【2552】 まったりやわらかくて変わることのない月  (グレイメン 2008-02-20 22:00:22)




 志摩子が仕事を終え薔薇の館を出る頃には、辺りは夕焼けからうっすらと夜の様相へと移り変わりつつあった。
 
 何気なく周囲を見渡す。緩やかな風に葉を鳴らす木々。寂しげな雰囲気漂う人気の無い校舎。遠くから聞こえる烏の鳴き声。何となく、感傷的になってしまいそうな雰囲気。
 今日帰ってからの予習復習の確認や晩ご飯の買い物の内容など、とりとめのない事に思考を巡らせていたが、別にそれが早急に解決するべき問題だという訳でもなく。志摩子は早々にその思考を止めた。

 現在、志摩子にはやるべきことが何も無かった。端的に言えば、暇なのである。
 
 いや、無いわけでは無い。強いて言うなら、待つ事と、帰る事をしなければならない。
 その日、山百合会の仕事はおおかた終了し、あとは片付けが終われば帰るだけだった。しかし皆私用があるというので、後片づけを請け負った志摩子と乃梨子を残し、他の皆は先に帰ってしまっていた。
 そして片付けを始めようとした矢先、志摩子に乃梨子からの待ったが入ったのである。後はやっておくから、と連呼する乃梨子の攻撃に志摩子は何とか反論しようとはしたものの、結局は押し切られてしまい。結局志摩子は館の前で乃梨子を待つという手持ち無沙汰な現在の状態が出来上がってしまったのだった。

 その押し切られた中身はと言うと、先の乃梨子の言葉に、二人でやれば早々に片づけを終わらせることが出来るのでは、と一応の反論に出た志摩子ではあったのだが。

「こういうのはブトゥンである私の仕事だから。志摩子さんは普段山百合会の仕事で忙しいんだし、こういう小さな仕事ぐらい私に任せてよ」

 と頼もしさ漂う笑顔で諭され、更に若干恥ずかしげに頬を染めた表情で。

「……妹の顔を立てるつもりでさ。お願い、志摩子さん」

 と上目遣いに言われてしまうという、見事なわんつーぱんちを頂いてしまった志摩子にはぐぅの言葉も出ず。妹の頑固さへの少々の呆れと申し訳なさ、姉を心配してくれていることへの嬉しさとの三等分な気持ちを抱え、志摩子は館の外で乃梨子を待つというのが現状である。
 妹が可愛いと思うのは姉として当然の気持ちではないかしらと、あっさりと折れた自身にそんな言い訳をしながら。

 何の気無しに、志摩子はふと空を見上げた。夕焼けにだんだんと藍色のグラデーションがかかり、暖色と寒色が混ざり合った不思議な色合いを醸し出している。
 そしてその中央に、場違いのようにぽっかりと浮かぶ円があった。

 ――今日は満月だよ、志摩子。 

 不意に、志摩子の耳に今はここに居る筈のない人の声が聞こえた気がした。
 志摩子は周囲をきょろきょろと見回した。放課後とは言ってもクラブもおおかた終了している時間、当然誰の姿も見当たらない。聞こえたのは先程と同じ風に揺れる木のざわめきと、かすかに聞こえる烏の鳴き声だけ。

 嘆息する。あの人はもう此処にいる筈は無いのだ。もう、卒業してしまったのだから。 

 志摩子はもう一度空を見上げる。薄い雲の向こう側に、うっすらと月が浮かんでいるのが見えた。だんだんと濃くなっていく藍色の空と反比例するように、月はその輪郭をはっきりとしたものにさせていく。

 その様子をしばらく眺めている内に、志摩子はある事に気が付いた。

 先程の声。

 私は以前に聞いた事がある。そう、あれは確か、ちょうど去年の今あたり――
  



「……それじゃ、帰ろうか」

 その日の山百合会の仕事も終わり、後は帰るだけ。最後まで後片付けで残っていた志摩子は、薔薇の館を出たところでお姉さまである聖にそう声を掛けられ、二人並んで校門へと歩いていた。
 辺りはちょうど夕方から夜へと緩やかに移り変わろうとしている。

 並んで歩く二人の間には沈黙。でもそれは決して悪いものでは無く。むしろ志摩子はそれを心地良いとすら感じる。
 
 そんな時、並んで歩いていた聖が何の前触れもなく、その場に立ち止まった。はて、と思いつつ志摩子もそれに合わせて立ち止まり、聖の顔を見た。
 聖は目を細めて、空を仰ぎ見ている。その顔には感慨深いような、何とも言えない不思議な表情が浮かんでいる。 

「見て」

 口を開いた聖は鞄を持っていない方の手で空を指さした。その方向に、志摩子は聖に倣うように空を仰ぎ見た。そこあったのは、藍色に染まりつつある空と、もうひとつ。

「月……ですか?」

 だんだんと輪郭を浮かび上がらせている、それ。 

「そう、正解」

 そう言って聖は口の端を持ち上げた。その端正な顔には、いたずらが成功した子供のような無邪気な笑みが浮かんでいて。更にその笑みを深めるように、聖はその言葉を発したのだった。

 ――今日は満月だよ、志摩子。

 と。


■ 

「お待たせ、志摩子さん」

 志摩子が我に返ると、目の前には片付けを終えたらしい乃梨子が居た。そこでようやく、志摩子は自分が長い間思考に耽っていたことに気が付いた。志摩子は少し恥ずかしくなって、取り繕うように乃梨子へと笑顔を浮かべた。

「それじゃ、帰りましょうか」

 そう言って、二人並んで歩き始める。

 歩きながら、乃梨子と何気ない会話を交わしている間も、志摩子は頭の片隅に去年のことを思い返していた。
 結局、お姉さまが何故あんなことを言ったのか、その理由は教えて下さらなかった。別に大した理由は無いから、とはぐらかしてはいたけど、その顔には嬉しそうな表情が張り付いていて、志摩子は狐に化かされたような気持ちになったのを覚えている。

 今ではその理由を伺い知ることが出来る機会も、めったに無くなってしまった。
 
 小さく溜息をつく。そして、志摩子は何気なく空を見上げた。



 あ、と。志摩子は唐突にそれを理解した。



「……?どうかしたの、志摩子さん」

 急に立ち止まった志摩子に、乃梨子は心配そうに声をかけて、様子を伺う。
 志摩子は目を細めて、空を仰ぎ見ている。覗き込んだ志摩子の顔には、感慨深いような、何とも言えない不思議な表情が浮かんでいる。

「見て」

 口を開いた志摩子は鞄を持っていない方の手で空を指さした。その方向に、乃梨子は志摩子に倣うように空を仰ぎ見た。そこあったのは、藍色に染まりつつある空と、もうひとつ。

「……月?月がどうかしたの、志摩子さん」

 だんだんと輪郭を浮かび上がらせている、それ。 

「そう、正解よ」

 そう言って志摩子は口の端を持ち上げた。その端正な顔には、いたずらが成功した子供のような無邪気な笑みが浮かんでいて。さらにその笑みを深めると、志摩子はその言葉を発するべく、口を開いた。


 
 ――今日は満月ね、乃梨子。


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