【230】 道連れ  (いぬいぬ 2005-07-16 11:19:44)


〜私の心のようだわ。何時までも晴れないこの空〜
少女は見上げている。校舎の一番高い所に居るはずなのに、空はまだ遥かに高く遠い
〜まるであの方と私との距離のよう。近付いたと思ったのに、まだ足りないの?〜
高みに向かい、手を伸ばしてみる。
〜そう、この大気はまるで、あの方そのもののよう・・・・・誰の事も見境無く優しく包み込むくせに、それでいて私の物にはならない〜
空しく大気をすり抜けていく手を見つめ、彼女は呼びかける。

〜祐巳さま〜



松平瞳子は、校舎の屋上に来ていた。
屋上でもさらに、一番高い所。給水タンクの上に、一人佇んでいた。
その目は何かを見ているようでもあり、何も見ていないようでもあった。
彼女の特徴的な髪が、強い風に煽られるが、特に気にした様子も無く、ただそこへ佇んでいた。
もうどのくらい、そうしていたのだろう?冷え切った身体を包むように、自らの手で細い肩を抱きしめる。ため息と共に、瞳子は座り込んだ。
(私、何してるんだろう?)
誰にも見せた事の無い寂しげな顔。そこは、素顔の女優の一人舞台のようだった。
(私、何がしたいんだろう?)
何が欲しいのかは判っている。ただ、どうすれば手に入るのか判らず、途方にくれているだけなのだろう。
(いえ、どうすれば良いのかさえも・・・・)
判ってはいるのだろう。しかし、実行する勇気があるかはまた、別の問題だった。
(ユウキ・・・あの方の弟もユウキでしたわね)
出口が見つからず、思考は序々に迷走してゆく。
(ユウキ・・・足りないのか、最初から無いのか)
彼女は視線を下に向ける
(ユウキ・・・ここから飛び降りるのもユウキかしら?)
思考の迷宮は、彼女を捕らえて離さない。
(いっそ死んでしまえば、あの方の中で永遠になれるのかしら・・・)
檻の中で衰弱してゆく野生の魂のように、彼女の魂もまた、思考の檻の中で、滅びつつあった。もはや戻れないのであろうか・・・

「瞳子ちゃん!」

突然、檻を壊そうとする者が現れる。壊して欲しいのか、このまま閉じこもっていたいのか、もはや瞳子には自分でも判らない。
そんな事にはかまわずに、破壊者は檻の中へ侵入してこようとしている。そう、瞳子が手を伸ばし求めた大気のように、すり抜けて近付いて来る。
「祐巳さま」
力無く呟き、何時の間にか滲んでいた涙を拭く。
この期に及んでまだ意地という檻にしがみつく自分に気付き、気持ちはさらに沈んでゆく。
(今更何を取り繕っているんだろう。私のほうがおめでたいわね)
自分に向けた皮肉に苦笑すらできずに、檻の中から瞳子は振り向いた。
その顔をみた祐巳は、何故か泣きそうになりながら、瞳子のいる給水タンクへと続くハシゴを駆け上り、手を触れられそうな所まで瞳子に近付いた。

檻はまだ存在している。

「どうしたんですの?」
普段の瞳子からは信じられないくらい弱い声で、心配してくれているであろう祐巳を心配してみせる。
「校庭から、誰かがここに立っているのが見えて、何故だか不安になったから来てみたの・・・・・・」
「・・・何故泣きそうな顔をしているんですの?」
(泣きたいのは私なのに)
「瞳子ちゃんが、なんだか遠くへ行っちゃいそうな顔をしてたから」
(あなたはすでに私から遠い所にいるようですわ)
「瞳子ちゃん。降りよう?」
(せっかく久しぶりに二人きりなのに?)

〜もういい〜

噛みあわない歯車なら捨ててしまえば良い。どうせなら、自分の手で捨ててしまえば尚良い。身体よりも心が冷えている。ここは寒すぎる。だからもういい。
瞳子は動き出す事にした。何処へ向かってかは、自分でも良く判らない。
「帰って下さい。あなたにそんな心配をされても、少しも嬉しくありませんから。だいたい何故、私の心配なんかするんですか?」
「何故って・・・それは・・・・・・」
「私はただの後輩でしょう?姉妹でもなんでもない、その他大勢なんでしょう?」
祐巳の息を呑む気配が伝わってくる。
壊れたと、瞳子は確信した。今までギリギリの所で頼りなく繋がっていた物全てが。
あの忌々しい茶話会なんていう物で突きつけられた、その他大勢の一人という現実。この人も茶話会に同意したと聞いた時、むしろそれまでの感情が嘘のように無くなってしまったあの時から、いや、もっとずっと前から心の中にわだかまっていた過去。否定の言葉すら言ってくれない今。瞳子のふるった言葉の鎚で、いままでのあやふやが全て壊れた。
祐巳は無言で瞳子の前に進み、立ち尽くす。そして校庭を見下ろす。
「許してなんて、言う資格無いよね・・・」
(何故壊れてくれないの?!あなたはまだ許すというの?それは私にとっては優しさではないのに!)
「許したのはあなた。許されないのは私ですわ」
瞳子はさらに鎚を振るう。もう全ての力を出して鎚を振るう。
「瞳子ちゃん、私は・・・」
「梅雨の時期、あなたと祥子お姉さまを追い込んだのは私ですわ」
「あれは・・・・・・・」
「そして許しを請う機会もあなたは私から奪って、あげくこんな中途半端な関係なのに、私の事が心配だなんて・・・説得力がありません」
「瞳子ちゃん・・・」
(もういい)
再び脳裏に響く言葉。瞳子は今気付いた。茶話会以降、自分は祐巳に対する感情が無くなったのではなくて、気付いてもらえない自分の感情をどうすれば良いのか判らなくて、停滞していただけなのだと。
(今より先に進もうとしてくれない祐巳さま。今より先の進み方が判らない私。二人ともおめでたいという事なんでしょうね・・・)
やはり噛み合わないのだ。今は。
(この人は私を好きだとは思ってくれている。でもそれは特別じゃない。この人は私の特別。でも、私は今更好きだなんて言えないもの・・・)
噛み合わないのなら壊そう。完全に。
自分がどれだけ愛想を尽かしてしまったのか、この人に突きつけてやろう。
瞳子は感情を抑えず、ただ思うまま語り出す。
「夏休みに、西園寺の家であなたと祥子お姉さまの演奏を聞いた時、私は自分があの中へ入っていない事が悔しくて、涙が出ました。でもそれは、祥子お姉さまの隣りに居る事が出来ない事に対してではなく、あなたの隣りに私が居ないのが、悔しかったのかも知れません。
 体育祭の時、あなたを傷つけたはずの細川可南子が、それでも尚、あなたに手を差し伸べてもらえるのが妬ましくて、益々細川可南子が嫌いになりました。
 学園祭の劇の時、私は大切な物を壊してしまい、どうする事も出来ずに放り出してしまったのに、あなたは私の大切な物を拾い上げて、直し方を教えてくれました。一緒に直すとまであなたが言ってくれた時、とても暖かい気持ちになりました。」
祐巳は無言で校庭を見つめている。
「でも、あなたは、妹の対象としては私を見てくれなかった。誰も妹の対象としては見ていなかった。茶話会なんてものを開かれたって、謝り方すら判らない私が、どうやったらあなたに妹として意識してもらえるかなんて判る訳が無いじゃない!!」
瞳子は初めて祐巳に対して感情を爆発させた。
いや、ここまで他人に本音で生の感情をぶつけたのは、これが初めてなのかも知れない。
「いっそ嫌いになってくれたら、嫌われた所を直す事もできるのに!」
涙が溢れてきた。
「あなたは何も言ってくれなかった!!」
止める事が出来ない。涙も、この心も。
「私はあなただけに手を差し伸べて欲しかったのに!!」
(八つ当たりだ)瞳子は自覚していた。
「あなたはみんなに手を差し伸べようとした!!」
(判ってる。これはただの八つ当たりだ。)心の中で、悲しいくらいはっきりと自覚していた。
祐巳はこちらを振り向いたが、またすぐに校庭に視線を戻してしまった。
(今度こそ終わりね。最初は祥子お姉さまを取られたと八つ当たりして、最後は祐巳さま自身に八つ当たりで終わるなんて・・・馬鹿にも程があるわ。呆れてこっちすら見てくれないものね)
祐巳は相変わらず校庭を見下ろし、こちらに背を向けている。
半ばヤケになった瞳子は、その姿を眺めながら、(いっそそのまま飛び降りてくれないかしら?)と、涙で定まらない視線を向けている。
(いまなら、後を追うくらいの可愛らしさは見せてあげますわ)
そんな事を考えている瞳子に、ふいに祐巳が話しかけた。
「瞳子ちゃん。WOMANって歌、知ってる?」
脈絡も無く、そんな事を聞いてくる。
「・・・なんですって?」
瞳子は思わず問い返していた。
「アン・ルイスっていう女の人の歌ってるバラードなんだけどね?歌詞がとても印象的なの」
「?」
この人は何が言いたいのだろう。理解出来ない事に、瞳子はいらだってきた。
(でも、今までも、本当にこの人を理解した事なんて、無いのかも知れないわ)
自嘲気味に、胸の中で呟く。
「MY NAME IS WOMAN 悲しみを 身ごもって 優しさに育てるの
  MY NAME IS WOMAN 女なら 耐えられる痛みなのでしょう」
唐突に祐巳が歌い出す。今に始まった事では無いが、瞳子には、祐巳の行動が読めない。
何も言えずに祐巳を見つめていると、祐巳はまた語り出した。
「この曲を聴いた時、すごく感動しちゃってね・・・辛い事があっても、自分の中で、それを素晴らしい物へ変えてゆけるって考え方に涙が出ちゃって、私も女に生まれたんだから、何時かこの歌詞みたいに出来るのかなぁとか思ったの」
「・・・・・・・・・・・・」
「瞳子ちゃん」
呼びかけながら、祐巳がこちらに振り返った。

「今の私じゃあ、瞳子ちゃんの姉にはなれない」

瞳子は心臓が止まりそうな衝撃を受けた。さっきは、自分からそう言われる事を望んでいたはずなのに。
涙が止まった。感情すらも止まってしまったのかも知れない。瞳子は、祐巳から視線を外す事が出来なくなった。
「・・・でもね?」
真っ直ぐに瞳子を見つめ、祐巳は語り続ける。
「私も女だから、瞳子ちゃんの悲しみを、生まれ変わらせてあげられると思うんだ。さっき歌った歌のように」
祐巳が、座っている瞳子へと手を差し伸べる。

「一緒に生まれ変わろう?」

曇り空を背に、祐巳が誘う。瞳子は、誘われるままに立ち上がる。
祐巳の向こうに、空が見える。あの空へと飛び立ち、ともに生まれ変わろう。瞳子には、それがとても素敵な事に思えた。
開放されるのだ。この苦痛に満ちた世界から。祐巳を道連れに。
瞳子は、感情の消えた顔で、祐巳に抱きつく。そして、幼い子供が母に甘えるように、祐巳の首筋に顔をうずめる。
祐巳も瞳子を優しく抱きしめていた。
「逝こうか?」
限り無く優しい声で祐巳が問いかけると、かすかに瞳子がうなずく。
祐巳は瞳子を抱きしめたまま、後ずさりして行く。
ふと、瞳子が顔を上げ、その視線に曇り空を捕らえる。
(届かなかったな、空)
そんな事をぼんやりと思っていると、祐巳にきつく抱きしめられた。
(もおいいや・・・)
ふたりの身体が、ゆっくりと傾いて行く。
(だって、祐巳さまと一緒だもの)
抱きしめられていると、祐巳の心臓の音が、自分の心臓の音と混ざり合うような気がした。
重力に捕らえられた事を感じると、瞳子はゆっくりと瞳を閉じた。
祐巳の鼓動と、大気を切り裂く音しか聞こえない。


堕 ち て ゆ く






ボフッ!!

瞳子は衝撃を感じた。
衝撃を感じたという事は、すなわち生きているという事だ。その証拠に、祐巳の鼓動の高鳴りが、まだ聞こえている。
「?」
瞳子は事態が飲み込めず、辺りを見回してみた。そこには、薔薇の館の住人が勢揃いしていた。
「・・・・・・私、生きて?」
「そうよ。まだ死なれては困るわ」
答えたのは、祥子だった。
「・・・いったい何が?」
呆然と瞳子が聞くと、祥子が笑顔で答えた。
「薔薇の館に行こうとしたら、屋上の給水タンクの上に祐巳が居るじゃない。慌てて駆け寄ったら、何だか祐巳が地面を指さして、真剣な目で私に訴えかけるんだもの。それで飛び降りる気だって判ったのよ」
祥子はまるで、なんでもない事のように言い切った。
「そこで、飛び降りる事自体には疑問を持たないんだもんねぇ。まったく、紅薔薇家には驚かされるわよ」
令が、やれやれというように、首を振りながら言う。
「しかも、祥子が騒ぎにはしたくないとか言い出すものだから、陸上部の部長に頼み込んで、無理矢理高飛び用のマットを在るだけ借りてきたのよ。他言無用と念を押してね」
瞳子が下を見ると、マットが三枚重ねて敷いてあった。
「私、飛び降り自殺の落下地点予測なんて、初めてやったわよ・・・図書室のパソコンで、怪しげなサイトを参考にしながらね」
乃梨子が怒った顔で言ってくる。実際、怒っているのだろう。飛び降りた事に対して。
「で、私達で運んだ訳よ」
由乃が自分を指差しながら言う。良く見れば、手の皮が剥けていた。五人でこれだけの物を運ぶのは、本当に大変だったであろう。
「・・・・・・まったく。心臓に悪すぎます」
いや、六人だった。細川可南子の顔もあった。
「まったくもう・・・祐巳は本当に突然大胆な事をするのね。もう少し落ち着いて、私を安心させてちょうだい」
祥子が微笑み、祐巳も「アイコンタクト、ばっちりでした〜」などと言いながら微笑む。
瞳子は、この二人を見て改めてその絆の深さを知った。互いが互いを信じ、自分に出来る事をやり抜く。そんな二人を見て、瞳子は本当に羨ましいと、素直に思った。

そして、瞳子の視線に気付き、祐巳が瞳子に向き直る。
「瞳子ちゃん?」
「・・・・・・なんですか?」
まだあまりうまく頭が回っていないのだろう。瞳子は普段よりも反応が鈍いようだ。
祐巳は、襟元からロザリオを取り出しながら言った。
「生まれ変わった瞳子ちゃん。生まれ変わった福沢祐巳の妹になりませんか?」
「・・・・・・あ、はい」
差し出されるままに、瞳子はロザリオを受け取った。
3秒程考えてから、「ええっ?!」と驚く。どうやらやっと頭が回り始めたらしい。
祐巳とロザリオの間で、忙しく視線を動かしている瞳子を、祐巳が晴れやかな笑顔でぎゅっと抱きしめる。

(・・・・・・もおいいや)

今日、何度目かの台詞を、今日初めて幸せな気持ちで頭に浮かべた瞳子は、そのまま祐巳にもたれかかった。



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