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澄み切った青空の下。今日も今日とて小笠原祥子はリリアン女学園の紅薔薇さまの蕾として、銀杏並木を歩き登校していた。そしてマリア様像の前まで来ると、前方に愛しの妹たる福沢祐巳の姿が見えた。
妹という存在が出来た自分自身に言い表しようのない喜びと誇らしさを改めて感じながら、祥子はその背中に声を掛けた。
「ごきげんよう、祐巳」
そそっかしいとは言えリリアン女学園の生徒。顔だけ振り返るなどと言ったはしたない行為はせず、ゆっくりと祐巳は身体をこちらへ振り向かせた。その愛しい妹の顔には花が咲いたような笑みが浮かんでいる。
そして祐巳は挨拶を返そうと口を開いた。
「ごきげんよう。お姉さま」
「……」
「お姉さま?どうかされましたか?」
祐巳の挨拶を聞いた祥子は、固まってしまった。正確に言うなら、「挨拶をするべく開かれた祐巳の口の中を見た祥子」は、だろう。無理もない。何故なら……
「(前歯に青のり、ついてるわよ……)」
普段はその笑顔を一層きらめかせる祐巳の白い歯には、現在強烈なインパクトを放つ黒い点が付着していた。まごうことなく、青のりである。いや、もしかしたら普通の海苔かも知れないし、もしかしたらバジリコかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいのよ。
祥子は何とか脱線した思考を元に戻そうと努力したが、なにぶん低血圧持ちな祥子である。しばらく、その黒点の放つ衝撃に圧倒されてしまった。
「ありがとうございます、お姉さま」
「……はっ」
ふと我に返ると祥子の両手は祐巳のタイへと伸ばされ、それは綺麗に結び直されていた。その行為はもはや習慣というか条件反射となって祥子に染みついているらしく、無意識下で行われていた。ぼーっとしていてもキッチリやるべきことはやる。それがロサ・キネンシス・クオリティ。
「それでは私は日直の仕事がありますので、お先に失礼します。お姉さま、また放課後に」
祥子が呆然としている間に、ごきげんよう、と祐巳はスカートのプリーツを乱さず、セーラーカラーを翻らせないように向こうへと走り去っていった。
「え?ちょ、ちょっと祐巳!」
(前歯に青のり、ついたままよー!)
祥子のその声は澄み切った青空に吸い込まれ、届くことはなかった。
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朝の穏やかなひととき。一年桃組、蔦子と志摩子は何をするでもなく朝の挨拶を交わし雑談に興じていると、最近何かと話題の紅薔薇の蕾の姉妹こと福沢祐巳さんが登校してきた。
「ごきげんよう、志摩子さん、蔦子さん」
「ごきげんよう、祐巳さん」「ごきげんよう。ロサ・キネンシス・アン・ブトゥン・プティ・スール」
「呼びづらくない?それ」
「うん、言ってから気付いた」
そう言って三人は笑いあった。そのまま祐巳さんは自分の机に鞄を置きに行って、側に居た桂さんと雑談を始めた。
「それでね、今朝のことなんだけど……」
たぶんそんな感じで雑談は始まったのだろう。話題と言えば何のとりとめもない、何気ないことばかり。でも、それを楽しそうに話す祐巳さんを見ていると、何とも言えない幸福で優しい気持ちが満ち溢れてくる。
恐らく、それが祐巳さんの魅力なんだろう。志摩子がそんなことを考えていると、ちょん、と志摩子の肩に何かが触れたような感触。
「?」
振り返ると、さっきとは一転し何やら険しい表情の蔦子さんが居た。どうかしたの、と聞くと、あれ、あれ、とどこかを指さす蔦子さん。その指の先を追っていくと。
「……祐巳さんがどうかしたの?」
その先には、先程まで考えていた祐巳さんの姿があった。相変わらず桂さんと雑談しているだけで、他に変わった様子は見受けられない。
はてな、と思って真意を聞いてみようかと思い、志摩子は蔦子さんに理由を問いかけた。
「……祐巳さん。口。髪の毛」
蔦子さんはそれだけ言うとそっぽを向いてしまった。なんだか、見てはいけないモノを見てしまって後悔しているような、そんな表情で。
志摩子は思考の中に更にはてなの数が増えるのを感じつつ、もう一度祐巳さんの方を見てみる。別に何も変わらない、いつもの――
「っ!」
志摩子は唐突に蔦子が言わんとしていたことを把握した。なるほど、確かにあれでは見ているのは少し辛いかも知れない。普段、祐巳さんを被写体としている蔦子さんなら尚更だろう。
蔦子さんは、気付いちゃったか、といった表情で志摩子の肩に手を置いた。志摩子は同情の視線を蔦子さんに向ける。
そして、二人の胸中はシンクロした。
((祐巳さん、髪の毛食ってるわよ――!))
蔦子と志摩子のその心の叫びに、雑談に夢中の祐巳が気付ける筈もなかった。
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「掃除、めんどいくさいなぁ……」
授業も殆ど終了し、後は掃除を残すのみ。少し疲れ気味の聖は、シスターに聞かれれば説教確実な呟きを吐き出すことで何とか惰性に抵抗しつつ、掃除の場所へ向かっていた。その途中、見覚えのあり過ぎる後ろ姿を発見した。
(祐巳ちゃん、発見!)
祐巳ちゃんは一人、どこかへ向かっているのか少し早足で歩みを進めている。恐らく聖と同じく掃除に向かう途中だろう。聖はにんまりと意地が悪そうな笑みを浮かべた。この疲れを癒すには、祐巳ちゃんの極上の抱き心地しかない、と。
聖は抜き足差し足、端から見ると逆に目立ってしょうがない動きで祐巳ちゃんに近づいた。祐巳ちゃんにそれに気付く様子は全くない。このまま何もしなければ、祐巳ちゃんは無事に掃除場所へと辿り着いて、掃除を始めることだろう。
(まあ、今からそれを無事に済ませざるべく、私が居るわけだけど)
三メートル。二メートル。一メートル。気付かれないように、聖は一歩一歩確実に祐巳へと接近する。そして。
「祐ー巳ちゃんっ!」
「ぎゃうっ!!」
背後からの奇襲に成功し、怪獣ユミドンはうなり声をあげ撃沈したのだった……なんちって。
祐巳へのドッキリ☆抱きつき大作戦に見事に成功した聖は、祐巳の抱き心地を堪能するべく腕に力をこめようとした。しかし、聖はそこである違和感に気が付いた。
何か、妙な匂いがする。
匂いというよりは、臭いと言った方が正しいかもしれない。これは何の臭いだろう。聖は記憶を探った。ああ、そうか、これはアレだ。日本家庭料理の代表格、発祥地がインドだかイギリスだかやたら曖昧で、どこか懐かしさも感じられる、スパイスが効いてる憎いあんちきしょう。そう、これは――
カレーだ。
カレー臭がどこからか漂ってきている。昔、ずっと加齢臭のことをカレー臭だと思っていたことが聖の脳裏をよぎった。
しかし、何故急にこんな臭いが漂ってきたのだろう。さっきまで全くこの臭いの気配さえしなかったって言うのに。そのこと考えるのに聖は全集中力を傾けてしまったせいで。
「白薔薇さま、いい加減離してください」
という腕の中で暴れる祐巳ちゃんの言葉を聞くまで我に返らず、祐巳ちゃんに抱きついたままという自身の状況をようやく思い出すことが出来なかったのだった。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと、ぼーっとしちゃって」
ようやく気が付いた聖はそう言って祐巳ちゃんを解放すると、祐巳ちゃんは頬を膨らませて聖を睨んだ。急に抱きつかれたら驚くじゃないですか、と言ってきたので、じゃあ急じゃなければいいんだ、と返すと、い、いやそういうことじゃなくて、と慌てふためいている祐巳ちゃんを聖は微笑ましげに眺める。
うん、やっぱり祐巳ちゃんは良いなぁ。そんなことを考えていたのだが……うん。
先程の臭いが、また強くなってきている気がするのだ。
気のせい……いや、それはないだろう。嗅覚がおかしくなっているのでなければ、私はこの臭いを確かなものとしてちゃんと感じ取っている筈だ、聖はそう思考を展開した。
原因を探るべく聖は辺りを見回すが、周りは唯の廊下と教室、家庭科室は違う棟だし、調理実習があったなら大抵それに準じたプレゼントが貰える筈だからその可能性もバツ。調理部もまだ活動を行っていないだろうし。ということは……。
目の前に居る祐巳ちゃんを眺める。祐巳ちゃんは丁度話半分に聞いていた聖に注意を呼びかけていたところだ。話聞いているんですか、と口を開く。
臭いが漂う。
ちょっと、白薔薇さま?口を開く。
臭いが漂う。
え、えーと。白薔薇さまー?大丈夫ですかー?
臭いが――ああ、そうか。祐巳ちゃんだったんだこれ。
「ん? ……いや、大丈夫だよ祐巳ちゃん。邪魔したね。それじゃ」
そう言って早々に祐巳ちゃんのもとを離れる。後ろから祐巳ちゃんの慌てたような声が聞こえるが、気にしない。今日の祐巳ちゃんは、あまり美味しく頂けない状態だったらしい。
まあ、ある意味おいしいかもしれないけど。
(そういえば、購買においしいカレーパンが入荷されたって言ってたっけ)
多分、それが原因か。そんなことを考えても更に蓄積された疲労がどこかに行くはずもなく。聖はがっくりと肩を落とした。
(私が卒業したら、祐巳ちゃんのことをロサ・インディアンと呼んであげよう。そしてその妹はロサ・インディアン・アン・ブトゥンとなるんだ――)
疲労が限界に達している聖はそんな支離滅裂極まることを考えつつ、ふらふらとどこかへ歩き去っていったのだった。