【2359】 差し支えなければ深くはつっこまずに  (海風 2007-08-13 03:31:10)



 意図せず連投に……すみません。あと今回も長いです……







「……はぁ……」

 支倉令は重い溜息をついた。
 最近、元気がない。
 物憂げな表情で窓の外を見る少年のような横顔に、クラスメイトたちもはらはらと違う意味の溜息を漏らしていた。


 吐く息は雪のように輝き、頬を掠める刀身のような風はわずかにも枯れ木を揺らすことはない。
 卒業まで数えるほどの、とある寒い日だった。
 生徒会役員選挙が終わり、バレンタインが過ぎ、三年生に残る学園生活はあとわずか。
 自由登校になっているリリアンは、季節のせいかほとんどの三年生が登校していないせいか、どことなく落ち着いている。
 いや、寂しげだと表現した方が、正しいのかもしれない。

「――やはり卒業を惜しんでいるのよ」
「――いいえ。もしかしたら、妹以外の誰かと離れがたいのかも」

 などと噂されていることなど露知らず、支倉令は相変わらず元気がない。
 幾度となくクラスメイト達が「どうかしたの?」と声を掛けるが、令は「なんでもない」と答えるばかりだ。
 こんな状態になって、何日が過ぎただろう。
 噂が噂を呼んで、自由登校にも関わらず、このクラスだけは半数以上の生徒が登校していた。
 憂い顔のミスターリリアンを見詰め、いや、心配して。



 昼休みになり、令は意を決して立ち上がった。
 今にも「よし」と掛け声が聞こえそうな凛々しい顔をして。



「あ、令」

 教室を出た途端、目当ての人物がそこにいた。
 小笠原祥子。
 同じ薔薇さまとしても、プライベートでも、世話になった大の親友。
 寒いこの時期に背中を丸める、などというみっともない姿など晒さない、真性のお嬢さまだ。

「ああ祥子、いいところに」
「それより貴女、ここ数日ずいぶんみっともない顔をしていたそうね?」
「あ、うん、ちょっと悩み事がね……」

 会うなり唐突に本題から入るところも、祥子らしい。ここ数日の教室での令の態度を聞いて心配して来たのだろうが、そんな本心は微塵も見せない。

「悩みって、由乃ちゃんのこと? もう卒業間近だって言うのに最後の最後まで……」

 情けないわ、というとどめの言葉は、祥子の「もうダメダメ」と言わんばかりの髪が揺れるそれが語っていた。
 令は苦笑する。
 妹の由乃関係で色々と相談してきた祥子だからこそ、言い返す言葉もない。
 ――なんだかんた言って話を(というか泣き言を)聞き続けてくれた彼女だからこそ、これからのことを相談するのに、なんの躊躇いも感じない。

「そのことで話があるの。……たぶん祥子にとっても他人事じゃないと思うんだ」
「他人事じゃない? 由乃ちゃんのことが?」
「いいえ――妹のことで」

 その後、言葉もなく、二人は誰にも話を聞かれない場所へと消えていった。



「「山百合会ペット化計画?」」

 卒業を間近に迎えたある日の放課後、もはや薔薇の館に来ることもほとんどなかった三年生が、山百合会を招集した。
 そこにはリリアンの盗撮魔・武嶋蔦子と、新聞部のやじうまワイド・山口真美の姿もあった。

「そう、『山百合会ペット化計画』よ」

 召集を掛けた三年生が一人、最近はすでに降ろしていた「紅薔薇」の称号を再び背負う小笠原祥子が、戸惑う二年生以下に堂々と告げた。

「私たち三年生の最後の望みだと思って。このまま卒業したら、私たちは悔いが残るし――それは貴女たちにも言えるかも知れない」

 祥子の横に立っている三年生が一人、情けない姿が印象深い支倉令も、剣道の試合並の凛々しい顔である。

「……あの、質問なんですが」

 同じく薔薇さまの称号を持つ一人、二年生の藤堂志摩子は、恐る恐るという感じで口を開いた。

「具体的な中身を聞くより先に、どうして蔦子さんと真美さんまで呼んだんでしょう?」
「記録に残すためよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 きっぱりと言い切る祥子。蔦子にも真美にも十分言い渡してあるので、彼女たちは何も言わなかった。

「記事にするしないは真美さんに一任してあるけれど、どちらかと言うと記事にしてほしいというのが個人的な私の望み。でも民主主義に乗っ取って多数決過半数以上で公式許可が出るものとします」

 唯一の弱点である島津由乃にすら反対を許さないほどの迫力と意志と闘気が、今の令にはあった。

「反対する人がいるなら、今ならゆっくり聞くわよ?」
「「…………」」

 祥子と令が放つ威圧感に、会議室は冷え切っていた。
 何がなんでも完遂する、という熱意だけがあった。
 生半可な文句など効果はないだろう――いや、たとえ正論であってもそれを通さない厚く大きな壁が、ここにあった。
 たっぷり1分ほど睨みを利かせた後、祥子はフッと笑う。

「それじゃ、話を続けるわね」

 ただそれだけで、温かな風が吹いた。

「私たちが提案する『山百合会ペット化計画』――先に触れておくけれど、これは貴女たちだけが迷惑を被るものではないわ。私たちも対象内であることを、まず年頭に置いてちょうだい」

 詳しい内容をまだ聞いていないのでなんとも言えないが、一方的に何かをやらされるわけではないということを知り、面々は少しだけ安心した。
 山百合会ペット化計画。
 その言葉が否応なく漂わせる異様にマニア対象っぽい臭気は、ここにいる誰もが気づき、だが誰もが触れられずにいた。

「まず――」

 満を持して令が説明を始めた。



 令が説明をしている最中、異変は起こった。
 理解の早い二条乃梨子は、すぐに三年生が望む『山百合会ペット化計画』の概要を把握していた。

「――それで――」

 もう令の説明など耳に入らず、乃梨子はそれが実現された場合の妄想に浸っていた。

 『はい志摩子さん、エサだよ』
 『ありがとう乃梨子。いえご主人様』
 『食べさせてあげるね』
 『ええ、お願い』
 『……ああ、志摩子さんは可愛いなぁ』
 『わあ嬉しい。ありがとうご主人様(すりすり)』

「くぅ……!!! たっ、たまんねぇ…っ……!!!」
「乃梨子!?」

 いきなりテーブルに突っ伏してバンバン叩き始めた妹を、志摩子は驚き振り返る。
 ニヤリ
 祥子と令は、視線だけ合わせて「してやったり」と笑った。



 次の異変は、福沢祐巳の妹になったばかりの松平瞳子に起こった。
 呆気に取られていた親友の壊れっぷりの理由が、今はよく理解できる。

「――だから――」

 続けられる令の説明を聞いている内に、瞳子も妄想の世界へと導かれていく。

 『ねえねえ瞳子ちゃん』
 『なあに、祐巳?』
 『あのね、祐巳、頭を撫でてほしいなぁ』
 『まあ祐巳ったら、甘えん坊なんだから』
 『甘えるのは瞳子ちゃんにだけだよ。祥子さまにはこんなこと頼めないんだから』

「ゆっ……祐巳ぃぃぃぃ!!!」
「えっ!? なに!? 瞳子!?」

 いきなり虚空を見ながら叫び出した妹を、祐巳は驚き振り返る。
 ニヤニヤ
 祥子と令は、視線だけ合わせて「これはもう落ちたね」と笑った。



 露骨な壊れっぷりは一年生の二人だけで、二年生の三人は内容を知って顔を赤らめたり、戸惑ったりしていた。だが決して「異を唱える」という意志は読み取れない。
 話してみれば、望むものは同じだった。
 三年生――というより、令が祥子に相談した『山百合会ペット化計画』は、祥子も二つ返事で同意した。
 自身の妹である福沢祐巳が妹を作り、自分への関心や何やらが激減して寂しく思っていた頃、親友により持ちかけられた相談。

「卒業する前に、一度でいいから由乃を堂々と可愛がりたいの! そして可愛がられたい!」

 堂々と、だが言葉にすれば若干痛い令の熱い主張。
 「卒業」という別れを目前にして、リリアンでの学園生活を振り返り、どうしても心残りだったこと。
 言わずと知れてやはり由乃のことだった。
 主張する通り、「堂々と可愛がりたい・可愛がられたい」という目的を果たすために、受験も終わって解放してもいい頭を、まだまだフル回転させて悩んでいたというわけだ。

「何言っているの?」

 脱力感を誘うあまりのアレさに突き返そうとした祥子だが――
 令が祥子の返事を察して苦し紛れに放った「祥子も一度でいいから姉とか薔薇さまとか小笠原のお嬢さまとか、そういうしがらみ全てを忘れて手放しで祐巳ちゃんを可愛がってみなさいよ」という言葉に、本気で戸惑った。

「全てを忘れて可愛がる…?」

 言われてみると、祥子は祥子なりの妹の可愛がり方はしてきたが、プライドが許さなかった可愛がり方は一度もしたことがない。
 ……いや、一つだけ。
 可愛がるとは言えないかも知れないが、全てを忘れての愛情表現はしたことがある。
 花寺学院の学園祭で、傍目も気にせず祐巳(パンダの着ぐるみを着ていた)を抱きしめたことはあった。

(ええ、あれは我ながら全てを忘れていたわね。あれはアリね)

 祖母が死んだ時も似たような感じだったかもしれないが、あれは原因も自分にあった……ような気がするから、カウントしてはいけない。
 そして、今度はこう考える。

(逆は……?)

 祐巳が言ったこと、してくれたことで嬉しかったことはたくさんあった。
 だが、もし祥子が、プライドや立場を一時でも忘れる時間があったら?
 その場合、祐巳は自分をどうするだろう?
 手放しで可愛がってくれるだろうか?
 もう恥ずかしくて恥ずかしくてむしろ逆に怒りまで込み上げそうなほどに可愛がってくれるだろうか?

(……あ、落ちた)

 ふと黙った親友を令が見ていると、彼女は気まずい顔で黙り、うんうん頷き、そして初めて見せるデレデレな顔でニヤニヤし始めた。

「さ、……祥子?」

 ガッ!!
 ちょっと心配になって声を掛けた途端、祥子はハッとこちら側に戻ると同時に、令の手を激しく握り締めた。

「やりましょう!! いいえ、ぜひやるべきだわ!!」
「痛いから離して!!」

 予想以上の食いつきに、令は悲鳴を上げた。



 そして二人で入念に練られた作戦は、題『山百合会ペット化計画』として誕生した。
 あくまでも「自分も結構痛いかもしれない」というのがポイントである。
 自分たちもリスクを負うことで反論を抑えるという目的もあるが、それ以上に重要なのが『妹に堂々と甘えられる』という点である。
 プライドの高い祥子にも、普段は絶対に相手に拒否される令にも、痛みを伴うが代わりに至福の時間を過ごすことができる。
 更にもう一つ付け加えるなら。

「わかった? 要約すると、この中の誰か一人が制限時間を決めて山百合会のペットになる、ってわけ」

 『山百合会ペット化計画』は誰かをペットとして可愛がるものである。決して誰かを傷つけるものではない。
 普段ならそれを許さない祥子であっても、そこは重々承知の上である。
 もうこの手のチャンスはこの先一生ないかも知れない――卒業が迫る今、妹の関心が減っている今、最後の機会として恥も外聞もなく可愛がったり可愛がられたりする気マンマンである。
 この企画には、三年生も一年生も関係ない。普段のしがらみもない。相手が誰だからどうこう、というものでもない。
 祥子でも令でも例外はない。
 誰かが山百合会のペットとなる、概要はただそれだけだ。

「「やりましょう!!」」

 一年生二人がこぞって強い賛成を示した。

「ど、どうする?」
「どうしましょう……」
「ペットって言われても……」

 誰かと目を合わせることができないくらいには壊れた、紅薔薇のつぼみ福沢祐巳。
 すでにチワワ辺りの犬ほどに、期待と不安とやっぱり期待が一途に向けられた妹の視線を横顔に受けている、白薔薇さま藤堂志摩子。
 一番「ペット」という表現に程遠い祥子の壊れっぷりが面白そうだが、七代とは言わないが二〜三代くらいまでは人生の汚点レベルの証拠が残る自分のリスクに尻込みしている、黄薔薇のつぼみ島津由乃。
 三人とも、反対する気はないが、ここで賛成する時点ですでに痛いことをよく理解していた。
 お姉さま方の言いつけには(由乃以外)大概のことは素直に従う意志はあるものの、妹の手前、快諾というのも、なんだか威厳を損ねてしまいそうだ。
 ――あと一押しが必要だ。
 令の視線に、祥子はうなずいた。

「さっき令も言ったけれど、これは三年生からの最後の望み、最後のワガママだと思って。だから強制はしないわ。次期山百合会をまとめる二年生たちの合意で決定してちょうだい」
「「…………」」

 「強制はしない」という言葉自体が、すでに強制の力を持っていることを、言った祥子も理解している。
 最後の望み、最後のワガママと言われれば、応えないはずがない。
 そして一年生二人の強い賛成の意思が、少なくとも各々の姉である祐巳と志摩子の心をすでに掴んでいる。
 もしこの場で強い反対が出せるとしたら、由乃以外にありえない。彼女が大きく……そう、逆ギレ並のパワーで乗り切れば、この話は流れることもある。
 だが、肝心の由乃は黙ったまま。
 由乃は明らかに『山百合会ペット化計画』に興味を示している。



 しばらく二年生たちがコソコソ話すのを見届けた後、その総意を志摩子が口にした。

「リリアンかわら版への記事は勘弁してください。写真はペットになった人が一緒に写っているもののみ、写っている人にだけ焼き増しを許可します。これが飲めれば……」
「結構よ」

 このくらいの条件は読んでいた。
 これで居場所がなくなった――ような新聞部・山口真美も、当初から祥子の予想していた条件に添う形なので、取り乱すことはなかった。

「では、記事はペット化した方のみに配布します」

 真美は、予め用意しておいた答えを言う。
 「記事はダメ」という結論に、嫌がる様子も戸惑う様子もない真美の態度に、由乃は首を傾げた。

「……というか、どうして真美さんも?」
「証拠と証人を残したいだけよ。――次があったら貴女たちができるように」

 祥子の答えに、由乃は「……うーん?」と、ちょっとわからないような顔で腕を組んだ。
 そう、真意は別にある。
 だが、それは今言う必要はない。

「説得力がある理由が欲しいなら」

 と、令は妹である由乃の視線を向けさせた。

「もし仮に、この場の写真……まあ話だけでもいいけど、とにかく外部に漏らさないための配慮よ」
「真美さんがここにいる時点で漏れてない?」
「もっとも最悪な形は、『ペット化計画』が私たちの知らないところで漏れて、それがある日突然記事になって広められることにあると思う」
「……なるほど。最初から見せる代わりに完璧な規制を敷く、ってわけか」

 そういうこと、と令はうなずいた。
 噂程度なら問題ない。令たちは卒業するし、山百合会のメンバーが口を閉ざせば、噂はあっても真偽のほどは確かめることができないのだから。
 だが、形に残って波紋を立てられるのは困る。たとえ推測だけの記事にしても。
 人は姿のない噂は面白がるが、それがなんらかの形になると本格的な興味を抱くことが多いから。
 
(……入念だわ)

 志摩子は、三年生が計画したこれに、並々ならない熱意を感じ取った。
 この計画の目的はただの思い出作り、と言われればそれまでかも知れないが……だが、果たして本当にそれだけなのか?

「納得したなら、始めてもいい?」

 妙な引っ掛かりは憶えたものの、志摩子には真意まで読み取ることができなかった。
 本当の企画者が誰であるか?
 ――もし志摩子が「支倉令が考えた」という事実を知っていたら、近い未来に起こることは回避できていたかも知れない。



「それじゃ早速始めましょうか」

 祥子の言葉を合図に、蔦子と真美はテーブルから離れた。邪魔はしないので最初から最後までいないものと思ってください、という意思表示である。

「ペットの決め方だけれど……最初に言った通り、私たちも対象内なの。だからこの場で作るクジ引きでいいわね?」
「「了解です!!」」

 もうとにかく一秒でも早く実現したい瞳子と乃梨子は、早速クジの作成に取り掛かった。

「ペットの時間は15分。それ以上は肉体的にも精神的にも辛いと思うわ。呼んだ相手の元へはかならず行くこと。呼ぶのは各自3分毎に1回ずつ。独占を避けるための配慮だと思って」

 やはり入念な打ち合わせをしたことを確信させる、隙のないルールを展開する祥子。

「ペットの呼び方は自由。適当に付けたあだ名でも呼び捨てでも可。ペットが痛がらないならどんな可愛がり方も人道的に問題なければ可。その際ペットの拒否権なし。ペットができるのは、自分の相手の要求に答え、甘えることのみだと思って。それも人道的に問題ない行為のみとします。
 他、何か質問は?」

 はい、と由乃が手を上げる。

「各々の持ち時間が3分間、ということですか?」
「いいえ。たとえば由乃ちゃんがペットになって、令が由乃ちゃんを呼んだとします。その際、1秒か2秒後に祐巳が由乃ちゃんを呼んでしまった場合、由乃ちゃんの行く場所は祐巳の元になるの」
「あ、じゃ、その場合は令ちゃんが3分間呼ぶことができない、と」
「そういうこと。初回を除いてのみ、ペットを呼んだ場合は誰かの邪魔をすることになるの。そしてタイミング次第ではペットは誰の元へも行けずにタイムオーバーを迎えることもあるわ。
 対人関係を壊したくないなら、本当に呼びたいペットだけ呼ぶのが得策でしょうね。まあ、それも各々の判断一つだけれど。
 ――ああ、ちなみに言うけれど、もしペットが誰にも呼ばれていない状態……つまりスタート時ね。その場合は、そのペットが望む人のところへ甘えに行くことにします。これはペット以外の人には拒否権はないから、誰かが呼ぶまで可愛がりなさい」

 祥子は、更に言う。

「それと令の説明の一部をもう一度言うわ。ペットはあくまでもペットよ。たとえ私だろうと令だろうと、何も遠慮しないで。私たちも覚悟の上で言っているわ」
「そう。恥を忍んで可愛がるし、甘えもする。嫌な顔は一切しないから」

 全てがこの場限りのことと割り切りましょう、と言ったところで、一年生たちの「「できました!」」のやけに元気な声が掛かった。
 ゲームスタート、である。



「……私か」

 こういう時のクジ運は悪いのか、そもそも運自体が悪いのか、ペット第1号は支倉令となった。
 
「真美さん、時間お願いね」
「わかりました」

 真美さんは腕時計で時間を合わせ――スタートを宣言した。
 途端、しんと静まり返る薔薇の館。
 いくら「ペットはペット」と念を押されたとは言え、相手は三年生。二年生以下はなんだか触れるのが怖い。
 そんな中、やはり動いたのは祥子だった。

「令、来なさい」
「は、はい」

 優雅に座る祥子の側へ、令は小走りで駆け寄った。
 ――瞬間。

「っ!?」
「「あっ」」

 祥子は立ち上がり、令を抱きしめた。正面からガバッと。
 戸惑う令、戸惑う二年生と一年生、外野二人も驚いたらしい。

「ああ令……貴女はどうしてこんなに可愛いの……?」

 身体を離して(だがそれでも近い)頭を撫でる祥子は、本気でそう言っているようにしか思えないほどの、薔薇が花開こうかという微笑を称えている。
 令は赤面した。
 わかってはいたが、親友は近くで見ればもっと美人だった。しかもなんかイイ匂いがする。
 更に、その相手は、掛け値なしの笑顔。喜びとも楽しみともつかない、全てを受け入れるような聖母のような微笑み。
 ――山百合会ペット化計画。
 本来の目的とは違う意味でも、令の心にヒットしていた。

「さ、祥子っ」

 本来の目的とは違う意味で壊れた令は、一度でいいからどれほどのものかと確かめたかった祥子の豊満な胸に、顔から突っ込んだ。
 もちろん、祥子は嫌そうな顔一つせず、令を受け入れる。
 嫌そうどころか、聖母を思わせるような微笑みを浮かべたまま、優しげに令の頭を撫で、甘えさせる。

「…………」
「…………」

 なんだか美しくも見えるその光景を、不機嫌に睨む目があった。
 祥子の妹の祐巳と、令の妹の由乃である。
 特に祐巳は、その不機嫌そうな顔を見て不機嫌になっている松平瞳子の視線に気づいていない。二人は姉妹になりたての関係なだけに、不機嫌さも殊更大きい。

「令さま、こっちに来てください」

 たとえ最初からそういうものだと理解していても我慢できなかった祐巳は、早々に令を呼んだ。

「……はい」

 しかも離れがたいような顔をする令に、更に腹が立つ。
 今度は特に由乃が。

(ええ、ええ、大きい方がさぞ嬉しいでしょうよ。なによ、令ちゃんのバカ)

 令の魂胆が読めている由乃は、令を呼ぶつもりは毛頭なかった。というか可愛がる気はまったくなかった。元々なかった。今後もないと思う。

(帰ったら死刑ね)

 しかも筋違いに怒りを燃やしていた。

「――祐巳ちゃん、呼んだ?」

 犬のように駆け寄ってきた令は、座る祐巳に向かって腰を屈め、同じ目線で小首を傾げながら微笑んだ。

「……ぅ」

 祐巳は知らず、頬を染めた。
 ――かっこいい。かっこいい上に、かわいい。
 普段は意識してなかったせいか、はたまたダメなところしか見ていなかったせいか、令が見せた無防備なその表情は不意打ちに近かった。

(相手はあの令さま、相手はあの由乃さんに頭が上がらない令さま、相手はあの情けない令さま……)

 いつもは考えないようなマイナス要素を必死で頭の中で繰り返す祐巳に、令の不意打ちは更に続いた。

「祐巳ちゃんもイイ匂いする」
「あぎゃあっ」
「おっ……!!!!」
 
 思わず由乃は「おまえ何やってる」と叫びかけた。
 なんと令は、祐巳の首筋に顔を寄せ、頬がくっつくような距離で……いや、実際くっつけて甘え出した。

「祐巳ちゃんは可愛いね」
「あ、あ、あ、あ、あの、あの、あのあのあのあのっ」

 髪に頬摺りまでされている祐巳は、あまりのことに言葉がうまく出てこない。

(……腹立たしいわね)

 容赦なく自分の妹に甘える令に、姉の祥子も少々ご立腹だ。――だがこれは覚悟の上のことなので、我慢だ。少なくともあと2分ほどは呼べないのだから。

「令さまこっち来なさいよ!」

 祐巳と同様に言葉が出なかった瞳子が、大切な姉に触れるペットにようやく怒りの声を放つ。命令口調な辺りが心境を正確に表している。
 が――

「ひ、う、あ……!」
「瞳子ちゃん、小さくて好き」

 頬にキスをするという荒業を自然とやってのけて、令は瞳子を強く抱きしめた。瞳子は予想外のストレートすぎる好意に、姉と同じく言葉を失った。ちなみに姉は今必死で「相手はあの令さま」とブツブツ繰り返している。
 何か余計なものが目覚めたのか、これが素で甘える令なのか。
 しかも「好き」と来たもんだ。

(そんなセリフ、志摩子さん以外似合わないっての!!)

 由乃は思ったが、周囲は概ねなんだか熱気に当てられたかのように、照れていたり顔を赤らめていたり。
 普段は性格がダメダメな上に妹に怯える令だが、素材は「ミスターリリアン」その人である。
 「一時でも全てを忘れる」というこのペット化計画において、令の普段見ることができない魅力が爆発していた。
 そんな令を見ていて、皆もなんとなくわかった。
 これは本当にそういうものなんだ、と。
 本当に遠慮も何もいらないんだ、と。
 ならば。
 残り少ない卒業を控えた三年生と触れ合える、そして甘えたり甘えられたりする最後の機会になるかも知れない。
 ――ここで遠慮する方が、失礼なように思えてきた。

「令さま、いいですか?」
「あ、うん」
「ええぇぇぇーっ!?」

 次に呼んだのは、意外にも志摩子だった。
 「志摩子さんは嫉妬もないし、大丈夫よね」と鷹を括っていた乃梨子の驚きっぷりはすごかった。もうアゴが外れようかというほどに。
 志摩子としては、単に今まで令とどうこう、という話がなかったためである。この『ペット化計画』が思い出作りという目的であるならば、呼んだ方がいいだろうと判断した。
 それに、意外な令のハジケっぷりに興味が沸いたのも、否定はできない。
 三年生を自分の意のままに可愛がれる、という機会なんて、過去にはなかったし、今後もそうあることではないのだから。
 ――冷静に考えると、この思考は佐藤聖から譲り受けた白薔薇の遺伝だったのかもしれない。

「ダ、ダメダメダメダメ!! 志摩子さんは絶対ダメっっ!! 令さまこっち来てっっ!!」
「え? ああ、うん」
「……乃梨子?」

 姉が「それ、どういうこと?」と言いたげに、妙に迫力のある笑顔で自分の妹を見る。
 妹はそれに気づかないフリをして、寄ってきた令を受け入れる。

「ぬぁぁっ!? ちょっ!? 待っ…!?」
「ふふ。乃梨子ちゃん首弱いの?」

 耳は指を入れられても結構平気だが、後ろ髪でちょうど隠れている首の後ろは弱かった。
 令は優しく乃梨子の手を握り、祐巳の時と同じように首筋に顔を寄せていた。
 ――普段はクールなだけに、令は乃梨子がこのように悶える様を見てみたかった。
 本来の目的とは違うところだが、心残りが一つ消えた。

「…………」

 ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ

 由乃の我慢も、そろそろ限界だった。もう歯が折れるんじゃないかと言うほどギリギリしている。

「令ちゃんのバカ!! 叱ってあげるからこっち来なさい!!」

 年季の入った命令で、ついに立ち上がって叫んだ。

「…!」

 本当に待っていた相手からついにお声が掛かり、令は飛ぶように由乃の元へ走った。
 そう、とても嬉しそうな顔をして。

「あ、ちょっと、止まっ――!」
「由乃ぉぉぉーーーーーー!!!」

 勢いそのまま突っ込んできた令は、由乃を抱きしめるなりズドンと押し倒してしまった。

「い、いた……何やってるのよ!――というかほんと、な、何やってるの!?」

 抗議の声を上げるが、上に圧し掛かったままの令は、由乃の髪や頬や首やその他色々な部分に唇を寄せてくる。

「早く呼んでよバカっ! 由乃の意地悪っ!」
「い、いじわるって……えぇー……」

 なんでも知っていると思っていた従姉妹にして姉のすんごい甘えっぷりに、由乃の目は点になった。
 ――恥ずい。
 ――恥ずかしすぎる。
 ――え? 令ちゃんってこんなんだっけ?
 ベタベタしたりイチャイチャしたりするのが基本的に嫌な由乃にしてみれば、あまりにも予想外すぎた。
 由乃は嫌そうな顔をしつつ、だが抱擁したりして令を可愛がってやる。「やっぱり令ちゃんは私が一番なのね」などと内心肩を撫で下ろして。
 そこまで激しい甘えっぷりを見せられたら、もう誰も令を呼ぶことはできなかった。
 …………
 いや、一人だけ。

「令さま、来てください」
「「っ!!」」

 あんなものを見せられて、周囲はおろか黄薔薇姉妹の当事者たちをも驚かせて、声を上げたのは――

「し、し、志摩子さん……?」
「乃梨子、わかっているわね?」

 なぜだかわからないが敵意を感じさせる笑顔で、志摩子は乃梨子を見詰める。

「――15分経過、ここまでです」

 微妙に場が凍りついたその時、真美がペット化終了を宣言した。

「「…………」」
 
 何人かに遺恨を残しそうな志摩子の呼びかけは効力を無くしたが、水面下で波紋を呼んでいた。



「じゃあ次は――」
「ちょ、ちょっと待ってください! お願いします!」

 何事もなかったかのように祥子が進行しようとすると、名残惜しそうな令を引っぺがして、由乃は立ち上がって待ったを掛けた。若干衣類が乱れて肩がモロ出しだったりハァハァと息が荒かったりした。

「二年生、集合!」

 可とも不可とも言わない祥子を無視して、由乃は有無を言わさぬ迫力で二年生を部屋の片隅に招集した。
 まだ「少女趣味の剣道女……ヘタレ……」だのブツブツつぶやいていた祐巳はハッと我に返り、「なんなの乃梨子は」という敵意が見える笑顔で妹を見守っていた志摩子も、由乃の召集にノロノロと応じる。
 祥子は、そんな二年生たちを何も言わずに見送る。
 今は何を言っても聞き入れないだろう。
 ……それより。

「はぁ……由乃……」

 うっとりと余韻に浸る親友は、いち早く望みを叶えられた。
 やはり見ていると痛かった。
 だがそれ以上に、令はとても嬉しそうだった。今も幸せそうだ。
 次は自分の番だ――祥子は気合いを入れなおした。



「なあに?」

 いやに迫力がある笑顔の志摩子が、由乃に声を掛ける。
 対する由乃は不機嫌そうだ。

「何って、……志摩子さんこそどういうこと?」
「どういうこと、って?」
「どうして最後、令ちゃん呼んだの?」
「私も令さまを可愛がったり、可愛がられたりしたかったからよ」

 当然じゃない、という答えに、由乃は更にカチンと来た。
 だが、文句が出る前に、志摩子はこう続ける。

「三年生に甘えたり甘えられたりって、後にも先にもないかも知れないと思って。そう考えたら、呼ばない方が失礼なんじゃないか、って」
「失礼…?」
「だってそういう話でしょう? 今遠慮するのはおかしいんじゃないかしら? お二人とも、最後の望み、最後のワガママとまでおっしゃったのよ?」
「…………」

 志摩子は不機嫌そうな顔のまま黙った由乃からひょいと視線を移し、なんだか居心地が悪そうな顔の祐巳に視線を送る。

「ねえ、祐巳さん? 祐巳さんはどう思う?」 
「え? う、うーん……この場限りのこと、ってことで……いいんじゃないかと……」
「――祐巳さん、私の目を見て」

 突然言われた由乃のセリフに、祐巳はビクッと震えると、「な、なんで?」とあからさまに動揺した。

「なんでって、なんで? 今日も三年生が来る前は目を合わせておしゃべりしてたよね?」
「さ、さあ……よく憶えてない、かな……」
「…………」
「…………」
「……令ちゃん、結構良かったの?」

 「何が良かった」のかはわからないながらも、その言葉は祐巳の何かを破壊した。

「由乃さんは贅沢だよ! あんなにステキなお姉さまがいるのに、いつも泣かせて! 由乃さんはひどい!」
「な、なんですって!?」

 滅多に見られない怒りの感情を見せる祐巳に、それに戸惑いながらも口出しされたくない姉妹関係に遠慮なく突っ込まれて怒る由乃。
 そんな二人を側で見ていた志摩子は、なるほど、と思った。
 ペット化計画の、思い出作り以外の、もう一つの意味が見えてきた。

(三年生にとっては本当に無責任に可愛がるだけで、まだ学園に残る私たちには置き土産になるわけね)

 性格上の問題か、相性の問題か、二年生三人はこれまで激突したことがなかった。特に感情が先走るのは由乃だけで、志摩子や祐巳はそれをたしなめるような形が出来上がっている。
 言わば、完成された関係になっていた。
 不満も問題もなかったし、それぞれの人間関係がある、と言われればそれまでだが。
 だが、去年の水野蓉子、鳥居江利子、佐藤聖の三人の関係と比べると、なんだか脆く思える。あの三人の関係は一見希薄に思えたが、しかしそのくせ隙はまったくなかったから。
 現二年生と、蓉子ら先々代との違い。
 それは何か、と問われれば、やはり一度も衝突したことがない、という点ではなかろうか。
 仮に志摩子たちが三年生に上がった時、三人が何らかの理由で衝突……つまりケンカしてしまったとしよう。
 その場合、過去一度もなかったことに、妹たちはおろか当事者たちも予想外に戸惑ってしまうだろう。もちろんその内修復はするだろうが。
 だがその間の山百合会の業務は、どうなる?
 ――この計画は、なんだか平和になっている山百合会に、一石を投じる目的もある。
 だから二年生の動きに祥子と令は何も言わないし、祐巳と由乃がケンカを始めようと睨み合っているのに止めようともしない。
 
「…………」

 志摩子はチラと祥子と令を見る。

「――どうだったの? よかったの?」
「――うん、よかった。祥子さん、なかなか良い妹をお持ちで……」
「――あたりまえよ私の祐巳なんだからっ」

 …………
 たぶん、そういう意味もあるはずだ。
 決して自分たちの黒い欲望だけで企画されたものではないはずだ。
 ……そうだと思いたい。

「…………」

 ついでに、視界に入った外野班も見てみた。

「――はぁ……はぁ……ふぅ……」
「――蔦子さん大丈夫? 興奮しすぎよ……まあ気持ちはわかるけど」
「――だって、目の前でかならず決定的瞬間が起こることが事前にわかってるのよ? テンションが上がらない方がおかしいわよ。もうフィルム三本消費しちゃったわよ」
「――酸欠で倒れても知らないからね。私だってもう書きたいことが頭の中でパンク寸前なんだから。蔦子さんの心配する余裕なんてないわよ」
「――大丈夫。今なら気を失ってても撮る自信がある。神が降臨してるから」
「――奇遇ね。私もよ」

 向こうも順調に壊れているようだ。



「もういいかしら?」
「あ、はい」

 祥子の声に、志摩子が答える。
 睨み合うタヌキと猫は硬直状態に入っているので、志摩子は二人を「戻りましょう」と言いながら押して、テーブルへと戻った。
 相変わらず祐巳と由乃は睨み合ったままだが、時間が解決してくれるだろう。

「それじゃ、二回目行きましょうか」

 先程は聖母のように見えた祥子の微笑みが、今は悪魔か何かのように見え始めていた。



「…………はぁ」

 溜息をついたのは二条乃梨子。ペット第二号は乃梨子になった。
 ――あの痛々しいのを自分でやれというのか?
 令が幸せそうだったのが唯一の救いというかなんというか。だが乃梨子は自分があそこまで壊れる自信はまるっきりなかった。あんな異常な輝き方なんてしたくない。
 だが、彼女は知らない。
 この場にいる全員が「乃梨子ちゃんもあんなもんだよね」と思っていることに。姉を見る目がすでにアレだから。

「乃梨子、良かったわね」
「えっ」
「しっかり可愛がってもらってきなさい。私は絶対に呼ばないから」

 相も変わらぬ凄味の利いた笑顔の姉は、可愛い(はずの)妹を快く送り出した。

「…………」

 乃梨子、愕然。
 言葉の意味を考えると、今後の姉妹関係に亀裂が入りそうなので、本能的に頭が思考を拒否した。

「それじゃ真美さん、よろしく」
「はい」

 真美は時間をチェックして、スタートの合図を出した。



「乃梨子ちゃん、こっち来て」
「乃梨子」

 令の声のすぐ後に、なんと瞳子が呼んだ。
 先程祥子が言ったルール上、後から呼ばれた方に呼び出す権利がある。
 残念、という顔で苦笑する令と、してやったりの顔の瞳子。

(フッフッフッ……覚悟なさい)

 普段は冷静で可愛げがない親友を、ここぞとばかりにいじるチャンス。

(そして――)

 なんだか目も合わせてくれなくなった出来たての姉・祐巳の嫉妬とか注意とか関心を向けさせる一石二鳥の策である。
 …………
 なんだか祐巳は由乃と剣呑な雰囲気で睨み合っていて、状況を理解しているかは怪しいものだが。
 でも、出来たての可愛い(はずの)妹が誰かとイチャイチャしていれば、それは腹も立つはず。
 祐巳の姉が令と接触した時はそうだったのだから――と考える瞳子の思考は、自然だ。思い上がりでも自惚れもでもなく、自然である。

「わーい瞳子チャーン」
「ええっ!?」

 ただ、誤算は、乃梨子が思考を停止させていたことにある。
 志摩子が絡まないペット化計画など、乃梨子にとってはなんの価値もなかった。
 あらゆる意味で全てを投げた乃梨子は、なんというか……最初から令以上の壊れっぷりだった。

「うふふ、ワタシのことはリコって呼んでネ」
「なっ…!」

 棒読みで普段ありえないほどの可愛げを振り巻き、しかもなんだか目は焦点が合っていない。
 
「ちょ、ストップ! 乃梨子が逝きすぎですわ!」

 ――瞳子の抗議は受け入れられた。
 誰が見ても今の乃梨子は危ない。もはや痛いを越えて異常だ。
 このまま続行したら戻って来られない可能性が極自然に考えられたので、即座に乃梨子ペット化計画は中止されたのだった。



「志摩子サーン」
「はいはい、よしよし」

 乃梨子が壊れた。
 さすがの三年生たちもここまでのアレは予想できなかったらしく、「志摩子どうにかしなさい」と言うのが現状最高の解決法に思えた。
 志摩子が呼ぶと、乃梨子はとたとたと志摩子の元へ駆け、ペタンと床に座ると膝の上に頭を預けてきた。

「……幼児退行かしら?」

 志摩子はポツリとつぶやいた。
 安心かつ幸せな顔を無防備に晒す乃梨子は、うん、なんというか、究極の姉妹愛を体現してくれた。
 ――ということで皆納得しておくことにした。
 そこまで志摩子のことを……、なんて、邪推してはいけないのだ。そこまでいったら「ダメ」というレベルを超えてしまうから。
 ガッチガチのガチの住人であることが確信になってしまうから。

「姉冥利に尽きるわね」
「…………」
「…………」
「ええ、そうですね」

 間が気になるが、祥子の場を取り繕うような言葉に、志摩子はにっこり微笑んだ。



 ちなみに、乃梨子はこのまま一眠りして目覚めると、こちら側へ戻ってくることができた。
 当然というかなんというか、このペット化計画の記憶は、彼女には残っていなかった。
 よくよく考えると、乃梨子は勝ったのだ。
 記憶には残っていないが、誰に可愛がられることもなく、大切な姉だけに身を預けることができたのだから。



「この分じゃ、白薔薇姉妹は続行不能ね」

 あまり触れたくない事態になってしまったので、祥子はそう判断した。……妹が大変なことになっているのに、なぜか志摩子は残念そうな顔をしているが。

「そうだね、もう刺激しない方がいいよ。……一応ペットになってるんだし、いいんじゃない?」

 令も、現実から目を背けたいようだ。

「時間的にあと一回がいいところね」

 二人減ったことで、ペットになる確率はグンと増えた。
 令は一度ペット化したので除外、壊れた乃梨子とその面倒を見る志摩子も参加不可能。
 祥子は笑う。
 乃梨子には……いや志摩子には悪いが、これは天が与えたもうた好機。
 四分の二の確率で、自分か祐巳がペットを引ける。
 瞳子が引いた時……だが、その場合は令の時のように、祐巳に嫉妬させることができる。結託している令が由乃の独占を熱望しているから、由乃では無理だが、瞳子には可能だ。
 そもそも祐巳は、自分と瞳子、どちらが大切なのか? 具体的にどちらに嫉妬し、どちらを独占したいと思うのか?
 蓋を開けると恐ろしい答えが出てきそうだが、これまでの思い出の積み重ね分だけ、瞳子には負ける気などない。
 そういうわけで、ハズレは由乃がペットを引いた時のみだ。四分の三の確率だ。
 ――だが、祥子は忘れていた。
 ここぞという時の由乃は、悪魔でも味方に付けたかのような強運を誇っていることを。
 おみくじを引かせたら、かならず「大吉」を越える「バリ吉」を引いてしまうということを。



「げ……やっぱ私か……」

 ペット第三号は、やはり由乃だった。
 由乃自身、なんとなく思っていた。
 なんとなくシメは私がやらなければいけないのではないか、と。
 こういうことのシメ役は、いつも誰かの見えない力によって、由乃に託されることが多いのではないか、と。
 あるいはトップバッターだったり、事件の引き金を引く役だったり、かつての新聞部部長が引退した後は、不動のお騒がせポジションにいるのではないか、と。

(……ま、いいけどね)

 多少は自覚があるので、由乃はそれなりに運命を受け入れることにした。
 やってみたら意外と楽しそうだし――

(祐巳さん、覚悟しなさい)

 さっきの一件が解決していない今、腹立たしい親友に一矢報いることが簡単にできそうなので、むしろ望むところだった。
 だが、困ったのは祥子の方だ。

「…………」

 ガクーン ゴッ
 前兆もなく、祥子の上半身がテーブルに崩れた。顔から逝った。

「さ、祥子!?」
「……もう、お願いだから、放っておいて……」

 しくしくしくしく。祥子は泣いていた。
 「そういえば、好きになった男が同性愛者だと言ったり、親友が妹に振り回されて愚痴られたり、祐巳と破局寸前まで追い込んだ瞳子ちゃんが祐巳の妹になるという奇妙な縁があったり、あんまりいいことなかったなぁ……」とかつぶやいていた。

「あー……うん、それじゃ真美さん、よろしく」
「あ、はい……」

 色々と壊れてきた山百合会に若干引きつつ、真美は時間を確認して、スタート宣言を出した。



 祥子は哀れだが、令はこの機会を待っていた。
 望み叶わず天に召した親友(死んでない)のためにも、ここは自分が幸せを勝ち取らねばならない――そんな使命感に燃えていた。
 しかし、令も知らなかった。 
 仲が良いはずの祐巳と由乃の関係に、微妙な亀裂が生まれていたことに。

「由乃っ、こっちこっち!」

 予想通りに令が呼ぶ。が――

「由乃さん、こっち来て」

 それを阻止したのは、祐巳だった。

(なななななななんだってー!!!!!!)

 妙に影を負った劇画チックな顔の令の背後には、雷鳴が轟いだのだった(イメージ描写)。
 ――だが誰も見ていなかった。
 由乃は不敵に笑って祐巳を見下ろし、祐巳も百面相が成りを潜めた無表情。 
 瞳子は、姉の初めて見せる表情に凍りつき。
 祥子は泣き。
 志摩子は、まあなんだかんだ言って可愛い妹が幼児退行…?している様が気に入ったのか、乃梨子を可愛がることに忙しい。
 外野班は、そもそもペットしか追っていない。
 後から呼んだ方が優先される――令の上にかぶせた祐巳の呼び掛けにより、今後も同じことが繰り返される恐れがある。
 つまり、事実上、猫と子タヌキの一騎打ちになっていた。



(……フッ。祐巳さん、私を甘く見たわね)

 由乃には秘策があった。それもとっておきのモノが。

(令ちゃんの少女趣味を結集させた伝説の奥義を、今ここで出す!)

 そんなに大層なものでもないのだが、由乃は自分を鼓舞する。
 この「奥義」は、テンションを最大値まで上げないと使用することができないのだ。
 ――自分が痛いし、自分が痛いことを自覚したら、自分に押し潰されてしまいそうだから。

(さあ食らうがいいわ祐巳さんいえ福沢祐巳!)

 由乃が動いた。

 ふぁさ

「「っ!!!!」」

 それを見た正常な者たちは、その衝撃に息を飲んだ。擬音が出るなら由乃的イメージでは「ズドーン」あるいは「ザシュッ」または「ゴリュッ」でもいいかも知れない。とにかく一撃必殺だ。
 由乃が、三つ編みを解いた。
 流れるウェーブ掛かった髪は窓から差し込む陽にきらきらと輝く。シルクのような濃いハチミツ色の
糸は緩やかに揺れ、はずみ、妖精たちが光の粒子を振りまいてそこで遊んでいる優美さ。
 先程まで由乃だった少女は、今や恋だのなんだのの女神のような輝きに満ちていた。

(奥の手は隠しておくものよ?)

 親友だった存在の変身にただただ目を丸くする祐巳に、内心勝ち誇る由乃。
 だが、ここでいつもの不敵な顔を作っては台無しだ。
 奥義はまだ終わっていない。
 本当に(自分が)痛いのは、これからだ。
 かつて捨てた「妹にしたいナンバー1、儚い可憐な少女」の記憶を呼び起こし、由乃は笑う。

「ゆーみさんっ☆」
「は、はいぃ!?」

 ――少々元気がプラスされるのは、さすがに仕方ないだろう。
 だがそれを補って余りあるのは、「遠慮なしのキャラ」が可能にした無邪気に振る舞う行動。
 由乃は祐巳の膝の上に横座りし首に両手を回す、というレベルSSクラスの大技をかました。

((なにぃぃ!!!!))

 言葉にはならないが、心ではシンクロしている令と瞳子。
 知らぬ間に、由乃が放つ「邪魔をするな」という雰囲気に飲まれていた。特に瞳子など、自分でも由乃を呼ぶ権利があることがすっかり頭から抜け落ちている。

「……ね、祐巳さん」
「は、は、はい」

 顔と顔の間隔が10センチほどの状況で、由乃は可愛らしく(自分では痛みを負い)囁く。いつもなら全身を掻き毟りたい心境だ。
 対する祐巳は、もう顔は真っ赤だし視線は落ち着かないし、とにかく動揺しかない。

「もし祐巳さんが一年早く生まれていたら、祐巳さんはきっと私のお姉さまになっていたと思うの」
「そ、そ、そ、そう?」
「それか、祐巳さんが私の妹になる?」
「は、はぁ……」
「……祐巳、って呼んでいい?」
「いいい、い、いいですけど……」
「それとも、お姉さまの方がいい?」
「そ、そ、そう、です、ね……」

 ほぼゼロ距離から無邪気な囁き攻撃に、祐巳は次第に落ちて行く。

「ねえ祐巳さん、私を見て」
「う、うん……」
「もう、ちゃんと目を合わせてよぉ」
「う、うん……」
「私のこと、好き?」
「う、うん……」
「よかった。私も祐巳さんのこと、好きよ」
「う、うん……」

 このまま攻め続ければ祐巳は落ちる――乃梨子くらいまで。ガッチガチに。
 さすがにこれ以上はまずいだろうと思い始めていた由乃は、さてどうするかと考える。
 ――それが命取りだった。

「由乃さん……」
「ん? ――んぅぁっ」

 眼前の祐巳の目を見た瞬間、由乃は仰け反りそうになった。
 一瞬の油断で祐巳から注意が逸れていたため、祐巳の変化に気づかなかった。
 反撃?
 いや、違う。
 少なくとも祐巳はそこまで器用じゃない。
 ならば、天然だ。

「由乃さん、そこまで……」
「え、いや、その」

 恐らく百面相最強と思しき「恋する乙女の顔」をゼロ距離で食らったその時、祐巳と攻守が交代していた。

「……こうなったら、今まで通りじゃいけないんだね、私たち」
「あ、いや、別に」
「もう我慢しなくていいんだよ、由乃さん」
「そ、そうじゃなくて……あぁっ」

 コツン、である。
 前髪が触れるような距離ではあったが、今度は祐巳が更に接近を試みた。
 だから、額と額がコツン、である。
 それは本格的な頭突きよりはるかに精神的ダメージを加える。
 もう逃げようと思った時にはすでに遅く、いつのまにか、由乃の腰には祐巳の両腕が回りロックされていた。

(だ、誰か助けてっ、まずいっ、このままじゃ……!)

 由乃は視線で助けを求めた。


 瞳子――食い入るようなその視線は、まるで劇のクライマックスシーンを見ているようで、両膝の上でハンカチを握りしめてはらはらと二人を見守っている。これは一種の現実逃避だろう。

 令――「髪を降ろした由乃は私だけの由乃なのに……」と、うつむき加減でブツブツつぶやいていた。やはり頼りにならない姉である。

 祥子――相変わらず泣いている。

 蔦子と真美――自分のことで精一杯。

 志摩子――目が合った。


 「助けて!」と強く強く願うと、志摩子は、何を勘違いしたのか微笑んだ。「良かったわね」とでも言いたげに。

(そうじゃない! 志摩子さんそうじゃない!)

 由乃は強い。
 だが同時に、由乃は打たれ弱い。



「……それじゃ、これで『山百合会ペット化計画』は終了とさせていただきます……はぁ……」

 落胆の溜息を吐く令。

「あのね、あのね、祐巳がね、祐巳がね」

 泣きながら少々錯乱しているらしい祥子は、がっかりしている令の袖を引っ張って聞いてくれとせがんでいる。

「ハッピーエンドが一番ですわよね……チーン」

 なぜか泣いている瞳子は、やはり「それ」を芝居として逃避して、今も逃げ続けている。

「あ、私たちは、最後に帰りますから」
「むにゃむにゃ……」

 ショックのあまり幼児退行した乃梨子は志摩子の膝の上で眠りに着き、志摩子はそんな妹が起きるまでこのまま待つつもりのようだ。

「早速現像行ってきます!」
「早速記事起こします!」

 十五本ものフィルムを使いきった蔦子は恍惚の表情で、同じく真美も小さなメモ帳一冊を使い切ったらしく急遽ゴミ箱から拾ったらしきクシャクシャの用済み書類の裏に殴り書いていた。

 そして……

「……あ、な、なに?」
「な、なによ。別に祐巳さんなんて見てないんだから」

 赤い顔で、面白いくらいにチラチラとお互いを意識している、祐巳と由乃。
 そんな面々が、ぞろぞろと薔薇の館を出て行く。

「…………」

 眠る乃梨子の頭を撫でながら、志摩子は思った。

「来年……大丈夫かしら……」

 心配になるのも無理はなかった。



 翌日。
 令による最後の仕掛けが作動する。

「「えーっ!?」」

 どこそこで上がる驚愕の声、声、声。
 飛び交うリリアンかわら版号外が、その原因である。

「これで望み通り?」

 寒々しい温室に、祥子と令はいた。
 ――令が「由乃を堂々と可愛がりたい、可愛がられたい」という欲求は、こういう形で画策されていた。
 単純に言えば、「山百合会ペット化計画」中の令と由乃を撮り、記事にし、即座に発表する、というものだ。
 自分たちもそうだし、卒業間近の令の姉・鳥居江利子もそうだった。
 傾向を負えば、黄薔薇は姉妹関係、恋愛関係で波乱を起こす。
 令は卒業を目前に迎えて、過去を振り返り、ふと気づいたのだ。

「私たちって、もしかして黄薔薇革命以外の事件がない?」と。

 江利子は妊娠疑惑や、イエローローズ事件の顛末に恋人(候補)ができた。
 だが令と由乃の主だった事件など、後にも先にも姉妹別れの話しかない。
 志摩子と乃梨子なんて、校内イベント中に進展があるという派手な事件があった。
 祥子と祐巳も学園祭直前による出会いで、徐々に関係が進むという「なんか見守りたい」と思わせるものがあった。
 だが、自分は?
 唯一残った記録が「姉妹別れ」でいいのか?
 そう思ったら、このまま卒業していいのかどうか、迷い始めた。

「『卒業を惜しむ黄薔薇さま、黄薔薇のつぼみ』……ね。さすが真美さん、うまいこと記事にしたものだわ」

 かわら版だけ読めば、本当にそれだけのことである。そして抱き合う二人の写真(ちょうど令の横顔で由乃の顔は微妙に隠れている)を見れば、令(だけ)は嬉しそうだ。
 この一枚からは、色々な妄想が掻き立てられる。
 たとえば、そう、「涙ながらに別れを惜しむ島津由乃に、支倉令は力強い笑顔で抱擁、励ました」……とかなんとか。
 ちなみにこの後、由乃は押し倒されたわけだが。
 さすがは武嶋蔦子、決定的瞬間を逃さない。

「……これで『望み通りじゃない』なんて言ったら、本気で起こりますからね」

 片や望み通り、片や望み叶わず。
 祥子が怒るのも無理はない。
 いや、むしろ、一日で復帰したその負けず嫌いさは賞賛に値する。
 若干目が腫れているのは、泣き続けたせいだろう。

「そうは言わない。でもさ、でも……」
「……言いたいことはわかるわ」

 でも、由乃、祐巳ちゃんと。
 聞かずともわかっている。

「……私も、ちょっと泣いていいかな? 胸貸してくれる?」
「……好きになさい。どうせもうすぐ卒業よ」



 更に翌日。
 祥子の胸の中で泣く令の姿を写真付きで発表されることになる。
 「山百合会ペット化計画」は、あらゆる傷と痛みと幸福と本心とガッチガチの未来の行程と破壊の痕跡を残し、消えていった。



 これで一番得をしたのは、外野席の見物人兼記録係だけである。





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