『【No:314】新説逆行でGO』からの続き物。
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└【No:814】└【No:558】
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└【No:993】┘
→【No:1445】→(【No:1483】)→【No:1862】→【No:1874】→【これ】
└【No:1447】
梅雨の時期は沈みがちだった祥子さまも復活をはじめた、季節は初夏。
今、祐巳は久々にお手伝いに呼ばれて志摩子さんと一緒に薔薇の館に向かっているところだった。
梅雨入りとほぼ時を同じくして、毎日行くのを止めていたこのお手伝いだけど、あの後は定期的に呼ばれることもなく、半月程前に本当に忙しくて手伝いが必要だからと三日位通って以来、薔薇の館とはご無沙汰になっていた。
さて、問題の聖さまと志摩子さんの状況だけど、相変わらず接点はさっぱりで、薔薇の館でも依然として聖さまの姿を見ることは出来なかった。
それ以外の場所で偶然見かけたこともあったけれど、祐巳には天下の往来で『白薔薇さま』に話しかけて、またいらぬ噂を煽る勇気も無かったし、逆に聖さまからこちらに話しかけてくることも無かった。結局、仔猫の一件以来今まで、直接話をする機会は一度も無かったのだ。
仔猫といえば、少し前の話になるけれど、祐巳が聖さまと仔猫の一件を祥子さまに話した時のこと。
祐巳がその話を一通り終えると、祥子さまは「それで、どうして志摩子を避けるのかしら?」と首を傾げられていた。
その時は聖さまと普通にお話できて祐巳は嬉しさのあまり、祥子さまの言葉に注意を払っていなかったのだけど、今思い出してみると、祥子さまの言葉には割と重要な事実が含まれていた。
初めて志摩子さんを薔薇の館に連れて行ったとき、聖さまは「あなたが手伝いに来るのは嫌」とはっきり宣言していた。
それで志摩子さんが怒ってしまって聖さまと喧嘩したのだけど、そのとき祐巳は「嫌われた」と思って、結局、仔猫のことがあるまでずっと落ち込んでいたのだ。
仔猫の手当てをしてくれた時、聖さまはもしかしたら『仔猫の非常事態』は『個人的感情』とは関係ないから、と割り切って対応してくれたのかもしれない。でも、そんな割り切って考えられるのなら、祐巳たちが手伝いに来る時どうして仕事をボイコットする必要があるだろう?
中庭で仔猫の相手をしていた聖さまは、祐巳と居るのが苦痛な様子はまるで無かった。だからこそ祐巳は喜んだのだ。
そういうわけで、祐巳は嫌われてる訳ではないらしいのだ。
となると、聖さまはどうして薔薇の館に姿を見せないのか? ってことになる。
実はこの辺は一人で考えてもどうにも判らず、ここしばらく思考停止していたのだ。
もちろん祥子さまに協力してもらえば、聖さまが一人になった時を狙って祐巳が聖さまにアプローチすることも可能なのだけど、志摩子さんとの距離を縮めるという本来の目的を考えるとそれは『控えるべき』ことだった。
この辺は祥子さまと話し合った結果なのだけど、結局祐巳はそのときの祥子さまの『しばらく待ちましょう』という言葉に従って『思考停止』してしまっていたのだ。
でも、ちょっと思い出してみれば判ることだった。いや、祥子さまの言葉通りの意味なのだから失念していた祐巳がどうかしている。
多分『嫌われてる』ような態度を取られたり『そうでもない』ように見えたりと振り回されたから周りが見えなくなっていたのだろう。
今日、久々に薔薇の館に行くことになって、歩きつつ思い返していたら急にひらめいたのだ。
祥子さまの『志摩子をさけるのかしら』という言葉を。
――もしかして、避けられているのは志摩子さん?
確かにお手伝いの時も然り、聖さまに避けられるのはいつも志摩子さんと一緒の時だった。
いつか志摩子さんは「私が居なければ」と言っていた。多分その時点で既に気付いていたのだろう。だから志摩子さんは祐巳に聖さまと一人で会うことを勧めたのだ。
つまり、そこから導かれる結論は、一つ。
聖さまは、志摩子さんが嫌い――。
「……最悪だ」
「祐巳さん?」
思わず呟いてしまった言葉に志摩子さんが不思議そうに首を傾げた。
「最悪って?」
「う、ううん。なんでもない。ところで、志摩子さんってさ」
「なあに?」
柔らかい表情で微笑む志摩子さんに、祐巳はちょっとためらいつつ問いかけた。
「聖さまのこと、どう思ってる?」
「どう、って……?」
「ええと、好きとか嫌いとか」
そういえば前にも同じようなことを聞いた覚えがある。その時志摩子さんが何て答えたのかよく覚えていないのだけど。
「そうね、あの方は白薔薇さまで……」
「え?」
「特に好きとか嫌いとか、そういう感情は私には無いと思うわ」
「そうなんだ?」
でも、それなら最初に薔薇の館で見せた強気な態度はなんだったのだろう?
そう考えていることが顔に出てしまったのだろうか、志摩子さんはこう言った。
「祐巳さんを傷つけるような事を言った時は、思わず非難してしまったけれど。でも、あの方はそれ以上祐巳さんを傷つけないように身を引くだけの分別を持っていらっしゃるから」
「私を傷つけないように?」
「ええ。誰でもどうしようもない感情を持ってしまう時ってあると思うの。でも、あの方はそれがちゃんと判っていて、それで私と祐巳さんを避けてるのだわ。白薔薇さまは優しい方よ」
「ええと……」
好きでも嫌いでもない理由が、『優しい方』だから?
じゃなくて、聖さまはどうしようも無い感情があって、それで祐巳と志摩子さんを避けてて……?
いろいろ予期しない事を言われて祐巳は混乱してしまった。
本当は、志摩子さんが聖さまを“好きか嫌いか”って聞いた上で、じゃあ、聖さまは志摩子さんのことどう思ってるのかな? と聞くつもりだったのだ。
「祐巳さん?」
「……ごめん。その、もっと判りやすく言ってくれないかな?」
そう言うと、志摩子さんは少し考えてから言った。
「どこが判らなかったかしら?」
「え、えっと、私を傷つけるってあたり?」
つい疑問形になってしまったけれど、差し当たり気になる点はそこだった。仔猫の時の件で祐巳は嫌われている訳ではないと判ったのに何故? ってこと。
「白薔薇さまは最初に祐巳さんを拒絶したでしょう?」
「でも、後で普通に話せたよ?」
「それは祐巳さんだけだったからでしょう」
「うん、志摩子さんが言ったんだよね、私だけなら普通に話せるって」
「ええ」
「じゃあ、志摩子さんも私が志摩子さんと一緒だから聖さまが近づかないって思ってるんだ」
つまり、さっき考えていた結論だ。聖さまは志摩子さんのことを嫌いだから。そのことが祐巳を傷つけるって。そういうこと?
でも、志摩子さんは言った。
「そうでないわ」
「え? でも聖さまと喧嘩して……」
「私が祐巳さんと一緒に居ると、というのはあってるわ。でも祐巳さんはきっと誤解してる」
「誤解?」
なにが誤解なのだろう。祐巳一人なら大丈夫で志摩子さんと一緒じゃ駄目ってことは、志摩子さんが嫌われてるとしか思えないのだけど。
「私も白薔薇さまと一対一なら普通に話をするのよ」
「ええ!?」
そんなの聞いてないよ。
じゃあなんで?
「祐巳さんは私が白薔薇さまに嫌われてると思ったのでしょう?」
「う、うん。違うの?」
「一度、委員会の時に白薔薇さまが来られたことがあって、事務的な話をしたの」
「事務的な?」
「ええ。そのとき白薔薇さまは私に報告書についていくつか質問された後、最後にあそこで口論になったことを謝られたわ」
「謝った?」
「ええ、私も『失礼なことを言いました』って謝り返したのだけど」
「それで?」
「それだけよ」
「それだけって……」
「本当にそれだけ。お互いに謝ってそのあと『じゃあ』って白薔薇さまは行ってしまわれたわ」
「……」
なんてこった。
いつの間にか、聖さまと志摩子さんは仲直りしちゃってたんだ。
「それっていつぐらいの話?」
「そうね、梅雨が始まる頃だったから……」
ってことは、聖さまと仔猫の一件よりも後。丁度、薔薇の館に毎日行ってたのが、また呼ばれたら行くように戻った頃だ。
そういうことなら早く言ってくれたら良かったのに。でも志摩子さんは取り立てて話すようなことでは無いと思っていたそうだ。
――でも。
だとすると、また判らなくなる。
「じゃあ、聖さまは何でお手伝いの時来ないの?」
『お手伝い』として薔薇の館に行った時に、聖さまの姿を見たことは一度も無い。前にも述べた通りそれは変わっていない。
志摩子さんは静かに、でも祐巳にとっては割と衝撃的な事を言った。
「あの方は私の前では祐巳さんに近づけないのだと思うわ。私はその気持ち、なんとなく判るの……」
え? え? 志摩子さんの前では?
それに『近づかない』んじゃなくて、『近づけない』?
それからそれから、志摩子さんは判ってるの!?
「何で? 何で聖さまは私に近づけないの?」
迫るように聞いたのだけど、志摩子さんは何故か少し悲しそうな表情を浮かべて言った。
「それは、私が話すことではないわ。祐巳さんが直接白薔薇さまの言葉で聞くべきことよ」
聖さまが祐巳を嫌っているようには見えない。
志摩子さんの話からすると、聖さまと志摩子さんも仲直りしている。
では何が障害になって、聖さまは二人を避けているのだろう?
何とか志摩子さんから聞き出したいと思ったのだけど、もう薔薇の館に着いてしまったし、経験上志摩子さんがこういうことを言う時は、絶対話してくれない。
祐巳はこれ以上のことを志摩子さんから聞きだすのを諦めるしかなかった。
〜
ちょっとご無沙汰だった薔薇の館の会議室。
聖さまはやはり居なかったけど、それ以外のメンバーはお茶の用意をしているうちに全員揃っていた。
そんな中で志摩子さんと一緒に作業をするのはどこか久しぶりに思えた。
仕事が詰まっているとのことで、お茶をしながら雑談もそこそこに、しばらくするとみんな黙々と作業に集中し、会議室には書類をめくる音とペンが紙を擦る音だけが静かに響いていた。
祐巳は聖さまの件でがすっきりしなくて、最初、思考がそっちに行きがちだった。
でも、お手伝いに呼ばれたということは本当に忙しいはずだってことを思い出し、みんなの足を引っ張らないようにと、祐巳も気持ちをお仕事モード切り替えた。そんな切替も『前』の経験あってのことなのだけど。
それは、そんな時のことだった。
「志摩子」
「はい?」
お姉さまが志摩子さんのことを「志摩子」と呼び捨てにした。
祐巳と志摩子さんがお手伝いに来る時は、祥子さまが二人の担当になったことは前にも云ったのだけど、その関係で、お手伝いに来ている間は祥子さまが祐巳や志摩子さんの名前を呼ぶ機会が多かった。
でも毎日通っていた頃はちゃんと祐巳のことは「祐巳ちゃん」、志摩子さんのことは「志摩子ちゃん」と呼んでいた。
今日は久々だったからそれを失念していたのかもしれない。無意識にぽろっと口からこぼれたって感じだった。
『前回』は、どういう経緯か祐巳は聞いていないのだけど、先輩方は全員志摩子さんの事は呼び捨てにしていた。
確か朝の温室で話をする時もその名前が出る時は呼び捨てだったから、その癖が出てしまったのだろう。もちろん今山百合会で志摩子さんを呼び捨てにする人はまだ他にはいない。
「ちょっとここなんだけど……」
祥子さまは気づいていないらしく、そのまま志摩子さんと話をされていた。
でも、その横で蓉子さまが変な顔をして、何か言いたそうに祥子さまの方に視線を向けていた。
そして話が終わって志摩子さんが席に戻ってから、
「ねえ祥子」
ほら。
早速、蓉子さまに声かけられちゃった。
「はい?」
祥子さまはご自分の仕事に戻ろうとしてたのを中断して蓉子さまの方に顔を向けた。
「その呼び方なんだけど」
「呼び方といいますと?」
「姉妹でもないのに呼び捨てはどうなのかしら?」
祥子さまは「あっ」と言う顔をした。
でも、ちょっと考えてからこう言った。
「別におかしくはありませんでしょう? 志摩子はここの一員なのだから」
「まあ、祥子がそう思っているのならいいのだけど」
「気になるのでしたらお姉さまもそう呼べば良いのですわ」
流石、お姉さまだ。
開き直ったと思ったら、謝りも訂正もしないで通してしまった。
結局その日、祥子さまは志摩子さんのことをずっと呼び捨てにしていた。
祥子さまは、もしかしたら『前回』にあわせるためにあんなことを言ったのかもしれない。
ただ、相変わらず祐巳のことは「祐巳ちゃん」だった。
〜
翌日の朝、呼び名の件に関して温室でお姉さまに聞いてみた。
「お姉さま、薔薇の館で志摩子さんは呼び捨てなのに私の事は『ちゃん』ってつけるんですね」
「あたりまえでしょう」
「え? どうしてですか?」
「……判らないの?」
判らないの、と言うってことは、お姉さまは当然判ると思っていらっしゃったということだ。
でも、考えても何も思いつかなかった。
「えーと、すみません。わかりません」
「だったらいいわ」
「へ?」
いいわって、質問したのは祐巳の方なのに。祥子さまは勝手に話を終わらせてしまった。
「あの、いいと仰られても、判らないんですけど」
「良いでしょう? 私が薔薇の館であなたのことをなんと呼ぼうと」
いや、結構重要な問題な気がするんですけど。
ここは、はっきり意見を述べなければならないだろう。もやもやしたままというのはダメだ。
「良くないですよ。なんか『祐巳ちゃん』と呼ばれるたびに志摩子さんと比べて距離を置かれてるような気がしますから」
「そんなわけ無いでしょう?」
「じゃあ何でなんですか?」
「……」
お姉さまは目を逸らして向こうを向いてしまった。
「お姉さま?」
「……からよ」
「え?」
お姉さまらしからぬ小さな声だった。
「……祐巳が呼び捨てにされるのが嫌だったからよ」
「へ?」
「だって、祐巳のこと呼び捨てにしたら同じ理屈でお姉さま方や令まで祐巳の事『祐巳』って呼ぶじゃない」
「あ、そうか……」
「それが嫌なの」
祥子さまは向こうを向いたままだ。
なるほど。 納得。
確かに薔薇さま方や令さまから「祐巳」って呼び捨てにされるのは祐巳としても避けたいところだ。
なんというか畏れ多いというか、日常的に薔薇さまに呼び捨てになんてされたら大変なことになってしまう気がする。
いや、一般の反応もそうだけど、祐巳自身も。
それはともかく。
「何をへらへらしているの!」
「い、いえ」
思わず頬を抑えるのだけど、祐巳の表情は緩みっぱなしになってしまった。
だって、祥子さまが祐巳に対してそんな独占欲を露にするなんて……。
「……そう。志摩子がそんなことを」
表情の緩み具合がようやく普段くらいに回復してから祐巳は祥子さまに、先日薔薇の館に向かう途中で聞いた志摩子さんの話をした。
「祥子さまはお判りになりますか?」
「そうね……」
この時期の志摩子さんや聖さまのことは、近くで見ていたはずの祥子さま。
祐巳よりは志摩子さんの言っていた話が判るのではないかと期待した。
でも。
「……判らないわ」
「そうですか」
やはり、祥子さまといえども、あの二人の間にどんな相互理解があるのかは判らないようだ。
「でも、待ってみて正解だったわ。もしかしたら、もう大丈夫なのかもしれないわね」
「え?」
「二人は何もしないうちに仲直りしてしまったのでしょう?」
「は、はい」
確かにそう。聖さまの方から謝られたと聞いて祐巳はびっくりしたものだ。
祥子さまは続けて言った。
「今回は祐巳が間に入ってしまって、条件は違うのかもしれないけれど」
「うっ……」
つい呻いてしまった。思えばこのややこしい事態は全て祐巳の行動を因としていたのだった。
「もう、わだかまりが無いのなら、案外簡単に丸く収まるかもしれないわね」
「そ、そうでしょうか?」
志摩子さんは聖さまに対して祐巳にはよく判らない理解を示しているものの、昨日聞いた話では『好きでも嫌いでも無い』と言っていた。
それってつまり『どうでもいい相手』ってことなんだよね。
だから、何らかの形で『姉妹』としてくっつけようとしても、難しいのではないだろうか?
こういうのは最終的には互いの気持ちだから、周りがどうこう言ってもどうにもならない気がするのだ。
そんな思いは、どうやら祥子さまには当然のことだったらしく、こう言われた。
「私に出来ることは機会を提供するくらいで、あとは本人達の気持ち次第なのだけど。でも、そろそろ仕掛けても良い頃かしら」
「仕掛けるって、何をなさるおつもりですか?」
「まだよ。もう少し様子を見て判断するわ」
だから、何を?
でも祥子さまは、それについて何一つ教えてくださらなかった。