【2208】 祐巳に惚れたうさぎの夜明けのまどろみ  (SO 2007-03-27 20:55:58)


【No:2197】【No:2198】【No:2200】の続きです。
名前が出てこないですが志摩子視点ということで。




祐巳さんと二人で見つける―――

由乃さんのその言葉は、私の心の奥の、触れ難い扉の戸を叩いた気がした。


少し前の私にはまるで意味も分からなかったこと。
人間関係というその言葉のもつ意味さえ、今では私にとって大きく変わっている。そんなことに今更ながらに気付く。
佐藤聖という人に出会って、二条乃梨子という少女を妹にし、そして祐巳さんと出会うまで…

私にはただ主の教えがあって、その側で、私の中の小さな箱庭で生きるだけ。
そしてそんな、最も純粋で、気高い生き方を阻害する存在として――それでも世の理として――存在するものこそが
人間関係だと、そう思っていた。
けれど私を取り巻く環境は、様々な人との出会いによって目まぐるしく変わってきた。

そして私の心の中もまた。
嘗ての自分が、幼い夢の中にいたような気がする。それはまるで天使のような、無垢な存在として。

でも私は天使ではない。聖者でもない。青空でもなければ、樫の木でも、山百合でも、サファイアでもない。
私は一個の、小さな人間。


気付き始めてなお、私は長い間戸惑っていた。
人間として、夢から覚めて、両の足で歩かなければならない。それでも、幼い夢の残滓を追いかけて
私はまだまどろんでいるのだ。目まぐるしい心の変化に、ついていけず、おろおろと漠然とした不安を抱えて。


祐巳さんが私の手を取ってくれたとき、私を好きだと言ってくれたとき
私は救われた気がした。

私がいつの間に、こんなに彼女に惹かれていたのか、それはもう思い出せないけれど
私の側にいてくれた彼女は私のマリア様であり、天使であり、サファイアだった。


だから、一個の人間になろうとしてもがいていた、人間らしくなろうとしていた私の心は
祐巳さんという揺り籠の中でまた甘い夢に浸ろうとした。
苦しみから逃げようと、大人になりたくないと駄々を捏ねる子供のように。



私は、祐巳さんのことをしっかりと見つめていなかったのだ。
見えないのではなく、見ていなかった――


私とお姉さまはお互いを必要としていた。乃梨子にしてもそう。お互いのニーズの一致した関係。
そんな関係を築けたことは、彼女達と出会えた幸運と共に私の成長の証でもあった。
その為に山百合会の仲間達や、色んな人たちが力を貸してくれたのに。


私は祐巳さんとの間にそんな関係を築くことが出来なかった。

ただ無償に彼女は私に微笑んでくれると、抱きしめてくれると思い込んでいた。
私が狂おしいほどに彼女を求めていることを、彼女は笑って赦してくれると、思い込んでいた。


そんなはずは無いのに。彼女は私よりもずっと強い一人の人間で、色々な思いと戦って打ち勝ってきた。
だから誰からも愛されていたはずなのに。彼女が祥子さまや瞳子ちゃんと姉妹の関係を結ぶためにどれだけ心を揺らして
耐え抜いて、勝ち得てきたか知っているはずなのに。私はそんな彼女を愛したはずなのに――


私は知らないフリをして甘えていたのだ。

私の飽和した祐巳さんへの想いを抱えきれなくなっていたその時に、まるで奇跡のように手を差し伸べてくれたから。

いや、それはただの言い訳。私はどこかで気付いていた。彼女はただ、慈悲で私に手を差し伸べてくれたんじゃない。
まだ私には分からない、私の何かを求めて、それを掴み取ろうとしていた。
私は、気付かないフリをして、私の想いだけを押し付けて、彼女の優しさにつけ込んで…



彼女の為に私が泣くなんて、なんて愚かなことだろう。
彼女が傷ついていたことを憂うなんて…それはまるで、自分で振り回して腕が捥げた人形を、抱かかえて泣き喚く子供…
すべては私の愚かさが起こしたこと。

そしてそんなことさえも、由乃さんの言葉無しには気付けなかった。それが私という人間なのだ…



まだ、間に合うだろうか。
もはや祐巳さんの心を引き裂いてしまった後、それでも愚かな自分に何か出来るだろうか。
私は、また私の心を護る為に自分だけの箱庭に閉じ篭ろうとしているのだろうか。
傷つけてしまったのが、人形では無くて、最も愛した祐巳さんという人だったことに恐れ戦いて。
もう彼女は私なんかと関わり合いたく無いのかもしれない。腕を捥いでも静かに笑っている人形なんかじゃない。
怒り、悲しみ、憎むこともある、彼女も天使ではない、人間。

怖い。
彼女の言葉を聞くのが怖い。

怖い。怖い。怖い。

それでも、祐巳さんをどうしようもなく愛おしく思う――


自分が如何するか決められるのは、ただ一つ、私が如何したいのか、という思いだけ。
由乃さんはそう言った。私は、どうしたい?


私は…


怖い、逃げたい、一人の世界に、夢の世界に逃げ込んで、ただ安穏な靄の中で死んでいきたい―――


私は…


それでも、まだ祐巳さんに笑いかけて欲しい、抱きしめて欲しい、私のことを知って貰いたい、彼女のことをもっと知りたい、素敵な人間関係を、築きたい―――




由乃さんが最後の言葉をかけてくれてから、どれくらい時間が経っただろう。
随分と一人で考え込んでしまっていたらしい。それでも由乃さんは何も言わず、じっと側に居てくれた。
私の頭の中は相変わらず煩雑で、頬を伝った涙の後はまだ乾ききってもいなかったけれど
何故だか心は少し、すっきりしていた。

もう、一人の世界に逃げ込むことはやめたい。
それだけが、長い黙考の中で見出せた唯一の結論だった。
だがら、私はまた感情と不安と刺激の坩堝である「現実」に踏み出すのだ。
その先にあるに違いない、夢の世界では得難い喜びを求めて。

怖い。だけれども、私は一人じゃない。
こうして今横に、由乃さんが居てくれているように、私には乃梨子も、山百合会の皆もいる。
彼女達だって天使じゃない。私が一方的に甘えるのは許してはくれないだろうが、それでも側に居てくれる。
私が彼女達の為に出来ることを見つけられるときまで、きっと側にいたい。


「由乃さん、ありがとう」

だから今は、これが精一杯。由乃さんは怒るかもしれないけれど、私にはまだ何も出来ないから。
こんなに救われているのに情けない台詞の一つしか言えない。
でもいつか、私も皆と同じように、何かを皆にして上げられるように、大人になるから、それまで待っていて欲しい。
我がままかもしれないけれど、それでも。


何となく怒るかなと思っていた由乃さんは、私の予想と違っていた。
少し目線を切ったあと、私の頬に指を伸ばすとそのまま、私の頬を突いた。
由乃さんの行動の意味はよく分からなかったけれど、なんだかそれが嬉しかったので私は笑った。
由乃さんは、自分でやっておいて照れたのか、赤い顔をして暫く続けた。

それから
「そろそろ、帰るわよ」
とぶっきら棒に言った。

私はそっと由乃さんの手を握ると
「ええ」
とだけ返して立ち上がった。

なんで手を握るのよ、と由乃さんの目が言った気がしたので、ふと考えた。
(そうだ、それは私がそうしたかったからだわ)




二人で温室を出ると、空はすっかり夕焼けで、美しい緋色が西の空いっぱいに広がっていた。
私はその色を見て、大好きな人のことを思い浮かべずにはいられなかった。

今日は色々ありすぎて、まだ頭の中が整理されていない。
きっと由乃さんの言うとおり、いくら一人で考え込んだって答えは出ないのかもしれない。
だったら明日はちゃんと薔薇の館へ行こう。
今日迷惑をかけた妹達に、これ以上はそんなこと出来ない。

祐巳さんに会うのはとても怖い。
それでも、どうしようもなく会いたいと思っているのだから――


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