ドーン、と凄い音を立ててビスケット扉が開いた。午後のおやつを志摩子さんと優雅に楽しんでいた私は、その勢いに思わず口に含んでいた甘い紅茶を吹き出しそうになったが、どうにかこらえた。
「何のん気に紅茶なんか飲んでんのよ! 外に」
けれど、乗り込んできた人物がそこまで口にしたとき、勢い余って跳ね返ってきた扉がその顔面にヒットするのを見て、私はぴゅーっ、と紅茶を拭いた。噴水のように。志摩子さんにかからなかったのは不幸中の幸いというべきだった。
そう、その日の不幸の中での、唯一の幸い。
…ともかくそのとき、口をハンカチで拭きつつ、私は扉に駆け寄った。
ぶっ倒れた人物は山百合会一の問題児こと島津由乃さま。階段の最後の一段を上がったところで、あちゃあ、という顔をして額を押さえているのは福沢祐巳さまだった。
「祐巳さま、どうしたらいいんでしょう、これ」
「うん…」
「の、乃梨子ちゃん、とりあえず起こして」
目を回しながら手をよろよろと伸ばしてきた由乃さまを助け起こすと、ほぉ、と一息ついてから急に喋りだした。
「何のん気に紅茶なんか「あ、それはもう聞きました」
「そ、そう? えーっと…そうだ、外に行くわよ、外!」
「何かやってるんですか?」
「やってないわよ、私たちがやるのよ! 野球を」
「は?」
私の肩に手が置かれた。祐巳さまだった。
「乃梨子ちゃん、ここは言うとおりにしてあげて」
「だって意味が分からないじゃないですか」
「うん、そうだよね、うん…」
「あら、野球? 楽しそうじゃない。乃梨子も一緒にやりましょうよ」
と志摩子さん。し、志摩子さんがそう言うなら…。
よく晴れた秋の空、学園祭も終わって山百合会の仕事はひと段落ついていた。折角だから菫子さんが仕事先でもらってきたクッキーの詰め合わせを志摩子さんと二人きりで食べていたのだ。そこに飛び込んできた由乃さまの相変わらずの暴走振りに私は少しだけ頭が痛くなったけれど、とにかく状況を把握しないと、おやつの続きも出来やしない。私は階段を降りながら、祐巳さまにひそひそと耳打ちをした。
「そもそもどうしてあんな突拍子もないことを言い出したんですか?」
「由乃さん、テレビでメジャーリーグの試合を観たんだって」
「ああ、そういえばワールドシリーズがどうこうってやってましたね」
「そう、それ。ほら、由乃さんって一年前まで病弱な美少女だったらしいから「らしいじゃなくてそうだったのよ!」
と、有り得ない聴覚を駆使して前を歩いていた由乃さまが突っ込んでくる。
「…病弱な美少女だったから、その反動でスポーツ観戦が趣味なの。今回はあんまり興奮したらしくて、朝教室で会うなり『祐巳さん、野球やりましょう!』って。授業があるから、そのときはなんとか止めたんだけど…」
「なるほど…。ま、やることもないから、軽い草野球程度ならいいんじゃないですか」
「乃梨子は野球の経験があるの?」
志摩子さんがふわふわと微笑みながら聞いてきた。…そうか、この人たちみんなお嬢様だから、野球っていっても下投げだったり、バットにこつんと当てるくらいしかやっていないのか。ぷぷっ。
「私は中学のときに男子に混ざってやってました。そういえば結構楽しかったな、あれ」
「あら、凄いじゃない。リリアンでは確か野球の授業があったけれど…」
「うん、授業は一年生のときにちょっとあったきりだよね」
と祐巳さま。
それならこのメンツでは私が一番の経験者ということか。そうと知ると、なんだかテンションが上がってきた。
「まあ上投げは無理でしょうから、今回は下投げでいきましょう。志摩子さん、私が手取り足取りで教えてあげる」
ひそひそ…と何やら祐巳さまと由乃さまがこちらをじと目で見ながら囁きあっていたが、気にしない。おやつを邪魔されたのだから、このくらいはさせてほしい。
校庭に出ると、今日はグラウンドを使う部の活動はないようだった。ど真ん中にグローブとバット、それにボールが置いてある。どうやら先に準備をしておいたらしい。
「とりあえず、キャッチボールからね」
そう言ってグローブとボールを拾い上げる由乃さま。祐巳さま、志摩子さん、そして私もそれぞれ手に合うグローブを装着する。その土と皮の匂いに、中学のときの記憶がよみがえってくる。右の拳をグローブにばん、と打ち込むと、久々の高揚感が湧き上がってきた。
私と志摩子さん、祐巳さまと由乃さまの組でまずは軽いキャッチボール。
「乃梨子、最初はゆっくり投げてね」
「もちろんだよ、志摩子さん」
ぽーん、と柔らかく弧を描いてボールを投げた。ぱしっ。
「志摩子さん、上手上手! すごいじゃん」
「そう?」
ふふ、と微笑みながら志摩子さんもゆるい球を投げてくる。意外にもコントロールが利いていて、私はほとんど脚を動かす必要がなかった。
横を見ると祐巳さまも由乃さまも、それなりにこなしている。この分なら少しは楽しめるかな、と私は呟いた。
「乃梨子、何か言った?」
「う、ううん。ほら、投げるよ」
…
「さて、肩慣らしも終わったところで、早速野球を始めたいと思います」
腰に手をあて、仁王立ちで宣言する由乃さま。
「でも4人でどうやって回します?」
「とりあえずピッチャーは私で…」
おいおい、もうそれは決定事項か。
「ローテーションはどうかしら。ピッチャー、キャッチャー、バッター、野手の順番にやっていくの」
「うん、それでいいんじゃないかな」
結局、最初はピッチャーが由乃さま、キャッチャーが志摩子さん、バッターが私、野手が祐巳さまとなった。
配置について、バットを振ってみる。うーん、この感覚、久しぶりだ。普段運動をしていない女の子には少し重いバットだけれど、体の重心を調節できればスカーン、と打ち込めるはず。
由乃さまも既にマウントに立ち、肩を回している。
「志摩子さん、準備はいい? よく球を見てから捕るんだよ?」
そう訊くと、志摩子さんは柔らかく微笑んで頷いた。
「由乃さま、もういつでもOKでーす」
それを聞いて由乃さまは大きく深呼吸をした。
「いくわよ?」
「はい」
バットを一旦肩に乗せてから、構える。ぐっと、由乃さまの手元を睨んだ。まあ、そんな剛速球はこないだろうけど。最初は見逃してあげたほうがいいかな…。
由乃さまが腕を回し始めた。
…物凄い速さで。
「なっ…」
体が強張ったけれど、目だけはその動きを追っていた。
由乃さまの左足が踏み出される。最適ポジションで手からスッと離れたボールはとんでもないスピードで真っ直ぐに私に向かって飛んできて―
思わず目をつぶった。
バシイイィィンッ!
…そっと目を開けると、砂埃がもうもうと立っていた。
「し、志摩子さんは!?」
慌てて後ろを振り返ると志摩子さんはそこにいた。キャッチャーミットにボールを捉えて。
「ふぅ」
事も無げに息をついて立ち上がった志摩子さんは、ボールを由乃さまに投げ返した。
「ストライクゾーンぎりぎりね。体調でも悪いのかしら、由乃さん?」
「久しぶりだから仕方ないでしょ! ほら、次いくわよ、乃梨子ちゃん」
「え? え? っていうか、あれ? 今のっておかしいよね、ね、志摩子さん?」
「どうしたの乃梨子、構えないと始められないわよ」
「え? あ、うん…」
私は一瞬呆然となって立ち尽くしたが、慌てて頭を振って意識を取り戻した。
…そうだ。編入生の意地ってものがあるんだ。こういう勝負で負けちゃあいられない…!
再びバットを構える。今度は、本気で。ぐっと由乃さまの手元のボールを睨みつけた。
来い。
まさに目にも留まらぬ、という表現がふさわしい回転数で砂を撒き散らす由乃さまの腕。次の瞬間、白球はその手から離れ―
バットを振る。さっきと殆ど同じスピードであれば、このタイミングでジャストミートのはずだ。
予想通り、綺麗にタイミングを合わせて猛スピードの球とバットは近づいていく。 バットが、球をとらえた―と思ったとき、私は負けを悟った。握り締めた手から伝わるおぞましい感覚―
めきっ、という音がした次の瞬間、自動車に跳ね飛ばされたかのように私は勢いよく弾かれた。地面に叩きつけられる刹那、真っ青な空にポーンと吹き飛んだバットの先っぽが見えた。
バットを折られたのだった。こんな、こんなことって―
遠のく意識の中でいくつかの声が聴こえたけれど、その意味はもう分からない。
「またバットを折っちゃったのね。これで今年何本目かしら」
「志摩子さんだってこないだ、祐巳さんのバットばっきばきに折ってたじゃない」
「ちょ、ちょっと、乃梨子ちゃん、大丈夫? 次は乃梨子ちゃんが野手をやってくれないと、私が投げられないんだけど…」
―あんたら、何者だよ。血を吐くとともにそう呟いたあとの記憶はない。