がちゃSデビュー1周年記念。
(その1・走れ蓉子!)
(急がなくちゃ…)
バスから弾かれるように降りると、水野蓉子は自宅まで何かに追われるように走った。
黒いハイヒールがアスファルトにぶつかって、けたたましくカンカンという音を立てても。
えり足付近ですっぱりと切りそろえた髪が乱れ放題になろうと。
彼女にそれを気にしている余裕はない。
蓉子はひたすら、走る。
姉が1人待つ、我が家へと。
まるでマグマのごとくに湧き上がる、嫌な予感と戦いながら。
(その2・知れたら地獄)
「蓉子さん、ご兄弟はいらっしゃるの?」
好奇心旺盛なクラスメートたちはよく聞いてきたものだ。
「ええ、姉が1人いるわよ」
「お姉さまが!?ねぇ、どんな方?」
「それはご想像にお任せするわ」
これで終わり。
後は言葉どおり、相手が勝手にストーリーを補完するのに任せればいいのだ。
「やっぱり蓉子さまのお姉さまですもの、きっととても素敵な方なのよね〜」
「決まってるでしょ、いい妹にはいい姉がいるものよ」
きゃあきゃあと盛り上がるクラスメートを横目で見ながら、蓉子は溜息をおさえきれなかった。
(うちの姉が汚ギャルだなんて分かったら、どうするつもりなのかしら)
確かに見た目と表面的な性格だけで言えば、姉・水野芳絵は完璧な美人だ。
実際男女問わず人気があり、小学校1年くらいから彼氏が途切れたことはない。
バレンタインデーにはいつも大量のチョコレートを配っているし、
一度などホワイトデーには軽トラック1台分のプレゼントがお返しとして家に届いたこともあった。
蓉子も何度、食べきれないお菓子の処理を手伝ったことだろう。
(それをきれいな部屋で食べるならまだしも…)
思い出すたび頭が痛くなる。
そう、あれは3年前のホワイトデー。
学校から帰った蓉子が見たもの。
それは…
「あっ蓉子、お帰り〜vv」
すでに可視面積0.5%以下になってしまった床の上にちょこんと座って、
ホワイトデーにもらったお菓子を無邪気な笑顔でほおばる姉の姿。
部屋にはなんともいえない異臭が漂っている。
にんにくの匂いがするのは、そこにレバニラ炒めの残骸があるから。
香水っぽい匂いがするのは、たぶん何日もお風呂に入っていない自分の体臭をごまかすために使ったから。
メロンパンの袋からただようおいしそうな匂い。
もう何日も洗濯してない衣類がかもし出す、汗が変化した匂い。
それらすべてが交じり合って、蓉子の嗅覚をこれでもかと壊しにかかってくる。
そんな部屋で、姉はうれしそうにクッキーをバリボリと食べているのだ。
そのバリボリという音に混じって、ガサガサという音が聞こえるのはどうしてだろう。
ある考えが脳裏に浮かんだが、それはまた、最も考えたくない可能性だった。
「…お姉ちゃん」
「なーに?」
蓉子はここに至って、ついに爆発した。
「今すぐ片付けなさい、掃除しなさい!お風呂に入りなさい!」
妹のあまりの剣幕に、ただぼうぜんとするだけの姉がそこにいた。
(その3・3年目の悲劇)
そんな3年前の悲劇を2度と繰り返してはならない。
父か母がいればそれほどでもないのだが、あの姉を家に1人にしておくと、
いずれ確実に異臭騒ぎになってしまう。
何としてでもそれだけは避けなければ。
そんな思いで蓉子は家への道を急いでいた。
「お姉ちゃん、今帰った…わ…」
玄関を開けたとたんに漂うものすごい匂い。
甘いような、辛いような、それでいて…要はこれを形容するいかなる言葉も持たない匂い。
その匂いのもとをたどろうとリビングに1歩足を踏み入れる蓉子の前を、まるで道案内するかのように駆け抜ける1匹の昆虫。
蓉子はこの瞬間、すべてを悟った。
携帯を取り出し、リダイヤルボタンを押す。
「もしもしちあきちゃん?ごきげんよう、蓉子です。久しぶりね。
悪いけど今から出てこれるかしら…?」
そう、事態は3年前以上に深刻なものになっていたのだ。
数分後にやってきたのは、問答無用の世話薔薇総統に率いられた旧・次世代両山百合会と、ちあきユーゲントの混成チームだった。
「蓉子さま、事情はだいたい分かりました…すごいですね。
ここまで匂いがしてきてますよ」
ちあきの眉間にシワが寄る。
その横で智子はなぜかうれしそう。
「なんかその芳絵さまと私、すっごい気が合いそうな気がする〜」
「智子、芳絵さまとお友達になるのは後にして」
智子を冷静にたしなめたあと、ちあきは蓉子に向き直った。
「ミッション、発動しますか?」
「ええ」
「それでは今回のミッションコールは、蓉子さまにお任せいたします」
『今回のミッションは、水野家リビングルームの復旧作業!
全員気を抜かずに取り組んでちょうだい!』
『ラジャー!』
(その4・涙の大掃除)
リビングに足を踏み入れたミッションメンバーたちは、改めてその惨状に身震いした。
高価なワインのビンがそこかしこに散らばり横たわる。
その付近からはチューハイの缶もいくつか採取された。
雑誌と汚れた洋服が部屋の床を完璧に隠しており、歩くことすらままならない。
しかもである。
「総統、期限切れのぬか漬けがテレビの裏に転がっていました!」
「早く処分しなさい」
「ちあきちゃん、このピンクの液体なんだろう?」
「それはきっとこの香水ビンから流れ出たものかもしれません。
速やかに処分してください」
「分かった」
祐巳やユーゲントのメンバーと、ちあきとの会話。
それがどこか遠い世界で聞こえているように、蓉子には思えていた。
手を動かすことにひたすら集中した結果、どうやら足元への注意がおろそかになっていたらしく、
発酵しすぎてすっぱい匂いを放つキムチと、溶けてドロドロになったブルーチーズの間に足を突っ込んでしまった。
(ありえない。ありえないわ)
散らばった衣服を集めて洗濯機に放り込む。
その陰に隠れていたGを見つけしだい抹殺。
久々のミッションの舞台が、よりによってうちだとは。
蓉子はいろんな意味で涙をこらえきれなかった。
「蓉子さま、泣かないでください。蓉子さまが悪いわけではありませんから」
美咲に慰められても、蓉子の心は雨がやまなかった。
(その5・姉妹の真実)
「芳絵さま…なぜこうなったのか、ご自分の言葉で説明してくださいますか?」
ミッションを無事に終え、ちあきは芳絵に厳しい目を向けた。
「なぜって…理由なんてない」
ぷいっとそっぽを向いて、芳絵はそのまま黙り込んでしまった。
「お姉ちゃん」
なんとか話をさせようとする蓉子を、ちあきは制止した。
「蓉子さま、今は無理に話させないでください」
ちあきはなおも黙って芳絵のそばにいる。
重い時間が流れてゆく。
「…どうして、きれいにしないといけないの?」
芳絵がようやく話した言葉に、蓉子はわが耳を疑った。
思わず「はぁ!?」と叫びそうになるのを、今度は美咲が止めた。
「落ち着いて、蓉子さま」
ちあきは一呼吸おいたあと、ゆっくりと話し始めた。
「同じ質問を、ここにいる瀬戸山智子からもかつて受けたことがあります。
そのとき私はこう答えました。
『人間らしく生きてゆくために、それは必要なことだから』
幸か不幸か、智子は身の回りのことを他人に任せても大丈夫な家庭に育ちました。
だからいまいち分かっていないのも仕方ないことだと思っています。でも」
そこで言葉を切って、いまだに後ろを向いたままの芳絵の前に、ちあきは回り込んだ。
そして…まるで心の奥まで覗き込もうというように、そのまま芳絵の目をじっと見つめるちあき。
「芳絵さま。あなたはこのままで本当にいいのですか?」
「……」
3年前に同じ質問を姉からされたとき、蓉子は答えた。
「女なら当たり前じゃない」
「どうして!?」
確かあのとき芳絵はひどく怒っていたが、蓉子はそれを無視してしまった。
自分の身の回りのことを自分でするのは、蓉子にとっては当たり前のことであった。
だからリリアンに入ったとき、家庭科の授業でクラスメートがひそひそと話していた内容に、思わず度肝を抜かれたものだ。
「なんだかまるでメイドになった気分」
「うちのメイドたちも、こんなこと毎日やってるのかしらね。あ〜あ、庶民に生まれなくて本当によかったわ」
もちろん祥子や智子ほどの上流ではなく、いわゆる「中の上」くらいの家庭の娘たちだが、
これほど自分たちの出自がいいものだと自慢したい人間が多いとは思わなかった。
「…蓉子がいけないのよ」
回想にふけっていた蓉子を、思わず現実に引き戻す声。
「なんですって?」
「みんな蓉子のせいよ!何よ、休日だからって朝からこれみよがしに掃除ばかり!
どうせあたしなんか、いなくなればいいと思ってるんでしょ!」
芳絵の目から大粒の涙がこぼれている。
「お姉ちゃん…?」
「そうよね、確かに父さんや母さんにとって私は邪魔者。
そう大して美人でもないし、成績もよくないから仕方ないってずっと思ってきた…
でも蓉子。あなたはあれだけ父さんたちに愛されてて、何が不満なのよ!
どうしてあたしのことばかり叱るのよ!どれだけ傷ついてるか、分かってるの!?」
そのまま泣き崩れる芳絵を前に、蓉子は言った。
「申し訳ないけれど、しばらく2人きりにしてくれないかしら?
お姉ちゃんと2人で話がしたいの」
去ってゆくメンバーたちを見送ったあと、蓉子は静かに芳絵の手を握った。
(その6・お姉ちゃん、聞いて)
「…お姉ちゃん」
「……」
「お姉ちゃんは、私のこと嫌い?」
「……」
「そっか…嫌いか」
沈黙の中に隠された姉の本音に、蓉子はわずかにショックを受けていた。
今までしてきたことは皆、姉や家族のためによかれと思ってしたことなのだから。
「私ね…ずっとお姉ちゃんがうらやましかった。
美人で人付き合いもうまくて、いつでも彼が途切れたことはなくて…
父さんや母さんに愛されてるのはお姉ちゃんのほうだって、ずっと思ってきたの。
私には何にもとりえなんてない。
だったら人一倍努力することで、きっと親は私を見てくれるかもしれないって、
そう思っていた。
でもそれがお姉ちゃんを傷つけることになるなんて、私、夢にも思ってなかった。
本当にごめんね」
蓉子はいまだに泣いている姉の背中を優しくなでている。
「お姉ちゃん、聞いて。私はお姉ちゃんのこと、嫌いで厳しく言うわけじゃない。
嫌いだったら最初から放置している」
「…みんなそう言うのよね。好きだから言うんだ、愛してるから叱るんだって!
でもそんなの嘘よ。本当に好きなら、私のこと100%受け入れてくれるはずじゃないの!
現に私が好きになった人たちはみんな私のこと丸ごと受け止めてくれた。
どれだけわがまま言っても笑って許してくれた。
なのに…なのにうちの家族は…!」
いったい何と言えば、分かってくれるのだろう。
優しいだけが愛ではないと。
考えあぐねた末に、蓉子はおもむろに姉を抱きしめた。
「放せ!放せ!」
「放しません。お姉ちゃんが分かってくれるまで、放しません!」
腕の中でもがく姉を、必死に抱き続ける妹。
「お姉ちゃんの気持ちを無視することになったのは謝る。
だけど、これだけは気づいてほしい。
嫌いな人を叱ったりしないし、ましてや抱きしめたりしない。
家のことを手伝うのだって、掃除をするのだって、家族のことを大事に思ってるからこそできることなのよ。
私もこれ見よがしにならないように気をつけるし、お姉ちゃんのためにできることは何でもする。
だから…ね。もう少しだけ、温かく見守っていてくれないかな?」
蓉子の腕の中で、姉が力を抜いた。
やがてその胸元から、静かな呼吸が聞こえてきた。
「寝ちゃってる…」
(その7・そして新たなる絆へ)
ふと気がつくと、ミッションのメンバーたちがいない。
(そっか、帰っちゃったか…)
テーブルの上に、1通の手紙が残されていた。
『申し訳ございませんが、お先に失礼させていただきます。
また何かあれば、いつでもお呼びください。
お姉さまとのお話が、うまくいくといいですね。
ミッションメンバー一同』
眠る芳絵を起こさないよう気をつけながら、頭の下に枕をあてがい、
別の部屋から毛布を持ってきてそっとその体にかけた。
「お姉ちゃん…至らない妹で、ごめんね。
こんな妹でよければ、これからもよろしくね」
心なしか芳絵の顔に、微笑が浮かんだように見えた。