【2379】 今此処に生きるものよ  (沙貴 2007-09-30 22:39:45)


 ※1:オリジナルキャラクター主体です。
 ※2:時間軸は「いとしき歳月(後編)」に合っています。
 ※3:作品の特性上キャラ紹介が省かれ、過去エピソードが多数含まれます。
    過去作→【No:2366】【No:2347】【No:2328】【No:2311】【No:2287】【No:2262】【No:2248】


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 私立リリアン女学園。


 ここは、乙女たちの園――


 リリアンを吹き抜ける風は今もまだ冷たいけれど、辺りの空気はどことなく暖かくなってきている。
 枯れ木の梢にはぽつぽつと木の芽が見え隠れ。
 季節は冬から春へ、ゆっくりとけれどしっかりと、移り変わろうとしていた。
 
 それは突き抜けるような青空の日、風にちぎれて飛んでいく白い雲の下。
 広く大きな武蔵野の片隅で、今日、乙女たちは一つの節目を迎える。
 ある者は希望を胸に馴染みの地平に留まり、またある者は夢を抱いて新たな海原へと漕ぎ出す節目。
 
 それは一見、通過儀礼的なものに見えるかもしれない。
 皆で揃って決められた手順を踏み形式をなぞるだけの、詰まらない、眠気すら誘う全校集会に思えるかもしれない。
 けれど、例え三桁に達する参列者の端に名を刻むだけだとしても。
 名前を呼ばれて、紙切れ一枚を貰うだけの式だとしても。
 盛大なるその式は、当人それぞれのために催されているのだ。
 席の位置や、名簿の順番なんてどうでもいい。
 その人のため。
 たった一人、本人のために式が執り行われると言っても良い。
 それを契機に、誰もがそれぞれの道を選んで、大きな一歩を踏み出していく。
 
 リリアン女学園に入学した乙女が、人生でたった一度だけ経験することが出来る大事な儀式。
 誰もが主役になれる特別な集会。
 それこそが。
 
 リリアン女学園高等部――卒業式、である。
 
 
 〜〜〜
 
 
 その日、百合子は卒業式開式の時間が迫るにつれて興奮してくる自分を感じていた。
 そわそわして視線も定まらない。意味もなく薔薇の館辺りまで散歩に出たくなってくる。
 楽しみなのだろう、自分が明確に新しい一歩を踏み出すその瞬間が。
 三月某日、本日。
 私こと青田 百合子は、リリアンを卒業する。
 ついに、というべきだろうか。
 やっと、というべきだろうか。
 そんな他愛のない疑問を思い浮かべながらにやにやする辺り、冷静さを本当に欠いていた。
 
「失礼します」
 定例の挨拶と共に、二年生が三年松組の扉を開けた時。
 百合子は改めて実感した。
 ああ、見送りがやってきた。私は本当に卒業するのだな、と。
 定例の行事として、式の前には一学年下のクラス数名が卒業生のクラスにやってきて、卒業生に造花のコサージュをつけてくれる、というものがある。
 三年椿組なら二年椿組の有志が、三年李組なら二年桜組の有志が、という具合だ。
 百合子が属するのは三年松組。よって、やってきたのは二年松組の有志ということになる。
 俗にそれを、百合子たちの間では見送りと呼んでいた。
 
 けれどその顔ぶれを見て、百合子は胸中で一人ごちる。
(今だけでも李組にはなれないものかしら)
 やってきた下級生の中に見知った顔はちらほらあるものの、親しい仲といえるほどではない。
 どうせなら、気心のしれた相手に花をつけてもらいたいというのは人として、卒業する先輩として当然の希望であるはずだ。
 だけど百合子が三年間所属し、そして一年間委員長として引っ張ってきた図書委員会。
 その二年生は三人いるけれど、何の偶然か全員が二年桜組に含まれている。
 彼女たちに花をつけてもらうためには、百合子は李組でなければならなかったのだ。
 今更、であるけれど。
 
 だけど、もし百合子が三年李組だったら――彼女たちは本当に花をつけに来てくれるだろうか?
(紫苑ちゃんは前面に出てくるタイプだし、ジャンケンでも強運を発揮して勝ちそうよね)
 元気良く扉を開けて入ってくる姿が目に浮かぶ。
 きっと今頃、三年李組の扉を開けているのは彼女だろう。
(菫ちゃんは……来ないかも。私を蔑ろにしてる訳じゃないと思うけど、あまりイベントとか好きそうな子じゃないわ)
 想像する今頃の彼女は、物憂げな表情で窓の外を見つめている感じ。
 高い空の向こうに何を、誰を見つめているのか。それくらいは百合子にもわかるつもりだ。

 そして。
(……早苗)
「ご卒業、おめでとうございます」
 想像が最愛の妹に移ろうとした正にその瞬間、花つけ係の二年生が百合子の前に立った。
 見覚えのある顔。二年松組の図書委員だ。
 淀みのない手付きで百合子の胸に花を咲かせた。
「ありがとう」
 そう言うと、彼女は嬉しそうににっこりと笑った。
 
 ああ。
 そうだ。
 早苗の姿はこれだ。
 理由や場所なんて関係ない。
 早苗は百合子の前で微笑んでいる、その姿が一番似合う。
 百合子もその表情が一番好きだった。
 
 それに、内面の葛藤を押し殺してまで笑える強靭な精神力も、彼女の少なくない魅力の一つ。
 もちろん、そんな笑顔は浮かべて欲しくないのだけれど……その辺りは桃花ちゃんの今後に期待というところか。
 笑顔の裏側までを知ることは、早苗べったりの桃花ちゃんではまだ難しいだろうけれど、それも時間の問題だろう。
 
 それを思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
 現在目の前にいるのが早苗ではないのはただの不運だけれど、これ以降早苗が目の前にいないのは――不運じゃないから。
 そう、なってしまうものなのだ。百合子が望む望まないに関わらず。
 もう百合子はリリアンを去らなければならない、早苗のいるリリアンに足を踏み入れることは今後ほとんどなくなるはずだ。
 すなわち、彼女の笑顔を見る機会が激減するということ。
 それはとても、とても悲しいことだ。
 リリアンという通い慣れた学び舎を去るということよりも、馴染みの図書館から足が遠ざかるよりも、悲しいことだ。
 
「百合子さま」
 と。
 目の前の彼女が不意に百合子を呼んだ。
「今日は早苗さんの代わりにお花をつけさせて頂けて、光栄でした」
 彼女の笑顔は崩れない。
 両手を腰の前で重ねて、百合子をまっすぐに見つめて。
「私が委員会でご一緒に働かせて頂いたのは一年だけでしたけれども、とても有意義でした。私は来年も図書委員に立候補するつもりです」
「それは嬉しいわね。是非そうして、早苗たちを支えてあげてちょうだい」
 嬉しい申し出だった。
 基本的に部活動と違って雑務に追われる感のある図書委員は、なかなか達成感というものを感じがたい。
 その中でも、有意義だと彼女は言ってくれた。
 誇らしくなる。
「百合子さま。本当に、本当に、ご卒業おめでとう……っございます」
 言った。
 彼女は言い切った。
 胸がいっぱいになったのだろう、後半詰まらせながらも、それでも。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
 そしてそれは百合子もだ。
 彼女の本気、真剣に百合子を送ってくれる、別れを名残惜しんでくれている言葉に胸が詰まった。
 
 確かに今、目の前にいるのは早苗ではない。
 けれど、百合子は妹でもない彼女からこんなに本気の言葉をもらえたのだ。
 彼女は姉でもない百合子に心からの言葉を贈ってくれたのだ。
 リリアンでの学生生活、図書館での委員会活動。
 私は間違っていなかった。
 私はとても正しく、とても真っ当に、それらをやり遂げた。
 そんな確信が、百合子の胸をきゅうと締め付ける。
 
 
 ぺこりとお辞儀をして、彼女は次の人へ。
 その背中に視線をやって、百合子は小さくため息を吐く。
(卒業、か)
 百合子への見送りも終わって、再び胸に返ってきたその事実。
 どうしてだろう。
 見送りが来るまでは、踏み出す未来に向けてわくわくしていた筈だったのに、今はもうそんな興奮微塵も残っていない。
 立ち止まってはいられない。
 早くも明日から、百合子の来年に向けた準備は始まろうとしている。
 当然のようにしてリリアンの地を踏みしめるのは最後になる一日、今日。
 胸に咲いた花をそっと撫でながら、百合子はぐるりと教室を見渡した。
 
 一年間、授業を共にしたクラスメイト。ほどなく、全員の胸には卒業生の証である白い花が咲くだろう。
 一年間、授業のほとんどを過ごした教室。黒板に大きく描かれた「ご卒業おめでとうございます」の文字が浮いている。
 馴染みのもの。馴染みでないもの。
 入り混じった三年松組、卒業式の朝。
 卒業するのだ。
 百合子は、三年松組の乙女たちは、卒業するのだ。
 
(とうとう、というべきなのかな)

 百合子はそして、冒頭の疑問にそんな解を見出した。
 とうとう、百合子はリリアンを卒業する。
 頭の中で字面にしたそれは、なるほど今の百合子を的確に表現してくれていた。
 
 
 〜〜〜
 
 
 最近はいつもはキンと冷えた空気が満ちていた体育館も、今日ばかりは集まった大勢の体温で暖かい空気に包まれている。
 それもそのはず、全校生徒は言うに及ばず、父兄や来賓の方々も大挙して来られているのだ。
 広い体育館の許容人数限界ぎりぎりいっぱいであろう。
 可愛い娘の卒業式、何が何でも見たいという親御さんの気持ちはわからないでもない。
 年に一度の大仕事、さぞ体育館も収容甲斐があるというものだ。
 収容甲斐なんてものがあるのかどうかは定かでないけれど。
 
 着物や正装といった体温を思い切りに閉じ込めそうな着衣でも、やはり人はいるだけで熱を発しているのだなぁ。暑いくらいになってきた。
 などと、割とどうでも良い感想を覚える菫は、小鳥たちのさえずり……というにはやや騒がしい、ざわつく体育館の後ろ左半分中盤に座っている。
 右隣には、一年間出席番号一番二番のお隣さんである早苗。
 真後ろには、出席番号が大きく離れているにもかかわらず、並べられた座席数の妙でぴたりとハマった紫苑がいる。
 それぞれ、教室や体育の授業ではもちろん、委員会活動や休日すらも共にすることの多かった、自他共に認める親友である。
 
「もうすぐ、お姉さま方が入場なさいますね」
 早苗がほうと長い息を吐きながら呟いた。
 彼女の姉、百合子さまは本日めでたく卒業なさる。残される妹としては思うところ、大いにあるだろう。
 かく言う菫も一年前の出来事とはいえ、姉からリリアンに一人残された身の上だ。
 胸に突き刺さる喪失感と不安は良くわかる。
「ええ。感極まって泣き出しちゃったりしないでよ」
 だというのに、あっさりとそっけない言葉をかけられる自分はどうかと思った。
 でも今の早苗に必要なのは、一緒に泣いて肩を抱いてあげられる友ではないのだ。
 菫たちはもう、一年生ではない。もうすぐ二年生ですらなくなる。
 寂しがって辛がって泣くだけでは、どうにもならないことを知っているから。
 
 すると早苗はくすくす笑ってこう答えた。
「菫ちゃんじゃありませんもの。大丈夫です」
「まぁ、可愛くないこと」
 憮然として菫は唇を尖らせたが、自分の考えが間違っていなかったことがわかって内心ほっとしていた。
 去年の今頃、菫は本当に落ち込んでいたから。
 理想ではそろそろに大人にならなければならない菫たちだが、本当にそれができるように成長しているかどうかは別問題。
 早苗だって、去年の菫のようにどん底まで落ち込んでいるかもしれなかった。
 
 でもそんなことはなかった、早苗はちゃんと前を向いて、百合子さまをお送りしようとしている。
 立派だった。当然だが、去年の菫とは比べられない。それがなぜか嬉しい。
「あん時は大変だったからねー。百合子さまは百合子さまでショック受けられてたし、その影響で早苗もおろおろ役立たず状態。菫が立ち直ったの、ほんっと奇跡だと思うよ」
 すると、背後から身を乗り出してきた紫苑が会話に割り込んだ。
「奇跡というか……桃花のお陰じゃないでしょうか? 菫ちゃん、学校での弱みはほとんど家で出さないですし。桃花の明るさが救いになったのでは?」
「おいおい、不意を突いて妹自慢かい早苗」
 早苗は、んーと唇に指を当てて可愛らしく言うものの、発言の内容は的外れ且つ砂を吐きそうに甘いもの。
 菫は心の底から紫苑の突っ込みに賛同した。
 
 当時、のどかさま転校の報は、正に青天の霹靂だった。
 しかも妹である菫、親友である百合子さまの制止を振り切って結局そのままのどかさまは行ってしまれた。
 それがもたらした衝撃は大きく、のどかさまが去られた後で徐々に徐々に菫を蝕んでいった。
 家に帰れば桃花がいる。
 それは早苗の言うとおりの救いではむしろなく、彼女の前では気丈に振舞わなければならないという責務を強いる厳しい事実だった。
 別に、桃花の前で弱音を吐いても良かったかもしれない。
 胸に開いた大きな穴を、家でも教室でも図書館でも、ひたすらに嘆いていても良かったかもしれない。
 でも。
 
「桃花はお気楽極楽な子だからね。まぁ心配させたくないって気持ちは、何だかんだで前向きに繋がったとは思うわ」
 小さく肩をすくめて、菫はそう締めくくる。
 そう、菫は桃花に心配をかけたくなかった。かけるわけにはいかなかった、なぜなら菫は桃花の”お姉ちゃん”であるから。
 大切な妹。大事な家族。年長者としての矜持。先に生まれたことによる責任。
 桃花に対しては色んな感情を覚えている菫が、ただ一つあらゆることに優先すること。
 それが”桃花に対して姉として在る”ことだ。
 だからこそ弱みを見せるわけには、悟らせるわけには決していかなかった。
 となれば、家での菫は殊更に普通を装う外なかったのだ。
 
(でも姉妹の申し出を断ったのは、結果的には正解だったわけね)
 今年度の初旬、高等部に入部した桃花はさも当然のように菫へロザリオを要求した。
 そして菫はそれをあたかも必然のごとく拒否した。
 一度ロザリオで絆を繋いでしまうと、それはロザリオの絆、いわばリリアンにおける姉妹制度の絆になってしまうと思えたから。
 菫と桃花に予めある絆に上被せするその絆――それに覚えた感情は、畏怖と呼べるものだったかもしれない。
 
 菫は早苗をじっと見る。
「? どうかしましたか?」
 しかし、そこで菫が桃花の契りを断った結果、彼女は早苗という最高の姉を得ることができたのだ。
 日々惚気られる身としては正直鼻持ちならない時もあるにはあるが、それでも桃花がより良い方向に進んでいることは確信できる。
 早苗のお陰だ。
「いや……色々あったな、って思ってね」
 早苗と桃花が姉妹になったのは半年も前の話になる。
 その間、菫の知っている中でも色々あった。知らない部分を含めれば、彼女らのエピソードは枚挙に暇がないのだろう。
 もう桃花が早苗の傍にいることは極自然なことになっているし、お姉ちゃん紅薔薇のつぼみお姉ちゃん紅薔薇のつぼみ、と繰り返していた頃の桃花はもういない。
 今も早苗の右手首で光るシルバーのブレスレット――それは、そんな数ある絆が具現化した一つに過ぎないのだろう。
 
「菫ぇ。感慨に耽るには、一年ほど早いんじゃない? まだまだ続いてくんだからさ」
 すると、紫苑がそんなことを言って小さく笑った。
 菫としては早苗と桃花のことを言ったのだが、どうやら菫と早苗の間に「色々あった」と取られたらしい。
 だけど、それは間違いじゃない。
 早苗と桃花にはまだ負けないくらい、菫と早苗には「色々あった」。件の一年前だってもちろんそうだ。
「そりゃそうだけどね。ほら、こういうイベントのある日って何となく昔を振り返ったりするじゃない? 私らはもう二年間一緒にいるわけだし」
「二年間……そうですね。もうそんなになるんですね」
 早苗が言いながら頷く。
 紫苑は逆に首を横に振った。
「まだ二年間でしかないんだよ。ほら、良く言うじゃん。高校の友達は一生の友達になるって。菫も早苗も、そんな早死にする気なの?」
 
「言いたいことはわかるけど……他に言いようないの?」
 菫は苦笑する。
 菫たちを一緒の友達と信じて疑っていない辺り、嬉しくもあり恥ずかしくもあり。
 同時に、自分の中でそれを疑う余地がないことに気付いて尚更に胸がこそばゆくなった。
 早苗も紫苑も、菫の奥深い部分までを知ってくれている。
 昨年、どうしようもなかった自分が救われたのは間違いなく、ひたすらに陰惨だった自分に明るく声をかけ続けてくれた紫苑と。
 そうして、”柔らかい”をそのまま体現したかのような早苗の、常に傍にあった微笑のお陰だった。
 
 それは奇跡なんかじゃない。
「そう、物思いに耽るにはまだ早いですね……お互い、床に伏せてからにしましょう。こんなことあったな、あんなことあったな、本当、色々あったな……って」
「そうそう、振り返るのはそんなギリギリで良いのよ。小分けにするより、その方が振り返ること多くなって楽しいでしょ」
 菫の傍にいてくれた二人の努力だ。
 今も、菫の傍にいてくれる二人の誠意だ。
 
「じゃあ、振り返ることを一杯作るためにも――これからもよろしくね、紫苑、早苗」
 菫がそういうと、二人は「何を今更」「ええもちろん」と、各々全力の肯定で返してくれた。

「ありがとう。去年も今年もこれからも……二人は私の一生の友達だわ」
 
 実際に口にすると、気恥ずかしさがものすごい勢いで胸の中で膨れ上がる。
 だけど、言いたかった。こうなるとわかっていてもやっぱり、ちゃんと言っておきたかった。
 そんな真っ正直な菫の言葉に、二人は照れくさそうに揃って菫から目を逸らしてしまったけれど。
 
『何を今更』
 
 今度は揃って返してくれたそんな言葉に、菫はただ、感激した。
 
 
 〜〜〜
 
 
「うっく」


「うっく」


 胸が潰れるような慟哭が、しんと静まり返った体育館に響いていた。
 泣いているのは、在校生代表紅薔薇のつぼみ、小笠原 祥子さま。
 おそらくはその場にいた誰もが初めて見る、麗しくも痛々しいそのお姿に、桃花は目が釘付けになった。
 今まで桃花がお見かけした祥子さまのどんな時よりも小さく、どんな時よりもか弱く見えたそのお姿は、初めに言われなければそれが祥子さまだとはわからなかっただろう。
 ぼろぼろと涙を零しながら、喉を詰まらせながら、必死でそれを抑えようとする祥子さま。
 つられて、大きく見開いた桃花の瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。
 
 祥子さまのお姉さまにして紅薔薇さま、水野 蓉子さまも本日卒業なさるのだ。
 卒業生全てに当てた送辞は、発言者である祥子さまに取っては蓉子さまお一人に対する送辞でもある。
 当然、こみ上げるものはあるだろう。
 それでも、涙で詰まって読めなくなるなんて事態、一体誰が予想できただろうか。
 読むのは祥子さま、つぼみであられながらも薔薇たる風格を常日頃から発揮されていたお方である。
 
 その祥子さまが、言い方は悪いが”あの”祥子さまが。
 感極まって涙を流されている。
 何度も練習なさって、ほとんど覚えているだろう送辞を読むことができないでおられる。
 その衝撃は桃花の涙腺を刺激するだけでは飽き足らず、祥子さまの鼻をすすり上げる声だけが響いていた体育館の各所で、同様の声を上げさせた。
 在校生も卒業生も、父兄も来賓の方も、傍で見守っている教師や空の上から見守っておられるマリアさまですら、固まって何もできないそんな空間。
 
 飛び出す影が一つ、あった。
 
「在校生を代表して、心よりお祝い申し上げます」

 黄薔薇のつぼみ――支倉令さまだった。
 正に正義のヒーロー、ヒロインのピンチに駆けつける英雄である。
 ひんっ、と桃花はもう一度小さく鼻をすすった。
 
 格好良かった。
 尋常でなく格好良かった。
 これで令さまが男性だったら、全校生徒から確実に惚れられてしまうだろう。いや、もう男性である必要もないかもしれない。
 性別なんて全く忘れてしまうくらいに、颯爽と現れて祥子さまの窮地を救った令さまのお姿は凛々しかった。
 良かったね、良かったね、祥子さま。
 なんて、桃花がかなり混乱している感想を思い浮かべてしまうくらいには。
 
 
 祥子さまと令さまの共同作業(という言い方も狙いすぎだなぁ)もそろそろに慣れてきたころ、桃花はふと思った。
 あんな風に桃花が困った時、助けてくれる人はいるだろうか。
 もちろん、さすがに同様の場面で前に出てこいとは桃花も言わない。飛び出せる令さまが相当な胆力の持ち主であられるだけだ。
 でも何かにつまづいた時、とてもとても困ってしまった時。
 ああいう風に誰かに助けてもらえるってことはとても幸せなことだろうなと思う。
 これからも続いていく桃花の長い人生の中で、そんな場面はきっとたくさんあるだろう。
 そんな時、桃花はどうなるのかな。
 
(先ずお姉ちゃんにはバレるよね。隠し事できないし、私)
 真っ先に頭に浮かんだのはやっぱりお姉ちゃん。
 今は一緒の家で暮らしているし、まだ当分は一緒に暮らしているはずだから、顔を見れば大体のことを感じ取ってしまうお姉ちゃんはきっとすぐに助けてくれる。
 何でもできるお姉ちゃんに頼りっきりなのはいけないと思うけれど、とにかく隙がないお姉ちゃんには頼らざるを得ないというか。
 もちろん逆に、お姉ちゃんが困ってしまったのなら、例え火の中水の中である。
 妹桃花、誠心誠意お応えお助けいたします――という感じではあるが。
(お姉ちゃん、困らないからなぁ)
 桃花は小さくため息。
 姉に困ることを望む、ダメな妹がここにいます。
 ごめんなさい、マリアさま。ごめんなさい、お姉ちゃん。
 
(お姉さまも、同じかな)
 天井を見上げて、いつも柔和な早苗さまの笑顔を思い出す。
 早苗さまはお姉ちゃんほどスーパーウーマンなわけではないことを桃花は知っている。
 時々我を忘れて怒られたり、何かに気を取られて他がすごく適当になってしまったり。
 そこももちろん早苗さまの魅力であるのだけれど、そんな時に傍でお支えできるのは妹たる桃花の特権である。
 来年、早苗さまがどちらに進学なさるのかはまだお聞きしていないけれど、早苗さまが卒業なさっても桃花が卒業しても、きっとそれは変わらない。
 変わらないで続けていけるだろう。
 だから桃花のピンチは早苗さまも助けてくださると信じられる。
 早苗さまのピンチに桃花は駆けつけられると断言できる。
 
 少しあけた制服の隙間から中を除くと、服の中で窮屈そうに揺れるロザリオが目に入った。
 胸のロザリオが紡いでくれた、これは大切な絆。
 例え将来、ロザリオを外したとしてもそれはきっとずっと残り続けるだろう。
 ロザリオがなくても、しっかりと繋がっている姉妹を桃花は知っているのだから。
 
 桃花は服の上からロザリオを掴んだ。
 拍子に、耳にかけていた横髪がさらりと前に落ちる。
 何の気なく、髪をかき上げるついでに後ろへ手を回すと、今日もばっちり結わえられた桃花のテールが手に当たった。
 祥子さまとのお揃いを目論んで伸ばしていた髪。今も美容院では毛先を整えてもらうだけにしているそれ。
 ぎゅっと、テールを握る。
(髪……切ろうかな)
 ふと、そんなことを思った。
 
 髪を短くした自分を想像して、ちょっと笑う。
「ちょっ! 何で私とお揃いになっちゃってんのー!」
 そんな風に驚きながら桃花を指差す茜さんの姿が目に浮かんだから。
 桃花がもし髪をばっさり切れば、きっと皆驚くだろうけれど。
 その中で多分一番驚くのは茜さんだ。
「せっかく私らでショート、セミ、ロングのコンプリート状態だったのに。もったいないよー」
 とかなんとか、訳のわからない理屈を振り回して残念がりそう。
 厳かな送辞が続く中での忍び笑い、もう誰に謝ったものやらわからなかったけれど、桃花はくすくす笑いを止められなかった。
 
(そうだ、茜さん。小春さんも……多分、いや絶対、助けてくれそう)
 桃花と茜さん、小春さんの三人は中等部からのお付き合い。
 今となっては電話の回数は数えられないし、恋の悩みからチョコレートの悩みまで、何でもかんでも話し合える気の置けない間柄になっている。
 これは逆にお姉ちゃんや早苗さまにはない特性だから、いつまでも本当に大事にしたい二人だ。
 だから二人が困っていれば、それこそ桃花にどんと来いである。同じ目線だからきっと助け合える。
 来年の図書委員会も、再来年の図書委員会も。もちろん、それ以外も。
 桃花たちは三人で協力しあってやっていくんだ。
 
 ぐっと決意を固めたところで、令さまの「これを送辞とさせていただきます」の声が体育館に響いた。
 前を向く。
「在校生代表、小笠原祥子」
 先程の弱弱しいお姿などまるで厳格であったかのように、毅然とした表情でそう告げる祥子さま。
「そして」
 続けた言葉にいたずらっぽく微笑まれたお顔は晴れ晴れとしていて。
「支倉令」
 
 わっと巻き起こった拍手喝采の中で、笑いあうお二人のお姿はご立派だった。
 それを見れば、来年度のリリアンを任せることに対して誰も不安なんて抱かないだろう。
 来年度のリリアン。
 それはもう壇上のお二人、そして在校生の席に座る桃花たちの目の前にまで来ているのだ。
 
 興奮に包まれる体育館の片隅で、桃花はそんな来年への思いに胸を膨らませていた。
 
 
 〜〜
 
 
 式を、終えて。
 桃花たちは百合子さま最後の号令によって、図書館前に集合していた。
 図書委員長として最後の挨拶ということで、集まったのは桃花たち図書委員会だけではなく、各クラスの図書委員も有志で集まっていた。
 一年間、一緒に仕事をやってきた仲間たち。
 桃花は面々をぐるり見渡して、なんだか胸が熱くなるのを感じた。
 三年生は一斉にいなくなってしまうし、一年生と二年生は学年が上がった後のクラスでもう一度図書委員になれるかどうかはわからない。
 だから今いる面子は、いわば、今だけいることのできる面子なのだ。
 そこに寂しさを感じないほど、桃花は鈍感ではない。
 残念ながらそこに静さまのお姿はなかったけれど、留学なさる静さまは静さまでお忙しいのだろう。
 
「忙しい中、皆集まってくれてありがとう。秋以降はほとんど顔を出してなかったけど、一応音頭を取ってきた人間として皆さんにお礼が言いたかったの」
 図書館入り口の階段を一歩だけ上がったところから、百合子さまは仰った。
 卒業式の余韻が残っているのか、図書委員の中には早くも涙ぐんでいる子がいる。
 隣で彼女の肩を叩いているのは、そのお友達だろうか――と、思ったらそれは揚羽さんだった。
 感激するお友達をなだめる彼女と、不意に目が合う。
 即刻逸らされた。
 むっと思わないでもないけれど、桃花と揚羽さんの距離は絶妙なのだ。
 今更そんなことで腹は立てられない。
 
 気を取り直して、百合子さまに向き直る。
「じゃあ、先ず……美由紀(みゆき)。今年一年、手伝ってくれてありがとう」
「いやーそんな、って、ええ! 百合子、もしかして一人一人言ってくつもり?」
「そうよ。お礼が言いたかった、って言ったでしょ。少しサボり気味だったのは頂けないけれど、あなたの異様に効果的な整理技術は参考になったわ」
「うう、褒められてる気がしないなぁ……」
 がしがしと後頭部をかきながら、居心地悪そうにされる三年生のお姉さま。
 それで一気に場の空気が弛緩する。
 先程の彼女も、小声で「もう大丈夫」と揚羽さんに告げて百合子さまに向き直った。
 
 
 それから、お一人お一人に向けた百合子さまの謝辞+αは続いて。
「揚羽ちゃん、一年間ごくろうさま。一年生だけど本当にがんばってくれたわね。ありがとう」
「いえ……私が発端の悶着も何度かありましたし、ご迷惑ばかりおかけして」
「そんなことはないわ。揚羽ちゃんのような存在は貴重なのよ、来年度の委員会は少し仲が良すぎるのが問題だからね。できれば、これからも遠慮なく突っついてやって」
 苦笑しながら百合子さまが言うと、ちらっと揚羽さんは桃花に視線を飛ばして。
 え? 桃花限定?
「ええ。是非にでも」
 と、まぁ嬉しそうな表情で言ってくれたのだ。
 うぅ、何だか怖いよう。
 
「桃花ちゃん。先ずは一年間ごくろうさま、それと早苗の妹になってくれてありがとう」
「そんな、お礼を言われることではないですよ。こちらこそお姉さまの妹にしてくださって、お礼を言いたいくらいです」
「あら、早苗が桃花ちゃんを選んだのは早苗の意思よ。それこそお礼を言うものではないわね」
「あ、あああっ、そ、そっか……」
「ふふ。これからも、早苗をよろしくね。また今度三人でどこか遊びに行きましょう?」
「はいっ!」

「茜ちゃん。今年一年は叱ってばっかりでごめんなさいね。それにも耐えてよく続けてくれたわ。ありがとう」
「私が至らなかっただけですから……私、この一年。百合子さまとお仕事できて楽しかったです」
「そう言ってくれると助かるわ。何だか三人の中で一番叱った記憶が多いのよね。おめでとう、金メダルよ」
「う、嬉しくないですよそれ!」

「小春ちゃん。一年間ありがとう。お疲れさま、まだ終わりじゃないけれどね」
「百合子さまも……お疲れさまでした」
「……っ」
「……?」
「……ごめんなさい、言葉が浮かばないわ。あなたには私の後継として色々伝えておきたいことがあったのだけれど」
「百合子さま……」
「私がいなくなっても、しっかりなさい。道を踏み外さないように、道に迷わないようにしてね」
「はい……はいっ。何よりの、お言葉です」

「菫ちゃん。二年間ありがとう。デコボコな三人をちゃんとまとめてくれたことに、とても感謝しているわ」
「こちらこそ、ありがとうございました。でもまだまだ私なんて、他の二人に助けられてばっかりですよ」
「それで良いのよ。何でも一人でできるなんて思うことのほうが怖いもの。二人と協力して、あと一年。がんばって切り盛りしてちょうだい」
「はい」

「紫苑ちゃん。二年間お疲れさま。来年もよろしくね」
「はい、お任せください」
「紫苑ちゃんの明るさは二年間、委員会の華だったわね。但し、私語はもう少し慎みなさい? 来年は最上級生なんだから」
「うぅ、ぜ、善処します……」

「早苗。二年間、ありがとう。委員会でも、それ以外でも。あなたがいなければ……今の私はないと断言できるわ」
「……お姉さま」
「あなたがいたから私のリリアンは色鮮やかに生まれ変わった。あなたがいたから私のリリアンは何にも換えがたい場所になった」
「それは……私にとってもです。私はお姉さまに出会えて、本当に」
「ロザリオに絆された私を正しく導いてくれたのは、ロザリオを渡したあなただったわね。素敵な偶然なのか皮肉な運命なのか難しいところだけれど、今でもとても感謝しているの」
「……っお姉さま」
「さよならではないけれど……今まで、本当にありがとう。これからも、よろしくね」


 そうやって、図書委員と委員会の全員に言葉を掛け終わった百合子さまは。
 一対一の会話の中で泣き出してしまった幾人かの鼻をすする声の中、悠然と階段を下りて歩き出した。
 モーセが割った海のように、入り口を囲んでいた人垣が分かれる。
 百合子さまの前に開けた、正門へ続く煉瓦道。
 それはそのまま、リリアンという現在から外界という未来へ通じる一本道のように見えた。

「三年生。着いてきて」
 そんな言葉と共に、百合子さまはゆっくりと歩んでいく。
 一歩一歩を確かめるように。
 その足跡を残していくよう着実に。
 後を追ったお二人の三年生も、歩幅をあわせてゆっくりと進んだ。
 
 人垣を五歩ほど過ぎ越した場所で立ち止まった百合子さま。
 振り返られた。
 ゆっくり、体全体を桃花たちの方向に向けて。
 同じように振り返った三年生のお二方は、それぞれ一歩ずつ後ろに引いた。
 百合子さまと在校生、その距離が少しでも近く感じられるように。
 
 そして。
 百合子さまは仰った。
 
「これで本当に最後になります」

「皆さん。これまで図書館を、またそれ以外を。暖かく見守ってくださって、色々と助けてくださって、本当にありがとうございました」

「私は……私たちはこれでリリアンを去ります。思い残すことが全くないといえばそれは嘘になりますけれど、けれど、これも一つの時節というもの。後ろ髪を引かれる思いを振り切ってでも、私たちは行かなければなりません」

「私はここで、いろんなことを学びました。いろんな人から教わりました。使い古された言葉ですが、長いようで早い三年間でしたと、心の底から思います」

「皆さんに会えて良かった」

「皆さんと共に過ごせて良かった」

「私たちはここで皆さんから学んだもの、頂いたものを胸に、新しい旅へでます」

「だからこれまでの感謝と、これからのご健康、ご多幸をお祈りして。この言葉を贈ります。言いなれた、聞きなれた、そして特別な言葉を」

「皆さん」


 百合子さまが後ろのお二人に目配せすると、お二人とも小さく頷かれた。
 そうして、小さく頭を下げられて。
 声を揃えて滑舌に、仰った。
 
 
 
 
 ――ごきげんよう――
 
 
 
 
『ごきげんよう! お姉さま方!』
 
 
 返した桃花たちのそんな言葉が、高くて遠い春の青空に木霊した。


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