「ごめんなさい」
 瞳子は素直に謝った。それに少し驚きの表情を見せた可南子さんだったが、それで瞳子が何か大事な話しに来たことを察して、怒りを納めてくれた。
「どうしたのよ、あなたらしくもない」
「今から祐巳さまに会ってくる」
 瞳子は自分の決意を正直に告げた。
「……そう、か。とうとう……なのね。でもどうして私に?」
「友達だから」
 可南子さんは一瞬言葉に詰まった。でもすぐに「なに言ってんだか」と、苦笑いを浮かべる。でも、そんな可南子さんの頬は真っ赤だったから、きっとその気持ちは伝わっているはずだ。
 可南子さんは少し真面目な顔になって、でもどこか素っ気なく瞳子に聞いた。
「考えてある? 祐巳さまになんて言うか?」
「ううん、素手でぶつかってみる。うまくいかないかもしれないけど。でも、一人で燻っていても、いつまでも祐巳さまには届かないから」
 瞳子は不安を打ち消すように、自分に言い聞かせていく。
 突然視界が真っ暗になる。可南子さんの体温と香りが瞳子を包み込む。可南子さんは、ぎゅうっと瞳子を抱きしめていた。
「ちょ、苦しい」
 バスケ部で鍛えた筋力で力任せに抱きしめられ、息苦しくて瞳子がもがくと、可南子さんの囁き声が上から振ってきた。
「頑張れ。頑張れ、瞳子」
 それは可南子さんが初めて呼び捨てでかけてくれた言葉だから、瞳子はもがくのを止めて頷く。
「うん……」
「頑張れ、瞳子」
「うん」
「頑張れ」
「うん。判った」
「頑張れ」
「ちょ、判ったってば」
「頑張れ」
「ちょっと、いくらなんでもしつこいわよ」
「よし、いつものあなたね。それなら、ばっちり祐巳さまに気に入って貰えるわよ」
 ばしばしっと背中を叩く。
 瞳子は大げさに痛がりながら、いつも通りの形で絆を繋いでいてくれたこの友人を見上げる。交流試合、クリスマス、選挙……いつから私を最後の一線で支えててくれたのだろう。そして今も、こんなに力をくれる。
 そんな友人を安心させるように、いつも通りの素直じゃない瞳子を見せる。
「もう。髪の毛、ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない」
「そんなこと気にする祐巳さまじゃないわよ。さ、早く行ってきたら。宝探しの終了時間まで、もう時間無いわよ」
 可南子さんは、ぽんっと瞳子の背中を押し、送り出してくれた。

 宝探しイベントはもうすぐ終了だけど、瞳子はもう宝を見つけていた。
 ――部長、可南子さん、それに乃梨子さん。三人の絆。
 そして今、一番の宝の元に、瞳子は走る。


一つ戻る   一つ進む