ある朝、マリア様にお祈りを捧げている瞳子に、後ろから声を掛ける子狸が一匹。
「ごきげんよう、瞳子ちゃん」
一瞬、頬が緩みかけた瞳子だったが、公衆の面前である事を思い出し、素早く無表情を取り繕ってから振り向く。
「・・・ごきげんよう、祐巳さま」
出来るだけ冷静に言って、瞳子はすぐに歩き出してしまった。会話するにしても、ここではギャラリーが多すぎる。
それを見て、慌てて祐巳が追いかけてきた。
「ちょ、ちょっと待ってよ瞳子ちゃん!」
自分を追ってくる祐巳を見て、内心ガッツポーズをとる瞳子だが、あくまでも外見上には出さず、少し呆れた顔をしてみせる。
「お祈りは良いのですか?祐巳さま」
「うえ?んー・・・帰りにお詫びも兼ねてたっぷりお祈りしとくよ」
「そういう物でもないでしょうに・・・」
「それでね?瞳子ちゃん」
「・・・相変わらず人の話を聞いてませんね?」
「そんな事ないってば。えーと、ドコまで話したっけ?」
「・・・まだなにも」
「あ!そうそう、瞳子ちゃんに聞きたい事があったの!」
「・・・なんですか?」
会話できるのは嬉しいのだが、相変わらずポンポン話題の飛ぶ祐巳について行けず、瞳子は仕方なく聞き役に徹する事にした。
「演劇部カレーって何?」
「ああ・・・あれですか」
話題が自分自身の事でなかった事に軽く落胆しつつも、何が言いたいのかは分かった。一応、部員以外には秘密なのだが、何処かから伝え聞いたのだろう。
「文字通り、演劇部で作るカレーの事です」
「へぇ、そうなんだ・・・なんか特殊なカレーだって聞いたけど?」
どうやら、話が全て伝わっている訳では無さそうだ。アレは“特殊”の一言で済む物でもない。
「美味しいの?」
やたらと期待に満ちた目で祐巳が問いかけてくる。ここで、瞳子の中にムクムクと悪戯心が湧いてくる。
「よろしかったらご馳走しましょうか?」
「良いの?!」
もはや祐巳の顔が「イタダキマス!」と言っているようで、瞳子はその微笑ましい様子に思わず目を細めた。
「ええ、別に構いませんわ。ただし」
「ただし?」
瞳子は祐巳に向かって、指を一本立てながら説明する。
「これはあくまでも、演劇部の部活動の一環なのですので、それをお忘れなく」
「?・・・どういう事?」
「食事中は、“何があっても”にこやかにしていて下さい。会話も許されていますから、和やかに歓談する事を心がけて下さい」
「え?・・・えーと・・・・・・ドッキリみたいな事をするの?」
「少し違います。でも、今話してしまっては、意味が無くなってしまいますわ。いかがですか?祐巳さまがさっき私の言った条件を飲んでくれるのなら、ご招待しますよ?」
問われて祐巳は百面相をしだした。何が起こるのか不安で仕方ない、でも、噂のカレーは食べてみたい。表情から全て解かってしまい、瞳子は微笑む。そして恐らく、祐巳は承知するだろうと予測する。
「う〜ん・・・分かったよ。条件を飲むから、私にもカレー食べさせて?」
釣れた!瞳子は心の中で叫ぶ。
「分かりました。部長には私から伝えておきますわ」
「うん、お願い」
今はカレーに意識がいっているらしく、祐巳は微笑んでいる。
部には無断で許可してしまったが、最近アレも少しマンネリ気味だ。おそらく、事情を知らないゲストなら、歓迎されるだろう。ましてやそれが紅薔薇の蕾ならば尚更。
瞳子の予想どおり、部長は大喜びで許可を出してくれた。
こうして、哀れな子狸が一匹、刺激に飢えた乙女達の生贄に捧げられたのである。
舞台は変わり、土曜日の午後。
「ごきげんよう。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ紅薔薇の蕾に参加いただいて光栄でしてよ?」
祐巳と演劇部部長がにこやかに挨拶を交わしている。
それを見て瞳子は、「最近、山百合会の幹部としての貫禄が出てきたなぁ。でも、普段の少し抜けてる祐巳さまのほうが良いなぁ」などと思っていたが、もちろんそんな事は顔には出さない。
「すぐに準備が整うから、座って待っててもらえるかしら?」
部長の言葉にうなずき、祐巳は当然のように瞳子の隣りへと着席する。瞳子は嬉しさを隠し、すました顔で座っている。
それからすぐに、給仕係の部員がカレーを運んできた。祐巳が嬉しそうな顔をしたが、すぐに何か考え込む表情になった。
「どうしました?祐巳さま」
「え?いやぁ・・・カレーの薫りがしないなぁと思って」
「そうでしょうね、ただのカレーじゃありませんから」
「・・・・・・・・・えぇっ?!」
「お静かに。最初に申したでしょう?“何があっても”和やかに歓談して下さいと」
「カレー自体に“何があっても”って事?!」
「これも最初に申しましたが、これは部活動の一環なのです。“何があっても”表面上は何事も無く食事を続ける“演技”を続けるというのが、この食事会の趣旨です」
「・・・・・・そういう意味だったんだ・・・」
早くも祐巳は、この食事会に参加した事を後悔し始めていた。
瞳子は祐巳の表情が、あまりにも分かり易かったので、思わず吹き出しそうになった。しかし、この会の趣旨に則り、表情を引き締める。
そんな事をしている間に、食事の準備が整ったようだ。
「それではいただきましょうか」
部長の声に、全員がマリア様に祈りを捧げてから、食事会は始まった。
まず瞳子は、カレールーのみをスプーンですくって食べてみる。
(この味は・・・確かフルーチェとかいうデザートだったわね)
カレーと思って食べると甘い。ファーストインパクトとしては、なかなかの物だろう。恐らく食紅を駆使して、この色を作り上げたに違い無い。
ふと、隣りの祐巳を見ると、一瞬固まっていたが、元々甘い物が好きなので、多少引きつってはいるが、なんとか笑顔を浮かべる事に成功していた。
今度はライス(らしき物)も食べようとした時、祐巳のほうから
ボリッ!!
カレーを食べたとは思えない音が響いた。
隣りを見ると、祐巳が目を真ん丸にしたまま固まっていた。どうやら祐巳も、最初の一口はルーのみを食べていたようだ。油断していた二口目の、ありえない歯ごたえにどうして良いか分からずに、すっかり固まってしまっているらしい。
瞳子もライス(のような物)を一口食べてみる。ボリボリとありえない食感を意識しないようにしながら正体を探る。
(これは・・・確かポン菓子とかいうお米を加熱して膨らませた物ね。わざわざ通常のお米と同じサイズに砕いておくとは、手が込んでますこと)
一応、お菓子+お菓子なので、まだそれほどの衝撃は無い。
瞳子が祐巳の方を見ると、まだ固まったままだった。思わず笑いそうになったが、なんとかこらえ、祐巳に話しかける。
「どうしました?祐巳さま」
一瞬、祐巳が「タスケテ・・・」という顔をしてきたが、瞳子のなんともなさそうな顔を見て、この会の趣旨を思い出したらしく、ボリボリとポン菓子+フルーチェを咀嚼して飲み下すと、引きつった笑顔で返事を返した。
「イエ、ナンデモアリマセンコトヨ?」
口調もイントネーションもおかしい。なにやら日本に来てまだ3ヶ月の外国人みたいな感じだ。
祐巳の言葉を聴いていたのだろう。祐巳の向こう側に座っていた2年生の部員が、盛大に吹き出してしまった。
「・・・はい、アウト」
にこやかに部長が宣言する。
祐巳が「何?どーゆーこと?」と、顔で瞳子に問いかけてくる。
「にこやかに歓談できなくなったら、部の備品の手入れをするという罰があるんです。もちろん、祐巳さまも参加した以上、ルールに従ってもらいますよ?」
「・・・言わなかったじゃない、そんな事」
「聞かれませんでしたから」
しれっとした顔で答える瞳子。それを聞いた、瞳子の隣に座っていた1年生が吹き出し、部長に「アウト」と言い渡される。
祐巳は何か納得いかない顔をしていたが、諦めて、肉(と思われるもの)をスプーンですくっている。
(怪しげな物は、単品ではなくルーごと飲み込めばいいのに・・・)
瞳子はそんな祐巳の様子にまた笑いそうになる。
罰を受ける人数は10人。祐巳さまのおかげで今日は簡単にケリがつくかもしれない。
瞳子がそんな事を考えていると、祐巳の正面に座った3年生がブフッと吹き出した。
「食べ物を粗末ししてはダメよ?アウト」
部長に宣言されても、その3年生は口元を押さえたまま、小刻みに震えながら笑い続けている。その視線が祐巳の方を向いていたので、瞳子も不審に思い、祐巳を見た。
視線の先では祐巳が涙を浮かべながら小刻みに震えていた。
3人が、その祐巳を目撃してしまい、部長にアウトを言い渡される事になった。
(危ない危ない。私まで祐巳さまの犠牲になる所だった)
どうやら、先ほどの肉(と思われる物)が祐巳にダメージを与えたらしい。
必死で奥歯を噛み締めて、笑いをこらえた瞳子は、肉(と思われる物)を食べてみる。
(・・・・・・・・・鯖味噌)
フルーチェに味噌味。これはかなりの破壊力だった。瞳子も祐巳の様子で警戒していなければ危なかったかも知れない。
それにしても部長は、先ほどからオモシロリアクションを繰り返す祐巳には何故か「アウト」を言い渡さない。祐巳を放置して、早めにケリを付ける気か、はたまた単に祐巳の様子が面白いので、もう少し見ている気なのか・・・
(たぶん後者ね。あの方もああ見えて意外とサディストだし)
部長は実に楽しそうに食事を続けている。その事に気付いた副部長は、祐巳に哀れみの視線を向けている。
(副部長も苦労人ね)
瞳子がそんな事を考えて、食事から意識を遠ざけていると、となりで祐巳がやっと鯖を飲み込んだらしい気配がした。その直後、
「ぅぁぁ」
祐巳が小さく泣きそうな声をだした。
聞いてしまったのだろう。その瞬間、3人まとめて吹き出した。瞳子も危なく吹き出す所だったが、膝に置いた左手で、思いっきり腿をつねって難を逃れた。
部長がうれしそうに、3人に「アウト」を宣言する。残り2人。
ふと、瞳子は、傍らに置かれたコップに目をやる。おそらくコレもただの水ではないのだろう。そんな事を考えていると、残り2人をまとめて決める手段を思いついた。
(私もサディストかも知れないわね・・・)
内心、そんな事を思いつつ、瞳子は祐巳に、そっとコップを差し出した。
「祐巳さま、これを・・・・・・」
祐巳は「救世主発見!」とでも言い出しそうな顔でコップを受け取った。
さすがに良心が咎めた瞳子だが、「祐巳さま、私のために死んで下さい」などと心の中で呟きつつ、笑顔を崩さない。
祐巳はゴクゴクとコップの中身を飲み込んだ。その直後、
「ぅぇぁぁぁぁぁぁ・・・」
泣きそうな顔になり、情けない悲鳴を上げた。
そして、丁度2人吹き出した。部長が「アウト」を宣言しつつ「やるわね瞳子ちゃん」といった視線を送ってくる。
「祐巳さん、罰ゲームの定員は10人だから、もう良いわよ?水道で口を濯いでらっしゃい」
部長に言われ、祐巳は素直に席を立った。
さすがに悪いことをしたと、瞳子が祐巳を追って席を立った。
「・・・・・・・・・あー・・・酷いめにあった」
うがいをして、やっと落ち着いた祐巳のもとへ、瞳子がやってくる。
「もう!瞳子ちゃんヒドイよ!コップの中身、なんだか知らないけど、やたら生臭いモノが入ってたんだからね!」
「申し訳ありません、私も何が入っているか知らなかったもので・・・」
瞳子がしおらしくして見せると、祐巳は簡単に信じてしまう。
「あ・・・そうだよね。瞳子ちゃんは悪くないのにゴメンね?」
素直に謝ってくる祐巳に、少しは疑う事を知って欲しいなどと思いつつ、瞳子は自分の持っていたコップを差し出す。
「祐巳さま、お口直しにコレを」
「ありがとう、瞳子ちゃん」
ゴクゴク・・・・・・・・・ブバッ!!
コップの中身は、先ほどの「やたらと生臭いモノ」だった。
「瞳子ちゃん!!」
悔しそうに叫ぶ祐巳のようすに、瞳子は声をだして笑っていた。
今日初めて、いや、もしかしたら、祐巳の前では初めて、素直に笑ったかも知れない。
そんな瞳子の様子に、祐巳も思わずつられて笑い出してしまう。
(祐巳さまが悪いんですのよ?)
瞳子は思う。
(だって、そんなにかわいらしい顔で怒るんですもの・・・)