※1:オリジナルキャラクター主体です。
※2:時間軸は「いばらの森」に合っています。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
私立リリアン女学園。
ここは、乙女たちの園――
『死にたくなるほど、誰かを好きになったことはある?』
それは名も知らぬお姉さまの言葉。
初めて聞いた時は、その理不尽さに眉を寄せた。
だってそんなことはあり得ないから。
あんまりにも馬鹿馬鹿しいから。
好きな相手がいるのなら、間違っても死んじゃうわけにはいかない。
その人と一緒にいて、お話して、楽しく、幸せに、日々を過ごさなくちゃいけないから。
それは義務だと思う。
一人の女の子として生きて、ちゃんとその人を好きになったのなら。
その人の傍にいようと努力して。
その人と好きあえるように頑張って。
それで、ちゃんと、幸せになる。
それは義務だと思う。
それは義務だと、思っていたんだ――
〜〜〜
「あのー」
「はいはーい。流行の”いばらの森”なら駅前か神田のブックストアへどーぞ。それ以外なら受け付けるけど何か用?」
びしり。
あわれ、勇気を振り絞って声を掛けてきたのだろう図書館では新顔の一年生は、丁度その時カウンタで受付を行っていた平坂 紫苑(ひらさか しおん)さまの先制攻撃を受けて固まってしまった。
紫苑さまは元気一杯に揺れるショートの黒髪がトレードマークの、リリアン二年生のお姉さま。
基本的には全体的に物静かな人が集まっている当代図書委員会の中で、ぐいぐいと皆を明るく引っ張っていく役の方だ。
そんな紫苑さまをして口調をぶっきらぼうにさせているのは、繰り返し投げかけられる同じ内容の質問。
すなわち、「コスモス文庫の”いばらの森”はありますか?」である。
試験が始まった頃からもそうだったけれどここ最近は本当に多くて、紫苑さまと一緒に受付をしている一之瀬 桃花(いちのせ ももか)も正直げんなりしていた。
だけどそこは公共の場である図書館を預かる、図書委員会としての責務がある。
げんなりしても面倒でも、¥0の営業用スマイルを気合で作って乗り切るのが桃花たちの仕事である。
ただ、割とご自分やそれ以外を取り繕うのが苦手なのは紫苑さま。
胸中の不機嫌とイライラをそのまま吐き出されるので、口調は自然と投げやりなものになってしまうのだ。
フォローをするのはもちろん、脇を固めるサポートの一年生。
今この瞬間においては、桃花のことである。
「何か、お探しでしょうか? 本のタイトルをご存知でなければ、作者かジャンルを仰って頂ければご案内いたします」
桃花が割って入るようにしてそう言うと、その一年生はほっと安堵の表情を浮かべて桃花を見た。
さっきの一言を言いに来るのにも、長い間図書館の出入り口辺りでうろうろしながら迷っていたような人だ。
紫苑さまのちょっと大人気ない返し方は、少し厳しかったことだろう。
そんな桃花の気遣いが伝わったのか、ぺこりと頭を下げてその人は「ありがとうございます」と微笑んだ。
「でもそれには及びません。仰せの通り、駅前の本屋へ行ってみることにしますね」
ごきげんよう、と。
定番の挨拶を残して去っていった彼女を見送って、桃花は小さく息を吐いた。
そして、いまだに隣でぶすっとされている紫苑さまに向き直る。
「紫苑さま……さっきのはないですよ。驚いてたじゃないですか」
「そんなこと言ってもねぇ、もう何回目よ?」
紫苑さまは反省の欠片もなく仰って顔を顰められた。
「知らないですよ、そんなの」と改めて肩を落とした桃花は、最近の業務シフトを提案したお姉ちゃんこと一之瀬 菫(いちのせ すみれ)さまの正当性を今更ながらに痛感する。
受付や雑務に当たる作業のシフトは、基本的に決まっていない。
時期によって偏りがあったりもするけれど、基本的にはその日その時で適当に話し合って決めていた。
だけど”いばらの森”の噂が大きくなるにつれて、その所在を問うてくる新顔さんが図書館には多くなり。
比例して、紫苑さまとその妹である秋山 茜(あきやま あかね)さんの機嫌がどんどんと悪くなっていった。
だからお姉ちゃんと司書さんである藤堂 若菜(とうどう わかな)さまは話し合って、先述の通り元々は好き勝手だった委員会のシフトを今回の試験期間中に限り変えた。
一組目は、本日のコンビである紫苑さまと桃花。理由は推して知るべしである。
二組目は、桃花のお姉さまに当たる天野 早苗(あまの さなえ)さまと、茜さんのお二人。理由は以下略。
そして三組目がお姉ちゃんと、桃花たちと同じ一年生の田辺 小春(たなべ こはる)さん。
三組目に限ってはどちらかが相方のお目付け役ということはなく、仕事に関する安定感には若菜さまや先生方からも定評がある。
いわば、委員会全体のお目付け役といったところか。
この三組で受付はローテーションして、他の面子が雑務をこなすという体系だ。
本当は試験期間中なので、その変則ローテーションで残らなくても良いことになっている日は家に帰っても良いのだけれど、どうせ勉強するなら、ということで結局委員会は放課後図書館に集まって勉強をしている。
まぁ、続けて勉強するにも限界があるので、当番以外は三時や四時くらいに引き上げてしまおうという話にはなっていた。
が、やはりどうせ仕事をするならお姉さまとしたい桃花としては、早く”いばらの森”騒動が収まってくれることを祈るばかりだ。
はぁと溜息を一つ落とす。
隣では、紫苑さまが相変わらずふて腐れたように頬を膨らませて、天井を見上げられていた。
その日の帰り道。
珍しく、図書委員会一年生三人だけの帰路でのこと。
寒くなったね。いやー、寒い日は肉まんに限るよね。豚まんというのではないんですの? 一緒だと思うけど、どうなんだろ。ブタで思い出したんだけどさぁ、本当いい加減にして欲しいよね。”いばらの森”ですか? 茜さんの連想パターン異常すぎ、ついていけないよ。お姉さまと一緒なら散々愚痴もいえるんだけど、そうもいかないからストレスが溜って溜って。そうなさらないための、菫さまのご配慮ではないですか。
など、中途にそれぞれの合いの手を挟みながらも、概ねそんな流れで桃花らの会話はお姉さま、つまりは二年生を対象にしたものに移った。
「そうだよ。今の紫苑さまと茜さんに、揃って受付なんてさせられないよ。本当」
桃花がやれやれ、と言わんばかりに肩を竦めると、茜さんはむっと唇を尖らせる。
「そんなことないもん。お姉さまと一緒なら機嫌も良くなって愛想も良くなるんだから受付だって余裕に決まってる」
「まぁ、ごちそうさま。でもそうはならなかったからこその現状ですわ。紫苑さまも平時ならきちんとされる方ですのに」
そんな小春さんの首振りに、桃花はうん、と頷いた。
紫苑さまは仕事でも何でも、適当になさるような方ではない。
面倒なことや大変なことに関しては不満をぐちぐちと漏らしながらも、それでもしっかりとこなされる方だ。
だからこそ、最近のやさぐれようはおかしい。
何か思うところあるのか、それともやっぱり単に猫も杓子も”いばらの森”な現状がお嫌なのか。
わからない。
「ほんのちょっぴり、紫苑さまは子供っぽいところあるよね。そこがまた素敵なんだけど」
決して悪口じゃないんだよ、と言外にフォローを重ねて桃花が言うと、茜さんは「ま、ね」と笑った。
「大人っぽさでいうなら早苗さまかなぁ。菫さまも捨てがたいけど」
んー、と自分の顎を指差しながら天を仰いだ茜さん。
小春さんがくすりと笑う。
「私も早苗さまをご推薦いたしますわ。二年生に限らないなら若菜さまもアリでしょうね」
自分の姉が褒められる誇らしさに、桃花の顔がだらしなく緩んだ。
お姉ちゃんも桃花的には十二分に大人っぽいけれど、先日の事件もあって桃花の中での早苗さま株は右肩上がり継続中である。
どんどんと惹き込まれている。
ひたすらに好きになっている。
それはきっと良い意味でも悪い意味でもで――桃花は少しだけ、怖い。
”いばらの森”。
同性同士の禁断愛といえば一言なのだろうけれど、そしてそれを早苗さまと桃花がトレースするとは思わないけれど。
好き合っている二人が引き裂かれることは本当に哀しいことだ。本当に辛いことだ。
友情でも恋愛でもそれは変わらない、例えば桃花なら茜さんや小春さんともう二度と会えなくなるといわれたら相当に哀しい。
相当に辛い。
わんわん泣くだろうし、手紙なり電話なり、少しでも線を残そうとするだろう。
それが早苗さまやお姉ちゃんの場合、もう想像もつかない。
ただもし逃避行に誘われたら、桃花はきっとそれに乗ってしまうだろう。
それが片道切符だとわかっていても。
それが怖かった。
「若ちゃんは大人っぽいっていうか、老けてるだけだって」
「まぁ、失言ですわよ茜さん。明日の委員会が楽しみね」
「ちょっ! おかーさんは告げ口するような子に育てた覚えはないよ!」
「ふふふ、さてどうしましょうか。ね、桃花さん?」
「桃花さん?」
一人悶々と思考に没頭していた桃花は、そんな小春さんの呼びかけに気付かなかった。
〜〜〜
「ああ、それは紫苑でしょうよ」
「はえ?」
次の日、登校途中の街路にて。
朝日を浴びながらお姉ちゃんと並んで歩いていた時に、桃花はふと思い出して昨日の話題を振ってみた。
二年生で大人っぽいのは誰か。
お姉ちゃんは即答した。
「子供っぽいと言うか、そうね……確かに感情の起伏は昔から激しい子だったけど。それって実はすごいことなのよ」
眼鏡のレンズがきらりと光る。
その奥のお姉ちゃんの瞳は桃花を見ているようで、でもどこか別のところを見ているようでもあった。
「すごいこと? そ、そうかなぁ」
「そう。桃花も聞いたことあったでしょう? ”いばらの森”関係で白薔薇さまの噂」
”いばらの森”の作者は、実は白薔薇さまである。
その噂はもちろん桃花も知っている、というか、”いばらの森”が話題になった理由はそこにあるのだから。
桃花たちは実際の時間軸では知らないが、白薔薇さまが過去に深い傷を負われたことがある、ということはもう公然の秘密に近い。
昔の白薔薇さまは髪を長く伸ばされていた。その頃は性格もかなり荒れていた。
真偽も定かではない、そんな噂たちは一年生の間で頻繁に飛び交っている。
二年生以上にはタブーにも近い(らしい)ので、もっぱら一年生の間だけではあるのだけれど。
「そりゃ、あるけど」
「もちろん、私も白薔薇さまの過去を知っているわけじゃない。でも”いばらの森”が取り上げられたことを考えれば、きっとそれはセイとカホリのように哀しいことだったり辛いことだったりするのは間違いない」
お姉ちゃんはそこで桃花から眼を逸らして前に向き直った。
「でもね、誰だって深い傷の一つや二つ負っているものよ。白薔薇さまは人気がおありだからそれが話題になったけど、話題にならなかった人の傷は深くない、っていう話にはならない」
「じゃあ紫苑さまは……何か傷を?」
「桃花」
言いながら、そっと桃花の頭に手を当てたお姉ちゃんは、そのまま髪を滑らせるようにして後頭部から背中を撫でた。
立てられた指が髪の隙間を優しくすり抜ける。
宥められているんだな、とわかった。
「それは私が言うことではないし、あなたが聞くことでもないと思うわ」
ただ、と。
お姉ちゃんは続けた。
「同じことを早苗に聞いてごらんなさい。きっと同じ答えが返ってくるわよ」
放課後、偶然にもランチスペース(現在は、風除けになる温室の傍で桃花たちはお昼ご飯を食べている)に向かう中で早苗さまとばったりあった桃花がそれを聞いてみると、返ってきた言葉はお姉ちゃんの予言通り。
「大人っぽい……そうですね。紫苑ちゃんじゃないかしら。あの明るさ、あの強さ。私も見習わないといけません」
そんな、紫苑さまを第一に挙げるものだった。
桃花は不思議でならなかったけど、きっと理由を聞いてもお姉ちゃんと同じようにはぐらかされるだろう。
そう思った桃花はとりあえずその場は無難にお別れして、茜さんと揃って首を傾げたのだった。
そうして、その日も図書館へ。
今日の当番は早苗さまと茜さん。
桃花はお姉ちゃんに教わったり、小春さんと一緒に頭を悩ませたりしながら試験勉強に立ち向かっていた。
だけど、中々集中できない。
ふと顔を上げればカウンタの向こうで、静かに教科書を読まれている早苗さまの姿があった。
桃花が非番の日に図書館に居る理由は、名目上は試験勉強、本質的には早苗さま待ちだ。
顔を戻す。同じ机には小春さん、お姉ちゃん、それに紫苑さまもおられる。
紫苑さまも、茜さん待ちだろうか。
紫苑さま。
大人っぽいと評される現在に至った、その過去。
気にならないといえば嘘になる。
だけどお姉ちゃんの言う通り、それは紫苑さま以外から聞きだすべきことではないし、桃花が踏み込むべき場所でもないのだろう。
言葉では理解できるのだけど、と肩を落とす桃花に合わせて、視界の中の紫苑さまも小さく溜息を落とされる。
静かな図書館に、どこか物憂げな空気が満ちていた。
***
茜はカウンタの奥から、勉強なさっているのだろうお姉さま、紫苑さまの背中を眺めていた。
お疲れなのだろうか、紫苑さまは何度か肩を上下させて溜息を吐かれている。
確かに、勉強する場所としては自室の次くらいにメジャーな場所とはいえ、根を詰めて毎日勉強していれば疲れもするだろう。
それは茜もわかる。
大いにわかる。
だから、時間が来れば早々に帰宅してお体を休めて欲しい。
そう思う、そう思うのだけれど。
茜は一つ、決めていることがあった。
それは桃花と一緒に早苗さまに出くわした時のこと。
「大人っぽい……そうですね。紫苑ちゃんじゃないかしら」
聞けば、菫さまも桃花に同じようなことを仰ったらしい。
委員会二年生の三分の二が同じ答えを返してきたということは、そこに何らかの秘密があると考えるのは妥当なことのはずだ。
秘密。お姉さま、紫苑さまの秘密。
一応、ロザリオを受け取ってしまった妹の茜としてはそれを知る権利があると思う。
いや、むしろ、知らなくてはならないことだとも思う。
良い関係を構築する為に必要なことは相互理解。
相手を知り、自分を知ってもらうこと。
その為には秘密の一つや二つ、打ち明けてもらわなければ困るのだ。
露骨な隠し事をしていて何が姉か、何が妹か。
だから、茜は決めていた。
定時になれば、きっとそのことを紫苑さまに問い質すのだ、と。
「はい、お疲れさまー」
司書室に入ると、そんな声が早苗さまと茜を迎えてくれた。
声の主は名実共に図書館の主である、司書兼事務員の若ちゃん。こと、若菜さま。
椅子に腰掛けていてもわかる、すらりと格好いいスタイルの方だ。
「戸締りは完了しました。若菜さまはもう出られますか?」
鍵束を渡しながら早苗さまが問われると、若ちゃんは首を横に振った。
「いや、まだちょっと残ってないといけなくてね。鍵は閉めておくから、先に帰ってて良いよ」
かしこまりました、と早苗さま。
「それでは、お先に失礼致します。ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
早苗さまにしては少し慌しく、司書室を後にされる。
待たせている桃花のことが気になるんだろう。
若ちゃんと顔を合わせてくすりと笑う。
「秋山さんも早くお帰り。お姉さま、待たせてるんでしょう?」
鍵束をぽんぽんと軽く手で投げて遊びながら若ちゃんが言った。
ちらりと司書室の扉を見て、茜は答える。
「ええ、まぁ。でもどうせ急がなくても――」
「おいーっす、妹! 帰るよー」
「――すぐに来ますから」
静かに閉めて去られた早苗さまとは対照的に、勢い良く扉を開けて紫苑さまがやって来られた。
あらま、と笑って若ちゃんは机に向き直る。
「ここで待ち合わせしてどうするのよ。試験は明日もあるんでしょう、ちゃっちゃと帰りなさい」
若ちゃんの苦笑いを背中で聞きながら、紫苑さまのところに向かう途中。
不意に若ちゃんが言った。
「そういえば、今日は機嫌悪くないみたいね。あまり聞いてこなかったのかしら?」
言われて気付いたことだけど、確かに今日の茜はそんなにやさぐれているわけではない。
でも全く”いばらの森”という単語がなかったという一日ではないし、単に今日はこれからのことを考えていたから気にならなかっただけのことだろう。
結局は気の持ちようということか。茜は苦笑した。
「いいえ、それなりには。飽きませんねぇ」
「そういうものよ。女子高生の噂は波があるけど、尾を引くものが多いからね」
「おお、元・女子高生の言葉には重みがあるね」
茶化した紫苑さまの言葉に「また、平坂さんは」と首を横に振った若ちゃんは、ふと。
再び顔を茜たちの方に向けて言った。
「でも、実際のところどうなの。平坂さん」
「え」
紫苑さまと茜の声が重なった。
急に紫苑さまに話を振られた意味がわからなかった。
「あなたたちが不機嫌な理由って、同じ問答が続くからってだけじゃないわよね。先に機嫌が悪くなってきたのは平坂さんの方だし、秋山さんはどちらかというとそれに引きずられている感があるわ」
驚いた。
言われて気付かされることが多すぎる、それも若ちゃんの言う通りだったから。
同じ問答が続くことは、実は、そんなに珍しいことではない。
特にコスモス文庫の新刊発売前後はそうなりやすいし、人気シリーズのものだとそれが酷くなる。
”いばらの森”はその中でも群を抜いているけれど、それでも考えてみればその延長線上に過ぎない。
どうして茜はそれに気分を害されるようになったのか。
それは、紫苑さまが茜に愚痴るようになったからだ。
そう。茜と紫苑さまは全くの同時期に機嫌が悪くなったんじゃない。
紫苑さまが先だった。
「良くみてるね、若ちゃん」
「これでも、あなたたちよりは長く生きてるからね。それに……私も実は読んだのよ。”いばらの森”」
出た、と思った。
茜は無意識に半歩下がり、紫苑さまと若ちゃんの道を開ける。
今、紫苑さまと若ちゃんの視線を遮るものは何もないはずだ。
紫苑さまはやがてゆっくりと前に歩を進められた。
「私は大丈夫よ。私はあそこまで激情的じゃないし、小説になるようなドラマなんて何もなかった」
「あなたがそれを言ってどうするの。過去の自分を侮辱しては駄目よ」
でもね、と紫苑さまは首を振る。
見詰める背中が何故か小さく見えた。
「”いばらの森”でいうなら、私は主人公の誰にもなれなかった。その時点で、どうしようもないじゃない」
「じゃあどうして不機嫌になったの? あれは、思い出すのも嫌な過去なのかしら」
「いくら若ちゃんでも怒るよ。そんなこと、あるわけないじゃない」
「先に否定したのは平坂さんでしょう。受け入れろとは言わないけれど、もっと柔軟には対処できなかったの」
「若ちゃん!」
「勘違いしないで。私はあなたの為に言っているのではないのよ」
茜の知らない言語による会話が続いていた。
緊迫した空気だけは肌で感じることができたけど、会話の内容はさっぱりわからない。
若ちゃんと紫苑さまだけで通じる何かがその話題らしいけれど――と。
振り返った紫苑さまと目が合う。
すると紫苑さまはイタズラが見つかった子供のように、「しまった」と露骨に顔を顰められた。
だけどやがて眉尻を下げられた紫苑さまは、こいこい、と茜を手招きなさってからやれやれと肩を落とされる。
「敵わないなぁ。茜の前で挑発するなんて、人が悪いよ」
「何のことかしらね。さて、秋山さんも交えてお茶でも飲む? さっきは帰れって言ったけど、少しだけゆっくりしていきなさいな」
茜は近くにあった椅子を二つ引っ張りだして、若ちゃんの机の傍に並べた。
「ありがと、悪いね」
と茜の頭を一撫でして座られた紫苑さまに習い、その隣に腰を下ろす。
程なく、お盆で三つの湯呑みを運んできた若ちゃんも自分の椅子に座った。
渡されたお茶はとても熱かったけれど、喉を伝ってお腹の奥底がぽっと温かくなるのが気持ちよかった。
落ち着く。
先ず、口を開いたのは紫苑さまだった。
「簡単に説明だけしておこうかな。茜」
「はい」
呼ばれた茜が返事をすると、紫苑さまはとても優しいお顔で仰った。
「今年の、初めの頃の話だ。私はね、とある人から告白されたんだ。好きですって」
お、おお?
いきなりクライマックスだ。
驚いた茜が口を挟む間もなく、紫苑さまの独白は続く。
「で、私は断った。端的に言ってしまうとそれだけの話なんだけど」
「それは……えっと、姉妹のお申し出を断られた、ということですか。まぁ、それは――」
「違う」
どうにかこうにか口にした茜の言葉をばっさりと切り捨て、紫苑さまは首を横に振られた。
「好きです、と言われたんだよ。その人は、当時三年生でね。私が凄く懐いていたお姉さまだった」
「え、え? えっと……懐かれていたんです、よ、ね?」
うん、と言葉なく紫苑さまは頷かれる。
わからない。
全然わからない。
懐いていたイコール好きだったということではないのだろうか。
相手が三年生ということは、当時の紫苑さまは一年生だろうから二年の差がある。
確かに、一般的な姉妹ではないかも知れないけれど――と、そこまで考えて気付いた。
今年の初めということは卒業間近。
そのタイミングでの姉妹の申し出は異常だ、と。
その時期になるまで気持ちに気付かなかったのかもしれない、勇気が出なかったのかもしれない。
それはわからない。
でも確かにその時期における告白というのは異常だけど、その分深い想いみたいなものを感じる。
わずか数ヶ月の姉妹生活、それはリリアンの姉妹制度である「教え導く姉と従い付き添う妹」という意味合いからすれば、あまり意味のないことかも知れない。
それでも姉妹になりたいと思ったそこには、何か、並々ならぬ想いが――と、そこまで考えて更に気付いた。
違う、と紫苑さまは仰ったのだ。
姉妹の申し出ではない。
え?
「それは、あの」
「後腐れないように、卒業式の日だったよ。実際、それ以来一度も会ってない。連絡もないし、してない」
好きです、と言われた。
その事実を言葉だけ理解すれば、そして噂の”いばらの森”とそれが関連しているというのなら。
意味することは一つしかない。
紫苑さまはその方から姉と妹としてではなくて。
女の子と女の子として、好きです、と告白されたのだ。
「そう……今になってもそうということは、もう二度と連絡はないでしょう。それが彼女なりの思いやりなのか、あるいは――」
湯呑みを傾けながら若ちゃんが呟く。
だけど、茜には何の言葉も発することはできなかった。
何か、大切なものが自分の中でがらがらと崩れ落ちていくような錯覚に震えていたから。
名も知らぬお姉さまと、紫苑さまの間にあったのはきっと恋だ。
リリアンの姉妹ではない、一般的には異性間でのみ存在し得る恋。
清い恋は絶対に破れない。
そんな世迷言を信じるほど茜はお子様ではないけれど、この破れ方は違う。
何か違う。
そう感じた。
「どうして、ですか? お姉さま、その方に懐かれていたんですよね? その方のこと、お好きではなかったのですか?」
「お好きだったわよ。きっと、当時のリリアンの中では誰よりもね。そして、リリアンの中では誰よりもその人から好かれていた自信もある」
「じゃあ、どう、して」
理不尽だった。
理不尽なことが理不尽だった。
本当は「じゃあどうして!」と声を上げたかったが、その理不尽さに混乱して声が途切れ途切れになったのは幸運だったのか。
好きな人がいる。好かれている人がいる。
それが同一人物ならそれ以上幸せなことはない、その筈なのに。
紫苑さまは断られた。そうして、相手も二度と連絡を取ることはなかった。
何故だろう。
そこに何故、その幸せを手にしようとする努力が生まれなかったのだろう。
そりゃ、女同士という部分では勇気もいるかも知れないけれど。
でもそれは、そんなにも大きな問題なのだろうか。
「女子高特有の擬似恋愛」
嫌な言葉が、聞こえた。
若ちゃんだった。
「平坂さんは、相手の気持ちがそうだと思ったのよね。周りに男子がいないから、格好いい女子の先輩や可愛い女子の後輩に恋をする、恋をしたように錯覚してしまうこと」
思春期だから特にね、と続いた若ちゃんの言葉は茜の心をずぶりと抉る。
擬似恋愛。
擬似、恋愛。
嫌な言葉だ。まるでその想いがニセモノか、まるで薄っぺらいもののように聞こえてしまう。
事実、若ちゃんは”錯覚”という言葉も使っている。
茜は初めて、大好きな若ちゃんに敵意を覚えた。
「擬似なんて、そんな言い方は酷いですよ」
睨みつけながら茜が言っても、若ちゃんは小さく首を横に振って否定する。
「実際ね、それは良くあることなのよ。そうして、卒業と同時にスッキリサッパリ忘れてしまうことも珍しくない」
容赦のない若ちゃんの言葉に閉口した茜の隣で、紫苑さまが仰った。
「確かにそれもあったけど、それだけじゃないよ。若ちゃん、私はね……怖くなったんだ」
「怖くなった」と復唱した若ちゃんに頷いて、紫苑さまは続けられる。
「告白された瞬間、その人がその人じゃなくなったみたいで。何だか、私の知らない誰かみたいで。……悪い言葉だけど、その時の気分を表現するなら、気持ち悪いって思ったんだ」
がつん、と頭を殴られたような衝撃が走った。
気持ち悪い。
キモチワルイ?
人の想い、それを振り絞っての告白、それを受けての感情じゃない。
それを紫苑さまが口にしたという事実が余りにも衝撃的で、茜は口を半開きにしたまま固まってしまった。
気付いたのか、若ちゃんは一瞬だけ茜に目をやってから紫苑さまに言った。
「そうね。確かに、急にそれまでの関係を崩して全く別の関係を作りましょう、と言われたわけだから。大いに混乱しても仕方はないわ、その人の知らない面を初めて見て驚いたんでしょう」
その言葉に、こくりと力なく紫苑さまが頷かれる。
それで、ふっ、と茜の全身を縛り付けていた緊張が解けた。
ただ混乱しただけで生理的に嫌悪したわけではない。
先のやり取りは、つまりそういうことだったのだろうから。
「私も女子高の……リリアンの卒業生として言わせてもらえれば、擬似恋愛の存在は否定しないわ。良いものだとも、悪いものだとも言わない」
湯呑みを傾けながら、窓の向こうに視線をやった若ちゃんは言う。
「それを本物の恋愛に仕上げるカップルもいるわ。もちろん、より多くのカップルはさっき言ったような淡白な終わりを迎えてしまうものだけれど」
ぐさり。
若ちゃんの言葉が茜の胸を抉るのは変わらなかった。
この胸の痛みは何だろう。
”擬似恋愛”に否定がちな言葉が心に染みて痛むのは何故だろう。
わからない。
「私はでもね、否定しないよ。社会的に、生物的に、それはイレギュラーなことかも知れない。主の教えに背くことでもある。だけど人は弱いものだから……御言葉を信じていれば同性を好きにならない、なんてことはない」
「そう、そこなんだよ若ちゃん」
不意に声を上げた紫苑さまに若ちゃんが顔を戻した。
茜もその横顔を見る。
「私は好きだったよ。確かに好きだった、胸を張って断言できる。でも、その人の”好き”とは違ったんだ」
「”好き”が、違う?」
繰り返した茜の方を見て、頷かれる。
再び若ちゃんに向き直って仰った。
「何て言うのかな……手を繋いだり、ほっぺにちゅってされてもそんなことは思わなかった。スキンシップ過剰な方だったから、日常茶飯事で慣れちゃったってのもあるけど」
ぐさり、ぐさり。
今度は紫苑さまが茜の胸に言葉のナイフを突き立てる。
それは自分でもわかる幼稚な嫉妬だったけど。
仰る辛そうな顔が、茜の心を締め付ける。
「そんな人が言ったんだ。『死にたくなるほど、誰かを好きになったことはある?』――って。私にはなかった。でもその人にはあった」
「重い言葉ね」
「それだけ苦しみ抜かれた、ってことだと思う。だけど、そんな想いを私が受け取るわけにはいかなかった。そんな器は私の方では用意していなかったから」
一度、呼吸の間を置いて。
「きっとでも、その器はいつまでたっても私の方では用意できないと思う。今でもね。だから私の答えは間違っていなかった自信はあるけど」
「同情の念が湧く?」
「同情! ……ううん、そう。そうね。そうだね、同情だ。それは今でも私の中に残ってる」
俯いた紫苑さまの頭を、伸ばした右手でそっと撫でた若ちゃんは言った。
「それは辛いわね。好きな人を同情しなければならないなんて」
目を伏せたまま項垂れた紫苑さまの唇がわずかに動く。
何と言ったかは聞こえなかった。
聞きたくはなかった。
振り払うように、茜は口を開いた。
「そんなことがあったんですね――ああ、そうか。だからお姉さまは”いばらの森”がお嫌いなんですね」
それは単純な話、”いばらの森”は悲恋作だけれど、そこには確かに恋物語が描かれている。
紫苑さまとお相手の方との間には、恋物語が存在しなかった。存在できなかった。
その違い。
致命的な違いだ。
それは土の中で芽吹くことなく腐ってしまった種にも似ている。
芽を出し葉を広げ、茎を伸ばしたところで刈り取られるのと、どちらが不幸だろうか。
茜はちょっとだけ考えて、すぐに止めた。
どちらも不幸なことに変わりはないから。
ともかく、芽を出すことには成功した”いばらの森”と、土の中で永遠の眠りについたお相手の恋を重ねて、いや比較して、紫苑さまは不快になられたのだろう。
湯呑みを机に置いた茜は、紫苑さまの服の袖を掴む。
「試験休みに入れば、皆本屋に行きますよ。それまでのご辛抱です」
項垂れたまま茜の方を向かれた紫苑さまの笑顔は儚くて、脆くて。
それで茜はわかった。
わかってしまった。
ああ。
この胸の痛み。
この心の疼き。
私はきっと――
〜〜〜
何だか懐かしい、紫苑さまと二人きりでの帰り道。
会話はなかった。
寒々しい冬風が吹き抜ける、人気の全くない銀杏並木はどこまでも続いている。
その中で、茜は考えていた。
紫苑さまと、お相手の方のこと。
いややっぱり、紫苑さまのことだけか。
今日は、紫苑さまの色んな面を一度に見た日だった。
そんな過去があるなんて想像もしていなかったし、話しても貰ってはいなかった。
もっとも、いきなりあんな話を脈絡なくされてもそれはそれで困ってしまっていただろうけど。
でもこれで、早苗さまや菫さまが口をそろえて「大人っぽいのは紫苑(ちゃん)」と仰っていた意味がわかった。
そんな哀しいことがあったなら、紫苑さまはもっと様変わりされていてもおかしくはない。
結果的には、明るく楽しく過ごしていたせいで相手の想いを助長させたというのであれば、他者と距離を置こうと考えることは当たり前のことだと思う。
でも紫苑さまはそうなさらなかった。
変わらず明るく気さくにおられるし、茜を妹にすらした。して下さった。
それはすごいことだ。
本当にすごいことだ。
茜はそっと紫苑さまの横顔を盗み見る。
端正な顔立ちはさっきの哀しい笑顔が嘘のように、けろりとした表情を浮かべていた。
取り繕っているのではなくて、それが紫苑さまの地なのだろう。
胸に隠した重みを一切に感じさせない、茜を無条件に安心させるお顔。
誇らしいけれど、少し寂しい。
ふと。
本当にふと、だが。
横顔を見ていると思ったことがあった。
(あのほっぺに、ちゅってされたんだよなー)
とんでもない思考である。さっきまでの話が衝撃的だからってそれはないだろう。
そんな自分突っ込みとは裏腹に、勝手に頬が火照ってくる。
いや別にそれが羨ましいとか妬ましいとかじゃなくてですね?
聞かれてもいないことに言い訳がましい返答を考えた茜は、でも。
ううん。
嘘。
羨ましいです。
妬ましいです。
あえて、肯定することを選んだ。
姉妹になってどれだけ経つんだっての。
今更それを無意味に否定しても仕方がない、まぁ、スキンシップの一環だと捉えればそんなに変な願望でもないはずだ。
多分。
菫さまや紅薔薇のつぼみにうつつを抜かしていた桃花も最近はいい具合にお姉さまっ子に堕落していっているけれど、茜も笑ってはいられない。
今、若ちゃんと紫苑さまが並んでいたら、どっちの傍に寄るかは迷わない自信がある。
だからほっぺにちゅ、は正直羨ましい。
名も知らぬお姉さまに対抗心を燃やすわけで――すけど。
負けてたまるか。
連絡もしなくなった擬似恋愛のお姉さまなんて知らない。
私は。
私はっ。
身体を突き動かす衝動が走った。
得も知れぬ興奮が頭の中をスパークさせる。
茜は知っている。自分がどれだけ紫苑さまのことが好きなのかを。
茜は知らない。自分がどこまで紫苑さまのことが好きなのかを。
ただ、好きだから。
そういう欲求が、対抗意識が、あるのなら。
主張して、発揮してこその乙女心だ!
紫苑さまの肩に手を伸ばす。
そっと置いた。
身長差からほんの少しだけ背伸びしなければならないことは予測済み。
急げ。気付かれる前に。
ぐっと爪先に力を入れる、置いた掌に力を込める。
多分、それがいけなかったんだろうなぁと後になって思い返すのだけれど。
「ん?」
ちゅっ。
予想を遥かに上回る柔らかい感触が唇にあった。
どんなスキンケアをしたらこんなマシュマロみたいにほっぺになるのかなーとか思う間なんてない。
違和感に目を開くと、ものすごい至近距離で紫苑さまと目があった。
つまりがまぁ、振り向いた紫苑さまと、茜は真正面からちゅっとしていたわけで。
違っ!!
ぼん、と頭を爆発させて、茜は跳び退くようにして紫苑さまから距離を取った。
「うわあぁっ」
とかなんとか。
悲鳴みたいな声が口から漏れて、目を大きく見開いた紫苑さまが口に手を当てているのが何とも事実確認みたいで。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしいぃっ。
燃えるように頬が、身体全体が熱かった。
でもその中で突き刺さってくる呆然とする紫苑さまの視線が痛い、いけない、このままでは誰かさんの二の舞だ!
前に突き出した手をぶんぶんと振りながら、茜は叫ぶ。
「ちょ、違うんです! いや、勘違いしないで下さい! 私はキスした――」
キス。
でも、その単語を口にしたらもう駄目だった。
「――ぁぁぅ」
あまりの恥ずかしさにもう声も出ない。
言葉が浮かばない。
違うのに。
違うのに。
否定しないと、早く否定しないと、いけないのに。
『気持ち悪いって思ったんだ』
ちょっと前の紫苑さまご自身の言葉が蘇る。
絶望すら引き寄せるそれはお言葉、もしそんなことになったら、ああ、私は。
ああ、私は。
死んでしまうかもしれない――
「ぁぁ、ぁ、ぁぅ」
紫苑さまに負けず劣らず、思い切り開いていた目から涙が零れる。
恥ずかしくて、怖くて、何が何だかもうわけわからなくて。
茜は泣いた。
ただ泣いた。
手を動かすことはできない、紫苑さまから目を逸らすことも、何か他に言葉を発することも。
紫苑さまがやがて駆け寄って抱き締めてくれるまで、固まった体勢のまま茜は泣いていた。
「ほらほら、よしよし。大丈夫よ、泣かないで。大丈夫よ、大丈夫だから。安心なさい」
少し乱暴に頭を撫でて背中を撫でて、ぎゅっとしてくれる感触にゆっくりと茜の心で吹き荒れていた感情の暴風が落ち着いていく。
肩越しに、取り落とされた紫苑さまの鞄が落ちているのが見えた。
持ち主は今、茜を宥めようと抱き締めて下さっている。
それを自覚した時、一気に茜の身体から力が抜けた。
そして包まれる温もりに身を任せる。
「よしよし、大丈夫、大丈夫」
繰り返してくれる紫苑さまの言葉が胸に優しく染み入った。
「落ち着いた?」
それからもしばらくは抱き締めてくださっていた紫苑さまがやがて問われる。
「はい」と茜が頷くとそっと身体を離され、わずかに開いた隙間を寒風がすり抜けた。
それが一層、茜に平静を植えつけてゆく。
紫苑さまが鞄を取りに元の場所に戻られる頃には、もうすっかり落ち着いていた。
「全くもう、びっくりするでしょうが」
鞄を叩きながら紫苑さまが苦笑される。
いつもと変わらない口調に、茜は心の底から安心した。
キモチワルイ、なんて言われなくて、本当に本当に良かった。
「すみません、あんなつもりじゃなかったんですけど」
「いきなりキスされて「うわあぁっ」とか退かれてみな? びっくりするし傷つくわよー、もう」
またしても台詞に紛れ込んだ”キス”の単語に再び茜の頬が色付くけれど、笑って下さる紫苑さまに救われる。
でも確かに仰る通りだ。
キスした(された)相手に退かれたらそれはショックだろう。
相手が誰であれ傷つくのは良くわかる。
ぽりぽりと頬を掻きながら、茜はもう一度「ごめんなさい」と謝った。
「ほら、帰るわよ」
と、紫苑さまは朗らかに笑われて、ぐっと茜の肩に手を回される。
俗にいう、肩を抱かれている状態だ。
急に密着してきた紫苑さまに驚きながらも、「はい」と茜も答えて歩き出す。
今は腕一本だけだったけど、それは紫苑さまに抱き締められていた時のように温かくて。
ああ、良いなぁこういうの。
とかほんわか茜が思った瞬間だった。
ちゅっ。
頬に感触。
驚いて紫苑さまの方を見ると、してやったりな得意満面の顔で仰った。
「これがしたかったんでしょ? あのね、ほっぺにちゅ、は年上が年下にやるものなのよ。背伸びしないといけない時点で、気付かれずにするのは無理なの」
あはは、と笑われる紫苑さまの隣で小さくなる茜。
本当だよ、全く。自分の馬鹿。興奮した自分の馬鹿。
さっきとは別の意味で燃え盛る頬を何度か叩きながら、茜は反省した。
でも――。
実は、というか当然、というか。
さっきのは茜のファーストキスである。
事故とはいえ。
ある意味不本意であるとはいえ。
「――さまは、あの、さっきの」
キスってファーストキスですか?
って聞けるか、馬鹿!
言い出して即刻自分がとんでもないことを聞こうとしたことに気付いて、茜は言葉を切った。
そもそも、言い出しからしておかしい、普通に「お姉さまは〜」と聞けば良いのに。
自分でもどうしてそう言い始めたのかはわからなかった。
声にならなくて良かった。
そんな茜の葛藤などどこ吹く風。
「ん? ああ」と紫苑さまは聞き返すことなく仰った。
「ノーカウントにしときなさい。茜はファーストキスでしょ? もったいないじゃない」
――。
ああ。
ああ、ああ。
それはなんて、なんて残酷な――
「ってことは、お姉さまはファーストキスじゃなかったんですね? お相手は誰ですか〜?」
「むむ、痛いところを突いてくるじゃない。ってなんだその顔はっ。この」
茜の頬にぐりぐりと指を押し付けてくる紫苑さま。
肩はがっしりと押さえられているので茜に逃げることなんてできなくて。
「うぅぅ、痛いですよぅ〜」
「生意気な口はこれかっ。この口かっ」
頬を引っ張り始めた紫苑さまの笑顔に合わせるようにして笑って。
茜は楽しく朗らかに、”お姉さま”と肩を並べて家路についたのであった。
〜〜〜
この感情は何だろう。私は自問した。
きっとそれは”擬似恋愛”。
錯覚に過ぎないのだ。
だから一人の女の子として生きて、ちゃんとその人を好きになって。
その人の傍にいようと努力して。
その人と好きあえるように頑張って。
それで、ちゃんと、幸せになる。
それは。
女の子の義務、なんかじゃない。
義務にすることはできない。
ある夜。
持論をそう打ち崩して、一人泣いた少女がいた。
それは土の中で芽吹くことなく腐ってしまった種?
いや。
彼女はそれを土に埋めることすらもしなかったのだ。
ただ、種を捨てたかまだ手元に残してあるかは、彼女のみぞ知るところである。