細川 可南子は実は、その現場に居合わせていた。
それはよく晴れた土曜日の昼下がり。
部活の練習を三十分後に控え、恙無く昼食の弁当を平らげ終わった後のことだ。
可南子は、腹ごなしにリリアン構内を散歩していた。
まだまだ春の遠い枯れた銀杏並木は、冬の物悲しさを侍らせて続いている。
下校ラッシュを終えた並木道はひどく閑散としていて、朝や夕方の生徒達でごった返す様が嘘のよう。
何気ない寂しさもあるにはあるが、清々しく澄み切った大空と冬の空気がそれを優しく中和していた。
遠い町の喧騒が微かに聞こえるのも、また良い。
年甲斐もなくそんな感慨に耽る可南子の背中を、麗らかな日差しと冷たい風がそっと押してくれていた。
静かに、けれどどこか軽やかな足音を響かせて可南子は行く。
何故だか少し浮かれている自分を感じて、現金なものだなと苦笑い。
可南子は今、毎日が楽しくて仕方がないからだ。
部活は忙しくてしんどいけれど、それが楽しい。
勉強はテストも近くて大変だけど、それも楽しい。
だから誰も居ない並木道、なんていう何でもないものにさえ浮かれてしまう。
人気のない並木道。
それは、可南子にとって馴染みのものだった。尊くはないけど懐かしい。
リリアン高等部に入学した当初、可南子は基本的に外界へ意識を向けなかったから。
向ける価値がないと感じていたから。
人を信じることの馬鹿らしさに喘いでいたし、世界のあらゆる全てが自分に対して敵意を持っているような錯覚に陥っていた。
だから可南子は意図的に時間をずらし、登校や帰宅を級友を共にすることは殆どなかった。
何らかの都合でたまたま一緒になっても殆ど無視していた。
孤立していく自分が手に取るように判っていたけれど、むしろそれは望むところ。
微笑すら浮かべながら、可南子は自分の陰口を聞いていたのだ。
そんな、折だった。
「ごきげんよう!」
不意に掛けられた朗らかな挨拶と共に、天使が眼前に現れたのは。
〜〜
朝の銀杏並木、いつものように登校ラッシュの中を孤独に突き進んでいた時のこと。
くりくりっと丸い瞳、可愛らしく小さな鼻と口。それにぴょこんと飛び出た二房の髪の毛が目の前で楽しげに揺れていた。
一目でぐらりときた。人じゃない、と直感した。
羽が生えていないのが不思議でならない、美少女とは正に彼女のためにある言葉だった。
不躾だとは思いつつも、可南子は思わず目の前の天使に見惚れてしまった。
可南子が目を丸くして見入ったことを単純に驚いているだけだと思ったのか、相手は「あ、ごめんね」と前置きして言った。
「驚かせちゃったかな。でもどうしたの、朝からそんなに暗い顔して」
たはは、と苦笑いするような人間味あふれる仕草にすら神々しさが付きまとう。
いや、その親しみやすさこそが彼女の神格を際立たせるというべきか。
とにかくオーラと衝撃に圧倒されて口の聞けない可南子は、ただただ天使の顔を見詰めるのみで言葉もない。
「ダメだよ、どよーんとしてるとツキまで逃げちゃうからね。ちょっと無理してでも、顔を上げよ? きっと、良いことあるよ」
うん。おねーさん保証しちゃう。
そういって自慢げに胸を張った天使は、可南子がどうにかこうにか「は、はい」とどもりながら返事をすると、にっこりと微笑んだ。
彼女は現れた時よろしく、「あん、待ってよヨシノさーん」と慌しく駆けてしまっていったけれど。
可南子の心の中に植えつけていった暖かな温もりは、その背が離れるにつれ逆に増していくようで。
「えっへへー、もう私も二年生なんだもんね。お姉さまらしいこともやらないと」
「え? あはは、わかる? そうそう、うふふー、何といっても遊園地ですから――」
そんな楽しげな会話(片一方の声しか聞こえていないけれど)が遠ざかっても、可南子の胸は高鳴ったままだった。
天使――名は後に知ったのだけれど、福沢 祐巳さまはそうやって唐突に可南子の世界に飛び込んできた。
それから、可南子の世界はがらりと様変わりした。
級友らに問いただすような真似はしなくとも、紅薔薇のつぼみたる祐巳さまの情報は勝手に耳に入ってくる。
学園新聞は低俗だったが、祐巳さまの記事が載っているだけでも存在価値はあった。
つまりがそうやって可南子は祐巳さまの情報を掻き集め、繋ぎ合わせ、胸の中に一人そっとしまうようになった。
何故なら、天使は手の届かない場所に居るべきであるから。
加えて何故なら、きゃいきゃいと愚鈍極まりない同級生と話すようなことでもないから。
可南子は祐巳さまを見ていた。
誰にも知られずひっそりと、ただただ真摯に祐巳さまだけを観ていた。
朝夕欠かさずご多幸を祈り、手の届かぬところに居られる祐巳さまを夢想し。
これまた決して届くことのない手紙を認めたりもした。
同じ空気を吸うだけで幸せだった、それが可南子の全てになっていた。
けれども、天敵の存在がそれは誤りだと教えてくれた。
天敵、新学期当初から一年椿組で最も強い自己主張していた女。
松平 瞳子。
何から何まで鼻につく相手だった。
「ごきげんよう。私、松平 瞳子と申しますの」
その日、瞳子さんはそう言って可南子の前で微笑んだ。
入学式という耐え難い格式ばった行事をどうにか終え、早く帰ろうと気持ち急いで支度を整えていた時の事だ。
背の高い可南子からせずとも、平均身長は割り込んでいるだろう低い背の丈。
加えて時代錯誤な縦ロールをした彼女の笑顔は人懐こく愛くるしいものだったが、当時の可南子にしてみれば幼稚なだけ。
高校一年生にもなって浮かべる笑顔じゃない。
そう思った。
「これから一年、同じクラスですわね。よろしくお願いしますわ」
そうしてぺこりとお辞儀。
顔を上げた彼女は何が楽しいのか、ぱっつり切られた前髪の下の目をにこやかに細めて可南子を見つめている。
無邪気だ。
無垢だ。
けれども、それらは阿呆の代名詞でもある。
可南子はシニカルに笑った。
「そうね、よろしく」
悼むようにして可南子が言うと、瞳子さんの表情が一瞬凍るのが判った。
関せず、帰り支度を再開した。
話は終わった、告げるも面倒なそんな言葉は態度で示す。
「あの!」
でも、彼女にそれは通じなかった。
良く通る声を一際大きく上げて、可南子の手を止めさせる。
「何? 私は早く帰りたいのだけれど」
「私、松平、瞳子、と申しますの。松竹の松に、たいら。瞳の子と書いて瞳子ですわ」
うっとおしげに返した可南子の目を真っ直ぐに見つめて、瞳子さんは改めて名乗った。
一瞬意味を図りかねた可南子だったが、すぐにそれが「名乗ったのだから名乗れ」という意味なのだと理解する。
逡巡。
「だから?」とでも返してやれば面白そうだけど、正直これ以上付き合うのも馬鹿らしい。
「細川 可南子。細い川に、可能不可能の可、東西南北の南、子供の子。少し、難しかったらごめんなさいね」
肩に落ちていた髪を払い、そうして彼女に背を向ける。
背後でわなわなと震えている気配が、可南子の足を軽くさせた。
そんな彼女、瞳子さんは学期が始まるや否や先ずは薔薇の館、続いて三年松組に入り浸るようになった。
目的は現紅薔薇さま、小笠原 祥子さま。
恐れ多くも祐巳さまの姉に当たるという権利を得た世界でただ一人の人物だ。
可南子は姉妹制度に関して明るくない。
だから、姉と妹という関係がどういうものかが良く判らないが、まぁ仲の良い先輩後輩だといえば一言で済むのだろうと理解している。
祥子さまが妬ましいとは、正直思う。もし自分が祥子さまであればと思ったことがないとはいわない。
けれども、可南子は祐巳さまよりも一年年下に生まれた以上、姉になる権利は初めからないのだ。
それにやはり天使の傍にいるということは、幸せ以上に気苦労を背負うことだろう。
具体的には、その神気に当てられて狂ってしまわないか、とか。
だから、可南子は遠方から眺めることがこそ愛でる最善だと信じていた。
可南子にとっての祐巳さまが、瞳子さんにとっての祥子さまなのだろう。
休み時間など、甲高い声を響かせる彼女の祥子さま賛辞を傍耳に聞いている中で、そう感じた。
でも、愛で方は可南子と彼女で正に対極。
先輩のひしめき合う三年のクラスに通うその後姿を、可南子は何度も見た。
そんな真似は可南子に出来ない。
祐巳さまを慕って二年松組に通うなんて、考えただけでも倒れてしまいそうだ。
でも、瞳子さんは通っている。
演劇部(らしい)の活動も決して暇な方ではないはずだけど、昼休みや放課後などは欠かさずで。
その姿勢は驚嘆に値するといえるだろう。
例えそれが恋慕にも似た愚直なる親愛の情だとしても、それだけ続けば立派なものだ。
最悪だった初対面のことを抜きにしても、この頃には完全に冷え切っていた可南子と瞳子さんの仲。
その可南子をして、立派だと感じさせた彼女のひたむきさは本物だと思った。
幼稚さを見習おうとは微塵も思わないが、真摯に相手を眺める視線は可南子とて同じこと。
でもそのひたむきさの有無が、遠方から愛でる可南子と近傍で愛でる瞳子さんという差となっている。
果たして正しいのはどちらなのか。
否。
果たして相手にとって喜ばしいこと、ありがたいこと、幸せなことはどちらなのか。
考えた。
可南子は一人、考えた。
そして決めた。
祐巳さまのお傍に寄ろう。
視界の末端を汚してしまうことは非常に恐れ多いことだけれど、例えそれによる罰を何れ受けるにせよ。
せめて祐巳さまのお傍で、邪魔な小枝を払おう。道を阻む小石を除こう。小賢しいものからの盾となろう。
それは梅雨が明け、高い夏の空が広がる頃の決意。
瞳子さんがその決意をもたらせたと思うとシャクだったけれど。
この想いはきっと正しいと、そう、可南子自身には信じられた。
〜〜
それから半年。
変わりも変わった可南子とその環境。
悶着の果てに、天使の祐巳さまは火星に行ってしまい、代わりに人間の祐巳さまが可南子の前に現れた。
瞳子さんは、春頃の幼稚さをすっかり影を潜めさせ、今や当時の可南子に負けず劣らずの孤立街道を突っ走っている。
祐巳さまとの不仲説、山百合会への宣戦布告ともいえる独断での役員選挙立候補などがその主な要因だ。
特に前者は、春頃の祥子さまとの蜜月が公然であるために根深く、また性質の悪いものになっている。
もっとも、乃梨子さんや敦子さん、美幸さんなど瞳子さんのことを良く理解している、理解しようと尽力できる人達はそれらに惑わされることはないようだけれど、当の本人よりも現状に苦慮していた。
悲しいかな、残念だけど、余り認めたくはないことだけれど、事実として、または眼前に広がる現実の一端として、可南子もその現状に苦慮する一人である。
単純に凸凹で人を表す場合、瞳子さんを凸とすると乃梨子さんや敦子さん達は凹に当たるのだろうと思う。
容姿はともかく、確たる個を持っている瞳子さんを受け入れたり、柔らかく受け止めたり出来るのは乃梨子さんら側にその受け皿があるからだ。
だからこそ、上手くいく。一見チグハグなように見えて、実はピッタリと当てはまる。
対して可南子は――間違いなく、凸である。
二人並べば、どうしても棘の部分が突き当たってしまう。
一定以上に近づくことはできない、そういう風になっているのだ。
それは、それで、良い。
自分が凸だろうが凹だろうが、そんなことは関係ない。
問題は、現在そんなことを考えながらぼうっと眺めている瞳子さんの横顔が、そろそろ危険な状況になってきていることだ。
場所は勿論いつもの一年椿組。
瞳子さんは図書室から借りているのだろう、ハードカバーの小説を小難しい顔をしながら読んでいる。
余程内容が気に食わないのか、その視線は親の敵を睨むように鋭かった。
いやいや、どんなに酷い文章でも顔を顰めながら読むなんてことは普通しない。
嫌になったのならそこで読むのを止めれば良いだけなのだから。
それでは何故彼女の顔がそんなに険しいのかといえば、十中八九、目下二分された集団で行われている”瞳子さん糾弾・擁護論争”であろう。
元々は全員が糾弾派であったのだけれど、中途で誰かが擁護論を展開してからというもの見事に割れた。
当人が傍にいるのに、確実に聞いているのに、それを忘れたかのように互いの持論をぶつけ合う様は何かのコントかと思うくらいに滑稽で。
けれども、その滑稽なコントに精神を乱されているのが今の瞳子さんだ。
少し前の彼女ならそんなもの、涼風のようにやり過ごしただろう。
かなり前の彼女なら、(話題が当人のことでなければ、だけど)集団に飛び込んで生き生きと演説を始めたかもしれない。
今の彼女にはそのどちらも取れない。
酷く小さくなってしまった背を丸めて、険しい顔で本を睨みつけることしかできない。
みっともない格好だ。
可南子は不快さを隠さず、鼻で笑った。
鼻で笑い、そして。
あんまりみっともない姿を見せられるのも嫌だからという理由を引っさげ、可南子は席を立った。
見たくなければ見なければ良いだけのことだから、場所を変える?
違う。
そんなことはしない、可南子は勝手に見たいものを見る。
そもそも今、可南子が瞳子さんのみっともない姿を見て不快になっているのは、瞳子さんがそんな姿勢でいることが悪いに決まっている。
だから可南子は、瞳子さんにその姿を止めさせなければならないのだ。
「予想外の反響、ってのも困るわよね」
偶然にも丁度顔を上げた瞳子さんと相対し、可南子は髪を弄んで言った。
瞳子さんは本を睨んでいた時と同じような目で可南子を見上げ、「何がわかるっていうの」と吐き捨てる。
主語を損ねたその言葉の正しい意味を知ることは困難で、可南子は少し眉を寄せる。
結局考えても意味はわからず、軽く肩を竦めて見せた。
「何も。でも、そんな顔をしていたから。こんなことを言い出す人がいるなんて、迷惑って。今、うんざりしていたでしょ」
すると図星を突かれて驚いたのか、瞳子さんは目を丸くする。
無防備な顔だった。
切羽詰っているのだろうと良くわかる。
けれど、すぐに調子を取り戻して唇の端を吊り上げた瞳子さんは言う。
「良く見ているのね。感心するわ」
おっ、と。
今のは中々のジャブ。
弱っていても拳が錆び付いたわけではなさそうね。
スポ魂全開のそんな言葉が頭に浮かび、可南子は思わず苦笑した。
軽く首を振って振り払い、そして人差し指をぴっと立てる。
「感心ついでに、いいことを教えてあげる。本を読む時ね、もう少しスピードを速めたりゆっくりしてみたりした方がリアリティが出るわよ」
演劇でも、本を読むシーンで凝視などしようものなら落第でしょう。
頭に浮かんだそんな皮肉は、けれどジャブへのカウンターにしては厳しすぎると思って可南子は飲み込んだ。
「普通、ごちゃごちゃした漢字で止まったり、難しい言い回しで読み直したりするものでしょ?」
すると再び瞳子さんの顔が驚きに染まる。
まさか”読んでいる振り”が見抜かれているなんて、と言わんばかりの表情だ。
思わずにやりと頬が緩む。
にこりとでも笑えれば良かったのだろうが、天敵の醜態を眼前にしてそれは無理な話。
思いやりを押し付けにきたわけでもないのだから。
固まった瞳子さんを置いて、可南子は席に戻った。
そうして改めて瞳子さんの方を見ると、彼女は何故か本に栞を挟んで窓の外に視線を向けていた。
本を読む演技を諦めたのか、と飽きもせず瞳子さんの後頭部を眺めていると、不意にくるりとその顔がこちらを向く。
「え」
と、思った時には瞳子さんは席を立っていた。
そのまま教室の喧騒をすり抜けて廊下へ出る。
残された可南子は閉じられた扉をぽかーんと眺めるしかできなかった。
一瞬の振り向きは何だったのだろうか。
どこへ行ったのだろうか。
結局逃げ出すなんて、らしくないわね。
つらつらと浮かんでは消える思いや疑問が、可南子の足をもう一度動かした。
何となく。
何となくだけど、先ほどの一瞬の所作は瞳子さんに呼ばれていたような気がしたからだ。
「遅いですわ」
果たして、廊下を出たすぐのところで待ち構えていた瞳子さんは、第一声に可南子をそうなじる。
聞きながら、教室とは明らかに温度の違う冷たい空気に可南子はぶるっと身を振るわせた。
改めて、やはり呼ばれていたのかと自分の判断が間違っていなかったことに安堵する一方、身勝手極まりない台詞に眉がぴくりと反応する。
瞳子さんのこういうところが駄目なのよね、と額を掻くような仕草で眉を整えると、可南子はゆっくりと瞳子さんに歩み寄った。
廊下の壁に背をつけた瞳子さんの隣で、窓の向こうに視線をやる。
「で、何? 折角のアドバイスを無下にしてまで、何か私に言いたいことでもあるの?」
「アドバイスは今後の参考にさせて頂きますわ。それよりも、あなたに言わなければならないことが一つあることを思い出しましたの」
へぇ、と顔を向けた可南子は絶句する。
瞳子さんが笑っていた。
嬉しそうに、幸せそうに、笑っていた。
そして続いた言葉は、更なる衝撃を可南子に叩き付けた。
「私、祐巳さまから姉妹の申し出をされましたのよ」
そういった瞳子さんは笑顔だった。
壮絶なる笑顔だった。
「ふふ、どう? 驚いたでしょう? 羨ましいでしょう、悔しいでしょう? 祐巳さま大好きな可南子さんですものね?」
幸せさを徐々に無くし、今度は悪意すら感じる邪悪なる感情を笑みに乗せて彼女は笑う。
うっとりと目を細めて続けた。
「素敵でしたわよ、あの時の祐巳さま。マリア様の前で、紅薔薇さまから賜ったロザリオを私の前に広げて。その場に居合わせなかったあなたに見せてあげられないのが残念でなりませんわ」
そんな瞳子さんの笑い声に、どす黒い感情が胸の奥底から吹き出るのがわかった。
祐巳さまが瞳子さんを妹に選んだこと、それ自体は然程大きなことじゃない。
元より天使の方でも人間の方でも祐巳さまの妹になる気はなかった可南子である、その座に憧れたことすらない。だからそれは良い。
でも、祐巳さま大好きな可南子さんを前に、それを自慢して胸を張る瞳子さんの態度は何だ。
勝者の余裕を身にまとい、さも自分の方があなたよりも優れていたのだと誇示しようとする台詞に何の意味がある。
嫌悪、憎悪、久しく忘れていたそれらが可南子の全身を一気に満たす。
危険な光が自分の瞳に宿ったことを悟った。
瞬間。
正にその瞬間、一瞬だけ。
瞳子さんの表情が崩れた。
高圧的に哂っていた唇が戻り、見上げながら見下ろすという器用な視線を向けていた目が細まり、それは微笑というべき表情だっただろう。
安堵すら感じさせる、仄かな笑み。
可南子には何故か、それは泣いているようにも見えた。
時間が戻る。
相変わらず瞳子さんは右手を口元に、悪女をそのまま体現するような笑顔で可南子を哂っている。
あれは錯覚だったのだろうか。
溢れんばかりの激情をどうにか抑え込みながら、可南子は一度大きく息を吐く。
その際に見えた。
下ろされた左腕の先で硬く握り締められた拳。
僅かに震えているか細い脚。
瞳子さんは何かに備えている――恐らくは、可南子の猛撃に。
それで、確信した。
瞳子さんは可南子を怒らせたいのだ。
いや、その表現は生温い。
瞳子さんは、瞳子さん自身を可南子に憎ませたいのだ。
意図はわからなかった。
そんな決意の理由は想像もつかなかった。
けれども、そんな自虐に付き合ってやるつもりはないと可南子は首を横に振る。
さらさらと自分の長い髪が背中で揺れ、胸の中に堪っていた暗い感情を払ってゆく。
改めて見た瞳子さんの笑顔は、胸が潰れるほどに哀れだった。
「そう、それはおめでとう……と、言うべきかしらね」
可南子がそう言うと、瞳子さんの表情がリセットされる。
何を言われたのか、理解するまでに数秒もの時間を要していた。
きょとんとした顔がやがて訝しげなそれに変わる。
瞳子さんは恐る恐る、という風に口を開いた。
「そ、それだけ? 他に言うことがあるんじゃないのですの? 私、祐巳さまの妹になるかも知れないんですのよ?」
馬脚を現したな、と可南子はほくそ笑む。
瞳子さんの意図は相変わらず読めないが、元々お互いに何でもかんでも通じ合っている仲ではない。
だから、敢えて可南子は確認した。
「ということは、瞳子さんはお受けしなかったのね。祐巳さまからのお申し出を」
今度は瞳子さんが絶句する番だった。
畳みかけるように可南子は言う。
「どうして、なんて聞く気はないわ。祐巳さまの妹が誰になるかは、まぁ、ともかくとしても。あなたの進退に興味なんてないもの」
肩を怒らせた瞳子さんが両拳をぐっと握る。
「敢えて言うなら……そうね。あなたにも事情があるし、祐巳さまにも事情がおありでしょう。それを第三者である私がどうこう言えるものでもないわ」
「事情」
ピンポイントに、瞳子さんは言葉を抽出した。
「あなたに何がわかるっていうの。あなたなんかに、何がわかるっていうの」
「何もわからない、と言ったはずよ」
教室でのやり取り、内容はもしかしたら同一だったのかもしれないそれを繰り返した二人は睨みあう。
先に口を開いたのは可南子の方だった。
「わかって欲しいのなら、わかるように言えば良いのよ。言わずに閉じこもって、わかってもらえないわかってもらえない、なんて。いつの、誰の、ことを言っているのかしらね」
くすくす笑ってそう言うと、可南子だけ余裕を取り戻したことが気に食わないのか、瞳子さんは顔を真っ赤にして言った。
「誰があなたにわかってもらおうなんて思うもんですか」
「あなたもいい加減人の話を聞かないわね……私はあなたのことになんて興味はないって言ったでしょ」
呆れた風に肩を竦めてやると、それで瞳子さんの肩から力が抜けた。
「可南子さん」と小さく呟いた言葉に乗る微妙な感情は、可南子の心を柔らかく絆した。
それに誘われるようにして、言う。
「でも、あなたにはわかってもらいたい人が居るのでしょう?」
俯き、視線を落とした瞳子さんは答えない。
それは無言の肯定のようであり、また、それを否定するかのような沈黙だった。
返すべき言葉を持たない瞳子さんに、窓から離れて可南子は告げた。
「私が、あなたにいう言葉は何もないわ。あなたも、私にいう言葉なんて今はないはずよ」
そうして可南子は教室への扉に向かう。
そろそろに本鈴が鳴りそうな時間だった。
扉を開けて、そして。
「そうね……私を羨ましがらせるような報告ができるようになったら。その時は、聞いてあげなくもないけれど」
振り向きもせずに、そう言った。
戻った教室は相変わらずに騒がしい。
可南子が帰ってきても、瞳子さんが帰ってきても、本鈴が鳴っても、まだ止まない不毛な論争。
そろそろに本気で耳障りだ、と感じ始めた丁度その頃、先生が登場してその争いは終わった。
それがまた一層可南子の胸をムカムカとさせる。
先生が登場したくらいで止められる意思のぶつけ合い。
ママゴトの喧嘩なんてそんなもの、底が浅いのよ。
可南子は一人、そんな悪態を吐いた。
〜〜
そんな細川 可南子は実は、その現場に居合わせていた。
それはよく晴れた土曜日の昼下がり。
部活の練習を三十分後に控え、恙無く昼食の弁当を平らげ終わった後のことだ。
可南子は、腹ごなしにリリアン構内を散歩していた。
「来ないでください! それ以上、近づかないで!」
屋外でも良く通るその声は、例え絶叫だとしても聞き間違えない。
その声に驚いた可南子が脇道から駆けつけた時には、もう全部終わっていた。
マリア様のお庭。
立ち尽くした瞳子さんと、去ってゆく祐巳さまの背中。
瞳子さんに追う気配はない、目を閉じて何かを呟いている。
そして祐巳さまも振り返る様子はない、空を仰いでゆったりと歩いてゆく。
何があったのか。
何かがあったのだろう。
けれど完全に部外者だった可南子がその場に飛び込むことができるような空気はそこになく、可南子は木の影に隠れるようにして離れていく二人の距離を眺めるしかなかった。
手を伸ばせば届く距離だっただろうけれど、可南子は敢えてしなかった。
やがて、瞳子さんがその場にしゃがみ込む。
元より小さな背が丸まり、まるで泣き濡れる幼児のようだった。
ふっと。
遠い過去の記憶が蘇る。
小さな背中。
余りにも弱々しいその姿。
瞳子さんの時間は、あの時から凍り付いてしまっているのだろうか。
可南子は静かに身を翻す。
まだ、可南子が瞳子さんの前に立つべき時ではないだろうから。
後ろ髪を引かれる思いだったが、何とかそれを振り切った。
今日ほど長い自分の髪が煩わしく感じたことはない。あんまりにも強く長く引き過ぎだ。
去っていった祐巳さまとは反対方向に、ゆっくりと歩を進める可南子はため息を一つ、落とす。
目の前に広がるのは人気のない銀杏並木、先ほどまでと全く同じ風景のはずなのに、沈んだ心は一向に浮かんでこない。
むしろ、さっきまでは殆ど感じなかった肌寒さの中に孤独さを感じて空しくなった。
まぁ、泣いている(ように見えた)級友を放置しての道程だ。
軽やかにスキップしながらいくというわけにもいかないだろう。
可南子はそうして、静かに祈った。
瞳子さんと、祐巳さま。
二人の前に続いている道はどうか、今可南子が歩いているような肌寒いそれでないことを。
瞳子さんにも祐巳さまにも、麗らかな日差しの差し込む暖かな道が似合うから――