【2273】 豊かな音楽今此処に生きるものよ  (若杉奈留美 2007-05-19 21:06:00)


「ごきげんよう…って、誰もいねえのかよ」

意志の強そうな横顔から、小さな息のかたまりがボールのごとく吐き出される。
それを受け止めるのは、見慣れた空間。
そこに人は、いない。

(ま、掃除機が標準装備なんだから、ラジカセもありだろうな)

手にしたラジカセを無造作にテーブルの上に置いて、白薔薇のつぼみの妹はもう片方の手にあったCDを眺めた。

(神秘なるバリケード〜チェンバロ名曲集、か)

バロックよりも少し前、古楽と呼ばれるジャンルがある。
その時代のフランスの作曲家、フランソワ・クープランの手になるこの曲。
全体的に低めの音で推移するメロディはあくまで古風で控えめで、それでいてどこか謎めいた感じを与える。
まさに神秘的だが、バリケードというには柔らかい曲。
古い時代の面影を残す薔薇の館で流せば、これほどぴったりはまる音楽もないだろう。
涼子はCDを手に取り、CDラジカセにセットした。

本体のキーを操作し、その曲がエンドレスで流れるように設定する。

一瞬、ラジカセが曲を探すカリカリ、という小さな音が聞こえたあと、チェンバロの優雅な音色が薔薇の館の空気を優しく揺らし始めた。
窓の外から聞こえる歓声は何部だろうか。
マリア様の心のような5月の風に乗って聞こえるその声と、いにしえの穏やかな旋律が相互にからみあい、
この上ない平和な空気と時間を作り出した。

思えば家庭の中は忙しく、混乱の極みにある。
自分が育児や家事を担当しなければならなくなって初めて気づく、親という仕事の大変さ。
決して思うがままには振舞ってくれない小さな弟や妹たち。
それでも彼らを見捨てたりすれば、たちどころにこの世界で路頭に迷うことになる。
そんな思いは絶対にさせたくない。
だからこそ毎日必死で生きているのだが。
リリアンに通えていること、こうしてひとりきりの時間が少しでも持てることは、涼子にとっては奇跡なのだ。
終始控えめに流れる音の中で、素直にそれを感謝したい気持ちになった。
そういえば聖書の時間に、シスターが言っていた気がする。

「必要なものは、もうすでに与えられていますよ」

きっとこういう時間が、自分には必要だったのかもしれない…。
そう考えをめぐらすうち、涼子のまぶたは少しずつ閉じられていった。



「ごきげんよう…」
「しーっ」

紅薔薇と黄薔薇、双方のつぼみの妹がビスケット扉を開けたときには、涼子はすでに眠りの世界に入っていた。
それを知ってか知らずか、神秘なるバリケードはいまだに鳴り続けている。
曲が何度目かのエンディングを迎えたタイミングで、美咲はラジカセを止めた。

(このままじゃ風邪ひいちゃうね。起こしたほうがいい?)

声をひそめて理沙が言う。

(しばらくこのままにしといてあげよう)

美咲もまた、小声で答えた。

(じゃぁ1階に毛布かなんかあったはずだよね。探してくるよ)
(わかった)

親友が毛布を探しにドアを出るのを見届けると、美咲は涼子のかたわらに座った。
わずかに茶色みを帯びた髪は、細く短い三つ編みができている。
夕暮れ時の光を浴びて、髪がキラキラ輝いている。
その輝きを、美咲はそっと撫でた。
子どものような寝顔に、静かな息遣い。
しばらくして戻ってきた理沙は、眠る友の肩にそっと毛布をかけながら言う。

「なんだか…ずっとこのまま抱きしめていてあげたいよね」
「ほんとだね」

いまだに残る柔らかな余韻の中。
2人のプティスールは、もう1人の白いプティスールの肩を温かく抱いていた。


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