【2189】 ひとり涙を拭いて  (沙貴 2007-03-11 10:05:24)


 祐巳は忘れない。
 聖なるクリスマスイヴの夜、マリア様の像を挟んで向かい合った時のこと。
 正確にはその少し前。
 一人馬鹿みたいに浮かれて、瞳子ちゃんの隣を歩いていた頃からのことを、祐巳は決して忘れない。
 
 
 祐巳は、祥子さまのことが今までもこれからも大好きだ。
 由乃さんのことも志摩子のことも大好きだし、令さま、乃梨子ちゃん、瞳子ちゃん、可南子ちゃんのことも勿論好き。
 続いて真美さん、蔦子さん、お父さんお母さん祐麒。
 他にも聖さまや蓉子さまなど等、好きな人を挙げればキリがない。大変である。
 みんなみんな大好き、みんなみんな大切。
 順番なんて付けられない。
 
 ……ごめんなさい、祐巳は今ちょっと嘘をつきました。
 お姉さまは別格です。はい。
 
 とにかく、そんな好きな人いっぱいの(この表現もイヤだな)祐巳は、ある頃一つ気付いたことがあった。
 知り合った中に一人。
 近づけば近づくだけ、祐巳を不安にさせる子が居る。
 祥子さまの親戚、一年椿組在籍の演劇部、気が強い割には可愛らしい縦ロールが似合う少女。
 名前は松平 瞳子。
 彼女がリリアン高等部に入学してきてもうすぐ一年、その間に祐巳が良くも悪くも深く関わりあった子だった。
 
 祐巳は初め、瞳子ちゃんが苦手だった。
 それは瞳子ちゃんが祥子さまにやたら馴れ馴れしいからとか、妙に口が悪くていつも責められている気になるからとかじゃない。
 祥子さまの傍に居る瞳子ちゃんを見ると、嫉妬という暗い感情を抱く自分に気付かされる。
 瞳子ちゃんに言い負かされると、自分がどうしようもなく馬鹿で無力なんだと理解させられる。
 つまり瞳子ちゃんは、祐巳の嫌な部分だけを写す鏡のようなもの。
 好ましく思えという方が無理な話だ。
 
 祐巳はそれまでずっと劣等感を抱えていた。
 祥子さまのロザリオを受け取った時、吹っ切ったと思っていたそれは殆ど錯覚で。
 何でもできる先輩や、気の利く同級生に囲まれてのほほんと笑っているだけだった祐巳にとって、瞳子ちゃんの突きつけてくる痛いほどの現実は、祐巳の首から一時とはいえロザリオを外させるまでに辛いものだった。

 その中で、人を信じるということの難しさ。辛さ。そしてその尊さ。
 いっぱい泣いて、色んな人の力を借りて。
 再び定位置に戻ってきたロザリオと一緒に祐巳はそれらを知った。
 知ることができた。
 それから、祐巳の世界は一変したんだろうと思う。
 
 劣等感はなくなった。
 瞳子ちゃんが写す弱い自分を、祐巳は苦笑いしながらも受け入れることができるようになった。
 そうして祐巳はようやく、鏡の向こうに瞳子ちゃん本人を見ることができるようになったのだ。
 
 それからも体育祭やら文化祭やら色々あって、祐巳はどんどんと自分の世界を広げていけた。
 祥子さまの良いところ悪いところ、いっぱい見つけた。
 由乃さんや志摩子さんに関しても同様で、それらを全部ひっくるめて祐巳はみんなみんな大好きになった。
 けれども。
 瞳子ちゃんだけは違っていた。
 いや、勿論瞳子ちゃんのこともどんどん好きになっていった。好きになっていったのだけれども。
 
 瞳子ちゃんも、祐巳のことを少しずつでも好きになってくれていたとは自惚れている。
 祐巳の前ではぷりぷり怒ることが多い子だけれど、本当に嫌いなら顔をあわせることも避けるはずだ。
 上級生にも遠慮なくズバズバ言ってくる瞳子ちゃんのこと、顔を立てるために我慢するなんてことはきっとしない。
 でもその瞳子ちゃんは、祐巳が好きになって祐巳をほんの少しでも好きになってくれた瞳子ちゃんは。
 果たして本当の瞳子ちゃんなのだろうか、という疑問が常に付きまとっていた。
 
 可南子ちゃんとの賭けの時。
 数珠リオ選びの時。
 そして、家出の時。
 
 祐巳は瞳子ちゃんの色んな表情を見た。
 色んな感情をぶつけられた。
 一緒に居る間はそれが瞳子ちゃんの表情であって感情だと信じられるのに、いざ瞳子ちゃんが居なくなるとそれが随分と薄っぺらいものに感じられてしまう。
 瞳子ちゃん役者だ。表情を作り、感情を演じるのがとても上手い。
 だから、その時の表情も感情も、ただの演技だったのではないかと思ってしまうのだ。
 勿論そんなことを考えること自体、瞳子ちゃんに対してとても失礼なことだとはわかっているつもりだけど。
 考えてしまう自分は止められなかった。
 変わったといっても祐巳は相変わらず、弱かったから。
 
 祐巳が瞳子ちゃんに向ける厚意。または好意。
 それが演じられた瞳子ちゃんに向けているものだとしたら?
 そして同時に、瞳子ちゃんが祐巳に向ける表情。掛ける言葉。
 それが瞳子ちゃんが書いた台本の一部に過ぎないとしたら?
 とても辛いことだ。とてもとても悲しいことだ。
 
 だから祐巳は躍起になって瞳子ちゃんを知ろうとしてしまった。
 何もかもが独り善がりかもしれないという不安から逃げるように、瞳子ちゃんを追いかけた。
 あの、クリスマスイヴの夜も。
 
 
「待って」
「うん、そうだった」
「ちょっと、瞳子ちゃんと一緒に歩きたいと思っただけ」
「ああ、お話ね。うん、お話しようか」
「三年生は、自分の思い描く未来に向けて着実に歩みだしているというか……ね?」
「何か、あったの?」

「私の妹にならない?」


 祐巳は、忘れない。
 思わず放ったその一言が、瞳子ちゃんを打ちのめしたことを。
 理由はわからない。
 ただ、決して踏み込んではならなかった領域へ強引に踏み込んでしまったことだけは間違いがなかった。
 祥子さまの胸で泣くまで、夜気よりも冷たい瞳子ちゃんの声が頭の中でずっと反響していた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 それから、祐巳と瞳子ちゃんの距離は急速に開いていった。
 物理的な距離は変わらなくても瞳子ちゃん自身は那由他の彼方まで遠ざかってしまったようで、もう、偶然なり必然で出会っても、瞳子ちゃんは祐巳の嫌な部分すらも写してはくれない。
 どれだけ覗いてもそれはくもったガラスのように、ぼんやりとした影を写すだけ。
 その向こうに瞳子ちゃん本人が居るともう知ってしまっているからこそ、祐巳には堪えた。
 堪えたけれどもどうしようもなく、悶々とした日々が続いて。
 祐巳はその中で一人じっくりゆっくりと考えて。
 
 そして――祐巳は開いた距離を僅かにでも縮めることなく、その日を迎えた。
 生徒会役員選挙、投票結果発表の日。
 講堂の掲示板に張られた、白い紙には名前が四つ並んでいた。
 祐巳、由乃さん、志摩子さんの名前には当選を意味する赤いシールが貼られていて。
 そして、瞳子ちゃんの名前には何もなかった。
 
 祐巳は愕然とする。
 いざ結果を目の前にして、そうして瞳子ちゃんの丁寧なお辞儀を目にして、瞳子ちゃんのことを何もかも見失っていたことに気が付いて。
 瞳子ちゃんが選挙に立候補した後から、もちろんその前からもだけれど、祐巳は瞳子ちゃんのことを考えていた。
 嫌がらせかも、いやいや、役員になるのが本当に夢だったからかも。
 もし、瞳子ちゃんが当選したら。
 もし、瞳子ちゃんが落選したら。
 祐巳と瞳子ちゃんはどうなってしまうんだろう。
 これから二人は、二人の関係はどうなってしまうんだろう。
 一生懸命、色々、いっぱい、考えた。
 その全てがまったくの的外れだったんだ、と目の前の結果用紙とあのお辞儀は告げているような気がした。
 
 違った。
 何もかもが違っていた。
 
「瞳子の目的は、負けることだったんです」
 呆然とした最中に聞こえてきた、乃梨子ちゃんの声が遠い。
 顔面を蒼白にした祐巳は、すがる様に乃梨子ちゃんの手をぎゅっと握って「やっぱり」と思わず呟いていた。
 瞳子ちゃんは勝ちたかったんじゃない。
 嫌がらせをしたかったわけでも、役員になりたかったわけでもなかったんだ。
 
 でもそれならどうして?
 瞳子ちゃん、瞳子ちゃんはこの選挙で一体何がしたかったの?
 何を言いたかったの?
 私に? 祥子さまに? それともここには居ない誰かに……?
 
 色んな疑問が一斉に浮かんで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 お祝いの言葉と喜びの賛辞が降り注ぐ中、祐巳はただ一人瞳子ちゃんのことだけを考えていた。
 一番の親友である乃梨子ちゃんなら何か知っているだろうか。
 知らないまでも、何か気付いたことはあるだろうか。
 助けを求めるように祐巳は乃梨子ちゃんの顔を見たけれど、その小さな唇が紡いだ言葉は色よいものではなかった。
「でも、何のために」

 その行き場のない問い掛けが意味することは、乃梨子ちゃんも祐巳と同じ立場だということで。
「そっか。乃梨子ちゃんもわからないんだ」
 乃梨子ちゃんがわからないなら、きっと世界の誰もわからない。
 瞳子ちゃん以外には、その真意を知る術なんてないんだ。
 そう思った瞬間に肩の力が一気に抜けた。
「……ということは」
 祐巳さまにもわからないんですか?
 言葉にならなかったそんな問いに、祐巳は力なく頷く。
 
 知れない。
 どんなに頑張っても知れない。
 それはとても辛い事実だった。
 悲しい結果だった。
 乃梨子ちゃんもわからないっていうことが、もう追いすがる気力すら根こそぎ奪ってしまっていた。
 
 今まで祐巳が瞳子ちゃんのことを知ろうとして空回りしてきたことが、酷く空しい。
 何とはなく、気付いていたはずだった。空回りだって。そんなことをしても瞳子ちゃんには近づけない、って。
 でもそれでも、瞳子ちゃんを想うことは止められなかった。
 知りたい欲求を抑えることなんてできなかった。
 何故って、瞳子ちゃんのことが好きだから。
 好きだから知りたい、それだけ。
 それだけなのに――と。
 
 ふと、祐巳は思った。
 好きだから知りたい、でも知れない。
 でもそれは、知れない相手は好きになれないということなのだろうか。
 追いかけて追いかけて、それでも届かない相手は好きじゃないということなのだろうか。
 
 それは違う。絶対に違う。
 祐巳は知っている。
 決して手の届くような相手ではなかったお方を、祐巳はずっと好きでいれたことを。
 傍に居たいとか、支えてあげたいとか、そんな気持ちではなくて。
 ただ、好きでいられたことを。
 
 そんなことを思い出していた祐巳は、だからだろうか。
 瞳子ちゃんを追おう、と誘ってくれた乃梨子ちゃんに対して首を横に振っていた。
「私は行かない」
 追って、仮に教えてくれたとしてそれを知って、だから何だっていうんだろう。
 祐巳は瞳子ちゃんが好きだ。
 その事実が変わるだろうか。好きな想いが増える? 減る?
 
 そんなことはきっとない。
 そんなことがあってはならない。
 何を知ろうと、何を知らなかろうと。
 祐巳は祐巳で、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんで。
 その大前提がもしかして全部なんじゃないだろうか。
 祐巳と瞳子ちゃんの、全部。
 そんな気がした。
 
 けれどそんな思いは(口にしたわけじゃないから当たり前だけど)乃梨子ちゃんには通じなかったみたいで。
「瞳子を見捨てるおつもりですか」
 なんて、冷静になった祐巳とは反対にヒートアップした言葉を投げてきた。
「そうみえる?」
「はい」
「正直者」
 思わず苦笑する、今年の一年生は本当に上級生に向かってズバズバものを言う。
 祐巳は再び首を横に振った。
 見捨てるつもりなんて全くない。
 それどころか、祐巳は俄然瞳子ちゃんのことが好きなのだ。
 たった今再確認したばかりで、この想いはきっと乃梨子ちゃんにも負けない自信がある。
「逆なんだけどな。むしろ」
「逆?」
 得心が行かない表情の乃梨子ちゃんに、はっきりと頷いて見せた。
 
 祐巳はこれからも、まだまだ瞳子ちゃんのことで考えなければならない。
 祐巳と瞳子ちゃんの歩むべき道のり。
 より良い関係の構築。
 目標は祥子さまから頂いた首のロザリオを握らせることなんかじゃ決してなくて。
 今度こそ離れてしまった距離をもう一度詰め直す、その為に自分は何を為すべきか。
 自分はどう在るべきか。
 考えなければならない、実践しなければならない。
 
 祐巳と瞳子ちゃんの関係は、終わってしまったわけではないのだから。
 
 
 〜〜〜
 
 
 選挙結果発表の日からしばらく経って。
 
 祐巳は昇降口の窓から覗く空をじっと見上げていた。
 綺麗に晴れた青空だった。思わず頬が緩んでしまうくらい。
 祐巳の手には学生鞄、羽織ったコートはしっかりとボタンが掛けられている。
 万全の帰り支度を整えて、下足場までやってきて、それで足を止めていることにはもちろん理由がある。
 祐巳は目下、とある賭けの真っ最中なのだ。
 
 帰り際に偶然、本当に偶然、一人だった瞳子ちゃんと奇跡みたいに鉢合わせた。
 頑張って頑張って、無理やりに会いに行こうとする自分を我慢していた祐巳だからそれは嬉しかった。
 瞳子ちゃんだ! うわー、生瞳子ちゃん!
 と、まぁ浮かれて迷わず「駅まで一緒に」と誘ったものの、考えてみれば靴箱前で別れた瞬間に逃げられてもおかしくはない。
 祐巳的にはもう停戦交渉の準備は整っているけれど、瞳子ちゃん的にはまだまだ冷戦状態かも知れないからだ。
 だから、賭けた。
 瞳子ちゃんが少なくとも、その交渉の場についてくれるくらいには落ち着いているか。
 あるいは、そんな場を持つ必要性を感じないくらいに祐巳を避けているか。
 ぼうと狭い窓から空を見上げる祐巳を待っていてくれたなら前者で、待っていなければ後者ということだ。
 
「分の悪い賭けかもしれないけどね」
 一人呟いた祐巳は小さく笑う。
 だって、誘ったは良いけれど「良いですよ」とも「わかりました」とも返事を貰っていないのだ。
 「お断りします」と言われていないだけマシだけれど、後者であればその返事をするかどうかも怪しい。
 上下関係が厳しいリリアンとはいえ、別に上級生として別に命令したわけでもない。
 祐巳の勝手なお誘いなんてシビアに切り捨てて、さっさと帰ってしまうかも知れない。
 家に帰れば用事があって、のらりくらりと靴を履き替えて遅い先輩を待っている暇がない可能性だってある。
 
 でも、だからこその賭けなのだ。
 大勝負に勝つためには、その前哨戦なんかで負けるわけにはいかない。
 小さなところからこつこつと。
 先ずはこの賭けに勝って、勢いをつけていきたいところだ。
 よし、と。
 腕時計の秒針が何度も回るくらいに十分な間を作ってから、祐巳は昇降口を出た。
 
 果たして瞳子ちゃんは、ちゃんとそこで待っていてくれていた。
「お待たせ。行こうか」
「はい」
 久しぶりに聞いた瞳子ちゃんの肉声に、祐巳は内心飛び上がらんばかりに嬉しくなる。
 祐巳よりちょっとだけ低い身長も、滑舌な言葉の数々も、ちょっとツンツンしてる態度も何もかも。
 ああやっぱりこの子のこと好きだなぁ、なんて、思った。
 
 で、も。
 
 
「何だろう。わからないな」
「無理言ってごめんね」
「私たちクリスマス以前の関係に戻れないかな」
「私なんか、って卑下するのやめてくれない?」
「私と瞳子ちゃん、どうなっていくんだろう、って」
「ずっと考えていたらわかっちゃったんだ」

「究極、私は、瞳子ちゃんが瞳子ちゃんであればいいんだ、って」


 マリア様のお庭で口にしたその一言がきっかけになって、瞳子ちゃんは爆発した。
 今度もやっぱり祐巳にはその理由はわからなかった。
「そうですか。そういうことですか――おかしいと思っていたんです――でも、やっと謎が解けました」
 その言葉をどう捉えたのか、楽しそうに哂いながら瞳子ちゃんはどんどんと台詞を紡いでゆく。
 理解不能な怒りを辺りに撒き散らす瞳子ちゃんの激昂に、祐巳が口を挟む間なんてない。
 自嘲か、祐巳への嘲りか。
 瞳子ちゃんはどこかで見たような、そうあのクリスマスイブの夜と同じ顔と口調で、瞳子ちゃんは猛った。
 
「何を言っているのか、わからないわ」
 台詞の隙間を付いてどうにか言えたその一言も、「無意識にされていたことなら、尚のこと始末が悪いです」とにべもない。
 祐巳の脳裏にあの夜がフラッシュバックした、差し出したロザリオと瞳子ちゃんの冷笑。
 何の因果か、場所までぴたりと一致している。
 ぞくりと、気温のせいではない悪寒が背筋を駆け上った。
 
 けれど祐巳はそこで以前と同じ過ちを犯すようなことはしなかった。
 何故なら、祐巳にはもう焦りがないから。
 瞳子ちゃんは瞳子ちゃんであれば良い。
 その一つの事柄を強く信じている祐巳だから、瞳子ちゃんの急変にも自分で意外なほど動じなかった。
「ねぇ、何か誤解していない?」
「来ないでください! それ以上、近づかないで!」
 努めて冷静に問うた祐巳に、瞳子ちゃんは激しく反発する。
 そこにある温度差がより一層祐巳の心を静めてゆく。
 
 敵意を剥き出しに睨めつけてくる瞳子ちゃんを前に、祐巳は小さく息を吐いた。
 参った。正直、参った。
 祐巳としては殆ど白旗を振っているつもりだったのだが、まさかそれを攻撃の合図として取られるとは。
 いや、違うか。
 もしかしたら祐巳は自分で攻撃の合図を振ってしまっていたのかもしれない。
 わからない。
 だって、瞳子ちゃんのことは瞳子ちゃんにしかわからないから。
 少なくとも、今はまだ。
 
「わかった。頭に血が上っているみたいだから、今は何を言っても耳に入らなそうだもんね」
 だから祐巳はすぐ折れることにした。ここで突っついても火に油を注ぐだけだ。
 点火したのは祐巳なのだろうが、どこで火を点けたのかがわからない以上は何を言っても墓穴を掘りかねない。
 今日はここまでかな。
 背を向けた祐巳は、溜息を悟られないようにそっと吐いて歩き出す。
 残念だけれど、仕方がない。
 
 せめてお別れの挨拶だけでも、と祐巳は振り返ったけれど、瞳子ちゃんの睨視はちっとも和らいでくれていなかった。
 単に祐巳が折れるだけでは不満らしい。
 らしいと言えばらしいけれど、そのまま諦めて逃げるのは何とも無責任な気がした。
 もしこの後、瞳子ちゃんが乃梨子ちゃんや可南子ちゃんに遭遇しようものなら拙いことになる。
 どうしたものかと一瞬思考が飛んだ祐巳は、遠い昔にお母さんから教わった気持ちが落ち着くおまじないを思い出した。
 祐巳もほとんど忘れていたけれど、今の瞳子ちゃんにはきっとそれが必要だ。

「その場で百数えなさい」
 お母さんの言葉をそのままなぞったので、ちょっぴり命令口調で祐巳は言う。
 何を馬鹿な、と切り返されるかなと一瞬不安にもなったけれど、今更口にした言葉は取り返せない。
「数え終わるまで動いちゃ駄目よ」
 注意事項を一つ残して、改めて祐巳は正門目指して歩き始めた。
 
 
 歩きながら背後の気配を気にしていた祐巳だったが、罵声が飛んで来たり、瞳子ちゃんが追いかけてくるようなことはなかった。
 しばらく歩いてそれが全くないことに安心すると、祐巳はがっくりとうなだれる。
「何でこうなっちゃうんだろ」
 一人ごちる問い掛けに答えてくれる人は居るはずもなくて、ぴゅうと吹いた寒風が一人の帰路を実感させてくれただけだった。
 本当なら、瞳子ちゃんと和気藹々とまでは言わなくても一緒に帰っていたはずの道程。
 バス亭までの決して長いとは言えないけれどそれでも大切な距離を、今祐巳は一人で歩いている。
 
 祐巳に奇跡をもたらせた幸運は、下足場前の廊下で瞳子ちゃんと出会った時に使い果たしてしまったのだろうか。
 それとも、その後の小さな賭けに勝った時点で無くなってしまったのか。
 どちらにしろ、祐巳はまた瞳子ちゃんとの距離を詰めることに失敗したことには違いなかった。

「失敗、失敗……か。はぁ」
 一人寂しく笑ってみても、慰めてくれる人も叱ってくれる人もいない。
 それが空しくて、祐巳は口を噤んだ。
 清清しく晴れ渡った空の下に伸びる枯れた銀杏並木は、一人で歩くには少し寂しい。
 嘘。
 凄く寂しい。
 少し前まで瞳子ちゃんと一緒に帰っていたという事実が、寂しさをどこまでも助長した。
 
 祐巳が何か言って、瞳子ちゃんが突っ込んで、祐巳がたははと笑い、瞳子ちゃんが全くもうと呆れる。
 そんな他愛のない有り触れた家路は、今の祐巳には高値の花に過ぎなかったということだろうか。
 祐巳は一度首を横に振った。
 他愛のない有り触れた家路は、結局のところ、有り触れてなんていないということだ。
 でもそれはまだその段階ではなかったというだけのこと、諦めるには早すぎる。
 
 今頃、瞳子ちゃんは数を数えてくれているのかな。
 寂しさを忘れるように、見上げた空に問い掛ける。
 お願いとは違って名目上、上級生の言い付けだ。リリアンっ子なら無下にできるものじゃない。
 きっと瞳子ちゃんは意味もわからず数を数えてくれているだろう。
 数え終わる頃には、頭に上った血も幾ばくか下がっている筈だ。
 
 少しはお姉さんらしいことができたかな、と。
 くすっと笑って前を向いた祐巳の視界がぼやける。
 何だろうと目を瞑った途端、一粒の涙が零れたのがわかった。
「あれ」
 目を開ける。
 頬を伝った涙の跡が風に吹かれて冷たい。
 目尻を拭えば、端っこに残っていた涙の欠片が指についた。
 
 寂しかったからじゃない。いくらなんでも寂しくて泣くような歳でもない。
 人が涙を流すのは悲しいから。
 拭った涙をぼうと眺めながら、祐巳はそれでようやく、今自分が悲しいんだってことに気付いた。
 拒絶されたのはこれで二度目。
 二度目とはいえ差し出した手を叩き落されたことは同じで、悲しくないわけがなかった。
 苦しくないはずが、なかった。
 
「駄目だね……私。しゃんとしないと瞳子ちゃんに笑われるぞ」
 呟き、祐巳はぱちんと音を立てて頬を挟む。
 ちょっと強くしすぎて顔がひりひりと痺れた。
 でもそれで、涙の跡は気にならなくなる。
 そうだ、そうだ、そうだとも。
 祐巳は祐巳、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんであれば良いって気付いたんだ。
 それを祐巳が守れなくてどうする、くよくよめそめそは祐巳らしくないぞ。
 しゃんとしよう。
 強くなろう。
 さっき爆発した瞳子ちゃんも、祐巳の大好きな瞳子ちゃんなんだ。
 その爆発を無理に抑えることなんてない。
 逃げることも、もうしない。
 その爆発を真正面から受け止めるんだ。
 だって祐巳は瞳子ちゃんのことが大好きだから。
 それ以外の理由は要らないし、それが祐巳の全部なんだから。
 
 晴れ渡る空をもう一度見上げた祐巳は呟く。
「また、明日ね。瞳子ちゃん」


 前途多難にして遼遠なり。
 それでも、突き進むと決めた祐巳の顔は、空に負けじと清清しく晴れていた。


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